あっけない幕切れ

 自分の目を真っ直ぐ見つめるアヤカの黒い瞳には、希望と絶望が混在している。

 自分の返答次第で、この目がどちらに染まるかが決まってしまう。


「お願いです、どうしても、どうしても……」


 なぜ屋敷に帰りたくないのか。なぜ『助け』を求めるのが自分なのか。聞きたいことも、聞きたくないことも山ほどあった。ケントはその全てを知るのが、ただ恐ろしくてならなかった。

 脳裏にフラッシュバックする、の記憶。言えなかった、自身の罪状。


「なんで」


 ケントは目を伏せ、僅かな勇気を振り絞って小さく口にした。それが精一杯だった。

 アヤカの表情は見えないが、その手はケントの腕から離れ、コートの袖から僅かに出た指先に触れた。彼女の指は、氷のように冷たかった。


「なんで、って……?」


 発する声もまた同様。顔は見えない。見たくない。その先は予想できた。聞きたくない。やめてくれ。


「どうしてもそれを言わなきゃいけないなら、ケントさんの過去を教えてください。なんだって私は責めません。分かるでしょう……?」


 アヤカは、ケントの手をきつく握り締めた。その力は、余りに強かった。顔を見なくても伝わる、彼女の激情。それは憎悪か、執着か……

 ケントの胸は今にも張り裂けそうだった。やめろ。やめろ。


「だから、それは……」

「私がこうなったのは……!」


 握り締める手が一気に力を増し、声にはより一層の激情が篭る。ケントは遂に限界を迎えて顔を上げ、真正面からアヤカの目を見据えて絶叫した。


「俺のせいだってのかよッ!!」

「ひっ……」


 アヤカは瞬時に手を離し、恐怖に顔を歪ませてベッドから飛び上がって逃げた。その後、ヘナヘナと腰を抜かし、床に崩れ落ちる。

 ケントの視界に映る窓ガラスが、自身を睨み返す。狂気に満ち満ちた四白眼が。

 わなわなと肩を震わし、そんなケントを見つめるアヤカ。その目からは、恐れを上回る強い衝撃が窺えた。


……」


 震える唇から漏れた微かな声を、ケントは聞き逃さなかった。

 なんだ。責めるのか。やっぱり、俺のせいだってのか。違う、違う、違う……


 ケントの目から狂気が消えたが、正気を取り戻したようには見えない。その目に映るのは、虚無。無限の闇。ベッドからムクリと身を起こし、フラつく足取りでアヤカに背を向け出口を目指した。

 背後から、掠れた声が聞こえる。「待って」と。「行かないで」と。


 聞こえない。知らない。

 ケントはドアを開け、そのまま部屋を出た。いつも通り、用心深く自身の体を抱き締めるように腕を組み、無心のままにエレベーターを降りてホテルから立ち去った。


 目指す先は屋敷ではない。ここでないどこか。


 やっぱりこうなった。

 もういい。もう疲れた。

 もう終わろう。


 亡霊のように裏通りを歩くケントを遮る者は、誰一人いなかった。



 ♦︎



 取り残されたアヤカは、ガクガクと震える足腰にどうにか力を入れ直し、ケントが立ち去ってから五分ほどしてようやく部屋を出た。


 追い詰める気はなかった。ただ、力になってほしかった。ケントにだけは、と思った。

 アヤカは目まぐるしくループする思考と焦燥に苛まれながらエレベーターのボタンを連打し、何とかフロントから外へ出た。裏通りの乾いた空気と、生ぬるい風が身を打つ。


 想像を絶する心細さ。

 さっきまでケントに手を引かれて、その肩を支えて通ったビル群の隙間を縫う薄暗い通りは、到底一人で歩ける場所ではなかった。


 思わず目に涙が滲む。叫ぶ気力すら恐怖に打ち消される。


 ケントさん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……


 戻って来て、助けて……


「アヤカ」


 聞き覚えのある、野太い男の声。

 アヤカの心もまた、いつも通り凍てついた。恐怖も悔恨も消えた。声の主は、見なくとも分かる。


「どうした、こんなところに一人で……危ないだろう」


 俯くアヤカの頬を片手で掴み上げた声の主・ミツルは、彼女の空洞のように虚ろな瞳を真っ直ぐに見つめ、下卑た笑みを浮かべる。


「ケントはどうした?」


 アヤカは無心で答えた。


「知りません」


 ミツルは肩を震わせ、声をもなく嗤う。後ろに控える数人の男たちは、全員ミツルの養子たち。まるでミツルのコピー人形のように、似たような表情でニヤニヤと嗤う。見慣れた光景だった。


「そうか……まぁいい。帰ろう、屋敷ウチへ……」


 ケントさん。


 助けて。

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