氷雪よ奔れ-前編

 星の海を渡った先にあるのか、次元の壁を隔てた向こうにあるものか。はたまた誰かが見た泡沫の夢なのか、書物に記された物語の中にあるものか。あるいは地の底奥深く、もしくは空に漂う雲の上。

 探せど決して見つからぬ、けれども確かにある世界。振るわれた剣が輝いて、魔法の呪文が謳われる。その世界の名はイリシア。大いなる脅威と怪異が息づく地の中心にはパンネイル=フス、<混迷の都>とも呼ばれる巨大な都市があった。


 煤煙により空を隠されたこの都の中心を南北に貫く<王の大路>には常に多くの人々が行き交っている。白人に黒人、海を渡ってきた黄色人種だけではない。森に住み自然と暮らすエルフや、鉄を愛すドワーフ、人と馬が合わさったケンタウルスといった亜人種も多い。

 職業も様々である。この目抜き通りは商店街でもあるため、最も多いのは商人だが馬車に乗った貴族や地方豪族の姿も珍しくはなく、近隣の農村からは税を納めに来た農民の姿もある。


 遠い異国から訪ねている者もおり、通りは様々な色に彩られていた。そんな場所であるから、特徴があろうと目立つことは難しいのであるが、そんな<王の大路>でありながら人目を引く姿がある。

 それはドワーフの老人だった。彼は典型的なドワーフが持つ特徴として、背は低く一三〇ほど。長く伸び、年を重ねて白くなった頭髪と髭は地に着きそうな程で顔を覆い隠していた。


 これらの特徴は老いたドワーフなら珍しくもないものであり、人目を引くようなものではない。彼が衆目を集めているのは身体的な特徴ではなく、持っている物にある。

 ドワーフの老人は自身の背丈と大して変わらぬ長剣を布に巻き、後生大事に抱えていたのだ。彼は剣を抱えたまま<王の大路>の端から端まで、ずうっと歩き続けていた。誰にも話しかけることはないし、通りの真ん中を人を避け様ともせず歩く姿に異様さを覚えた人々が話しかけることもない。


 奇人変人の類が珍しくないパンネイル=フスといえど、これはまた変な奴がやって来たと、老ドワーフは人々の噂となっていた。彼が通りを歩いていると誰もが一度は視線を送る、それだけだ。

 しかし、そうでない者もいた。老ドワーフの後ろを距離を開けて歩く姿がある。二〇〇に近い背丈を持ち、長躯に相応しい隆々とした肉体を供えた男の名はカブリ。都の南西にある<峻険なるダンロン山>から、偉大なる男を夢見てやって来た男だ。


 いつもは宝物を求め旅に出ているか、貴族や商人の用心棒あるいは盗賊の真似事で暮らしているならず者の一人だった。カブリは老ドワーフが現れてからというもの、日々している仕事や冒険をほっぽり出して彼の後を付いて回っていたのだ。

 そんなカブリを見つけた娼婦の一人が近づき、科を作ると香水の香りを漂わせ官能に訴えかける。カブリは目もくれない。普段の彼であるなら娼婦の腕を掴んで寝床に連れ込むのだが、欲を満たすよりも老ドワーフの後を追う方が大事だった。


 一瞥もされないことに誇りを傷つけられた娼婦は腹いせにカブリの爪先をこれでもかと強く踏みつけた。女の小さな足といえど、踏まれたのは指の先だ。痛みに体をほんの少しだけ震わせはしたが、やはり娼婦に目を向けない。

 娼婦はカブリの男性を罵倒すると肩を怒らせながら去っていく。そんな彼女を背中を視界の端に入れはしたが、焦点は合わせない。カブリが見ているのは老ドワーフの背中、もっと正確に言えば彼が大事に大事に抱えている長剣だった。


 老ドワーフの歩幅に合わせ、一定の距離を保ちながらカブリは大きな溜息を吐いた。ある目的があって老ドワーフの後をつけているのだ。目的のためには話しかける必要があるのだが、最初の一声を掛けることが出来ずにもう数日が経過している。

 カブリは人付き合いが苦手というわけではないし、亜人種が嫌いというわけでもない。望みのためには礼儀が必要なのだが、カブリは高山に生まれ育った蛮族である。都で暮らすようになってから都会人を称してはいるが、都の礼儀に無知でその自覚も持っていた。


 礼を欠いてはならないと思うあまりに、声をかけられないのであった。


「あなたさっきから何をしてるんですか? はっきり言って不気味ですし怖気が走りますよ」


 悩みながら歩いているカブリの肩を掴み、歯に衣着せない物言いをするものがある。

 カブリに劣らぬほどの背を持つエルフの青年で、名をブレトという。カブリとは多くの冒険や仕事を共にし、口では否定しているが事実上の相棒であると同時に、種族を越えた友である。


 魅力的な娼婦の誘いは無視したカブリだが、失礼な物言いをされても許せる相手に声をかけられたとあれば歩みを止める。


「あの御老人の後を追いかけておるのだ、これは俺にとっては大事なことだ。ブレトと言えど邪魔をされたくないことだ、お前だって仕事があるだろう。俺なんぞに構っている場合ではあるまい」


 こう言ってカブリは止めた歩みを再開しようとしたが、ブレトは肩をより強く掴んでそれを許さない。


「いやいや何を言ってるんですか、あなたのことだ。用事があるのはドワーフの老人ではなく、彼が持っている剣でしょうよ。似合わない溜息を吐いている所も見かけましたよ、誰かに頼まれているわけでは無いでしょうし話してくださいよ」


 道の真ん中で立ち止まったままカブリは悩んだ。そうしている間にも、老ドワーフは歩き続け人波に紛れて姿が見えなくなってしまう。カブリは僅かな焦りを覚えたが、彼がまたこちらに向けて歩いてくることを知っていた。


「そうだとも、お前の言うとおり俺が本当に用事があるのはあの老人ではない。老人が持つ剣の方だ、しかしそれを話すにこの場は良くない。少し歩きながら話そうではないか」


 今までずっと老ドワーフの背中ばかりを見ていたカブリだったが、ここに来て急に周囲の目を気にしだした。カブリが人目を気にするのは珍しいことで、ブレトはそれが気にかかる。

 ただここは都で最も人通りが多い道であり、立ち話には最も不適な場所だった。ブレトはカブリの様子を不思議がりながらも、彼の後に付いて行く。


 目抜き通りから路地に入り、数ブロック歩いてまた別の路地に入る。カブリの歩みから目的地があるようには感じられない。そうして路地を抜けて行った二人が着いた先は<血肉の路>である。

 物騒な名前で呼ばれている通りだが、血生臭い事件に溢れている訳ではない。名に相応しく、血の臭いが漂う場所ではあるがその理由は肉屋が密集しているからだ。パンネイル=フスの肉屋は家畜を生きたまま仕入れ、それを店先で屠殺する。そのために街路は血で赤黒く汚れていた。


 そしてこの<血肉の路>に入ったところでカブリの足取りは遅くなった。


「この辺なら良いだろう。ここならば人が多すぎるということはないし、かといって少ないわけでもない。俺達が何を話そうと聞き耳を立てるものはおらんだろう」

「人の耳に入れたくない話があるというわけですか、だったらもうちょっと場所を考えませんか。私、ここを歩いていると腹が減るんですよ」


 話が始まろうというのにブレトは店先に吊るされている肉を見ていた。それは新鮮な鹿の肉で、豚や鳥が多く食されるこの都では珍しいもの。森で生まれ狩人として暮らしていたブレトにとっては、懐かしい故郷の味でもある。


「腹が減るのは俺も同じだ。強靭なる体を作り保つには肉が必要だからな。いや、そういう話ではないのだブレトよ。お前はどうして俺が老ドワーフが抱える剣に惹かれているのか知りたいのだろう?」

「えぇそうですね。カブリさんが剣に心を惹かれやすい人であることは知ってます。そして欲しい物があれば力ずくで分捕ることだって厭わない人だということもね」


 生まれ育った森の光景を鹿肉の向こうに見ながらブレトは答える。


「随分な言われ様だとは思うが否定はすまい、寛容であるのも都会人の持つ要素だからな。さておきだ、エルフが木工を得意とするようにドワーフが鍛冶を得意とするところであるのは知っているはずだ。彼らドワーフの鍛えた剣はどれも超一級の大業物で、俺が生まれたダンロンではドワーフ製の剣を持っているだけで一目を置かれたものだ」


「つまりあなたは、そのドワーフが鍛え上げた大業物を手に入れたいというわけですか?」

「いいや、断じて違う」


 カブリは大きく首を横に振った。この答えはブレトも想像していたものである。

 ドワーフの鍛えた鋼は強靭でそして珍しく、戦士ならば誰もが求めて止まないものだ。手に入れるには苦労するが、世界の中心であるこの都にはあらゆる物品が集まってくる。ドワーフの剣だってやってくるし、ドワーフが営んでいる鍛冶屋もあった。


 鉄を愛す小さな亜人の剣が欲しいだけなら、痴れ者の老人が持っているものに拘る必要はない。


「ここはパンネイル=フスだ、金さえ積めばドワーフの剣なぞ幾らでも手に入るだろう。金みたいなものは何とでもなる、俺があの老人の剣を気にするのはな――」


 ここでカブリはまたも周囲を気にしはじめ、耳を欹てる者がいない事を確かめてから小声で言った。


「小耳に挟んだだけで証拠も何もないのだが、あの剣が<狼の爪>だという話を聞いたのだ」

「あれが<狼の爪>だというのですか?」


 その名前を聞いたブレトは目を輝かす。ブレトが得意とするのは弓であって、剣の心得は皆無だ。そんな彼でも<狼の爪>には惹かれる物があり、どうしてカブリが老ドワーフに執心するのか合点がいった。

 パンネイル=フスで語られる英雄譚の一つに、偉大なる男モウランの伝説があった。この古の英雄モウランが使っていた剣こそ、氷雪を奔らせる魔剣<狼の爪>である。


 ダンロンに生まれ育ったカブリは英雄モウランに対し、並々ならぬ憧れを抱いている。そのモウランが使っていた剣が今なお現存し、見えるところにあるとなればそれはいてもたってもいられなくなるのは当然で、力で奪わないのにも納得がいく。


「うむそうだ、俺が夢見る偉大なる男の剣だ。我が物にしたくない、と言えば嘘になる。この手にして振るってみたいものだが、大英雄の剣であるから人を選ぶに違いない。もしかしたら俺は剣に選ばれぬかもしれぬ。しかしそれでもだ、一目で良いから<狼の爪>が持つ輝きを目にしたい」


「なるほどよく分かりましたよ。それなら交渉すれば良いのでは? 私が見たところ、あのドワーフの老人は耄碌しているように見えましたが、それでも目的があるからこそ大路の真ん中を歩いているんじゃないでしょうかね。そう、例えば剣を持つに相応しい人間を探しているとか、ね?」

「俺は数日に渡り老ドワーフを観察していたがお前の言う通りであろう」


「では声をかけてみるしかないのでは? ご老人が何を代価に求めてくるかは読めませんが、話をしてみないことには始まりませんよ」

「うむ、そうだ……そうなのだがな」


 カブリは歩みを止め、言葉は歯切れが悪い。普段の彼であるなら、早速そうしよう、と言うや否や老人の下に向かっていくはずである。


「一体どうしました? 早くしたほうが良いのではないのですか、あの剣が<狼の爪>だという話は多くの人が知る所になっているでしょう。英雄の剣とあれば武人だけでなく、貴族や好事家の商人も求めるでしょう。加え、相手は呆けた老人です。強引な手段に出ることを厭わない連中だっているはず、急いだほうが良いのではないですか」


「お前の言うことは最もだが、俺はあの剣が<狼の爪>だという確証を持っておらんのだ。加え相手は痴呆の気が見て取れる、ニグラほどではないだろうが厄介事になるかもしれん。そんなことを考えると踏ん切りが付かず、誰か代わりに声をかけてくれんだろうかと期待しながら見ていたのだがそのような者が現れる気配がない」

「そりゃそうでしょうよ」


 体躯に似合わぬ困り顔を浮かべたカブリにブレトは笑いを堪えられない。

 老ドワーフに誰も話しかけないのは当然のことだ。あらゆる種族が集うパンネイル=フスといえど、カブリほどの大男はそうそういないのである。そんな大男が後を尾けている老人に声を掛けられる者がいるとしたら、それは勇者だ。


 一頻り笑って満足したブレトは不服を浮かべるカブリに指摘してやった。彼はそういった事は考えていなかったらしく、驚いてみせた後で眼を爛々と輝かせ始めた。


「ということは俺に恐れを成して誰も呼び止められなかったということか。うむ、俺は強い男で俺より強い男は滅多におらんことを知っている。しかし上には上がいることも知っている、俺は親父殿に勝つことはついぞ出来なかったし、親父殿以外にも勝てなかった戦士がいた。よって俺が畏れられる等ということは有り得ぬことだと思っておった。お前は気安く俺に声をかけるし<銀夢亭>で良く顔を合わせるアセロだってそうだ。しかしそうか、そのようなことも有り得るのだな」


「えぇそうです。私はあなたほどではないですが、背の丈は近いですしアセロも鍛冶師ですからね。職業柄、逞しい戦士との付き合いには慣れています。ですがほとんどの人はそうではないんですからね」

「うむ、そうか。そうなのだな。ではこれは火急の事態である、俺がいたせいで誰もいかなかったというのであれば今は違う。俺は今、老人の後を追いかけてはいない。よし! 行くぞブレト、競争相手が現れるよりも前に行かねばならぬ!」


 さっきまでの悩ましい態度を空の彼方へと投げ飛ばし、カブリは行き交う人々を吹き飛ばしかねない勢いで走り出す。

 丸太のような足から生み出される速力は旋風の如く、脚力には自信のあるブレトですら追いついていくのがやっとのこと。さらにカブリが弾き飛ばしそうになった人々に対し謝りながらなものだから気づけば背中を見失っていた。


 それならそれでとブレトは走るのを止めた。彼の目的地は分かっているのだし、老人相手に面倒を起こすことは無いと知っていた。カブリという男は都の礼儀作法に疎い、だが曲がったことは嫌いな人間である。大きな問題が起きることはない。

 という考えが間違いであったことをブレトは思い知らされた。


 鼻歌交じりに<王の大路>へと出てみれば、往来のど真ん中に人だかりが出来ている。街路には老ドワーフが倒れており、倒れている彼を挟んでカブリと彼に負けず劣らずの体躯を持った青年が向かい合っていた。


「おい貴様、どこの馬の骨かは知らんがもう一遍言ってみるがよい!」

「何度でも言ってやろう、その剣はモウランが使いし<狼の爪>ではない。お前はモウランの伝説を知らんのか? 彼の英雄譚にはモウランが使っていたのは片手持ちの小剣であると伝わっているだろうが。そもそもモウランという男は背が高くないという、その男が長剣を使うはずもない。呆けた老人とはいえ、出来の悪いなまくらを伝説の<狼の爪>だと言い張るのは止めて頂こうか」


 カブリは顔を赤く歯を剥き出しにして今にも飛び掛りそうだ。腰の剣に手を掛けていないのは驚くべきことだが、彼なりに場所を弁えているのかもしれない。


「だからと言ってこの御老人を突き飛ばして良い理由になるはずがない! この手を見よ!」


 カブリは膝を折り曲げると横たわる老人を抱き起こし、服の袖を捲り上げる。老ドワーフの手は骨と皮ばかりになっていたが、指の骨は太く皮は分厚く乾燥した樹皮のようだった。


「これは鍛冶師の手だ、一生を鉄に捧げた男の手だ。肉は削げてしまったようだが、この太い骨は強靭な鋼を打つためのもの、硬く分厚い皮膚は熱い炉にさらされ続けたものだ。俺はこの御老人のことは知らん、名前も知らん。けれども手を見れば分かるのだ、彼は良い鋼を作り続けた男だ。呆けていようが敬意を表されるべき先達である、それを貴様はあろうことか突き飛ばした! 俺はそれが許せん!」


 男はカブリと老ドワーフを見下ろし、睨み付ける。ぎしり、と歯を軋ませると共に彼は自身の剣を手に掴んだ。切り掛かられると感じたカブリは、自分の身よりも老人を守らなければと体を盾にし男に背を向けた。

 しかし、覚悟していた熱く鋭い痛みはやって来なかった。体を盾にしながらカブリが振り返ってみれば、男は剣を高々と掲げている。煤煙越しにとはいえ光を浴びて剣は純白に輝き、刀身には靄がかり冷気を纏っているかのようだった。


 カブリ、そしてブレトだけではない。この騒動の顛末を見届けようとする群集全ての視線が、男の掲げる剣へと集まっていた。鍛え上げられているだけではない、魔の持つ輝きが男の剣にはあった。


「知らぬようだから名乗ってやる。我が名はオーグル、偉大なる男であり大英雄モウランの血を引くものだ。そしてこの剣こそが我が血族に伝わる<狼の爪>である。見るがよいこの輝きを、ただの剣でないことは誰の目にも明らかだ。今ならば謝罪してやる、呆け老人を庇う貴様! 名乗れ! 地に頭をつけろ!」

「俺の名はカブリだ。この都より南、<峻険なるダンロン山>に住まいし一族の戦士である! だが俺は謝らん、認めもせん! 貴様のような敬意を知らぬ男がモウランの子であるなどと! そのような男の手が<狼の爪>を握ることはないと!」


 一触即発。この場の空気を表すのにこれ以上に相応しい言葉はない。カブリあるいは老ドワーフが、指の一本でも動かせばオーグルは剣を振り下ろすだろう。

 ブレトの視力はカブリの額に浮き出る汗を捉えていた。ブレトはまだ未熟な点があるものの、カブリが強力な戦士であることを知っている。その戦士が、オーグルに気圧されてしまっているのだ。


 そしてオーグルの名はカブリもそしてブレトも知っている名前だった。つい一月程前から、北に住まいし人食い巨人を単騎で倒した武人オーグルの名前が、彼らが屯する<銀夢亭>でも語られていたのだ。

 誰も言葉を発しない、誰も身動きひとつ取れない。この膠着を破ったのは、カブリに守られている老人だった。


「それは、<狼の爪>ではない」


 小さな声だったが誰も言葉を発さぬこの場にはよく響き、震える老人の指がオーグルの剣を指差した。

 プツリと何かが切れる音がした。オーグルの額には太い血管の筋が浮かび、怒り心頭に発しているのは明らかである。


 それほどの激情に駆られながらも、掲げた刃を振り下ろさないのは自制心が強いことの証左であろう。


「お前は……モウランじゃあない」


 老人はさらに続けた。これにはオーグルも堪え切れないようで、怒りを押さえ込むあまりに彼の歯はギシギシと音を鳴らしていたし、剣を握る腕は震えている。

 そうなりながらも斬りかからなかったのは、オーグルの理性が強靭なだけでなくカブリが老人を嗜めたのも理由のひとつだろう。


「御老人よ。突き飛ばされ地に這わされたのだ、怒りは尤もなものだがそれは言い過ぎというものだぞ。あやつは先達に敬意を払わんやつだが、激情に駆られながらも剣を振り下ろさないでいる。それは奴の精神が強固であるからだ、その一点だけでも立派といえる」

「いいや……あの男はモウランではない、<狼の爪>ではない」


 老人は譲らない。これにはオーグルも我慢ができず、腕を振るったがその刃が肉を裂くことはなかった。落ち着かせるために大きな大きな息を吐き出し、オーグルは剣を鞘に収める。


「謝らんというなら良いだろう。この俺はモウランの子であるがモウラン自身ではないし、先祖のような偉大さは未だ持ち合わせていない。腹立たしさのあまりに老いた者に狼藉を働いた事実もある。しかし、しかしだ。<狼の爪>の贋作なぞ俺は許さない、それが真作だというのであれば刃を見せてみよ」


 老人は頷くと布を取り払い長剣の柄を握ったが、手が震えてしまい引き抜けそうにない。カブリは見かねて断りを入れると、老人の代わりに剣を抜き放ち群集にも見えるよう頭上に掲げた。

 刃に一点の曇りもなく鏡と見紛うほどに磨き上げられた刀身は周囲の景色を映し出す。知識のないものでもこれが特上の鋼を用いたもので、一流の鍛冶師により打たれた大業物であると一目で分かるほどだ。


 しかしそれ以上のものはない。オーグルの片手剣が持つ妖しい輝きをこの長剣は持っていなかった。老人の剣は優れたものではあるが、そこまでだ。魔剣には至らない。


「立派な剣だ、それを打った鍛冶は見事な職人であると見た。世界で五指に入るだろう腕を持っているのだろうな、しかしそこまでだ。どこまでいってもそれはただの剣でしかなく、<狼の爪>を目指した贋作。名剣に成り得ても魔剣になることはない。真の魔剣というのはこのようなものである」


 オーグルは再び剣を抜き放つと、石畳の上に易々と突き立てた。するとどうしたことか、剣を覆っていた靄が路面の上へと広がると霜が降りた。剣から放たれた冷気が石畳を白く凍らせたのである。

 今まで言葉を失っていた群集たちだったが、この光景を目の当たりにするとそれぞれ驚愕の言葉を漏らす。中には跪き、剣に対して頭を下げるものまでいた。


「モウランが手にした魔剣<狼の爪>は氷雪を奔らせる魔力を持つ、我が剣も同様。これこそ、この剣が<狼の爪>である証拠だ。翁よ、認めてはどうだ?」


 老人はオーグルを、路面に突き立てられた剣を見ていた。視力のほとんどが失われた白く濁った瞳だが、オーグルの剣が持つ輝きはしっかりと網膜へと届いている。

 それでも老人は認めなかった、オーグルの剣が<狼の爪>であると信じない。


「それは<狼の爪>ではない」


 ゆっくりと首を横に振る老人の言葉は頑なだ。しかしオーグルは先ほどのような激情に駆られることはなかった、落ち着き払いながら納刀すると何故かカブリを指差すのである。


「では我が剣とその剣で試合をしようではないか。既に老いさらばえた身であることはわかっている、ならカブリと名乗ったその男が代わりに振るえ。ダンロン山の戦士一族の事は耳にしたことがある。一族の男は幼少より剣を友にして育つという。そのような男なら代理にするに良いではないか」


 カブリは老人を見た。老人もカブリを見ていた、そして頷いた。


「良かろう。このカブリが御老人の代わりを見事務め、この長剣こそが真なる<狼の爪>であると世に示してくれようではないか」


 ダンロンの戦士は立ち上がり、長剣の切っ先をオーグルへと向ける。


「ならば試合は明朝に行うことにしよう。場所は<輪転の湖>の畔だ、あそこならば開けている。互いに全力を尽くし勝負しようではないか、どのような結果に終わろうとも文句は無しだ。例え命を失うことになろうと!」

「無論だとも! 貴様こそ壮語したからには自慢の剣が叩き折られることになろうと構うまいな!」


 決闘の約束が交わされた。彼らを囲む群衆は歓声を上げる。パンネイル=フスには荒くれ者も集うため、喧嘩は日夜問わずどこかで起きているものだが決闘となると話が変わる。都の民にとって、決闘は滅多に見られぬ公開処刑に並ぶ娯楽の一つなのだ。

 観衆は早くも物見気分になっており、オーグルとカブリの間に物語を見出しつつあった。気の早い者は広めねばならぬと駆け出してこの情報を広め始めている。


 カブリは一大事件の中心になってしまったことを知ってか知らずか、老ドワーフと不安も露なブレトを伴って馴染みの居酒屋<銀夢亭>へと向かった。

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