陥落路・左


 ――なぜ、あの時のことを、こんなに鮮明に思い出してしまうの? 


 母の死……。

 それは、エレナが人生で初めて出会った不幸であり、一番辛い思い出でもあった。

 エレナにとって、最も死に遠く思えていた母が、みるみる弱って目の前で生き絶えたこと。

 それをたった今起きたことのように思い出すのは……死が迫っているから?

 どこからともなく氷竜たちの咆哮が響いて来て、エレナは怯えた。

「……いえ……お母様は、最後まで生きようとしていた」

 くじけそうな心を、気丈だった母の姿を思い出して、奮い立たせた。


『エーデムリングは迷宮。時間さえも歪んでいる』

 そう教えてくれたのはセリスである。 


 ――ここは迷宮、私は過去の夢に囚われてしまったに違いない。

 黙って待っていると、ますます過去に引き戻されてしまう……。


 エレナは夢から逃げるように歩き始めた。

 だが、夢は追いついてきた。



***



 父は冷たくなった母の頬を触れていた。

 言葉なく、ただ見つめていた。

 背中が、とても小さく見えた。父は大きな人だったが……。


 やがて父――ジェイ・ホルビンは立ち上がった。

「一刻の猶予もない。行くぞ……」

「まって、ジェイ……。ベルは?」

 フィラの言葉に、ホルビンは何かを振りきるように、言葉を吐き出した。

「おいていく」

 エレナは凍りつくような感覚に襲われた。


 お・い・て・いく……。


 温かな家族に初めて訪れた冷たい別れの言葉だった。

「まって! せめて埋葬して……」

「そんな時間はない!」

 フィラの言葉をさえぎるように、父の言葉は鋭かった。

 ううっと声を上げて泣き崩れるフィラの肩に、ホルビンはそっと手を置いた。

「ベルの死を無駄にしたくはない! わかってくれ。フィラ……」

 

 その時、セリスがいきなり言い出した。

「私は、イズー城へ戻ります」

 一瞬、誰もが耳を疑った。

「父上は生きている……。私にはわかる」

 まだ少年とはいえ、セリスは王族の血を引いている。

 アル・セルディンが生きている――それを感じる力があったとしてもおかしくはない。

 しかし、ホルビンさえも探索をあきらめるしかなかったのだ。

 まだほんの少年に、なぜ父を助けることができようか?

「セリス様、お気持ちはわかりますが、今はあなた様の御身が大切です。アル様に万が一のことがあったなら、エーデムを統べることができる王族は、もうあなたしか残されていないのです」

 今しがた、見てきた惨状を説明する気にはなれない。

 ホルビンは、一瞬下を向いた。

 王族達の死に様のすごさを思い出して、さすがのホルビンも気分が悪くなったのだ。


 探索の断念。

 ジェイ・ホルビンにとってもつらい選択だった。

 敬愛するセルディン公を助け出すより、セルディン一家を無事にガラルまで逃がすことを選ぶのは……。あの無残な屍の中に、アルの姿を想像するのは……。

 しかし、ここで留まっていては、せっかく救い出したセリスたちの命さえ危うくしてしまう。


 だが、セリスは大きく頭を振って否定した。

「違う! 私ではない!」

 祠の中が、その言葉に緊張した。

「エーデムに必要なのは、私ではなく父上だ。父上の……純粋な王族の血!」

 セリスは、純粋な血を持たない。

 持っているのは、父・アル・セルディンである。


 ――父の命に比べたら、自分の命のなんと軽いことか……。


 この言葉が、どれだけ平民である母を傷つけたのか、自分の力のなさに落胆しきっているセリスには気がつかなかった。

 小さな悲鳴を上げて顔を覆ってしまった母に、セリスは手をかけると優しく声をかけた。

「母上、私は必ず父上を助けて参ります」

 ホルビンは、セリスの言葉を聞いて押し黙った。

「……い…いかないで……」

 セリスを止める言葉を出せたのは、エレナだけだった。

 それも、まるで蚊の鳴くような声で、セリスはまったく気がつかなかった。

 エレナには、父の態度が意外だった。

 殴ってでも、セリスを止めるとばかり思っていた。

 セリスが祠を出ていこうとした時、やっと父が声をかけた。

「お待ちください!」

 セリスはクレセント・ムーンに照らされた銀髪を揺らして振りかえった。

「セリス様……。あなたの命は、あなたが思うほど軽くはない。けして命を無駄にしないでください」

 ホルビンはそういうと、小さなナイフをとりだして、セリスに持たせた。

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