氷雪よ奔れ-後編

 強い強い風が吹く日だった。

 パンネイル=フスから立ち上る空汚す煤煙は強風に流されていた。風が流したのは煙だけでなく、青を塗るすじ雲もたゆたうわた雲すらも追い払い、青く高い空がどこまでも広がり太陽は輝きの全てで地上を照らす。


 <混迷の都>とその近辺では年に数度も無い快晴であった。湖面は降り注ぐ陽光を受けて輝き、オーグルとカブリの決闘を一目見ようと集まった群集たちの心を沸き躍らせるのに一役買っている。

 オーグルは魔法使いと薬師を供に付け、床几に腰掛けながら溜息を吐いた。衆目が集まっている中で宣言したのは自身であるので、これが自業自得であるとは分かっていながらも集まった人の数に呆れていたのだ。


 ざっと数えただけで三〇はいるようだ、もっといるかもしれない。市民が血生臭い争いを眺めるのを好み、闘技場で剣闘士達の試合観戦が人気の娯楽であることをオーグルは知っている。物見遊山に訪れる人がいるのも仕方がないとわかっていた。

 それでもオーグルは溜息を吐いてしまう。というのも、オーグルは闘技場で行われる決闘のように血を流す戦いをするつもりがないのだ。オーグルの目的はカブリそしてドウジャル老人に、オーグルの剣が<狼の爪>であると認めさせることであって、血を流すのも流させるのも望むところではない。


 オーグルの家に伝わる系図を遡ると、そこには偉大なる男モウランの名がある。英雄モウランの血を引くオーグルは英雄の素質を持っていると自負している。今はまだ至らぬ身ではあるが、いずれモウランと肩を並べる大英雄になると信じて疑わない。

 これはオーグルだけでなく、彼に付き従う魔術師と薬師もそうだった。ここにはいないオーグルの仲間達も、いずれオーグルが大英雄になると確信している。頭領であるオーグルも仲間達が何を想っているか知っていた。されど驕らない。


 英雄を英雄たらしめるのは継がれる血だけではないのだ。英雄には相応の振る舞いが求められる。幾ら武功を立てようと、名声を高めようと英雄には至れない。英雄とは時代を共に生きる多くの名も無き人々に認められることによって成れるものだ。

 だからオーグルは無用な殺生を好まない。英雄とは寛大な人間でなくてはいけない、偉大なる男モウランのように。少なくともオーグルはそう信じていた。


 なのでオーグルの本音としては、カブリに来て欲しくない。そうすれば戦わずに済み、血を流すようなことは万に一つもなくなる。昨日は頭に血が上ってしまったために決闘を受け入れてしまったが、断れば良かったと後悔の念を覚えるほどだった。

 しかしあれほど人の目がある中で申し出を受けなければ、贋物の存在を許してしまうことになる。英雄の子孫として、英雄を目指す者としての誇りにかけて出来なかった。


 今のオーグルがそうであるように、時間が空いたことでカブリも冷静さを取り戻していてくれればと願うばかりだ。オーグルの目から見て、カブリにはあの老人に義理立てする筋合いはない。まともな人間ならば無用な危険は犯さないはずだ。

 太陽は歩みを進め、中天に差し掛かろうとしていた。カブリがやってくる気配はない、時刻は朝と指定したにも関わらずやって来ないならば逃げたと判断して良いだろう。もうこれ以上は待つ必要もないだろうと、オーグルは最後の溜息を吐いて床机から立ち上がった。


「もう待たなくて良いだろう、奴は恐れをなして尻尾を巻いた。そういうことだ」


 カブリは名を汚すことになるがそれで良い。パンネイル=フスに居られなくなるというようなこともないだろう。これで万事は丸く収まった、安心したオーグルは背筋を伸ばし凝り固まった筋肉を解す。

 後は集まった群衆を解散させるだけ。さてなんと言葉を投げかけてやれば良いだろうか、寛大さを示す必要があるが贋物の存在を許すわけにはいかない。澄み渡る空を眺めながらちょうど良い塩梅の言葉を考えていると、仲間の薬師が肩を叩いた。


 視線を下ろした先では群衆がざわめいている、人垣が左右に分かれた。オーグルはらしくすることを忘れ、舌打ちを一つしてしまう。

 そこにはカブリがいた、贋物の剣を佩き革の銅鎧を身に着けている。その後ろには耄碌しているドワーフの老人、まだ若いドワーフ、背の高いエルフがいた。若いドワーフとエルフは助太刀のために呼んだのだろうか、それならそれで良いとオーグルは呼吸を整える。


「すまんな、朝だと約束していたのに遅れてしまった。気合を入れるためだったのだが、昨晩につい飲みすぎてしまって寝坊してしまったのだ。もしや逃げてしまっているのではないかと危惧していたのだが、逃げずにいたようだな。ところでその後ろの二人はどこのどいつだ? 俺はこの戦いが一対一だとばかり思い込んでいたが、もしや助太刀に呼んだのではあるまいな? いや、それを咎める気はないぞ。助太刀大いに結構! ダンロンの戦士はそこらの戦士一〇人束ねたものよりも強い、助けがあってちょうど良いぐらいだろう」


 遅刻したことを認めながらも詫びる気が一切ない。あまつさえ自身の力を鼓舞する始末である。

 野次馬たちは皆オーグルの名と武功を知っているが、カブリのそれを知るものはほぼいない。彼らの目にカブリは互いの力量を量ることの出来ない愚か者に映り、不躾に嘲笑を浴びせかける。


「者共! カブリを笑ってはならぬ! お前達はこの男を馬鹿にしているが考えてみよ、この戦士オーグルに挑もうとする勇気ある者だ! 斯様な勇猛さを持つ者は賞賛されることはあっても、嘲られる様なことがあってはならん!」


 オーグルが群集に向けて一斉を放つと嘲笑の声はピタリと止み、彼らは身を縮こまらせて自分たちの非を恥じた。また一つ英雄的な行いが出来たと、小さな満足を得ているオーグルにカブリは眉間に皺を寄せる。


「こっちを見ろ! 俺はお前に質問をしたのだ、ならば答えるのが道理であろう。その後ろにいる二人はなんだ、お前の助太刀人かと聞いているのだ」


 先祖モウランに関する事で無ければ、何を言われようとも寛大でいようと努めているオーグルではあるがこれには怒りを覚えざるを得ない。

 遅刻したことを詫びず、馬鹿にした群集を黙らせたというのに礼の一つも言おうとしない。あまりにも酷い。数多ものならず者と合間見えたことのあるオーグルだが、このカブリほどの無礼者は見たことがない。彼はそう、蛮族というほかない。


「あんなやつの相手をまともにしてはなりませんよ。英雄オーグルの名が廃れてしまいます。気が乗らないことは承知していますが、あんな非文明的な輩は斬って捨ててしまえばよいのです」


 オーグルの後ろから魔法使いがそっと耳打ちする。彼の言うとおりにしてしまいたいと、一瞬ばかり思ってしまったが首を横に振る。カブリはオーグルに対しこれでもかというほどの非礼を働いてはいるが、斬られてしまわねばならないほどの咎を犯してはいない。

 英雄的な、寛大の振る舞いをするべく大きく息を吸って気持ちを落ち着かせた。


「この二人は助太刀ではない。常日頃から俺の戦いを助けてくれる仲間ではあるが、戦士ではないのだ。魔法使いは<新聖なるマールクリス>の信徒であり、治癒の魔法に長けている。薬師は植物に詳しく、傷に良く効く薬を作ってくれる。俺は己の剣が真の<狼の爪>であることを、お前とその老人に示すために戦うのであってお前達を斬りたいわけではない。しかし剣を交えれば血を流すことになろう。俺はそれを好まない、負ってしまった傷を癒し無用な死を齎さないために治癒治療を得意とする二人を呼んだ。カブリよ安心しろ、戦うのは俺一人だ。

そして俺も問いたいことがある。お前の連れている者は助太刀だろうか? ドワーフの老人が違うことは分かっているが、まだ若いドワーフとエルフの二人のことだ。巨人すら殺めるこのオーグルを相手にするのだ、助太刀が要りようになるのは当然のこと。助太刀人だというのなら認めてやるぞ」


 観衆はわっと歓声を上げて、口々にオーグルへと言葉を投げかけた。それらはどれも言い方は違えど全て応援である、オーグルにとって彼らの声援はまたとない力添えとなる。

 そしてカブリにとってここは敵地に等しい。気の小さな者ならこの場で負けを認め、すごすごと逃げ帰ってしまうのだろう。もっともカブリはそんな男ではない。


 人々が嘲り侮蔑の言葉を投げかけようとも、過酷なダンロン山で鍛え上げられた精神は揺るぐはずもない。それどころかオーグルを倒し、ダンロンに生まれし戦士の強さを知らしめ、ドウジャル老人の剣こそが<狼の爪>であることを示すまたとない好機であるとして戦意をより高めたのだ。


「随分と舐められたものだ。俺はこの戦いが一対一だと考えている、と言ったばかりだ。当然、その俺が助太刀を呼ぶはずがなかろう。この若いドワーフはこの剣を打った老人の孫で名をキンジャルという。祖父の作った剣が関わっているのだからな、孫として顛末が気になるというのはお前ならわかるだろう。

そしてこのエルフは……勝手に付いて来た。名をブレトといってな、普段から俺と共に行動することが多いのだ。この戦いは関係がないから来んで良いといっているのに、気になるからといって憚らんので好きにさせた。邪魔することはない筈だから、放っておいてくれ」


 オーグルは頷いた。「あいわかった」と口に出して返事をしようとしたのだが、出来なかった。というのもカブリの後ろで、エルフのブレトが苦虫を噛み潰したような顔をし、何とも例えようのない視線でカブリを見ていたせいである。

 この二人の親交がどのようなものなのかを理解したオーグルは素早く頭を振り、雑念を取り去った。


「それならば一向に構わん。さてカブリといったな、酒は体から抜け去っているのだろうな? 酔った奴に勝ったところで勝利とは言えん。問題がないのなら始めようじゃないか」

「無論だとも、ダンロンの男は酒にも強いものだ。俺が握るこの剣こそが<狼の爪>であると教えてくれる」


 二人は睨み合ったまま歩みを進め、一足刀の間合いまで近づいた。同時に剣を抜き、構え、切っ先が触れ合う。大気は張り詰め、観衆は一歩下がり押し黙る。吹いていた風も止まっていた。

 カブリもオーグルも瞬きひとつせず、睨み合ったまま動かない。二人は互いに相手の力量を下に見ていたことを実感しあっていた。カブリは世界の広さを教えられ、オーグルはこれほどの戦士がなぜ名を知られていないのかを疑問に感じる。


 隙を見つけられない二人の勝負は根競べに変わっていた。ほんの僅か、構えを崩したほうが打ち込まれることになる。剣士たちの額に汗が浮かび始めていた。

 観衆は彼らが睨み合っている理由がわからず、ざわついた。どうして二人は動かないのだろうか、カブリは怯えてしまっているんじゃないだろうか、オーグルはわざと打ち込まず加減してやっているんじゃないだろうか。


 好きなことを口々に言い合う彼らの言葉は小さなものだが、限界まで神経を働かせている二人には観衆の言葉が耳の傍で話されているように聞こえていた。

 そのまま一刻の時が流れる。やはり二人は動かずに、構えを崩さない。


 止んでいた風が動いた、そよ風だった。柔かなこの風に運ばれて、どこからともなく一枚の木の葉が舞い踊り二人の間を横切った。その瞬間、カブリの視界からはオーグルが、オーグルの視界からはカブリが消える。

 次の瞬間にはもう、真作と贋作。<狼の爪>が激突していた。甲高い音が響き、火花が散る。そこからはもう止まらない、素人には見えぬ速さで剣が振るわれ、その度に鋼がぶつかり合う。


 オーグルが狙っているのはカブリでは無く、その手にある剣だった。贋物だと分からせてやるにはカブリを斬るよりも、剣を叩き折ってやるほうが効果的。如何な名剣といえど魔剣<狼の爪>の一撃を長く受け続けられるわけがないのだ。

 一〇度ぶつかりあった時、カブリもオーグルの考えに気づく。少し知恵のあるものなら受け止めるのを止めたのかもしれない、けれどカブリにとってそのような行いは小細工に過ぎない。


 オーグル同様、カブリもまた己の剣こそが<狼の爪>だと証明すべく剣を振るっている。ならばこれは好都合だと、自分から剣で受け止め、また剣を狙う。

 さらに一〇度、剣が戦ったところでオーグルは焦りを覚えた。贋作だというのに、カブリの剣に刃こぼれが見られない。歪んだ様子もない。<狼の爪>に絶対の信頼を置くオーグルにとってこれは有り得ざることである。


 ドワーフの名剣であろうと魔剣に適うはずが無いと信じていた。もし刃こぼれしないというのであれば、それは名剣ではない。魔剣の類でしか有り得ない。まさかドワーフが魔剣を作ったのだろうか、だとするとこれは、もしかすると。

 湧きあがった邪念は剣を鈍らせ、贋作の切っ先が手の甲を切った。ほんの薄皮一枚だが手が赤く染まる、これは良くない。手に血がついては剣が握れない、押し負けてしまうのではと恐怖を感じたが、カブリは後ろに跳び下がった。


「血を止めて包帯を巻けオーグル! この戦いは命を賭けたものではなく、剣の戦いだ。そんな手で剣を握っても剣の力はだせんだろう。お前の連れならその程度の血、あっという間もなく止められるはずだ。違うか?」


 オーグルは目を見張った。カブリの言う通りなのであるが、このような申し出をされるとは露ほども想像できなかった。一切の情けも容赦もなく攻め立てられると感じていたのだ。オーグルはダンロンに生まれたこの戦士に偏見を抱いていたことを認め、内心で恥じると共に決意した。


「そうだ、その通りだカブリよ。俺たちの戦いは腕を競うものではない、よって普通に剣を振るうのはこれで終いだ」


 オーグルは床机に腰掛け治癒の魔法と薬効で血を止めてもらいながらカブリに話しかける。


「お前も知っての通り<狼の爪>は氷雪を奔らせる力を持つ。ならば剣の魔力をぶつけあう、というのがこの勝負に相応しいものだろう。どうだ、異論はあるか?」


 カブリに異論はなく即答するために口を開きかけたが逡巡するものがあった。<狼の爪>は振るえば冷気を起こす剣で、オーグルの剣がこの力を持っているのは目の当たりにしている。

 しかしカブリが今、手にしている剣はどうだろうか。カブリは魔力を見ていない。あれほど激しく打ち付けあったにも関わらず、この剣には傷一つなく名剣であることは確かだ。だが魔剣の証にはならない。


 ドウジャル老人は耄碌しているといえ、この剣を頑なに<狼の爪>だと言い張っている。きっとその力は持っている筈だとカブリは信じているが、その振るい方を知らない。

 魔法使いたちが魔力と呼ぶ、目には見えないその力を込めれば良いのだろうが魔道の心得がないカブリはその術を知らない。彼らが魔力と呼ぶその力を知覚したことも無かった。不安はある、だが恐れは無い。


「無い! <狼の爪>であるなら氷雪を奔らせるは当然のこと、俺が手にするこの剣が<狼の爪>だという証を見せてやる。とくと御覧じるが良い」


 内にある不安を払うべく声を張り上げるカブリを見て、オーグルは勝利への活路を見出した。敗北へと傾いていた流れの向きが変わっている。

 この見出した小さな路を広げ、勝利の輝きを掴むべく巨人殺しのオーグルは意気揚々と立ち上がると勝負の場へと再度踏み出した。オーグルとカブリの間の距離は遠く、五歩分の間合いがある。


「吼えるは良いが傷が深くなるぞ。先日見せたものは片鱗に過ぎぬ、氷雪を奔らせるとはどのような事なのか。貴様だけでなくドワーフのご老人にも見せ付けてくれよう、我が剣が真であるということを!」


 大上段に構えたオーグルは腹を大きく動かして呼吸を整えた。彼が<狼の爪>の力を発露させようとしているのは明らかで、目には見えないがオーグルの体から立ち上る何かの力が剣へと集まっていくのをこの場にいる誰しもが感じていた。

 カブリはそれを真似る。魔法の力を発現させる方法をダンロン生まれの男は知らない、なので眼前にいるオーグルを模倣することにしたのだ。しかし術理を知らない、上辺を真似たところでオーグルのような力の流れを生み出すことはできない。


 カブリの中で、不安と恐れが鎌首をもたげ始めた。内にある弱さが囁いてくるが、カブリは耳を傾けない。大上段に構えながら剣へと意識を集中し続ける。


「奔れよ氷雪、我が難敵を凍てつかせよ!」


 オーグルが吼え、剣を振るう。対するカブリもまた剣を振るった、ただ振っただけだった。剣が空を裂いただけだった。

 刃を煌かせながら振り下ろされた<狼の爪>は突風を巻き起こす。それは見る前に冷気を纏い<凍てつくノートラ>の地を吹く風よりも冷たく、雪と氷を伴いながらカブリの巨体を襲った。嵐の中でも歩けるカブリだが、氷雪を纏う風の強さには剣を支えに立つのがやっとである。


 足元には霜が生え、それはカブリの脚を、下半身を覆っていく。体を流れる血潮は熱を奪われ、流れが鈍くなってゆく。痺れがあったのは束の間のこと、白く凍らされた脚の感覚は消失し腰の辺りに酷い痛みがあった。

 冷えた血はカブリから体温を奪い顔を青ざめさせ唇を紫へと変色させる。血の巡りが悪くなったがために、思考は胡乱なものになり映る光景は靄がかかる。聞こえてくる音は篭もったものだった。


「雌雄は決した! 我が剣こそが真なるもの、モウランが振るいし<狼の爪>である!」


 オーグルが勝利を宣言し高らかに剣を掲げた。群集が歓声を上げ、オーグルを称え、カブリをそしてドウジャル老人を貶めた。これらの声はカブリの耳には銅鑼の音のようにしか感じられなかった。


「黙れものども! あの剣は贋作であったが紛うこと無き名剣であり、それを打った老人は稀代の名工! そして剣を振るったカブリは、この巨人殺しのオーグルに傷をつけた猛者! 彼らは負けた! しかし、健闘を称えられる事はあっても罵倒される由は無し!」


 このオーグルの言葉で観衆は押し黙った。そしてこれはオーグルの、紛う事なき本音でもある。彼は心の底からドウジャル老人に畏敬の念を抱くようになっていたし、カブリの剣技に驚嘆していた。

 謝罪しなければ為らない、そして彼らを称えて歓待しようと決意しながらオーグルは仲間にカブリの治療を命じた。この声は、カブリの耳にも聞こえていた。まだカブリは負けを認めていないのだ。


「何を勝った気でいるのだオーグルよ……俺の剣は、まだ氷雪を奔らせてはおらぬぞ。それを見ずして、勝利を吼えるな。気が早すぎるぞ」


 カブリの声は小さく息も絶え絶え、脚を凍らされ体を震わせる姿は戦えそうには見えない。それでも負けを認められなかった、己のためではない。ドウジャル老人のために、負けを認められなかった。

 握る剣が贋作だと理解している、憧憬するモウランが振るいし<狼の爪>ではないと知っている。これは誰にも覆せぬ真実だと知っている、だが認めない。認められない。


 ドウジャル老人が、<狼の爪>として己の全てを賭して鍛えた剣だ。ならばこれは<狼の爪>なのだ、<狼の爪>にしなければならないのだ。そしてその力は剣が持っているはずなのだ。

 カブリは体の支えにしていた剣を振り上げる。無理に動いたがために、凍った脚が音を立てて皹が入った。


「良かろう……だが一度だけだ、その一度で我が剣を超える氷雪を奔らせてみよ。それが出来なければ、その剣は贋作だということ。潔く負けを認めるのだな」


 オーグルは少し考え、勝負を続けることにした。もう自身の勝利は揺るがぬものとなっている、カブリが何度剣を振るったところで魔力を発揮することはないと確信している。

 だったらと、彼が納得するために付き合ってやることにし、剣を構え直す。


「この剣を握ったのはこれが初めてでな、使い方がわからんかったのだ。だが今わかった、真なる<狼の爪>が奔らせる氷雪を御見せするとしようではないか」


 白い息を吐きながら大上段へと構えなおしはしたが、カブリはそこから動かない、動けない。

 啖呵を切りはしたが氷雪を奔らせる術が分からない。剣にはその力があると信じている、力の使い方、発露のさせ方さえわかれば出来るはずなのだ。気付きを得るまで剣を振るい続けたくはあるが、一度振るうが限界である。


 体を凍てつかせた冷気はじわりじわりと、命すらも凍らせようとカブリの熱を奪っていた。


「剣を信じろ、剣に任せろ。それだけだ」


 ドウジャル老人の声が聞こえ、軋む首を動かした。白痴と化していたはずのドウジャル老人の目には輝きがあった、口から涎が垂れてもいない、曲がっていた背筋も伸びている。

 どういうことだと瞬きをすると、ドウジャル老人は白痴へと戻っていた。今見たのは幻覚だったのか、いや違うとカブリは断じた。


「あぁそうだ……氷雪を奔らせるのは俺ではない、お前だ。真の<狼の爪>として打たれたのならば、やって見せろ。お前の父に、お前の子に、その雄姿を……」


 剣に語りかけ、振り下ろす。限界に近い体は振るった剣を止められず、切っ先が地面の石を打って高い音を鳴らした。誰もが終わりだと、カブリは完膚なきまでに敗北を喫したのだと、そのように感じた。

 しかし剣が振り下ろされた一拍の後、強烈な風が吹く。それは雪の結晶と輝く氷晶を引き連れた暴風。


 地面に生える草を凍らせ砕き、新たな氷晶へと変えながら一直線にオーグルへと向かう。信じられぬと驚愕に身を竦ませそうになるオーグルだったが、彼は一流の戦士。意思とは関係なく凍てつく暴風から身を守ろうと、剣を盾にする。

 嵐が過ぎ去ったのは一瞬のこと。風の強さに目を瞑ってしまっていたオーグルはおそるおそる瞼を開けた。彼の体はなんともなかった、霜は微塵もついておらず指の先まで温かなまま。だが盾にした剣は違っていた。


 鋼の煌きが消え、白く凍り付いている。唖然としたのはオーグルだけでなく、観衆たちもだった。オーグルとその仲間も何が起きたのか理解できていなかった。

 剣が凍らされたと気づいたとき、オーグルの剣に亀裂が入り砕け散る。後に残ったのは柄だけ。モウランが振るい、数多の戦士が振るい続けて幾百年。数え切れぬほど戦いながらも、刃こぼれ一つ起こさなかった魔剣は役割を終えた。


 驚き、怒り、悲しみ、寂しさ、申し訳なさ、あらゆる感情がオーグルの中に溢れかえる。名状しがたいその奔流にオーグルの心は耐え切れず、気を失い倒れた。

 観衆たちは真の<狼の爪>が砕かれただけでなく、オーグルが倒れるという有り得ざる光景に呆然とするしかなく誰も言葉を発しない。


 ゆるりと顔を上げたカブリは凱歌を上げる余裕はなかったが、ドウジャル老人に勝利を告げるためまだ凍っている体を引きずりながら仲間の下へと戻った。

 ブレトはそんなカブリをちらと見ただけで、迎えの言葉一つ口にしない。祖父の剣が真を打ち破ったというのにキンジャルも口を噤んだままだった。ドウジャル老人は目を瞑った状態で仰向けに横たわり、胸の上で両手を組んでいる。その表情は安らかで心地よい安寧の夢を見ているようだった。


「オーグルの剣が砕けた時に――」

 喋りかけたブレトをカブリが止める。

「言わんで良い、わかっておるわ」


 カブリは偉大な名工ドウジャルを見下ろしつつ、剣を頭上に掲げ切っ先を天に向ける。


「ドウジャルよ! この剣こそが<狼の爪>! モウランの剣を超えた、新なる<狼の爪>である!」


 止んでいた風が吹き始める、柔らかく温かな命を運ぶ風はカブリの体を温めドウジャルの魂を天上へと連れて行った。

 こうして<鉄産みのラリバル>に住まうドウジャルが鍛えた剣は<狼の爪>となり、カブリによって振るわれ新たな逸話を生むこととなった。そしてカブリが去った後も、後の英傑に受け継がれ歴史を拓くのだがそれはこの場で語るべきではない。

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