被害者C

 ユミコの出現によって、聖堂は再度赤光に満たされた。血の海を這いずり回って懸命に逃れようとするシミズを他所に、彼女は呆然と立ち竦むケントに視線をやった。


「どうしたの、ケント君」


 ケントは応えない。ただ黙って、地を這いずる師でも父でもなかった男の醜態を見守っている。


「惨めね」


 ユミコは赤く光る目を細めて、ケントを嘲笑う。


「アナタ今まで、こんな男の掌の上でいいように弄ばれてたのよ」


 ケントは一瞬、「黙れ」と言いかけてやめた。何も言い返せない。今こうして醜態を晒しているのはシミズだが、自分はそれよりずっと惨めな人生を送ってきたのだ。


「いいの? 殺さなくて……もう、そんな気力も失せたの?折角力を得たのに、こんな男の言葉にどうしてそこまで揺さぶられるの?」

「お前、何しに来た」


 言い返す代わりにケントの口から出たのは、素朴な疑問だった。ユミコはちらりと背後の部屋を見やると、一つため息を漏らして語った。


「アナタがここに来ることが分かってたからよ……こいつは、今まであなたが殺してきたとは違う」


 ケントは眉を顰めつつ、頭の中に微かな希望が見えたように思えた。永遠の命。際限なく湧き出る欲望。己を苛む、嫌悪してやまないあらゆる物を消し去る唯一にして絶対の手段……


「言っとくけど、殺しちゃくれないわよ」


 しかしユミコはそれを目敏く見抜き、あっさりと打ち砕く。尚も見苦しく地を這いずり回るシミズに歩み寄ると、その背を無造作に踏みつけた。

 シミズは呻き声をあげてジタバタと抵抗するが、ユミコがその目を睨み付けると一瞬にして凍りついたようにその動きを止める。


「こいつにそんな力があると思う? こいつは私たち悪魔に対して、ささやかな対抗手段を与えられているだけ……アナタから力を奪ったのはそれよ」


 そうしてまた視線をケントに移し、冷酷に告げる。


「アナタは死ねない。永遠に彼岸を彷徨いながら、その欲望に寄り添い続けなきゃいけないのよ……私と一緒にね」


 ケントは絶望し、益々その心は深く闇に沈んでゆく。ユミコは続ける。


「アナタが決められることは一つだけ。どうやってそれと向き合うのか。それはもう、一度答えを出したでしょう。そのバットの持ち主や、川越邸の連中や、アナタの両親や、幼稚園のお友達と……こいつの一体何が違うの?」


 おもてを上げ、ユミコの顔を見る。不敵な薄笑いは消え、彼女は今まで見たこともないほど真剣な表情で、真っ直ぐ自分を見つめていた。

 ケントは闇の中で、確かに蠢き始めた己を見つける。ユミコはまた横目でシミズを見下しながら言う。


「私の目に映るこいつはね……」


 ギリギリ、と踏みつける足に力を込める。シミズは断末魔に似た叫び声を上げる。


「死んだ嫁の不貞にいつまでも怒り狂って、それに身を任せて生きてるだけの……つまんない中年男よ」


 ケントは改めて、シミズの姿を見た。そして思い出す。アヤカをあの部屋に置き去りにした際に、自身の口を突いて出た言葉を。


『代わりを見つけたんだよ』


 そうだ、俺はただ代わりを選んでいただけだ。初めからそうだったろう。こうなる前から、子供の頃から、ずっとそうだったろう……


「同感だ」


 ケントは微かに笑みをこぼしながら、静かにそう言った。ユミコは唇を歪め、その姿を見守る。

 血塗られたバットを片手に、ボロボロのモッズコートを身に纏った悪魔が、ゆらり、ゆらりとシミズに歩み寄る。その目には、ユミコのそれを超えるほどの鮮烈な赤光が迸っていた。

 血の海から顔を上げてその姿を見とめたシミズは、恐怖に顔を歪める。


「ま、待て……分かった。す、全てを話す! よせ……」

「無駄よ」


 遂に命乞いを始めたシミズの希望を、ユミコが粉砕する。


「アナタは『殉教の暗示』をかけられてる。この子が気にしてることをさっさと喋れば、少しは楽に殺して貰えるかも知れないのに……使がそれを許さない。ウッフッフッフ……」

「おいユミコ」


 ケントが冷め切った声で、ユミコを呼ぶ。ユミコは少し驚いてケントの方を振り向いたが、彼の赤く煌めく双眸はシミズの姿だけを捉えていた。そして続ける。


「邪魔だ。どっか行ってろ」

「あらまぁ、初めて呼んでくれたと思ったら……」


 ユミコには、ケントの考えていることが手に取るように分かった。彼の頭の中では、無数の拷問手段が浮かんでは消え、浮かんでは消え……要するに課題はたった一つ。『どうやって痛めつけるか』。

 そして表情は、無意識のうちに下卑た笑みに歪んでいる。


「ま、いいわ……ごゆっくり」


 ユミコは満足気に微笑み、また先程の部屋に戻り、扉が閉ざされる。聖堂にはケントとシミズだけが残された。

 聖者の光はケントの瞳から迸る赤光に完全にかき消され、シミズの腕から流れ落ち祭壇に広がる血の海を殊更に照らしていた。


 それは即ち、神父・シミズの希望が完全に閉ざされたことを物語っていた。シミズは遂に覚悟を決め、恐怖を押し殺して言う。


「私は、天に召される……!」


 ケントは無表情のまま首を傾げ、続く言葉に暫し耳を傾けた。


「悪魔の誘惑により闇に引き摺り込まれたお前と、天使との契約により光を授かった私は違うのだ……お前がこれから私に何をしようとも、私には祝福が約束されているッ!」

「くくっ、お前は本当にアホだな」


 絶叫するシミズに対してケントは嘲笑を浴びせかけ、その顎を無造作に蹴り上げる。

 耳障りな呻き声を上げて血の海にベシャリと倒れ込んだシミズは一瞬意識が遠のいたが、ケントがをかけると何か金属音のような世にも不快な音が脳内でけたたましく鳴り響き、無理矢理に意識を戻される。


「ハァ、ハァ……おぉ、神よ、神よ……」

「もういねぇんだよ、神なんざ」


 ガンッ

 ケントはサッカーボールを蹴り飛ばすようにシミズの頭を足蹴にしながら、その祈りを否定する。行動で、言葉で、その逃げ道を逐一封じる。


「俺は霰弾壁に飛び込んだ後、悪魔の声を聞いた……『もう世界に神はいない』、ってな」


 シミズは痛みと絶望の中、朦朧とする意識をケントの発する怪音に支えられながら、その言葉に微かに目を見開く。


「誰に騙されたか知らねぇが、核心に迫る部分を煙に巻いて隠す奴をなんでそんなに信じ込める? そうでもしなきゃ、嫁を寝取られた程度の不幸とも向き合えねぇのか」

「ち、違う……ちが……」

「違わねーよ」


 ケントは額に青筋を立て歯を食いしばり、シミズの腕に向かって目一杯バットを振り抜く。

 腕はいとも容易くへし折れ、その先にあるあばらも砕け散り臓腑に突き立つ。聖堂に、声にならない悲鳴が微かに響く。

 またも意識が飛びかける。瞬間、脳内に怪音が鳴り響いてまた奮い起こされる。


 殺してくれ、殺してくれ、殺してくれ……


 シミズは早くも祈りを忘れ、肘から先を切り落とされた片腕で血の海を這い、ケントに縋りつこうとした。ケントは舌打ちし、「寄るな、気色悪りぃ」と吐き捨てながら、その顔面を蹴り飛ばし破壊する。

 精神が崩壊したシミズは、あうあう、と幼児おさなごのように喘ぎながら、祭壇の上でのたうち回った。


「自分の子じゃなかった俺に復讐の肩代わりをさせて、俺が少しでもマシに人生を送れる種を徹底的に叩き潰して……祭服さいふくなんぞ着て神父の真似事でもしてりゃあ、全部許されるとでも思ってんのか。そのクセ都合が悪くなると俺に縋り付くとは……」


 破壊された顔面から血と涎を滴らせながら、シミズは祭壇の向こうに聳える巨大な十字架に視線をやる。

 ケントはそんな姿を見ながら、肩を震わせて嗤う。そして懐に手を差し入れ、ライターを取り出して火をつける。


「誤魔化しても無駄だぜ。お前はただ、そのクソみたいな人生を終えるだけだ。どこにも召されやしねぇ。でもそれなら尚更、ただ殺すだけじゃ面白くねぇ。だから……」


 小さな火はケントの激情に呼応するかのように大きくなり、忽ち聖堂の天井にまで届くほどの業火と化した。


「なるべく苦しめ」


 ニィ、と頬を歪ませ、ケントは業火を吹き上げるライターを片手にシミズに歩み寄る。

 シミズは目から手元から放たれる真っ赤な光に彩られたケントの姿を霞む視界に捉えると、既にして絶望の極みにありながら凄まじい恐怖に襲われ、ミツルと同様、前から後ろから失禁した。糞尿が血の海に混じり合い、祭壇を穢す。


 あぁ、汚い、汚い……


 ケントは、無造作にライターを放り投げた。それは放物線を描いてシミズの纏う祭服キャソックに落ち、一気に燃え上がった。

 そして断末魔の叫びを上げながらその身を焼くシミズに、尚も暗示をかけ続ける。


 まだ死ぬな、まだ死ぬな……もっと苦しめ、苦しめ……


 絶頂せんばかりの快感に身を震わせながら、ケントが思い出したのは最初の殺人。快楽に耽る実父と実母の頭を叩き割った、あの脳髄から爪先まで突き抜けるような感触。


 ケントは確信した。


 そうだ、これが俺の真の姿なんだ。

 悪魔は俺を『仰木健人オオギ ケント』と呼んだ。

 そうだ、俺は仰木健人……何にも変わってやいなかった。

 『悪魔の子』と呼ばれたその日から、そこが俺の原点だったんだ。

 俺は内に滾る獣の指示にどこまでも従う、一匹の珍獣。

 これからも、こうして生きていこう。どうせ未来永劫生きなきゃならないなら、こうして愉しめばいいんだ。


 あぁ、油をかけるのを忘れてた。この火もそのうち消えるなぁ……

 なら、せめて火が消えるまで意識を飛ばすな。そんでもって、その後も生き続けろ。なるべく長く苦しめ、苦しめ……


 ケントは、祭服が焼け落ち、その剥き出しになった肌が、肉が焼け焦げる臭いを胸一杯に吸い込みながら、快感に打ち震える身を抱いて、延々と暗示をかけ続けた。



 ♦︎



 人の身が焼け焦げる臭いは、隣室にいるユミコの鼻にも届いた。扉一枚とローズの香りを突き破って漂う悪臭に、彼女は少し眉を下げて苦笑する。


 やれやれ、本当に悪趣味ね、あの子は……


 そして、狭い部屋に置かれた机の引き出しを開ける。そこに入っていたのは、だった。それは、鈍く光る小さな十字架。

 ユミコは背筋を伝う冷や汗を感じながら、ふぅ、とため息を漏らす。


 危なかった。これを手に取られていたら……


 恐ろしい予想に軽く身震いしたが、隣から漂う人肉を焼く臭いに安堵し、また引き出しを押してそれを仕舞う。

 そしてユミコもまた懐を弄ってマッチ箱を取り出すと一本を抜き取り、手慣れた動作で箱とマッチ棒の先端を擦り合わせる。

 シュボッ、と心地よい音が鳴り、小さな火は軽く燃え上がる。机と、その中にある『天使の十字架』を焼き消す程度に。


 ユミコは机上にマッチ棒を投げ捨てると、パチパチと音を立てて燃える机を背に、ゆっくりと教会を後にした。

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