西風路
激しい雨が降る。
川の中州にある砦は、まるで荒れ狂う海を渡る船のようだ。
揺れこそはしないが、岩に打ち付ける川の流れの激しさ・砕け散る波の音は、転覆する船の中にいるような恐怖心を与える。
エレナは洗い終わった食器をしまい、何気に窓の外をのぞいた。
暗闇に白い人影がちらついた。
「キャッ! お父様!」
エレナにとって、夜の訪問者は恐ろしい思い出に繋がる。
ホルビンは娘の肩を軽く抱くと、そっと後へ追いやるようにして、ドアを開けた。
戸口に立っている人は、なかなか入ろうとしない。
明らかにかなり長い時間、雨にぬれながらドアをノックしようかどうか迷っていたようだった。
「! セリス様……。いったいいかがなされたのです?」
供もつけず、摂政となられた人物が、雨の中をたかが平民の家の前で、立ちつくしている。ホルビンは、驚きを隠せない。
「すまない……。おまえの顔が見たくなったのだ」
セリスの唇は、すでに紫色になっている。しっとりとぬれた髪からは、雫がたれて床を濡らした。
「エレナ、ミルクを沸してくれ」
「いいえ、すぐに帰ります」
「ダメです。セリス様。このままでは風邪を引いてしまう。まずは温まってください」
セリスはうつむいた。
頬を伝わる水滴が、雨なのか涙なのか、エレナにはわからなかった。
「父上ならば……善良な市民を死に追いやるようなことはしない……」
エレナからミルクを受け取り一口飲むと、セリスはポツリと語り出した。
「アル様はアル様。セリス様はセリス様です。昼間の態度は、立派でした」
ホルビンの言葉も、今のセリスには何の慰めにはならなかった。
「あの時……私が死ねばよかったのだ。父上ではなく、私が……」
「セリス様……そのような弱音を」
「今のエーデムに必要なのは、私ではない。王族の純粋な血をひく父上こそ……」
そういうとセリスは両腕で頭を抑えて、机に伏した。言葉は続かず、嗚咽が漏れる。
その頭には、王族たる者の証はない。
エレナに花冠を捧げた少年は、もういない。
明るく温かな微笑みは、あとかたもなく消え去り、背負わされた重たいものに押しつぶされそうな、やつれた少年がいるだけだ。
血の違いはあれど、戦いはセリスにもエレナにも、心に傷を残した。
あの夜、エレナは母を失い、セリスは父を失った。そして、エレナは明るく温かい家庭を失い、セリスは王族の血の誇りを失った。
エレナは、胸に激しい痛みを感じた。
幼い日々から父に言われていた言葉――セリス様をお守りしなければならない――が、初めてエレナの中で自分自身の言葉となった。
その銀の髪にふれてもいいでしょうか?
私の気持ちを花冠にして、あなたに捧げてもいいのでしょうか?
あなたの力になりたいのです。
エレナは心の中でお願いした。
とても大それたことで、言葉に出きるようなことではなかった。どんなに近しく感じても、王族と平民の差は大きかった。
内気なエレナが出来ることは、ただ、心の中で思うこと、祈ることだけだった。
その後、セリスはホルビンの家を訪ねることはあっても、この夜のような泣き言をいうことはなかった。
人前で泣くことは、二度となかった。
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