説教

 夕焼けが薄く照らすT市の表通りを、ケント少年は泥のこびりついた服とアザだらけの体で歩く。

 通行人はいない。広い道路を時折通る車から吹きつける風が、全身の傷を嫌に撫でつける。

 ボロボロの心と体を引きずって、帰りたくもない家路を急ぐ。安息の地はない。誰も優しくない……


 が、そんなケント少年の目ににわかに光が灯る。


 正面から夕焼けを背にして、漆黒の祭服キャソックを纏った長身の紳士が正面からやって来るのがぼんやりと見えた。やがてその顔が露わになる。


「やぁ、ケントくん……今帰るところかい」


 ケントに向かって微笑と共に声をかける彼は、『シミズ神父』といった。



 ♦︎



 シミズ神父がここT市にやって来たのは、一年ほど前のこと。熾烈なイジメと実父からの虐待が原因で、五歳にして生きる気力を失いかけていたケント少年の前に突然現れ、「懲罰の戦い」を始めるよう説いたのであった。


 ケントは変わった。同級生のイジメに歯向かい、親の虐待に歯向かい、今日は遂に、教諭の理不尽な指導に歯向かった。負けても負けても、歯向かい続けた。そして常に、一定の打撃を相手に与えてきた。

 しかしケントは、決して勝てない、終わりの見えない戦いに疲れ切っていた。その果てにあるものが一向に見えてこないのだ。


 シミズは、廃業したタバコ屋の店頭脇にある自動販売機で暖かいコーヒーを二つ買い、傍の段差に腰掛けるケントにその一つを手渡した。

 ケントはそれを受け取り、小さな温もりを両手に感じながら虚しさの拭えない心を省み、シミズが隣に腰掛けるた瞬間、堰を切ったように質問をぶつけた。


「神父のおじさん」

「何だい?」

「おじさんも、ずっと戦ってきたんだよね」

「あぁ……戦いの連続だ。今もね」

「辛くないの?」

「そりゃあ、辛いさ」

「どうして続けられるの?」

「その先にがあると信じているからさ」

「きゅうさい……?」

「分からなくてもいいんだ、今はね。でも今君は、正しいことをしているんだよ。だから、悪い奴らに負けちゃあ駄目だ」

「うん……」


 ちびちびとコーヒーを啜りながら滔々と諭すシミズ神父のどこか肩透かしな言葉を受けて、ケントは俯いた。いつも通り、折れそうな心をどうにか立て直そうと努力する。

 しかしケントは既に限界を感じていた。勝てないのだ。戦えば戦うほど敵が増える。酷い目に遭うことが増える。今日の戦いだって、まだ終わっていない。は家にいる。

 そんな気持ちを知ってか知らずか、シミズはそれを口にした。


「そろそろお父さんが帰って来る時間だな」


 ケントは身震いして、シミズの顔を見た。哀願するような、またどこか責めるような目でもあった。シミズはそれを、悪びれる様子もなく真っ直ぐ見つめ返す。


「どうした?」

「……どうしても、帰らなきゃ駄目?」

「当然だ。帰る家があるなら帰るべきだ」

「でも……」

「まだお父さんが怖いのか」


 黙り込み俯くケントに、シミズは容赦せず畳み掛ける。


「君に一番理不尽な痛みを与えてくる者こそが、君が絶対に戦いを避けてはいけない相手だ。君は弱い者としか戦わないのか?」


 言葉は返しのついた銛のように、ケントの胸に深く突き刺さる。シミズはケントの目から光が消え失せるのを見とめると、素早く立ち上がった。


「待って、おじさん」

「駄目だ」

「お願い」

「戦いを放棄するなら、もう会うことはない」


 シミズは冷酷なほどに、ケントの言葉を一切聞き入れず突き放し、足早にその場を去ってゆく。


 ケントは動けなかった。何も言えなかった。ただ呆然と、沈みゆく夕陽に照らされるシミズの、黒衣に包まれた後ろ姿を見送った。

 両手で持ったコーヒーはすっかり冷めきり、もう温もりを与えてはくれない。じきに夜が来る。今のうちに自販機の明かりから離れなければ、もう家には帰れない。


 何かに突き動かされるように、ケント少年は立ち上がった。

 そしてまた歩き出す。決して帰りたくもない家路を。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る