車中の追憶

揺らぎの中で

 背後には、パチパチと燃え盛る炎の音。正面には、一様に顔面蒼白となって自分を見る大人たち。


『誰かッ! 誰かウチの子を助けてぇっ!』

『駄目だ、あれじゃもう助からない……』

『なんだあの子……なんであんなことを……』

『ひッ……! なんだあの目……!?』

『あ、悪魔……』

『こ、この悪魔ッ!』

『悪魔の子ッ! 悪魔の子だぁーーーっ!』


 うるせぇよ。知らないくせに。

 何も知らないくせに……



 ♦︎



 カタン、カタタン……

 夕暮れのプラットホームを幾度も通り過ぎて、ケントはふと我に帰って辺りを見回す。

 やけに寒い。思えば、もう十月も終わりだ。この電車はまだ暖房をつけていないのか。


 平日の電車は、時間帯ごとにまるで別の世界を映し出す。

 一般的な学校の登下校時間とも、一般的な企業の出退勤時間ともズレる夕方の車内に漂う空気は重い。不安、疲労、諦念、ため息……

 時には例外も現れるが、どんな人間もこの様相を覆すことは出来ない。

 何かに疲れた人々が、それぞれまばらに距離をとり、一人で寒さに耐えている。


 ケントはわけもなく、行くあてもなく、呆けた表情のまま座席に身を沈め、そんな電車に揺られていた。

 繰り返し繰り返し、窓に映るくたびれた己の姿を見つめる。

 彼にとっては服は自己表現の道具ではなく、隠れ蓑だ。周囲から自分の醜さを隠蔽したい、出来ることなら存在そのものを認識されたくない。そんな心理が霧のように吹き出して、こんなに世間擦れした目立つ格好なのに誰の目にも留まらない。


 鏡に映る己の現在の姿は、まるで亡霊。ケントは混濁した意識の中で、終ぞアヤカに打ち明けなかった過去に想いを巡らせる。



 ♦︎



 片田舎の小さな幼稚園。陽だまりの教室。

 子供たちの無邪気な笑い声がこだまする。

 ゲタゲタ、ゲタゲタ。


 一人の、こびり付いた泥で汚れた服を着た小さな少年がそこへ一歩足を踏み入れると、一瞬にしてそれは止まる。

 一斉に絡みつく鬱陶しい視線を無視して、少年ケントは虚ろな視線を壁に貼られた絵に向ける。


 鮮やかなクレヨンで描かれた青空、ピンク色の滑り台、砂場の城……

 真っ黒に塗り潰された一枚の絵が、ビリビリに破かれていた。その下に、『仰木健人オオギ ケント』と書かれた名札だけが、わざとらしく無傷で残っている。


 ゲラゲラ、ゲラゲラゲラゲラ……

 また笑い声がこだまする。ケントは虚ろな目を、笑いの輪の中心に向ける。

 笑い声は止まない。大柄な少年が一人、一際ひときわ無邪気な笑顔を満面に浮かべながら進み出る。


「なんか用か、


 彼が口にした言葉の意味はケント以外には誰も知らない。知らないから笑うのか、知っていて笑うのか。「笑っていい」と親に言われたのか。


 ケントは無言で彼に突進し、掴み合いの喧嘩が始まる。小柄なケントはあっさり組み伏せられ、上になった大きな彼は容赦なくケントの顔面に拳を叩き込む。

 笑っていた少年少女はいつの間にか二人をグルリと取り囲み、鼻血を垂らしたケントを指差して一層激しく笑い出す。


「いってぇーーーーッ!」


 叫んだのは、上になった少年。股間を抑えて転げ回り、悲痛な声で喚き散らす。

 ケントはムクリと起き上がり、今度は彼の上に乗って一発、同じように顔面に拳を叩き込んだ。

 しかし非力なケントのパンチでは、少年の鼻を少し赤くしただけで流血には至らない。

 続いて二発、三発と殴ろうとしたが、取り巻きの少年がケントを後ろから羽交い締めにして叫ぶ。


「やめろ、この野郎!」

「みんなやれー!」


 ワイワイと玩具を弄ぶように、少年少女はケントを甚振いたぶる。殴っても蹴っても、チョークの粉を頭から浴びせても、泣きもせず、壊れもしないオモチャは面白くない。

 子供たちの遊戯は一層激しさを増す。


「こらっ、何してるの」


 教室の入り口から響いた、若い女性教諭の何の感情もない叱責が彼らの手を止める。

 歩み寄る彼女に子供たちはワイワイと群がり、半べそをかいて口々に言う。


「ケントくんがね、リュウジくんのことぶったの」

「何もしないのに?」

「そう! 何もしないのにいきなりぶってね、上に乗って何度もぶとうとしたんだよ」


 そうだよ、そうだよ、僕見てたもん! 私も見た見た……

 無垢な子供たちの訴えに、一切感情の籠っていなかった彼女の目にメラメラと憤怒の火が燃えたち始める。


 女性教諭は、ぐったりと床に寝そべるケントにツカツカと歩み寄り、その小さな体を抱き起こした。虚ろな目が彼女の目と合う。


 パンッ


 ケントの頬に叱咤の平手打ちが入る。虚ろな視界に、教諭の背後でクスクスと笑う少年少女たちが映る。


「先生を見なさい」


 教諭は冷然と言うと、さらにパンッ、パンッ、と二度目、三度目のビンタを見舞う。ケントは泣かない。


「お友達に意地悪しちゃいけないって、お父さんに教わらなかったの?」


 力の抜け切ったケントの真っ赤な頬を両手で掴み、真っ直ぐにその目を見て彼女は言う。その表情に、下卑た笑みが浮かぶ。


「あ、お父さんいないんだっけ」


 クスクス、クスクス

 ケントの目には、彼女と背後で笑う少年少女の顔は、全部同じに見えた。


「キャアァーーーーーーッ!」


 教諭が突然、子供のようなけたたましい喚き声を上げた。頬を持つ手の親指に、ケントの歯がガリガリと食い込む。


「先生、どうしましたっ!?」

「ケント……またか」


 バタバタと教室に駆け込んできた二人の男は、中年の園長と若い男性教諭。

 園長が何とも悲しげな表情を浮かべ、目に涙をためる女性教諭を懐に抱き寄せ、その背をさする。義憤に駆られた男性教諭はケントに駆け寄り、その鉄拳がケントの頬に叩き込まれる。


 ゲラゲラ、ゲラゲラ……


 陽だまりの教室から、子供たちの無邪気な笑い声がこだまする。

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