第6話カメラ・オブ・スキュラ――暗い部屋――

 智陽くんが差し出したマチのある封筒を、私は両手で受け取った。

「ありがとう、確かに頂きました」

「うん、よろしく」

 私がもらったのは、横浜の風景を写した彼の写真だ。それもただの写真ではない「チバクロームプリント」と呼ばれる技法を使った写真だった。

 私がフランスの街角で目にしたのと同じ、白黒の色鮮やかな写真。先ほど何枚か見せてもらったが、やはりすべての写真が色づいて見えた。

 なぜ私が智景くんから写真を受け取ったのかというと、話は少し前にさかのぼる。きっかけは、「ブラフ・ブック・カフェ」の新井野さんからの誘いだった。


 蝉の声が夏の盛りを告げる、八月。今年の夏は例年より暑く猛暑日が続いているけれど、私は冷えた店内でラズベリーソーダを片手に本を読むという、幸せな時間を過ごしていた。向かいでは和奈さんが、クリームソーダのアイスと格闘している。

 私は立ち上がり、本の並ぶ一角に向かった。

「ブラフ・ブック・カフェ」には、美術関係の本がたくさんある。それは、先代ではなく新井野さんのこだわりらしい。写真やカメラに関する本も多く、私はここに来るたび興味を惹かれて読んでいた。

そんな私に新井野さんが、とあるプロジェクトに参加しないかと言った。横浜に残る歴史的価値のある写真をデジタル化し、保存するプロジェクトだという。

「横浜市と一緒に進めることになってね、でもまだまだ写真も人も集まっていないんだ。良かったら、彩野さんも参加しないかい?」

「私も参加していいんですか?」

 もちろんだよと、新井野さんはにっこり笑った。

「君はきちんと写真修復を学んだプロだからね、参加してくれたらとても心強いよ」

 ただし謝礼はあまり出ない。新井野さんはそう付け足したけれど、私はすぐにやりますと答えた。自分の手で作られたものが、この先ずっと残るのだ。それだけで、わくわくする。私の答えに、新井野さんは満足そうに頷いた。

「じゃあ早速、担当者の人に連絡しておくよ。……ところで、彩野さんは横浜と写真には昔から縁があるのを知っているかい?」

「ええ、アメリカ人の写真家から写真術を学んだ下岡しもおかれんじょうという人が、横浜に写真館を開業したんですよね」

 写真博物館を初めて訪れたとき、智景くんから話を聞いて、自分でも少し調べたのだ。新井野さんはちょっと驚いた様子で、その通りだよと言った。

「新井野さんも、写真がお好きなんですね」

「うん、撮る方は才能がなかったけど、やっぱり見るのは好きだね。壁に飾ってあるのは、全部僕が集めたんだ」

 カフェスペースには額縁に収められた写真が大小様々並んでいて、単に現実を切り取っただけとは思えないほど、それぞれに世界観があった。中でも私が興味を惹かれたのは、不思議な色合いの写真だった。コスモワールド付近の夕景を写した写真だが、色のついた部分が浮き出るようにして見えている。特に一点だけ使われた夕日の赤色が綺麗だった。

「これって、手彩色されているんですか?」

 手彩色とは、まだカラー写真が生まれていなかったころに始まった、白黒写真に後から手作業で色をつける方法だ。日本の明治時代の写真でも、手彩色した写真が見つかっている。カラー写真とはまた違う色味が出るので、現代でもファンは多い。

「そうさ、手作業で作るから同じものは二つとしてない。それが僕は気に入っているんだ。これも横浜と深い関りがあってね、明治のころ、日本画の顔料で彩色した風景写真を外国人向けのお土産として売っていて、『横浜写真』といわれていたらしいよ」

「へえ、それは知らなかったです。この写真自体も、古いものなんですか」

 私は額縁の写真を示して尋ねた。

「いや、これは現代の写真家が撮って、彩色したものさ。洲倉智景という、若いが才能あふれる写真家だよ」

「え、これを智景くんが……?」

 私は新居野さんに、彼が高校時代の同級生だったことを話した。新井野さんはひどく驚いた様子で、彼はよくここにも顔を出していたと話した。

「この写真は、二年くらい前に彼にもらったんだ。彼は昔の写真技法を使った撮影にも興味があって、これもその一環だね」

「ああ、そういえばそうだったわね。初めは試作品として見せてもらったけど、飾ったらお客さんたちの評判も良かったのよ」

 クリームソーダを堪能し終えたらしい和奈さんが、私の肩越しに写真をのぞき込んで言った。

「でもあいつ、最近は顔出してないみたいね。二年前、海外に行く前に連絡したのも、返事がなかったし」

「二年前、ですか? それ、もしかして……」

 私は智景くんが二年前に転落して頭を打ち、記憶を失ったことを二人に話した。

「私のことは覚えているので、お二人のことも覚えているかもしれません。でも、ちょっとした話が思い出せないみたいなので、顔を出しづらいんじゃないでしょうか」

 和奈さんはさっと血の気が引いたように、顔色が悪くなった。

「知らなかった……私、ずっと薄情な奴だと思ってて……」

 あの智景くんが連絡先を交換しているくらいだから、きっと仲が良かったのだろう。悔しいことに、私は教えてと言ってものらりくらりと躱されている。私は和奈さんに彼が木曜日と日曜日に写真博物館で働いていることを話し、会いに行ってみてはどうかと言った。

「今は、その記憶のこと以外は、大丈夫なのかい?」

 心配そうにしている新井野さんに、私は頷いた。

「はい、問題ないと本人も言っていました」

「そうか、それなら……」

 新井野さんは私に、一つお願いがあると言った。

「彼の撮った写真も、いくつかプロジェクトに提供してもらいたいと思うんだ。彼の撮った写真は、芸術的にも素晴らしいからね。それで彩野さん、時間のある時でいいから、洲倉くんにプロジェクトの趣旨を説明して、横浜を撮った写真をもらってきてくれないかな?」

「ええ、わかりました。今度行くときに、洲倉くんに聞いてみます」

 智景くんの撮った写真を、未来の人もきっと美しいと思うだろう。私は智景くんの「横浜写真」を見ながら、もう一つわくわくすることが増えたと気持ちを弾ませていた。


 そんなわけで、私は写真博物館を訪れていた。まずは智景くんに横浜市からの企画書を持って行き、プロジェクトを説明。そして今回、いくつか用意してもらった写真を私が受け取りに来たのだった。

 封筒を抱えた私を、智景くんがじっと見ていた。何か、と問えば、ぼそりと彼は言った。

「楽しそうだな、と思って」

「うん、わくわくしてる。また、夢中になれるものを見つけたって感じかな。だって、私の仕事がこの先ずっと残るんだもん」

「そう……良かったね」

 智景くんはこの頃少し、ほんの少し口の端を動かすくらいだけど、笑ってくれるようになった。

「あ、そういえば、和奈さんってここに来た?」

 カフェでのやり取りを思い出し、私は尋ねた。しかし智景くんは首を傾げ、ぽかんとしていた。ああ、覚えていないのか。私は意地の悪いことに少しほっとしたが、やっぱり和奈さんが落ち込む姿を想像すると、やるせなくなった。

「たぶん、智景くんが怪我をする前に仲良くしてた人よ。『ブラフ・ブック・カフェ』というお店で何度か会ってるみたい。それから、店長の新居野さんも」

 智景くんはしばらく俯いて思い出そうとしているようだったけれど、やがて諦めたように首を振った。

「……そっか、いつか思い出せるといいね」

 私は智景くんを傷つけてしまったかもしれない。不安になって、私は足早に博物館を後にした。


 外に出た私は、帰る途中、寄り道した公園で携帯電話を手にため息をついた。

和奈さんにすぐ、智景くんのことを伝えるべきだと思った。もし彼女が博物館を訪れ、直接覚えていないと言われたら、ショックを受けるだろう。でも、悪いニュースを伝えるのは気が重いことだった。

「日曜日が来る前でいいか……」

 今日は木曜日なので、次に智景くんが博物館にいるのは日曜日。それまでは、和奈さんが智景くんに会うことはないはずだ。

 ぼんやりしていたら、すっかり日が暮れてしまった。私は木製の階段を降り、出口に向かう。半ばまで降りたあたりで、後ろから足音が聞こえた。急いでいる様子だったので、私は横に避けようとした。しかし避けるより先に、斜め後ろから手が伸びてきた。手は私が抱えていた封筒を掴み、奪い取ろうとする。私は無意識のうちに、封筒をしっかり握りしめていた。これは智景くんから預かった、大事な作品たちだ。

 私は突き飛ばされ、階段の手すりに体を強くぶつけた。息が詰まり、力が抜ける。気づくと私は手すりにもたれていて、落とした封筒を拾い上げた人影が、階段を駆け下りていくのを眺めていた。

 私はぶつけた背中や擦りむいた手に痛みを感じ、軽く呻いた。試しに少し動いてみたが、そこまでひどい痛みはない。手すりを支えに立ち上がろうとしたのだが――。

「痛っ!」

 足首から頭に響くような痛みが走った。突き飛ばされたときに捻ったのかもしれない。

「どうしよう……動けない」

 携帯で救急車を、いや、警察にも通報しなければ。でも、一人じゃ心細い。

 私は迷った末、電話をかけた。

「……もしもし、洲倉くん?」

「珍しいね、俺にかけてくるなんて。次の差し入れのリクエストとか?」

 智陽くんの声を聞いただけで、安心して泣きそうになった。声が震えないよう息を整えて、口を開く。

「違うの。ちょっと足を捻っちゃって、助けてほしくて……」

「すぐ行く。場所は?」

「写真博物館の近くの、児童公園……」

 

 すぐ行くという言葉通り、智陽くんはすぐに駆けつけてくれた。博物館側の入り口に彼の姿を見つけたとき、途端に力が漲って来たような気がした。同時に、足を捻ったくらいで呼び出してしまったことが申し訳なくなって、私は痛めた左足を使わないようにして、何とか立ち上がった。

「捻ったのは左? ほかに怪我は?」

「あとはちょっと擦りむいたくらいだから、大丈夫。ごめんね、大したことなかったのにびっくりしちゃって……あれ?」

 片足立ちでバランスがとれず、私の体は大きく傾いだ。階段の、下の方へ。

「彩野さん!」

 スローモーションになった世界で、私は智陽くんに引き寄せられた。そして、一緒に倒れこんだ。いつの間にか私は智陽くんを下敷きにしていて、慌てて起き上がる。階段は幸いあと数段しかなく、転げ落ちることは免れた。

 体を起こした智陽くんは、私に怪我が増えていないことをひとまず確認すると、大きく息をついた。

「あー、びっくりした! 寿命縮まった!」

「ご、ごめんなさい……」

 智陽くんは服についた土を払おうとして、一瞬、顔を歪めた。ちらりと私を見ると、大丈夫だと笑う。

「ただの打ち身と擦り傷だよ。このくらいで済むなんて、やっぱり俺って運動神経良い――」

「ごめん! ごめんね、智陽くん! 私のせいで……」

 強がらずに大丈夫なんて言わなければ良かった。ついに涙腺が決壊した私に、智陽くんは目を細めて笑った。伸ばされた指が、私の涙を拭う。

「いいんだよ、彩野さんまで大怪我したら、俺がショックで倒れちゃうから」

 智景くんのことを言っているのだとわかって、私の胸は締め付けられた。明るく振舞っているけれど、弟が大怪我をしたのはたった二年前のことで、その時の不安や恐怖はまだ記憶に新しいだろう。私はもう一度、ごめんなさいと謝った。

 智陽くんは私を背負って、藪中医院まで連れて行ってくれた。病院は今日休診日だったが、智陽くんが鍵を開け、捻挫の応急手当をしてくれた。

「あの、智陽くんの方は手当てしなくていいの? さっき、左腕を……」

「ああ、消毒して湿布を張るくらいだから、後でやるよ」

それより、と智陽くんは私に言った。

「今日は智景から写真を受け取る日だったはずだけど、その後何かあったの?」

「実は、後ろから突然、智景くんの写真を盗られそうになって……。抵抗したんだけど、結局盗られちゃった」

 智陽くんの顔色が、さっと変わった。それから、情けなさに再び涙を滲ませる私の頬を、左右に思いきり引っ張った。

「ちょっと、痛い痛い!」

 抗議の声を上げた私は、智陽くんはどうせにやにやしながら私をからかうのだと思っていた。でも、彼の顔は見たことないほど真剣だった。

「彩野さん、頼むからもっと、自分を大切にして。智景の写真を守ろうと思ってくれたのは嬉しいけど、そこまでする必要はないんだよ。もし彩野さんに何かあったら、みんなが――」

「私のことなんか、いいの!」

 突然叫んだ私に驚いて、智陽くんが手を離した。それでいい。私なんかに構わなくたっていい。私にはそんな風に、心配されるほどの価値はない。

「……どうして?」

 ひどく寂しそうに、智陽くんが言った。なぜ智陽くんがそんな顔をするのだろう。

「だって、私には何もないから。父や智景くんみたいな才能もないし、智陽くんみたいに頭が良くもない。写真修復の仕事だって、私じゃなくたってできる人はたくさんいるよ」

「じゃあ彩野さんは、人の“能力”だけが、人の価値を決めてると思うの? とびぬけた取り柄がなければ、その人には価値がないの?」

「それは……」

 わかってるよ、と智陽くんは言った。

「彩野さんにはなりたかったものがあったけど、それは叶わなかったんだね。でも、それだけで自分に見切りをつけるのは、俺は間違ってると思うけど」

 私は俯いて、歯を食いしばった。そうしないと、泣き喚いてしまいそうだった。

「……間違ってるのなら、正解はどこにあるの? 私はどうすれば、解放されるの?」

 過去の私、夢が叶う未来を信じていた私が、私をどこまでも追ってくる。諦めるしかないと悟った時の絶望が、まだ私に突きつけられている。音楽を辞めて新しいことを始めれば、楽になれると思ったのに。

 私の頭にそっと、温かな手が触れた。

「大丈夫、このまま進んでいけば、いつかきっとわかる日が来るよ。不安になったら、誰かを頼ればいい。みんな彩野さんのことが好きだから、力になってくれるよ」

 私は俯いたまま、掠れた声でありがとうと言った。こんなに自分の気持ちを人に曝したのは、初めてだった。その相手が智陽くんで良かったと、私は思った。


 私が襲われ、盗難に遭ったことを、まずは小安くんに伝えた。彼は飛ぶように私のところにやってきて、なぜかお見舞いに持ってくるようなフルーツのバスケットを持ってきた。たぶん気が動転していたのだろう。それは平志さんや和奈さん、私の父も同じで、やたらと世話を焼いてくれたり、美味しいものを差し入れてくれたりした。

 幸い、捻挫は手当てが早かったこともあってか、二日後には少し違和感がある程度まで回復していた。智陽くんに感謝だ。

「盗まれたのは、大判の封筒か……。それじゃあ、現金が入っているとは思わないよな、普通」

 首を捻る小安くんに、私は頷いた。

「財布の入ったバッグも盗られなかったから、お金目的じゃないのかも」

「でもそうなると、中身が写真だったことを知っていて、盗ったってことか? それも不思議だよなあ」

 確かにそうだ。智景くんの写真にはそれなりの価値があるが、市場に出回っている数は少なく、売りさばきにくいのは明らかだ。それをわざわざ、リスクを冒してまで盗る理由はあるだろうか。

「……って、彩野は別に推理する必要はないんだよ。まずは、アレだ。犯人の特徴! 性別は?」

「うーん、顔を見てないからわからないけど、男だった気がする。スニーカーが男物だったし、軍手してても手が大きくて骨ばってたように見えたから」

「なるほど。じゃあ、男か、ガタイのいい女ってことだな。身長は?」

「階段を下りる途中だったから、わからないや。でも、後ろに迫った気配から考えて、少なくとも一七〇センチ以上はあったと思う」

「よし、あと、服装」

「暗かったから自信ないけど、キャップはかぶってたよ。あとはランニングウェアっぽかったような……。あの、シャカシャカ音が鳴るような生地の。色はグレーっぽかった」

 私の記憶力はなかなか優秀だったらしく、小安くんからお褒めの言葉をいただいた。私が犯人の顔を見ていれば、と悔しがっていたが、あの犯人はとにかく顔を見られないように神経をとがらせていたように感じた。

「今のところ犯人の目的がわからないから、外を歩くときは気をつけてな。暗くなったら一人では出歩かないこと、それから昼間でも人通りの少ないところには行かないこと」

 小安くんは何かあればすぐに連絡するように、と言って店を出て行った。その背中はこの前会った時よりたくましくなっているように見えて、私は頼もしさを感じていた。

 怖くないと言えば、嘘になる。でも、私は大丈夫だと思った。頼れる人が周りにはたくさんいるのだと、気づくことができたから。


 私は歩けるようになってから、ブックカフェも訪れた。新居野さんはすでに和奈さんを通して事件のことを知っていたが、プロジェクトに使うための写真を失くしてしまったことを、直接謝りたいと思っていた。

「いやいや、彩野さんは被害者なんだから、謝る必要なんてないよ。とにかく、無事でよかった」

 新井野さんが言い、私が若干苦手としている来海ちゃんも、慰めらしきことを言ってくれた。

「捻挫で済んで、運が良かったですよね。階段の上から落ちていたら、下手すれば怪我じゃすまないですもん」

 恐ろしいことを言う。相変わらず棘を感じるのは、私だけだろうか。

 ただ、階段から落ちたとき、ほんの一瞬だが死を意識したのは確かだった。まだ依頼された仕事が終わってないのに、ととっさに考えた私は、気づかぬうちに仕事人間になっていたのかもしれない。

「とりあえず、洲倉くんともう一度相談してみますね。ネガやデジタルデータが残っている写真なら、同じものがプリントできますから」

 焦らずにね、と新井野さんは言って、カウンターの向こうに戻っていった。サービスだと言って無料で出してもらったカフェオレを、ありがたく頂くことにする。

「お父さんも、心配してたわよ。……もちろん、お母さんも」

 和奈さんが言い、暗に一度帰ったらと言っているのだとわかった。私は曖昧に返事をして、ストローで氷をかき回した。それから、私はここのところ気になっている、もう一つの問題について尋ねた。

「ねえ和奈さん。二人の人を同時に好きになってしまうことって、ありますか?」

「まあ、あるんじゃない? 本命とキープ、みたいなの。私はそんな器用じゃないから、常に一本勝負だけど」

「でもそれって、順位が決まってるんですよね。そうじゃなくて、どっちの方が好きか、自分でもわからない場合です」

 和奈さんはいろいろと想像してくれているらしく、百面相になりながら悩んでいたが、最終的には一言だった。

「わからん。でもしいて言うなら……」

「言うなら?」

「その好きって気持ちは、恋じゃないんじゃない? 友情とか、人として好き、とか。だから順位をつけられないのよ」

 私はなるほど、と頷きつつ、今回に限っては違うような気がすると思っていた。智景くんと、智陽くん。私は今、二人のことが好きだった。


 日曜日、写真博物館を訪れた私を、受付のおじいさんがちょいちょいと手招いた。手作り感に溢れたカードのようなものを渡される。そこには、「年間パスポート」と達筆な文字で書かれていた。

「これ、いただいていいんですか?」

 おじいさんはにっこり笑って、早くしまうように手ぶりをした。

「館長には内緒だからね。……お大事に」

 私は温かい気持ちになって、博物館に足を踏み入れた。

 智景くんは展示室の入り口に立っていて、私が来るのを待っていてくれたようだった。彼は私の足のあたりに目をやり、言った。

「もう、大丈夫なの?」

「うん、走るのは少し不安だけど、歩く分には問題ないよ」

 私たちは資料室に向かい、腰を下ろした。言葉少なな私を気遣ってか、写真のことなら気にする必要はないと、智景くんは言った。

「探せば、ネガもあると思うし」

「うん……ありがとう。そうだ、さっきね、受付でこんなものをもらったの」

 私はポケットから出した「年間パスポート」をテーブルに置いた。智景くんは右腕を伸ばし、手に取った。私はそれを確認して、口を開く。

「利き手、左じゃなかったっけ?」

「……いや、僕は右利き。左利きなのは智陽――!」

 私はテーブルに置かれていた無防備な彼の左腕を、掴んだ。誘導に引っかからなかったのはさすがだったが、不意の痛みに顔を歪めたのは、誤魔化しようがなかった。私は彼のシャツの袖をずらし、巻かれている包帯を見た。

「彩野さん……」

 私の手が再び左腕に触れて、彼は怯えたように瞳を揺らし、私を見た。ぞくりと沸き上がったのは、私がこの場を支配しているという優越感だった。

 私が包帯の結び目をほどくと、巻かれていた包帯ははらりと落ちて、貼られた湿布が見えた。そこに指を這わせると、腕がびくりと震えた。

「大丈夫、何もしないよ」

 私は彼の腕をそっと抱き込むようにして、顔を寄せた。

「ごめんね、痛かったでしょう。でも、あなたは嘘をつくのがうまいから、こうするくらいしか思いつかなかった」

 追いつめて、私はどうにか、その仮面を剥ぐことに成功した。

「……智陽くん」

 観念したように目を閉じた彼は、自由な方の右手で眼鏡をはずした。

「さすが、彩野さん。どうして気づいたの?」

「小さな違和感は、少しずつあったの。例えば、病院の休診日と智景くんの勤務日が同じこと。二人は情報をかなり細かく共有してるのに、二人一緒にいる姿を一度も見なかったこと。それから、トキさんの写真のこと。智陽くんは写真を見る機会がなかったはずなのに、見なければわからない情報を使って推理していた」

 最後に、私は言った。

「私が捻挫して、助けを呼んだ時、智陽くんは博物館の方から来たよね。そっちの方向には、住宅なんてないのに」

 私が高校時代の話をした時も、記憶喪失で覚えていないのではなく、知らなかったのだ。

「……ずっと騙していて、ごめん」

 顔を俯けて、智陽くんは言った。

「怒ってるわけじゃないの。私は、理由を知りたい。どうして、智景くんのふりをしたのか。まさか、智景くんはもう――」

 違う、と智陽くんは私を遮った。

「智景は、生きてる。でも……」

ためらう彼に、私は教えてと言った。知りたいと思った。単なる事実だけではなく、どんな思いで、この途方もない二重生活を続けていたのか。これから何を聞いたとしても、私は“彼”が好きだと思った。

 智陽くんは覚悟を決めたように、私と目を合わせた。

「……わかった。智景に、会いに行こう。そこで全部話すよ」


 彼に連れられてやって来たのは、横浜市内の総合病院だった。智陽くんの父親が、勤めている病院だという。慣れた様子で院内を進む彼の後ろを、私はついて行った。

 エレベーターを最上階で降りると、エレベーターホールから小さくなった街並を見下ろすことができた。遠くに、海も見える。

「天気のいい日は、向こうに富士山が見えるんだ」

 少し緊張した声で、智陽くんが言う。私も硬い声で、そうなんだと返した。

 智陽くんは突き当りの病室の前で立ち止まると、ノックした。返事は聞こえなかったが、智陽くんはそのままドアを開けた。

「こんにちは、智景。今日は、懐かしい人を連れてきたよ」

 カーテンで覆われたベッドに向かって、智陽くんは声をかけた。それから私を振り返ると、囁くようにして言った。

「智景は今、喋ることや動くことができないんだ。でも、普通に話しかけてあげて」

 智陽くんはカーテンをゆっくりと引き、私はおっかなびっくり、ベッドに近寄った。

 等間隔で小さく聞こえる、機械音。液体が流れ、空気がポコポコと鳴っている。そしてベッドの上にいる智景くんが、かすかに呼吸する音が聞こえた。

「覚えてるよね、彩野さん。高校の時、一緒だった」

 智陽くんに促され、私はぎこちなく久しぶりと声をかけた。智景くんの目は開くことがなく、深く眠っているようだった。

 智陽くんは弟の手を握り、この間のトキさんの話や、「宝の地図」の話をした。私は智陽くんの言葉に相槌を打つようにして、一緒に喋った。

 時間にすると十五分程度、私たちはベッドの横で話した。智陽くんがまた来るよと声をかけ、私たちは病室を出た。

気を張っていた私は、廊下に出てどっと疲れを感じていた。

「ごめんね、びっくりしたでしょう?」

「うん、驚いたけど……でも、生きていてくれて、良かった。本物の智景くんがどうしてるか聞くのが、一番怖かったから」

 智影くんは、生きていた。最悪の想像は、免れた。でも――。

「治る見込みは、あるの? せめて、喋れるくらいに」

「わからない。今の医学では、意識があるのかないのかすら、わからないんだ」

「意識が……?」

 私は愕然とした。普段私たちは、相手に意識があることを、会話をして確認する。でも、彼のように体を動かすことができなければ、伝える方法がないのだ。

「じゃあ、私たちの声が届いているかもわからないんだね」

 智陽くんは力なく頷いた。

「意識があったとして、いつ起きているのか、ずっと夢を見ている状態なのか、それもわからないんだ」

 智景くんの状況を想像しようとしたけれど、あまりに恐ろしくて残酷で、考え続けることはできなかった。

「治る見込みでいえば、意識がある状態の方が望ましい。でもそれは、身動きの取れない真っ暗な箱に押し込められているのと同じことだ。いっそ、意識なんてない方が、智景にとっては幸せなのかもしれない」

 私たちは病院から駅に向かって、川沿いの遊歩道をゆっくりと歩いた。暑さはピークを過ぎ、川から良い風が吹いてくる。穏やかな夕暮れの中、ベビーカーの親子連れや野球の練習帰りの少年たちとすれ違った。

「――智陽くんはどうして、智景くんのふりをしていたの?」

「一番大きな理由は、犯人を見つけるため。智景が見つかったのは野毛町の崖下で、家から事件に遭うまであまり移動していなかった。だから、元町や山手のあたりにいれば、犯人から接触があるかと思ったんだ」

「一人で、そんな危険なことを?」

 何もせずにはいられなかったのだと、智陽くんは言った。

「今まで、ずっと智景が隣にいた。彼がいることが、日常だった。それが突然奪われて、初めは寂しかった。でも、そのうち慣れていく自分に、ある時気づいたんだ。……それがとても、怖かった。俺が智景を忘れるように、みんながどんどん忘れていって、まるで初めからいなかったみたいに世界から智景が消えてしまうんじゃないかって、怖くなったんだ」

 双子の片割れ。単なる兄弟とは違うのかもしれないと、私は思った。

「だから智陽くんは、智景くんの居場所を作ったんだね。智景くんがいつ戻ってきても、いいように」

「そう、世界の片隅のような、あの小さな博物館は、智景の戻る場所にぴったりだった。写真の知識は智景のおかげでそれなりにあったから、週二日くらいならなんとか誤魔化せると思った」

「そんなに、お客さんも来ないからね」

「一人だけ、毎週のように来るお客さんがいたけどね」

 私たちはそう言い合って、少し笑った。

「でも、そんな生活、ずっと続けたら倒れちゃうよ。休む暇もないじゃない」

「その方が、余計なことを考えなくて済むから楽だったんだ。智景がずっと目覚めなかったらって考えると、不安でたまらなくなるから。両親はもう、期待することがつらくて諦めているみたいだけどね」

「……智陽くんは、諦めてないんだね」

 彼ははっきりと頷いた。

「俺はいつか、智景が目を覚ますって信じてる。だから、その時までに犯人を捕まえて、何の不安もなく過ごせるようにしたいんだ」

 夕日を受けた智陽くんの横顔を、私は見ていた。固い決意と、今にも折れそうな危うさがあった。たった一人戦っていた彼の力になりたいと、私は思った。だから、彼からこう言われた時、私は迷わずに頷いた。

「犯人を追い詰めるために、彩野さんに協力してほしい。彩野さんから写真を奪った犯人は、智景を襲った犯人と同じだ。ようやく、そこまでたどり着いた。だから――」

「うん、私にできることなら何でもする。ドラマみたいに、囮になってもいいよ」

 智陽くんの瞳は、陽の光を受けてキラキラと輝いていた。ありがとう、と震える声を、私は彼の腕の中で聞いていた。

「もう、危険な目には遭わせない。絶対、俺が守るから」

 恥ずかしいセリフは、私の専売特許だったはずなのに。私は思わず笑ってしまい、智陽くんに台無しだと怒られた。


 翌日の夜、私と智陽くんは、智景くんが仕事場として使っていたマンションを訪れていた。私にくれた写真は、ここに置いてあったものだという。

「あの写真は、たぶん智景にとって、大きな意味のあるものだった。事件の少し前、わざわざ俺に言ったんだ。もし自分に何かあっても、ここにある数枚は捨てないでほしい、って」

「えっ、それってまるで、自分が危険な目に遭うことを知っていたみたいじゃない!」

 智陽くんはその通りだと頷いた。

「智景は、俺にも他の家族にも隠していたことがあった。だから、あの言葉は犯人に繋がるヒントだったのかもしれない」

「ここにある何枚かの写真が、犯人と……」

「彩野さんの手からわざわざ奪ったということは、それが正しかったってことだろうね」

 問題の写真は、すべて白黒だった。彼は色覚異常もあったため、白と黒のコントラストで表現する方法を研究していたのだという。まだ智景くんが大学生のころ撮ったものだった。ネガフィルムはきちんと保存されており、私たちはその一枚一枚を確認していった。

 一枚目は、私たちが通っていた高校。その次は、高校の屋上から撮っている。どちらも、卒業式の日のようだ。さらに、高校近くの川辺の写真、リニューアルしたばかりの音楽ホールの写真、港の見える丘公園から海を見下ろす写真。

 しかしその次からは、海外で撮ったらしい写真だった。智陽くんが、思い出したように言った。

「そういえば、智景に海外旅行に誘われたんだ。『続きを撮りたいから、ヨーロッパに行こう』と言われた。その時は何のことかわからなかったけど、これのことだったんだ」

 ヨーロッパの方は、音楽にまつわる写真が多いように感じた。作曲家の銅像や、有名オーケストラの演奏が行われるホールなど。時々、お酒や料理の写真もある。

「この一連の写真の中に、犯人にとって都合の悪い何かが写っていたってこと?」

「でもこの写真が撮られたのは、高校卒業後の春休みから大学一年生の夏までだ。そんな昔のことが、二年前に関係してるというのは……」

 高校卒業後の春休み。それを聞いて、私は一つ思い出した。関係しているのかはわからないけれど。

「ねえ、智景くんは、望海ちゃんと仲が良かった?」

「ああ、鹿倉さん。そうだね、彼女は智景がお気に入りみたいだったから、よく見かけたよ。智景は逃げ回っているようにも見えたけど、実は割と好きだったんじゃないかな。亡くなったと聞いて、しばらくぼんやりしていたから」

 それが何か、と智陽くんが尋ねる。

「望海ちゃんが亡くなった後、この写真が撮られたんだよね。もしかして、写真の中に何か映り込んでいたんじゃないかな、と思って」

 智陽くんは私の言いたいことに気づいて、まさか、と呟いた。

「鹿倉さんの死に関わる、犯人にとって都合の悪いものって……」

「望海ちゃんは、自殺じゃなかったのかもしれない」

 智景くんは、何かのきっかけでそれに気づき、二年前犯人に迫った。しかしその犯人は、智景くんも殺そうとした。

「どう? 今度は力づくじゃないでしょ」

「うーん……そう、かな」

 まだ半信半疑の智陽くんに、このネガフィルムを調べて、その“都合の悪いもの”を見つけ出すと宣言した。

「パソコンに取り込んで、画像処理もしてみる。白黒だからわかりづらいけど、望海ちゃんが写っているのかもしれないし」

「……わかった。それは彩野さんに任せるよ。俺は、智景が通っていたカフェに行ってみる。事件の前に、智景は姿を見せているみたいだし」

 私たちはお互いにやるべきことを確認した。真実が明らかになれば、きっと何もかもうまくいく。智景くんも、きっと良くなる。私は祈るように、そう願った。


 家に帰った私は、早速ネガをスキャナーで取り込み、パソコン上で画像を引き延ばした。ネガフィルムはメーカーによって特徴があるが、智陽くんの使っていたこのフィルムは、どちらかというと淡く、やわらかい印象の写真が撮れるタイプだった。

 望海ちゃんに関するものが写っているのは、当然日本で撮られた写真の方だろう。私は卒業式の体育館と校舎を写した写真から取り掛かった。

 まずは、輪郭がややぼやけ気味なので、シャープネスをやや強めにする。これで、輪郭がはっきりとした。さらに、コントラストも上げてみる。これは明暗の差を大きくするためだ。メリハリが出るので、小さなもの、目立たないものが浮かび上がってくることもある。

 そのほかにも、人影があれば拡大し、顔を確認したりしたが、知っている顔はなかった。

 残りの写真も、同じ作業を進めていく。しかし一度目は、誰も見つからなかった。

「うーん……人じゃないのかなあ。何かもっと、小さなもの?」

 私は最も何かが隠れていそうな、河川敷の写真に的を絞った。一部ずつ拡大しながら、コントラストを動かしていく。

「これ……はタバコか。こっちはペットボトル。ゴミが多いなあ」

 ぶつぶつ愚痴をこぼしながら見ていくと、写真の下側に、判別しにくい形の何かが見えた。さらに拡大していくと、見覚えのある形だったとわかる。

「コダマ堂のチャーム……」

 私たちが高校生のころ流行した、ある雑貨店が売っていたチャームだった。オランダの木靴のような丸くて可愛い見た目で、持っていると願いが叶うといわれていた。私はそういったものには冷めた目を向けるタイプだったのであまり興味はなかったが、クラスの女子の半分くらいは、持っていた気がする。そしてそれと一緒に付けられているのは、私が間違えようのない形。ヴァイオリンだった。

「これって、確か……」

 私は家の引き出しを漁り、記念品をまとめた箱を出した。コンクールや発表会の参加賞としてもらったものも入っている。捨てようか迷って、結局家から持ってきたのだ。

目的の物は、すぐに見つかった。高校三年生の時に横浜開港を記念して開かれた音楽祭の、記念に作られたキーホルダーだ。望海ちゃんももちろん、参加していた。

この二つが、望海ちゃんのものだと確実にいえる証拠はない。でも、例えばあのチャームを贈ったのが智景くんだとしたら? 望海ちゃんがこの二つをカバンに付けていたと、すぐに気づくのではないだろうか。

でもこれだけでは、誰が犯人かはわからない。智陽くんにも考えてもらおう。今日一日、あまりに密度が高すぎて、私は疲労を感じていた。ベッドに入ったが、体は疲れているのに目が冴えてしまって、なかなか寝付けなかった。


数日後、「ブラフ・ブック・カフェ」を訪れた私は、和奈さんから智陽くんが来たことを聞いた。

「本当にそっくりで、本人かと思ったわ。喋ったら全然違ったけど」

 印象は良かったらしく、和奈さんも来海ちゃんも、また会いたそうにしていた。

「智景くんはここのことを覚えてないって聞いて、ちょっとショックだったけど、まあどうしようもないわよね」

 和奈さんはこれから仕事があるらしく、財布を出して新井野さんを呼んだ。財布のファスナーの先で揺れているチャームを見て、私は思わず声を上げた。

「和奈さん、それって……」

「ああ、この靴のチャーム? ちょっと前に、商店街で流行ったわよね」

 和奈さんはそれをつまみ上げ、何かを思い出したようにふっと笑った。一緒についていた鈴が、ちりんちりんと涼しげな音を奏でる。

「そうだわ、これね、智景くんがくれたの。私はついでだったんだけどね」

「ついで?」

 どういう意味かと聞けば、もしくはカモフラージュ、と和奈さんは言った。

「本当にあげたかったのは、望海ちゃんて子の方だったのよ。同じ高校だったら、光里ちゃんも知ってるかしら。確か、卒業後すぐに……」

「ええ、彼女もクラスメイトでした。この店によく、来ていたんですね」

 常連だったと和奈さんは言った。

「あの子とは音楽の話もよくしたわ。明るくて、いい子だったわよね。お互い有名になって、CD出そうねって話したりしていたから、悲しかったし、驚いたわ。望海ちゃんが亡くなってから、智景くんもあまり顔を出さなくなっちゃって」

 そういえば、と和奈さんが言った。

「思い出した。私ね、二年前海外に行く直前、ストーカーに遭っていたみたいなの」

「みたいって、自覚はなかったってことですか?」

「うーん……夜道でついてくる人がいるなあっていうのが、何回か」

「それ、危ないじゃないですか」

 和奈さんはへへ、と誤魔化し笑いをした。笑い事ではないと思うのだが。

「智景くんもそんな感じですごく心配してくれてね、警察に届けを出すのを手伝ってくれたり、家まで送ってくれたりしたのよ」

「今は、大丈夫なんですか?」

 ノープロブレム、と和奈さんは親指を立てた。年上ながら、心配になる。智景くんも同じように感じたのかもしれない。

「でも、智景くんてすごく目が良かったのよね。私には全然見えなかったんだけど、暗がりに黒っぽい格好の人が隠れていても、すぐに見つけちゃうの」

 暗がりに潜んで追いかけてくるなんて、筋金入りのストーカーだ。言葉を失う私に、和奈さんは何度も、今は大丈夫だと繰り返した。

「いけない、長居しすぎちゃった! もう行くわね!」

 駆けていく若々しい後姿を見て、私はため息をついた。心配だねえ、とお釣りを返しそびれた新井野さんが言う。

「そうだ、新井野さん。智景くんに聞いたら、写真をもう一度現像してくれるそうです。今度の木曜日の夜に、もらいに行ってきますね」

「そうか、ネガがあったんだね。良かったよ。三澄さんもだけど、彩野さんも気を付けてね」

「はい、ありがとうございます」

 私はにっこり笑って言った。来海ちゃんが、珍しくぼんやり明後日の方を見ていた。


 木曜日の午後六時過ぎ。私と智陽くん、小安くんと橘刑事は、写真博物館の裏手にいた。

「段取りは今申し上げた通りです。お二人は小安と一緒に、十分離れてついてきてください」

 橘刑事の言葉に、私と智陽くんは神妙に頷いた。

 今、私と橘刑事はお互いの服を交換している。私はグレーのパンツスーツで、彼女はストレートのデニムに、淡い黄色のカーディガン。足元は白いスニーカーだ。

「いやあ、死ぬほど似合わないな。大丈夫か?」

 橘刑事は小安くんに、避ける間もないスピードでハイキックをお見舞いしていた。これなら、襲われても心配ないだろう。

「でも、後ろから見れば背格好もよく似ていますし、夜ですから誤魔化せると思いますよ」

「ありがとうございます、洲倉さん。いざという時はこの阿呆を盾にしてください」

「はい、ぜひそうさせていただきます」

 智陽くんと橘刑事はがっちり握手をして笑っていた。

 今日の目的は、いわゆる囮作戦だった。先日と同じように、私が写真を受け取って歩いていると見せかけ、犯人をおびき寄せるのだ。実際にはこの博物館を先に出るのは橘刑事で、犯人がもし襲い掛かってきたら、周囲に張り込んでいる刑事さんと共に捕まえるのだという。

「あの、気を付けてくださいね」

 私がそう声をかけると、橘刑事は余裕の笑みを浮かべ、敬礼した。智陽くんのことを好きになっていなければ、恋に落ちたかもしれない。

 橘刑事が出発して五分後、私たちは博物館を出た。左に智陽くん、右に小安くんがいて、なんだか私まで連行されているような気分だ。それを口に出すと、二人はそろって不満そうな顔をした。

「そこは普通、お姫様とナイトだろ」

「やる気が削がれるなあ」

 気楽にプラプラと歩いていた私たちだったが、小安くんに連絡が入り、一気に緊張が走った。どうやら、怪しい人影が橘刑事の後をつけているらしい。私たちは少し急ぎ足で、この先にある公園に向かった。私が封筒を奪われた場所だ。

 私たちが公園の入り口に差し掛かった時、まさに黒っぽい人影が橘刑事との差を詰めて、階段の上から突き落とそうと手を伸ばしたところだった。

 危ない、と思わず口から出たが、全くの杞憂だった。橘刑事は伸びてきた手を躱し、さらにその手を掴んだ。そしてそのまま柔道の要領で投げ飛ばしてしまった。どこまでも格好いい女性だ。

「痛い! 離してよ!」

 投げられた怪しい人物は地面に押さえつけられ、高い声で叫んでいた。私はその声に驚く。女性で、しかも私の知っている人の声だったからだ。

「来海ちゃん……?」

 近づくと、黒いキャップの下の顔が見えた。間違いない、ブックカフェでアルバイトをしていた、来海ちゃんだ。

「彩野さん、彼女と面識があるんですか?」

 私は頷き、橘刑事に説明した。でも、どうして彼女がこんなことをしたのか、全く想像がつかなかった。小安くんが進み出て、来海ちゃんに尋ねる。

「どうして写真を奪おうとしたんだ? 君は、洲倉智景が転落した事件に関わっているのか?」

「そんなの、知らないわよ! 私が働き始めたのはその後だもの」

「でも君は、ここで彩野が持っていた写真を奪って逃走しただろう」

「それは私じゃない! 私は便乗したのよ。そうすれば、他の人が罪をかぶってくれると思ったの!」

 橘刑事と小安くんは、困惑したように互いの顔を見た。

「彼女の言っていることは、本当かもしれません。さっき、彼女は封筒ではなく橘さんの肩に手を伸ばしていました。つまり、目的は彩野さんを突き落とすことだったのではないでしょうか」

 智陽くんが言い、刑事さんたちがざわめいた。

「しかし、仮にそうだとしても、理由が……」

 橘刑事は首を捻り、来海ちゃんを見る。彼女は地面に伏せたまま、視線を合わせようとしなかった。

「理由は、お姉さんのこと、かな」

 来海ちゃんの顔に、明らかな動揺が走った。智陽くんは膝をつき、彼女に言う。

「警察が調べれば、君のことくらいすぐにわかるよ。鹿倉来海さん」

「鹿倉……まさか、望海ちゃんの、妹?」

 来海ちゃんは叫び声をあげて暴れた。それでも拘束が緩まないとわかると、私を鋭い視線で睨みつけた。

「そうよ、私の目的はあの人に復讐することだった。お姉ちゃんが叶えられなかった夢を、あんたは叶えられるはずだったのに! 平気そうな顔で戻ってきて、へらへらしちゃって、腹が立ったのよ!」

 静かにしなさい、と橘刑事が一喝するのを、私はどこか遠くの声のように聞いていた。

「根性なし! 才能もお金もあったのに、なんで諦めたのよ!」

 来海ちゃんの言葉だけが、私の耳に突き刺さるようにして、聞こえていた。私は耳を塞ぎ、違う、と叫んだ。

「私には、才能なんてなかった。どれだけ努力したって、本物の才能には、望海ちゃんには、敵わなかった」

「嘘よ、お姉ちゃん言ってたもん、光里ちゃんはすごいって。彼女みたいに、うまくなりたいって」

「高校生の時は、まだほんの少し、私の方が上手かったかもしれない。でもすぐに追い抜かれると、私にはわかった。だからずっと、怯えていたの。留学先も、わざわざ彼女と違うところにした」

「でも、でも、お父さんの、彩野覚の血があれば……」

「ないの」

「……え?」

「父と私には、血縁関係はないの。私は母と、母の不倫相手の子供だから」

 私がそれを知ったのは、留学先に届いた母からの手紙を読んだ時だった。苦しんでいる私を見て、母は真実を伝えたのだ。もう頑張る必要はない、だってあなたには、天才の血は流れていないのだから、と。

「そのことを知った時、私のすがっていた唯一の支えが、なくなった。もうそれ以上、頑張れなかった」

 悔しさが蘇って、私の目から涙になって溢れた。裏切ってごめんね、と私は来海ちゃんに繰り返した。両親も、先生も、期待してくれた。でも、裏切ってしまった。

「もういいよ、彩野さん」

 智陽くんが私の肩を引き寄せて、なだめるように、ポンポンと背中を叩いた。

 それから智陽くんは、呆然としている来海ちゃんに尋ねた。

「君には、夢がある?」

「え、夢?」

 来海ちゃんはぱちぱちと瞬き、智陽くんを見上げた。

「人生を全部捧げる覚悟で、努力して掴もうとした夢だよ。それを諦めなければならないと悟った時、本当に諦めることがどれだけ勇気のいることか、君にはわかる? 描いた未来と全く違う方に新しい一歩を踏み出すことが、どれだけ大変か、君にはわかるの?」

 私はようやく、智陽くんが怒っているのだと気づいた。静かに、でも激しく、怒りを燃やしている。

「立ち止まらず努力している彼女を罵倒する資格は、君にはないよ。君は身勝手だ。勝手に姉の夢を託して、失望しただけだ」

「……智陽、そろそろやめておけ。お前の気持ちはわかったから」

 小安くんがそっと、智陽くんと来海ちゃんの間に入った。

「じゃあ、最後に一つだけ」

 智陽くんに視線を向けられた来海ちゃんは、先ほどの言葉がかなり効いたのだろう、怯えたようにびくりと体を震わせた。

「鹿倉来海さん、美大に通っているあなたに、協力してほしいことがあります」

「ふえっ?」

 あまりに意外だったのか、来海ちゃんは変な声を上げて、すがるように小安くんや橘刑事を見た。混乱する刑事さんたちを代表して、小安くんが尋ねた。

「お前、今度は何を考えてる?」

「そりゃ、真犯人を捕まえるための作戦だよ。いいこと思いついたんだ」

 にんまりする智陽くんを見て、小安くんは大きなため息をついた。


 宙ぶらりんな気分を抱えて、私は智陽くんと帰路についていた。勢いで自分の出生を告白してしまったことに、すっきりはしたが少し動揺している。来海ちゃんにSNSで拡散されないだろうか、父に迷惑が掛からなければ良いが、とぐるぐる考えていた。

 でも一方で、私はとても満たされた気分だった。浮かれた私は智陽くんの手を掴んで、ぶんぶん振り回した。

「ずいぶんご機嫌だね、彩野さん」

 戸惑ったように言う智陽くんに、私は笑いかけた。

「だって、智陽くんが私のこと、ちゃんと見ていてくれたから。私は頑張ってるって、認めてくれたから」

「……まあ、高校の時から、ずっと、気になってたし」

 智陽くんは昔を思い出すように、宙を見て言った。

「彩野さんはいつも、窮屈そうで、つまらなそうに、俺には見えた。でも、智景を見ているときは、そうじゃなかった。それを見て、俺が声をかけるのは邪魔になると思ったんだ。彩野さんは、“智景と同じ側”に行くんだって思ったから。本当はね、ずっと言いたかった。そんなに頑張らなくてもいいんだよ、もう十分、頑張ってるよって」

 私の視界はまたじわじわと、滲んでいた。私はずっと、こんな言葉を待っていたのだ。頑張っていると、認めてほしかった。誰でもいいわけじゃなくて、好きな人に。智陽くんに。

「智陽くん、ありがとう。もっと早く、智陽くんのことを好きになったら良かった」

「本当だよ、人生の半分以上損するとこだったね」

「何それ、自信ありすぎ!」

私はこぼれた涙を拭って、声を上げて笑った。


 騒動のうちに八月は過ぎ去って、いつの間にか九月が訪れていた。残暑は厳しいが、それでも真夏よりは暑さが和らいでいる。

 店には父が来ていて、そろそろまた日本を離れることになりそうだと言った。

「しかし、光里を日本に置いていくのも心配だな。もし、この間のようなことがあったら……」

「大丈夫よ、お父さん。ちゃんと気をつけるから。それにね、私はやらなきゃいけないことがあるの」

 父はまだ何か言いたげにしていたが、結局飲み込んだようだった。代わりに、感慨深げにこう言った。

「なんだか、たくましくなったな。堂々としていて、いい顔だ」

「そりゃあ、彼氏もできて幸せいっぱいだもんなあ」

「ちょっと平志さん、余計なこと言わないで!」

 彼氏、という単語に父の眉が思い切りへの字になった。

「それは、この間の彼か。洲倉くん、といっていた」

 私はぎこちなく頷いたが、同時に父が二人きりで中華街に行くよう言ったことも思い出した。それで不機嫌になるなんて、理不尽にもほどがある。

「まあしかし、なんというか、お前もそろそろそういう歳ではあるし、いずれは結婚も……いや、それはまだ早いような……」

 ずいぶん先のことまで心配している父に、なんと言葉をかけたものか、と悩んでいると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。消防車のサイレンだ。

「なんだ、結構近そうだな」

 平志さんが立ち上がり、ドアを開けて外の様子を窺った。さらにサイレンの音が大きくなる。私と父も、外に出た。

「あ、あそこに煙が!」

 黒々とした煙が、汐汲坂の方で上がっていた。時折、火の粉が舞うのが見える。

「まさか、カフェが……?」

 私は誰かに聞くのももどかしく、走り出していた。父の慌てるような声が聞こえた気もするが、すぐにサイレンにかき消されて聞こえなくなった。

 坂を下りてきた人たちとすれ違う。カフェ、と聞こえた気がした。消防車の赤いライトが、木々を透かして見えている。

「……やっぱり」

 黒い煙と赤い炎を上げて燃えていたのは、「ブラフ・ブック・カフェ」だった。野次馬の見守る前で、消防車が放水を続けている。私は来海ちゃんの姿を見つけ、駆け寄った。

「あ……光里さあん!」

 私は怯えた様子の来海ちゃんの肩を抱き、怪我がないか確認した。

「無事でよかった。どこから火が出たの?」

 わからないと、来海ちゃんは言った。

「お店はまだ準備中で、私もついさっき来たら、燃えてたんです」

「新井野さんは?」

 来海ちゃんは人の輪の一角を指差し、あそこにと言った。

「うっかり揚げ物用の鍋をひっくり返してしまったって、あの人たちに説明していました。両隣のお店のスタッフさんです」

 ぺこぺこと、体を折りたたむようにして謝っている新井野さんの姿があった。彼は私たちに気づくと、眉を下げた困り顔で、近くまでやって来た。

「いやー、やってしまったよ。準備中で僕しかいなかったのが、不幸中の幸いだけどね」

「でも、水をかぶったら古本はダメになってしまうでしょうね」

 私の言葉に深くうなずき、新井野さんは大げさなため息をついた。

「本もだし、あの写真もだよ。せっかく集めたのになあ」

 ふと、新井野さんの目線が私たちの背後に向かった。振り返ると、智陽くんが立っていた。

「ずいぶんと、思い切ったことをされましたね。燃やすなら、“あれ”だけで良かったのでは?」

「……何の話だい? あれ、というのが何のことか僕にはさっぱりだけど」

 新井野さんは眼鏡の奥の目を丸くして、訝し気に言った。

「智景の写真ですよ。『横浜写真』の技法を真似た、手彩色の写真のことです。あなたは捜査の手が迫る気配を感じて、証拠となるあの写真を、処分しようとしたんですよね」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。証拠って、何のことかな」

 新井野さんは手で制するようにして、智陽くんから一歩遠ざかった。火の粉のパチパチ爆ぜる音が、聞こえている。

「あなたが、智景に怪我を負わせた証拠です。彼は野毛町で転落したわけではなく、あの店で殴られ、崖下に放り投げられたんです。あの写真には、その証拠が残っていました」

 智陽くんは押し黙った新井野さんに構わず、続けた。

「あの写真には、不自然な点がありました。彩色に使われた、色です。赤が、使われていましたよね」

「確かに赤色は使われていたけど、それのどこが不自然なんだい?」

「智景は、赤を使わないからですよ。彼は色覚障害で、赤色を見ても僕らと同じようには見えないんです。だから、赤色が絵に馴染んでいるということは、他の赤色が見える誰かが、後から彩色したということです。そして写真について知識のあるあなたなら、それができるはずです」

「……わからないな。どうして、赤を後から足す必要があったんだい?」

「赤色の何かが写真に付着して、それをごまかす必要があったからでしょうね。――血液、とか」

 新井野さんは口を噤み、自分の背後にある、燃え盛る店を振り返った。放水は続けられているが、火の勢いはまだ収まらない。大きな音を立てて、梁が焼け落ちた。彼が唇の端で微かに笑みを浮かべたのを、私は見逃さなかった。智陽くんに向き直った新井野さんは言う。

「仮に、万が一、僕がその細工をしたとしよう。でもその証拠とやらは、もう焼けてしまっている。どれだけ議論しても、無駄じゃないのかい?」

「ええ、無駄でしょうね。もし店と一緒に燃えたのが、本物の写真だとしたら」

「は……なんだって?」

 智陽くんはうろたえる新井野さんに、一歩近づいた。

「実は、あの写真は一週間ほど前に中身を交換したんです。ネガから写真を現像して、同じように手彩色したものに。よくできていたでしょう?」

「そんな……じゃあ、本物はどこにあるんだ?」

「我々のところです」

 いつの間にか新井野さんの背後に控えていた橘刑事が、凛とした声で言った。

「すでにあの写真から血液を採取し、それが洲倉智景さんのものであると判明しました。なぜ、彼の血液が付着していたのか、署で聞かせてください」

 魂が抜けたような表情の新居野さんが、体格の良い刑事さんたちに挟まれ、パトカーへと連行されていく。大人しく従っていたように見えたが、パトカーに乗り込む間際、爆発したように彼は叫んだ。

「あいつが悪いんだ! 才能があるやつには、俺の苦しみなんて理解できないんだよ!」


 そうして事件は真犯人の逮捕によって、収束に向かった。

 決め手となった写真の偽物は私が現像し、来海ちゃんが彩色した。そして、彼女が新井野さんの目を盗み、交換してくれたのだ。

 新井野さんがどんな自供をしているのか、言える範囲で小安くんが教えてくれた。

 新井野さんは智景くんをブックカフェで襲い、レンタカーで野毛町まで運んだという。その時、これから額に入れようとしていた智景くんの写真に、血が飛んでしまった。しかし写真はすでに他の人の目にも触れており、隠すことはできなかった。そこで、赤い絵の具で上塗りすることを思いついた。

 そして彼が智景くんに殺意を向けた理由は、二つの犯罪を知られてしまったことだった。一つは、望海ちゃんの殺害。もう一つは、和奈さんへのストーカー行為だ。智景くんはストーカーが新井野さんだと気づき、そこから疑惑を深めていったのだろう。

 警察が辿り着けなかったのになぜ、と首を捻る小安くんに、智陽くんが説明した。

「智景の目は、明度の差を捉えることに優れていた。色覚異常のある人は、そういう傾向があるみたいだね。だから、暗闇に潜んでいた新井野さんにも、写真に写った鹿倉さんの持ち物にも、気づいたんじゃないかな」

 しかし、そもそもなぜ新井野さんは望海ちゃんを殺したのか。その理由は、彼のコンプレックスにあった。プロの写真家を目指したが、自分の撮りたい写真を撮るだけでは食べていくことができずに、諦めたのだという。そんな彼の前に、才能と希望に満ち溢れた鹿倉望海という少女が現れた。自分になかったものを持ち、期待に胸を膨らませる望海は、そこにいるだけで新井野さんのプライドを傷つけた。

――あの鈴の音に、耐えられなくなった。お前は凡才だと、馬鹿にされているように聞こえたんだ。

 新井野さんはそう言ったという。鈴の音とは、智景くんが贈ったチャームについていた鈴の、あの涼し気な音のことだ。和奈さんも、同じものを持っていた。

――洲倉智景は俺に言った。三澄和奈を、鹿倉望海のように殺させはしないと。だから、言ってやった。俺はあの鈴の音がうるさかったから、彼女を殺したんだって。あいつはショックを受けていた。あの瞬間が、一番気分が良かった。

 二年前、智景くんが危険を冒して殺人犯に対峙した理由。それは、和奈さんを守るためだったのだ。夢をかなえようと旅立つ彼女を、望海ちゃんの二の舞にはさせたくなかった。

「大事だったんだね。望海ちゃんのことが」

 私はぽつりと呟き、小安くんも智陽くんも、噛みしめるように頷いた。

 あの写真の中に隠れた望海ちゃんへのプレゼントを、一目見て気づいてしまうくらい。私はずっと前に、失恋していたのだ。でも、相手が望海ちゃんなら、仕方ないと思った。


 私は静かな廊下を抜け、ドアをノックする。心の中で三つ数えて、ドアをスライドさせた。

「こんにちは、智景くん。三日ぶりだね」

私はいつも通り、病室の隅にある椅子を持ってきて、ベットの脇に置く。

「今日は、おかしな依頼をするお客さんが来てね……」

私は最近、こうして数日おきに智景くんの元を訪れている。初めは緊張したけれど段々と慣れてきて、何か面白いことがあると、これは智景くんに話そうと楽しみにするようになった。

「そういえば私ね、一つ気づいちゃった。智景くんが撮った写真のこと」

私たちが卒業した高校の風景から始まって、帰り道の河原や、寄り道した公園。そして、日本を飛び出して海外へ。海外で撮られた写真の被写体はすべて、音楽にまつわるものだった。

「あれは、望海ちゃんが見ていた景色と、これから見るはずだった景色だったんだね。望海ちゃんに、見せてあげたかったんだよね」

私は智景くんが何か答えてくれるのではないかと、期待した。しかしいくら待っても、何も起こらなかった。私は落胆を悟られないよう、明るく言った。

「智陽くんが帰ったら、教えてあげようかな。それとも、兄弟に知られるのは恥ずかしい?」

私は意地悪く笑ってから、窓の向こうの風景を眺めた。今日は快晴で、目を凝らすと富士山が見える。

智陽くんは今、智景くんの治療法を学ぶため、なんとイタリアに行ってしまった。その道の権威が、その国にいるのだという。

「智陽くんの夢はね、智景くんと昔みたいに話すことだって。今日何が食べたいかとか、明日は帰りが遅いとか、そういう普通の話がしたいって」

 智陽くんはそのために、遠い国で頑張っている。当たり前の日々を、取り戻すために。

「……私にはね、小さいころからの夢があった。それが叶わなければ今までの人生が無駄になるって、ずっと思ってた。でもね、違ったんだ。一つの夢が終わっても、また次の夢が見られるんだって、気づいたの」

私は破れた夢の上に立って、新たな夢を見ている。

「私は欲張りだから、いくつも夢があるの。智景くんには、とっておきの夢を、特別に教えてあげる。それはね……」

私は智景くんの耳元に顔を寄せ、囁いた。

「どうかな? ……ふふ、祝ってくれると、嬉しいな」

 いつか、智景くんがこの場所を出ることができたら。そうしたらきっと、今よりもっと楽しい日々が、始まるだろう。私はその日を、心待ちにしている。

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横浜元町 写真修復工房 小松雅 @K-Miyabi

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