東風路
砦の主・エーデムの巫女姫・フィーマが、ホルビンの労をねぎらって、エレナ親子に比較的いい住居をあてがってくれた。
エーデム王族の血を引くセリスとフロルを守ったことは、殊勲だったのだ。
それでも、イズーの家に比べれば狭いものだった。
しかし、エレナには広く感じる。父と……二人きりになってしまったから。
母は、義妹が貴族の妻になっても、夫が城の衛兵隊長となっても、さらにセルディン公の親友となっても、昔のままだった。
庶民的な食堂を切り盛りしていた時と同じ言葉使いで、同じ態度で、明るく元気だった。
外ではすっかり貴族と付き合うだけの品位を身につけてきた父も、家庭内では母同様、気さくで雑多な言葉を使って、とても賑やかだった。
その母が……いなくなった。
元々内気なエレナだったが、母がいなくなったことでますます内向的になった。
幼い日々から父に教わり、大人顔負けの腕になった弓に触れる事もなく、見るのも嫌になった。
母の命を奪ったこの武器を、エレナは二度と触れないと誓ったのだ。
エーデム王族でありながら、砦のフィーマは石女で子をなすことができなかった。
これは繰り返された近親結婚の弊害だった。
古き血をよく表しているフィーマは、女だったためにエーデムリングに属さず、石女だったために、王族としての権力を持たず、古きガラルの地で、巫女として生活をしていた。
すでに、百八十二歳……。古き血でなければ、とうに寿命であろう。
「わしが生きている間にのう……。こんな事態になるとはのう……」
フィーマだけではなかった。
イズーより難を逃れた王族たちも、平民たちも、みんなどうすればいいのか途方にくれていた。
父は、仕事で忙しかった。
セリスが寝込んでいた間は、やはりショックでたいしたことの出来ないエーデム貴族のブレイン連中の代わりに、フィーマを助けて動き回っていたからだ。
イズーから逃げて来た者の数は、それほど多くはないが、砦には許容力がなかった。
小さな部屋に、二世帯・三世帯積め込まれて、普段は穏やかなエーデム人も、なかなか落ち着きを取り戻すことができなかった。
イズーにいた頃は、セルディン公に取り入っているなどと噂され、何かとやっかみを受けていたホルビンであったが、今や頼みの綱だったのである。あちらこちらで引っ張りだこになった。
だから、エレナを構う時間がなかった。
エレナは、外に出るのも嫌だった。
外出すると、どこからかあの夜の恐怖が蘇る。
だが、亡くなった母に変わって家事をしなければならない。忙しい父を心配させたくはない。努めて明るくふるまおうと努力した。
父が忙しいのを、エレナは知っていた。
自分が辛くて苦しい時こそ、誰かの力になろうとする……そんな性分は、この時期に養われたのだろう。
心の傷をひたすら隠し、父のために忙しく働いた。
そのような中、エレナはセリスの噂を聞くのが辛かった。
狭い砦の市場で買い出しをしていると、聞きたくなくても噂は耳に入る。
「まだ、意識が戻らないっていうじゃないか……」
「戻ったとしても、まだ子供だ。この混乱を押さえられるのか?」
「あぁ……アル様が生きていてくださったら……」
優しい緑の瞳……掲げられた花冠。
あの笑顔が、思い出の中でゆがんでいく。
――アル様が生きていて下さったら……。
エレナは、あの時のセリスの言葉を思い出す。
「エーデムに必要なのは、私ではなく父上だ。父上の……純粋な王族の血!」
思わず耳を塞いでしまう。
「私が大切に思うのは、花冠をくださったセリス様です」
なぜ、あの時、声にして言えなかったのだろう?
悲しい事がいっぱい起きてしまった今、エレナにとって花冠を捧げてくれた少年との思い出は、宝物だったのだ。
エレナは、遠く砦の頂に目を向けた。
幼い胸をいっぱいにしたその思いは、届くはずもなかった。
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