第7話 「」の最後には、原則として句点や読点は入れない。中編

「……ふぅ。それじゃあ、繋ぐよぉ~」

「お、おう……」


 満足そうに顔を離した彼女は、軽く息をくと彼に言葉を送っていた。

 続けるではなく繋ぐ。やはり読点を打っていたのだろう。

 ひとまずねた様子は消え去っていたので、安心しながら返事をする彼であった。


「それでねぇ? 今の小説なんだけどぉ~、映像だって言ったよね?」

「そうだな」

「まぁ、それと直接は関係ないんだけどぉ~。純文学……まぁ、この場合は大衆文学なのかな? そう言う作品とライトノベルだと、地の文と会話の比率が違うんだよねぇ」

「ああ、確かに違うって何かで読んだぞ?」


 彼の言葉を受けて、満足そうに微笑んで言葉を紡ぐ彼女。

 なお、純文学とは芸術性を目的とした文学。大衆文学とは娯楽性ごらくせいを目的とした文学。

 簡単に説明をすると。

 無名・新進しんしん作家の中から選出せんしゅつされる芥川賞は純文学。

 無名・新進・中堅作家の中から選出される直木賞は大衆文学である。


「もちろん、全部が当てはまる訳でもないんだけどねぇ~。ライトノベルは会話の比率が断然高いんだよぉ」

「確かに……」


 彼女の言葉に視線を机の上に置いてあるラノベに移していた彼。

 彼の読むラノベは全体的に会話の比率が高い。中には一ページの約八割を会話でついやす作品も見受けられるのだ。


「それって、地の文よりも会話に重きを置いているってことだよね?」

「まぁ、そうなるのかな?」

「つまり会話に重きを置いているってことは……登場人物に重きを置いているってことじゃない?」

「……ほうほう」

「これは私の考えだけどぉ~、登場人物の会話が多い作品って……会話が主体になるから地の文が多い作品よりもストーリー性とかメッセージ性が薄いんだと思うんだぁ」

「へぇ?」


 彼女の説明に曖昧あいまいながらも相槌を打つ彼。

 地の文よりも会話の比率が高い。それはあんに、話の本筋――ストーリーよりも登場人物を重視している。

 つまり、地の文が多い作品よりも登場人物にスポットを当てているので作者の伝えたいメッセージは薄くなる。

 彼女は、そう伝えたかったのである。


 話の本筋とは、実は登場人物の会話では成立していないものなのである。

 小説内における登場人物の会話文。

 彼らは別に『イベント』のような、進行を気にして会話をしていることはないはずだ。何もしがらみのない状態で普通に会話をしているのだから、当然自分達の会話だけに集中しているのである。

 それは芝居やドラマにもつうずること。

 登場人物は決められた台詞セリフを言っているように思われるだろうが、それは演じる役者がそうなのであり。

 演じられている『登場人物』にとっては芝居やドラマと言う名の実世界。リアルな会話に過ぎないのである。


 そんな理由から彼女は二つは別物。

 地の文の比率が高いものをストーリー重視。

 逆に会話の比率の高いものを登場人物重視。つまり、『キャラ立ち』と分類したのである。

 とは言え、それは当たり前の話なのだろう。何故ならば。

 登場人物にとって話の進行など存在しない――ただ自然に会話をしているだけなのだから。


 たまに地の文の比率が高く、登場人物の会話が進まない小説などで「地の文じゃなくて会話にぜてキャラクターに説明させればいいのでは?」と言うアドバイスをする読者がいるのだが。

 残念ながら小説において、会話中の『登場人物が必要とする説明』以外の説明とは、全てを地の文がになうものなのだと思われる。

 要は、登場人物は知らないことを聞かれるから説明するのであって、知っていることまで聞かないと言うこと。

 そして、これは少し違うのだが……知らないことを知っていてもいけない。

 これが小説を書く上で作者が心がけるべき事項。作者は代筆者にてっしなければいけないことなのだと思うのだ。


 簡単に説明するならば。 

 この小説の登場人物は善哉と小豆である。つまり作者である私ではない。そして、二人の空間に私は存在しないと言うこと。

 それはつまり……二人だけの空間で、二人だけで会話をしているのである。

 確かに小説について彼が何も知らないから彼女に聞いている。それを彼女が説明するのは自然だろう。

 しかし、二人の知っている部分までを聞いてみたり、口にするのは不自然ではないだろうか。

 善哉が「おい、俺の妹で高校二年生になるアニオタの小豆!」などと呼ぶだろうか。

 小豆が「ねぇ、お兄ちゃんって何歳だっけ?」などと質問するだろうか。

 

 もちろん、これは極端きょくたんな例である。「そう言うことじゃねぇんだよ!」と言うおしかりは甘んじて受け流そう。

 しかしながら、これは極端な例。つまり複雑な説明でも同じことなのである。

 確かに小説は誰かに読んでもらう為にあるのだろう。誰が読んでも小説の内容を理解できなければ意味がないのだと思われる。

 だが、それを登場人物に担わせるのは間違いだと言えよう。何故ならば。


 物語とは確かに作者が思い描く世界を文字に起こしてはいるのだろうが。

 登場人物には作者の意図いとなど関係がない。自分達の意志で自分達の生活をしているに過ぎない。

 更に言えば、誰かに「自分達の生活を見られている」などと考えてもいないと言うこと。

 第三者である誰かに理解してもらおうなどと考えてはいないのである。

 つまり本人達は普通に会話をしているだけ。読者は目の前で会話を聞いているに過ぎないのである。

 それは現実世界とて同じだろう。目の前の知らない他人の会話を、状況のつかめていない人間に理解できないのと一緒なのである。

 そこに読者への理解を求める為、作者が地の文を加えて物語として成立しているのが小説なのだろう。

 だから理解を求める事柄ことがらが深く、そして多いほど、地の文が増えていくのである。

 目の前の他人の会話だけで、そこに隠されたストーリーが伝わるはずはない。

 本筋やメッセージとは作者の声。地の文で形成するものだと思われる。


 そして、知らないことを知っていてもいけない。

 作者ではなく登場人物が話を進めている以上、先の展開などの互いの知らないこと――つまり、作者だけが知るべき情報を登場人物が知っているのは不自然さが残るもの。

 これは二次創作などで、たまに見受けられるのだが。

 登場人物にとっては未知なる展開に遭遇そうぐうする。当然、それゆえに不自然であるべき行動のはずが、何も疑問をはさまずに、それが当たり前かのように受け入れ。

 更に不自然さの解消するべき納得させる説明を周囲に対して何もせずに話が進んでいく。

 このような作品が存在する。

 しかし、これは作品を描く作者にしてみれば自然なこと。原作を知っている作者がオリジナルキャラを使い、動かしているのである。もしくは話の展開的に差し込む設定。自己投影とうえいと呼ぶ方が簡単だろうか。

 自作品内の先を知っている作者にとっては登場人物の言動を理解していても、何も知らない読者には不可解でしかないはずだ。

 そう、作者には普通に見えること、自分の作品なんだからと思う言動でも、何も知らない読者には違和感しか覚えないのである。


 本来、登場人物重視で描く場合。

 重要なのは登場人物の立ち位置であり人物そのもの。間違っても作者などではない。

 登場人物は作者の道具ではない。その世界の主役である。作者など世界をいろどる背景に過ぎない。

 そう、あくまでも作者とは小説の世界の代筆者、登場人物を描く執筆者。


 ――つまり、作者とは小説の世界の神なのだと言えよう。


 こう言えば、大抵たいていの読者は「何を偉そうに」と思うのかも知れない。

 しかし、大抵の読者は神に対して何か誤解をしてはいないだろうか。

 神とは世のことわりを築き上げ、常に住まう人々を見守り正しき道へと導く存在である。

 とは言え、この地に実体など存在せず、人々の心に信心しんじんされて神様と呼ばれ、御柱みはしらの存在を有するのではないだろうか。

 そう、神とは人々が神だと認めて初めて神になる。神としての振る舞いを心がけ、常に人々の為に尽力じんりょくし、周囲に神様だと信心されなければ神ではないのである。

 それは登場人物に干渉かんしょうせず、自分の思い通りに人物を動かさず。

 人物のあるべき姿を正しく描き、常に登場人物を輝かせ。

 人物達の言動を本人限らず読者にも不可解さを覚えさせず。

 あくまでも人物の立つ大地。そう地の文章で見守り、人物達が進むべき道を示していくのが神である作者の役割なのだろう。

 そうすることで登場人物や読者から振る舞いをたたえて、神と称されるのではないだろうか――。

 

 などと、登場人物を無視して私が長々と論じていては神ではなくなるゆえ、彼らの言動を見守るとしよう。


 納得の表情を浮かべている彼に対して、笑みを浮かべた彼女は言葉を紡ぐ。


「うん、話は戻るんだけどぉ~。それって、さ? 作者語りとは言えないんじゃないかな?」

「そうなのか?」

「当たり前でしょ? 作者が地の文をもちいて説明しないで……登場人物にしゃべらせてばかりいるのに作者語りだったらぁ~、その作者は単なる多重人格者になっちゃうじゃん」

「……」


 彼女の言葉に唖然あぜんとする彼。そんな彼を眺めてニンマリと笑みをこぼした彼女は言葉を繋げる。


「つまりね? 今の小説のように会話の比率が高いってことはぁ~、作者じゃなくて登場人物を一人ずつ確立させているってことだと思うの。それって、作者が世界を語っているんじゃないんだよ……登場人物が小説の世界の中で普通に生活しているの。うん、要は読者の目の前に登場人物を浮かび上がらせているってことなんだよ? そして、作者は会話では語れない部分を補足説明する為に……地の文を使ってナレーションみたいに説明しているんだよぉ~」 

「だから映像だってことなのか?」

「そうだよぉ~。今は映像が発達しているから、文字から映像が読み取りやすくなっているの。だから作者が一人で小説を語る落語みたいなスタイルから、登場人物が読者の脳内で動いて話を進めるドラマみたいなスタイルになったんだと思うの」

「なるほど……」


 彼女の説明に納得の表情で言葉を紡ぐ彼なのであった。


 そう、先に説明した通り、舞台のような限られた環境だけでなく。

 ドラマやアニメのように芝居形式で物語が進む映像が一般的に視聴できるようになっている現在。

 そう言う理由で、現代は読者の文字を映像へ変換して生み出される知識が高まっているのだと思われるのだ。

 だからこそ、文字だけで読み取らせる文学から、一般的に慣れ親しんでいる映像を読み取らせる方式へと移り変わり、作者ではなく登場人物を用いて伝えたいメッセージを伝えているのだろう。

 それが彼女の言う――「今の小説は映像のスタイル」と言うことなのだと思われる。

 なお、彼の理解しやすい対象にと、ライトノベルを用いて話を進めているのだが。

 比率の違いはあれど、スタイルについては小説全般的に変わらない。

 もちろん個人の意見に過ぎないのだが、そう考えているのだろう。


「……と、言う訳でぇ~」

「お、おう――って、なんで腕にからまっているんだ!」


 彼を眺めて軽く息をついた彼女は、ニンマリとした笑顔を浮かべながら彼に近づく。

 そんな彼女に冷や汗まじりの面持ちで言葉を返す彼。

 確かに映像のスタイルなのは理解した。しかし、肝心かんじんな「」に句点を入れない説明はされていない。

 だからこそ先をうながそうとしていた彼なのだが。


「少し、ライトノベルらしく会話重視にしたいんだよぉ~」

「……は?」

「あのねぇ~。――」


 彼女は理解不能なことを言い放つのだった。

 彼女の言葉に疑問の声を発した彼など気にせずに会話を続ける彼女。

 とは言え、特に説明の続きではなく、単なる世間話せけんばなしが始まるのであった。 


 要は、今までの会話は彼女にしてみれば地の文。つまり説明に過ぎないと言うこと。

 だから現代の小説らしく何気ない会話をする――

「もっと、お兄ちゃんと色々な会話がしたいんだよ!」

 と言う感情の表れなのかも知れない。

 当然ながら先を知りたいとは思っているものの彼にこばむ理由など見当たらなく、彼女との何気ない世間話に言葉を重ねる彼なのであった。


 本来ならば会話重視の現代の作品らしく、何気なにげない二人の会話をつづり、彼らに重きを置きたいところではあるが。

 この小説で伝えたい『小説の書き方』には関係ないので割愛かつあいしようと思うのである。

 そんな風に、しばらくはお菓子を食べながら世間話に花を咲かせる二人なのであった。

  

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