三章

南風路


 エーデムリングの迷宮に足を踏み入れると、セリスは心苦しくなる。

 今や当然のごとく歩める場所となったが、それでも少年だった頃のつらい思い出に苛まれない時はない。

 もしも、セラファン・エーデムがこの迷宮に入ったとしたら……心落ちつく懐かしき場所と言うかも知れない。

 だが、同じように選ばれた者でありながら、セリスには苦悩しかなかった。

 エレナを探し、歩き回りながらも、セリスも過去を思い出す。


 あの時……確かに心臓が止まった。死んだはずだった。

 しかし、助かってしまったのだ。



***



 セルディン一家は、エーデムの首都・イズーをからくも脱出し、ガラル砦へと逃げることができた。

 父を助けることができずに、セリスも途中でホルビン達と再度合流した。

 しかしこのはぐれていた間に、セリスは一気に体力を消耗していた。


 父を助けようとしてしのび込んだイズー城。

 しかし、もうすでに逃げ道はなく、唯一の道を、瀕死の父が示してくれた。

『おまえは黒曜門を抜けて逃げなさい』

 父の言葉通り、セリスは黒曜門からエーデムリングに迷い込んだ。

 血まみれになり、平静を保てないまま、悲鳴をあげながら、回廊を走り続けた。

 足を滑らせ、地底湖に沈む。

 そして……死んだはずだった。

 しかし……銀竜の幻を見た。

 銀に輝く光の渦が、自分を持ち上げていくような感覚に襲われた。

 天空をさ迷うような幻。

 風に乗るような感覚。


 そして、気がついたら……母の心配そうな顔があった。


 母は、涙を浮かべている。

 狭い部屋だ。岩をくりぬいた粗末な場所だ。

 セリスはいたたまれない気分になった。

「母上……申しわけありません。私は……」

 気がついて最初の言葉が、これだった。

「いいのですよ……。私には、あなたが無事だったことで、もう……」

 母は、ハラハラと泣きつづける。

 セリスは目を閉じた。

 フィラは、アルが死んだ悲しみに浸って泣いているわけではない。

 間違いなくセリスが無事だったことを喜んで泣いているのだ。


 でも、母上……。

 ――私の罪を知っても、あなたはよろこんでくれますか?


 何故、おまえが助かったのだ?

 おまえが父のかわりに死ねばよかったのに……。

 母にそう責められそうで、セリスは母の顔を見ることができない。

 セリスの閉じられている瞼から、涙が目じりを伝わって溢れた。




 ガラルに着いてから、セリスは何日間も寝こんでいた。

 そのまま命を落とすのでは? とさえ噂され、フィラは寝ずの看病をしていた。

 意識を取り戻した息子に、フィラは喜び、付き添い続けた。だが、息子のセリスにかつての明るさは戻ることがなく、やがて母を避けるようになった。


 ガラル砦は、川の中州に突き出た岩山を古代エーデム人がくりぬいて作った遺跡であり、頂上は物見ができるようになっていた。

 砦の中は、元々住んでいた者達とその人数の三倍にもなる難民で溢れかえり、ざわざわしていた。

 その煩わしさをさけるように、セリスはふらふらと砦の頂上に立った。

 風が銀髪をなびかせた。

 セリスは、川向こうに広がるエーデムリングの彼方を見た。

 砦の下に流れる川も見た。


「私は……どちらへ行けばいいのです? 父上……」


 死に至る瞬間に父が示してくれた道は、あまりに辛く厳しいもの。

 やつれ果てたセリスは、風にあおられてそのまま、川に落ちそうになった。

 しかし、何かがセリスを支えた。

 銀色の霧のようなものが、あたりに渦巻いて見えた。

 あの時と……同じ……。

 何かが、セリスの身を守っている。


 ――父の屍を超えて、さらに生きよと……。


 これは、古代からのエーデムの意思が、生きてエーデムのために身を尽くせと、言っているに違いない。

 セリスはそう感じた。



***



 そうして生きてきた。

 自分のことを考えたことも、愛する人のことを考えたこともなかった。


 ――この罪は、けして消えることがない。


 血塗られた手のまま、迷宮をさ迷ったあの日のままに、走り続けて生きてきた。

 亡霊のように……。

 白い迷宮が、セリスに過去を運んでくる。

 苦しみは死ぬまで続く。

 だが、さらに生きることが罪をあがなう唯一の方法なのだ。

 過去を振り払うかのように、セリスは奥へと進んでいった。

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