鬼よさらば-1/4

 ある者によればそれは空の上、宇宙の彼方に存在しているという。また別の者によれば空ではなく、地の底深くの空洞の中にそれがあるという。かと思えばそれは現実の存在ではなく、眠りの壁の向こう側にある夢の世界がそれだという。

 知る者はいるが場所は知られぬ土地があった、剣と魔法の異なる世界。イリシアと呼ばれるこの世界にはパンネイル=フスまたの名を<混迷の都>と呼ばれる大都市がある。そこには人間だけでなく、ドワーフやケンタウロスそれにエルフといった多様な種族が肩を寄せ合いながら暮らしていた。


 この大都市の北にある街道を一台の馬車がのんびりと走っている、この馬車はオクトンという商人のものであり<凍てつくノートラ>にあるエルフの集落で交易を終え都へと買える中途にあった。幌で覆った荷台には北のエルフが織り上げた絹織物を積み込み、三人の男が身を小さくしながら座っている。

 一人はこの馬車の持ち主である商人オクトンで、彼は荷台から御者の背中越しに前方を眺めていた。後の二人は戦士カブリとエルフのブレトが盗賊から荷を守る用心棒として同乗していた。


 カブリもブレトも身の丈は二〇〇に近いために馬車の中ではちっとも身動きが出来ず、揺れの事もあって全身の筋肉が強張り小さな痛みを覚えるほど。これも仕事の一つだとわかって入るが、あまりの狭さに息が詰まりカブリはオクトンに向かってつい声を荒げた。


「おい! 次の宿まであとどのぐらいなんだ!? 早くせんと体が石になって肝心な時に動けなくなってしまう、そうなると困るのはお前なんだからな! せめてどこかで休息させてくれ」


 雇い主に投げかけるには乱暴すぎる言葉だったが、オクトンはどこ吹く風で前を向いたまま振り返る気配すら感じさせない。


「さっき昼の休憩を取った所ですからね、まだまだ先は長いですよ。今日泊まる宿には可愛い娘がいるらしいので、彼女に酌をしてもらうことでも考えて頑張ってください」


 カブリは血の気の多い男で酒も女も好きだった。だからオクトンにこう言われた時は頑張ろう、そう思ったのだがほんの僅かな間の事。彼は男でいるよりも前に戦士であり、体が硬くなって戦うべきときに戦えない危惧のほうがすぐに上回った。

 一度馬車を降りて体を伸ばしたくて仕方が無く、カブリは荷物を挟んで向かいに座る相棒のブレトへ同意を求め始める。


「ブレトよ、お前も何か言ってやってくれ。賊が来ると決まったわけではないが、来ない保証も無いのだ。せめて道端に止めて、俺達の筋肉を解す暇を寄越すよう言ってくれ」

「オクトンさん、間違ってもこの人の言うとおりにしちゃあ駄目ですよ」


 長く付き合っているブレトならば賛同してくれるはず、そう思いこんでいたカブリはまさかの言葉に頬を膨らます。雇い主のオクトンが馬車を止めないのは仕方が無い、けれどブレトが自分に同意してくれないのはどういうことだ。

 食って掛かろうと腰を上げたが、機を制するようにブレトは進行方向を指差した。より正確には空を、どんよりと深く垂れ込めた雲を指差していた。


「山の育ちなら分かるでしょう、この空模様ではいつ雨が降ってもおかしくない。幌があるとはいえ、横殴りの雨が来れば荷が濡れてしまいます。だったら早く今日の宿へ行ってしまう方が良い」


 指摘されカブリも空を見た。雲は灰色というよりも黒も近く、日光を遮っていて真昼間だというのに暗さは夕方と変わりない。湿り気を帯びた風が吹いて肌に纏わりつき、水の臭いが混じっていた。

 雨が近い。これまでの経験上、こういう時に降る雨はすぐに通り過ぎるものであると分かっていた。けれども大粒の雨が横殴りに叩きつけてくる土砂降りになることも多く、今の自分たちが歓迎できるものではない。


 荷台を覆おう幌は雨除けのためにあるもので、織物にも水の気が付いてしまわぬよう木箱に納めてはいるが大いなる自然の前では役に立ってくれるかは怪しいものだ。


「オクトンよ、お前はあの都でも有数の商人だ。さっきの俺の発言は間違いだ、決して止めてはならん。こいつは雨が近い、それも土砂降りだ」

「えぇ、わかりましたよ。妻のためにも良い品を手に入れました、それに力強い戦士と器用な狩人に護衛をしてもらっていますからね。無駄になっちゃあ困ります。さぁそういうわけだから馬に頑張ってもらってくれ」


 オクトンは御者に指示を出し、彼は従い鞭を振るう。四頭の馬は鼻息を荒げて速度を上げていき、荷台の揺れが酷くなった。絹織物の収められた箱同士がぶつかって音を鳴らし、三人の男は慌てて箱を押さえつけた。

 遠い北の地に向かい、何日も商談を続けてようやく手に入れた品々だ。店に着くまでの間に瑕が付いては叶わない。


「ひぃ、早く進めと言ったのは俺だがなんて揺れだ! 馬は好きだが馬車は好かん、胃の辺りが気持ち悪くなってきよった」

「えぇ……全くの同感です、こんなことなら食べる量を減らしておくべきだったと後悔してますよ」


 カブリもブレトも馬の背に乗る事は慣れているのだが、馬車の荷台にいることはどうにも苦手だった。数えるのが面倒なぐらい乗ってはいるが、この揺れに慣れることは無く二人して吐き気に襲われる。


「あっはっはっ、大の男二人が何を情けない」


 対してオクトンは馬車の方が慣れており酷い揺れもなんのその、大男二人が車酔いにあえぐ姿を見て笑う余裕すらあった。カブリもブレトも言い返したい気持ちはあるのだけれど、荷物を押さえるのと吐き気との戦いにそんな余裕は無い。

 このままでは食べたものを出してしまいそうだ、車酔いとの戦いが早期に終結する事を願っていると馬が嘶きを上げると共に一際強く縦に揺れた。一瞬だけ体が浮かび、荷物も浮かんで酷い音がする。


 オクトンだけでなくカブリとブレトの二人も顔を青くした。自分たちの商品ではないが、大事に守ってきた物である。壊れでもしたらたまったものではない。


「貴様ぁ! 何をしてくれるんだ! <凍てつくノートラ>に住むエルフは気難しい事で有名なんだ、私がどれだけ苦労してこれを買い付けたのか知っているだろう!? たかが布一枚であってもお前の給金じゃあ弁償するのが難しいほどの高額なんだぞ!」


 青から赤へと顔色を変化させたオクトンは御者の胸倉を掴むと唾を飛ばしながら罵声を浴びせかけた。御者は恐れから顔を白くさせていたが、主人の怒りによるものではない。彼の震える瞳はオクトンを全く見ておらず、別の所を見ていたのだ。

 御者の視線の先を追う、そこには道の真ん中で両手を目一杯に広げて通せんぼをしている者がいた。上半身は裸で手には何も持っていないが、広い肩幅と隆起した筋肉は支える骨の強さも物語っている。灰褐色の皮膚は鉄のように厚く、閉じた口から四本の牙が伸びており目は四白眼。さらに額からは白い角が生えていた。


 オーガ種族の特徴である、これにはオクトンも震え上がり「ひぃ」と声を出してしまった。


 <混迷の都>には多くの種族が住み、そこで育ったオクトンは異種族を見ても動じる事などないし区別する気も無い。だがオーガだけは話が違う、世界に住む種族の中で彼らは特に乱暴であり自分たちと違う種族と交わることを嫌う。故に人前に現われる事はほとんど無く、姿を表すときは略奪と殺戮のときのみである。

 事実パンネイル=フスは過去にオーガの氏族と長い抗争を繰り広げた歴史を持っており、オーガの恐ろしさは今でも語り継がれているほどだ。


 エルフのブレトもオーガの姿を認めると即座に矢を番える。ブレトの故郷である<クレアイリスの森>もオーガに襲われた事があり、ブレトはそれらと戦った人々からその恐ろしさを聞かされていた。

 オーガは異なる種族を認めず、男女の区別無く殺戮しその肉を食らう恐ろしい種族である。その恐ろしい鬼の一族が目の前にいる、強盗をしに来たに違いない。ブレトは役目を果たすべく弦を引き絞り狙いを定めたのだが、カブリはこれを止めた。


「あれはオーガですよ!? 殺さねばこちらが殺される!」


 カブリが止めるにも関わらずブレトは矢を放とうとするが、手首を握るカブリの手は力強く動かす事ができない。


「なぁに俺に任せておけブレトよ、オクトンもそう怖気づくな。あのオーガは武器を携えてはおらんぞ、あれに戦う意思は無いのだ」

「い、いや……そ、そそそうですけれど? で、でもオーガですよ?」


 オクトンの声は震えている、商人にとって最も恐ろしいものの一つがオーガなのである。彼らに襲われた商人は荷駄だけでなく、文字通り骨までしゃぶりつくされるとされているのだ。

 カブリもこういったオーガの話を知らないはずは無いだろうに、この男は馬車から飛び降りると友人に会ったかのように手を振りながら恐ろしい鬼へ笑いかけながら近づいていった。


「やぁ勇ましい種族の友よ、俺は<峻険なるダンロン>の戦士でカブリという者だ。同じダンロンに住まうガの氏族の戦士ボルボとは冬の嵐と一晩の間協力し戦った事もある。気高い戦士の名を教えてくれまいか?」

「お、おぉ……何と喜ばしい事か。いや、名を名乗るべきだな勇壮なる人よ。俺の名はハザクであり、ナの氏族の戦士である。ガの氏族との交流は無いがダンロン山に住む同族の事は知っている、彼らと友であるならばナの氏族の友であるのと同義だ」


 カブリが名乗るとオーガの戦士ハザクは破顔し、肩の力を抜くと自分からもカブリに近づき名乗り返す。そうして二人は互いの腕を絡ませると高らかに笑い声を上げる、その様は久方ぶりに再開した友人のそれにしか見えなかった。

 オーガと言葉を交わし、通じ合えるなどと夢にも思っていなかったオクトンとブレトは互いに顔を見合わせる。


「あの、カブリさんはどうして怖い怖いオーガとあんなに仲良く出来るんですか?」


 オクトンはブレトに尋ねたが、尋ねられた所でブレトも全く分からない。そもそもカブリがオーガと付き合いを持っていた事すら知らなかったのである。


「カブリさんとは長い付き合いですけれど、オーガの話なんて聞いたことありませんでした。けれどもしかしたら、蛮族同士気が合うのでは?」


 確証なんてものは持てないのだが、それ以外に思いつかなかった。オクトンもこのブレトの答えに納得し「あぁ、なるほど」と言って大きく頷く。

 商人とエルフがそんなやり取りをしている間も、カブリとハザクは互いの肉体を褒めあっていた。それがひとしきり終わった後でハザク顔から笑みを消して本題を切り出す。


「我が強き友のカブリよ、俺は戦士だが戦いに来たのではない。間違っても馬車の荷物を奪おうとも、異なる種族を食らおうとも考えてなどいない。その様な蛮行は今の時代に相応しいものではないと知っているからだ。ところであの馬車、あれは商家の物だと思うのだが主はおられるだろうか? 話したい事があるのだ」

「話したい事か。そうだな」


 カブリは馬車を振り返った。オクトンは彼らの話が聞こえていたが、話に伝え聞く恐ろしいオーガとは話せる気がせずについ馬車の中へと引っ込む素振りを見せる。

 怯える必要など何処にも無いのにとカブリは思ったが、オクトンが及び腰になってしまうのも理解できる。そこでまずは自分が用件を伺う事にした。


「まずは俺に話してくれんか? うちの主人はオーガを怖いものだと教えられてしまっているがために怯んでしまっている。それではまともな話など出来ようはずも無い、それはお前も本意ではないだろうよ」

「うむ、そうだな。怯えられるのは悲しくて仕方が無いが、我らオーガ族が恐れられるのは仕方の無い事だとも分かっている。では仲立ちを頼む、我らオーガ族は自らの作った品物を都で売りたいのだ。しかし俺たちは忌避される種族だ、卸売をしてくれる商人が必要なのだ」


「なるほど。では主人に代わって問うがどのような品を都で売りたいのだ。俺はダンロンの山に生まれ育ちはしたが、今はパンネイル=フスに暮らす都会人でもある。都、特にパンネイル=フスは世界中の品が集まる街だぞ。生半可な代物じゃあとてもではないが売りたがる商人はおらん」

「あぁそうだろう、そうだろうとも。他の種族と交流を持たぬ我々だがそのぐらいの事は知っている。俺たちが売りたいのは武具だ、ガの氏族と交流があったのならオーガの武具がどのようなものかは分かっているはずだ。あれらは都でも売れるものだと思うのだが、どうだ?」

「ほぉ、お前たちの武具か。オーガの作る武具は使った事もあるから力は知っている、確かにそれなら都でも欲しがる奴はいるだろう。ということだオクトン、聞こえているだろう? どうだ、オーガ製の武具を取り扱ってはみんか?」


 カブリの問いにオクトンは馬車から身を乗り出しつつも眉間に皺を寄せる。

 オクトンの中からオーガの恐怖が取り払われたわけではないが、それよりもまたとない機会に巡り合ったのだ。商い人としてこれをものにしない手は無い。だが判断を下そうにも、その材料が無いのである。


「えぇオーガの武器という名前だけで欲しがる者はいるでしょう。けれどハザクさんと仰いましたね、申し訳ないですが今はなんともいえません。まずはあなた達が都で売りたい物、武器を実際に目にしてみない事には返答しかねます」


 至極当然の答えである、ハザクは手ぶらで見本の品を持っていない。だがハザクはここで難しい顔をする。ハザクにそんな気は無いのだが、オクトンはオーガを怒らせてしまったと勘違いして慌てて馬車の中に引っ込むと今もまだ弓を持ったままのブレトの背に隠れてしまった。


「商人殿の言うとおりだ、本当は品を見せねばならない。だが売りたいのは武具だ、それを持っていては怖がられてしまうと考えたので見てのとおり手ぶらだ。もちろん品を見せたいとは思うのだが、そのためには我らナ族の村に来てもらう必要がある。気の乗らない話だとは思うが、来て我らの村まで足を運んで武具を目にしてもらえないだろうか? 精一杯の歓待をするし、どうかご足労をお願いする」


 ハザクは深々と頭を下げた。カブリは答えるわけにはいかないので困り馬車に目を向け判断を仰ぐ、オクトンは恐ろしい人食いとばかり聞かされていたオーガが殊勝な態度を取った事で軽い混乱を来たしてしまい意味の無い言葉を発するばかり。

 これはいかんと、カブリはハザクに断りを入れて馬車の中へと戻る。オクトンの混乱はほんの一時の事で、頭は回復していたが答えを出せずに腕を組んでうんうんと唸っていた。


「なぁオクトン、俺はお前は機を逃がす事のない商人だと買っているのだ。都と比べれば質素なものかもしれんが、歓迎してくれると言っているのだ。奴らの村へ行くのは良い話だと思うぞ」


 カブリの言葉を聞いてもオクトンは考え込んだままで答えを出さない。


「カブリさんとオーガの関係は知りませんが、彼らの村に向かうべきでは無いですよ。罠という事はまずないと思いますけどね、嵌めるつもりならもう襲われていなければおかしいですし。ですけれど今の私たちは北で手に入れた品物を運んでいる最中です、それにもうすぐ雨が降るに違いないのです。商機であるのは間違いが無いでしょう、ですが今そんな暇はありませんよ」


 ブレトの言葉に同意するようにオクトンは頷いた、けれど言葉を発さない。カブリは早く答えを出すよう急かしたくはあったが、彼は雇い主であるし悩む所でもあることは承知していた。とはいえ抑えきれるものではなくしきりに体を揺らしてしまう。


 オクトンはそんなカブリの行動は目に入っていなかった。あのオーガは敵意が無いのは間違いない、それに話し振りに粗野なものがありこそすれど理性の高さは疑うべくも無い。ただそれは彼個人の事であって、オーガ全体では怪しい所である。

 村に行けばそれこそ言葉の通じぬ乱暴者がいるかもしれないし、ハザクも気を変えるかもしれない。安全の事を考えるのならば行かないのに越したことはない、だがオーガの作った物には心を惹かれるものがあった。


「もし、もしもの話ですけれどブレトさんはオーガと戦ったらどうなると思います?」


 唐突なオクトンの質問にブレトはハザクを一瞥する。彼は居住まいを正しながら不安げにこちらの様子を伺っていた。


「弓の腕でエルフを越える種族はいませんよ、殴り合いになれば負けてしまいますけれど。そもそも殴りあいなんてさせませんが」

「えぇ、そうでしょうね。となれば――」


 ここでオクトンは大きく息を吐き出して、肩の力を抜く。答えは決まった。


「おい俺には聞かんのか?」


 聞かずとも分かっていたから尋ねなかっただけなのだが、このダンロンに生まれた戦士は言いたくて仕方が無いらしい。付き合ってやるかと、オクトンは笑う。


「カブリさんはオーガ相手に自信の程は?」

「相手が何であろうとこのカブリが遅れを取るはずはなかろう、一〇は余裕で相手取れる」


 拳で厚い胸板を叩いたカブリを見て、オクトンとブレトは微笑を浮かべた。

 この二人が一緒なら絶対にとは言い切れないがまず安心だろう。オクトンは組んでいた腕を解くと馬車を降りて、カブリとブレトの二人を連れて足を震わせながらもハザクの前に立つ。


「私はパンネイル=フスで商いを営むオクトンといいます。先ほどの非礼を詫びると共に、ぜひともあなた方の村を訪ねさせていただきたい。私もそうですが都の人間の多くはオーガを直に目にしたことすらありません、あなた方の作った物を拝見させていただこうと思います」


 このオクトンの言葉を聞いた途端にハザクは咆えた、とんでもない声量であるため耳を塞いでしまうほどだったが彼の喜びは誰の目にも明らかであった。

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