第5話海を渡る約束
七月に入り、梅雨明け宣言と同時に夏がやって来た。相田写真館のエアコンはクーラーの効きが悪く、私も平志さんも、さっそく夏バテ気味だ。
ドアベルの音が鳴って、この暑さの中来るなんてどんな物好きだ、と十割八つ当たりで入り口を見る。しかし次の瞬間、暑さはどこかに行ってしまった。
「お父さん! 日本に帰ってたの? あ、
汗をふきふき現れたのは、父の
「光里ちゃん久しぶり! しばらく日本にいる予定だから、よろしくね」
「こっちで仕事があるんですか?」
「私も先生もインタビューとかはあるけど、主目的は休暇よ。だからそのうちお茶でもしましょ!」
和奈さんはそれだけ言うと、さっさと店を出て行ってしまった。そして残された父は、ポツンと中途半端なところに佇んでいる。
「と、とりあえず、座る?」
「あ、ああ、どうも」
笑えてくるくらい、ぎこちないやり取りだった。今日はタイミング悪く、平志さんはトキさんとどこかに出かけている。私は時間を稼ぐ意味もあってコーヒーを淹れ、父に出した。
「あー……どうなんだ、仕事の方は」
「うん、それなりにうまくいってるし、楽しいよ」
特に虚勢を張るわけでもなく、私は言った。お父さんの方はと聞けば、普通だという答えが返ってきて、話の広げようがなかった。ここで智陽くんでも来てくれれば場が和むのだが、今は仕事中だろう。
「その、光里は写真のことを勉強したんだよな?」
探り探り、父が言う。私は改めて、写真修復師を名乗っていることや、大まかな仕事の内容を説明した。
「……そうか、それなら一つ、頼まれてほしいことがあるんだが」
父の知り合いの家にある、古い写真の鑑定をしてほしいとのことだった。
「知り合いというのは、父さんの音楽人生での恩人ともいえる人なんだが、その人の奥さんから相談を受けたんだ」
それから父は、あまり話さない自分の若いころの話を少しだけした。海外留学の席は限られており、成績やコンクールの結果によって決められていたが、父はここぞというところでインフルエンザにかかり、結果が揮わなかった。仕方なく諦めようとした父に、援助を申し出たのが、父が恩人と言った
「私は高宮さんがいなければ、今こうして演奏家として活動していなかったかもしれない。そのくらいの、恩人なんだよ。実は光里の名前も、彼から一字もらったんだ」
知らなかった。父はごく普通の家庭に生まれたと聞いていたが、両親が自分のために家計を切り詰めてくれて、ヴァイオリンを続けられたのだと言っていた。それでもやはり、海外に行くということは大変なことで、そんな苦労もなく進学した私は、恵まれていたのだ。それなのに、期待を裏切ってしまった。
私は暗くなりそうな思考に蓋をして、笑顔を作った。
「そっか、私の名前の由来になった人なら、私にとっても他人じゃないわね。写真というのは、普通の家庭にあるようなものなの?」
「いや、歴史的に価値があるものらしい。高宮さんは以前、収集癖があるとご自分でおっしゃっていてね、昔の珍しい写真を集めたりもしていたそうだ」
歴史的価値のある写真、と聞いて俄然私の気分も盛り上がった。こちらから頼んで見せてもらいたいくらいだ。
父は私の目が輝いたのを見逃さず、小さく笑った。
「良い仕事に就いたみたいだな」
私は照れ臭さを感じながら、うん、と頷いた。
「それで、高宮さんは今、どうされているの?」
父の口ぶりから、亡くなっているかもしれないと思ったが、横浜市内の病院に入院中とのことだった。勝手に殺してすみません、と心の中で謝る。
「特に大病を患っているわけではないそうだが、最近食欲も落ちているようで、気分も沈みがちらしい。遺産の話にもなって、写真の保存状態を確認して、価値も調べたいと……。まあ、家族としてはとりあえず高宮さんを安心させるために、人を呼ぼうというくらいの気持ちらしいが」
だからあまり気張る必要はないと、父は言った。父は本当に私に甘いと、心の中で苦笑する。その甘さは、才能のない私に興味がないからだろうと以前は考えていたが、父はもともと、誰かに怒るとか厳しく叱責するとか、そういったことが苦手なのだ。単に私が捻くれていただけなのだと気づくまでに、ずいぶん時間がかかってしまった。
「……わかりました、お引き受けします。まずはお家に伺って写真を確認したいから、都合の良い日を聞いてもらえる?」
「もちろんだ。すぐに聞いてみよう」
父は席を立ち、日程が決まればまた連絡すると言った。私はしばらく逡巡し、意を決して、父の背中に声をかけた。
「ねえお父さん。お母さんのこと、まだ怒ってる?」
父の肩が、ピクリと揺れた。父は振り返らずに言った。
「知った時、怒るというよりは愕然としたんだ。気づかなかった自分にも、失望した。だが、離婚するつもりはないよ。光里も、一度うちに帰ってきなさい」
「……うん、そうね。そのうち」
父は肩越しに頷き、出て行った。別れの挨拶のようにドアベルが鳴って、ドアが閉じる。音のなくなった店内で、私はひとり呟いた。
「許せないのは、私だけか……」
和奈さんが言った「ブラフ・ブック・カフェ」という名の店も、店の両端に木が植えられていて、ちょっと奥まったところにあった。ブラフとは断崖や絶壁という意味で、山手が外国人居留地だった時代、外国人がこの地域のことをそう呼んでいたそうだ。店名も、それに由来しているのだろう。
店はログハウスのような造りで、子供の頃に憧れた秘密基地のようだった。
「あ、光里ちゃん! こっちよ」
奥の席で、和奈さんが手招いている。テーブルも椅子も木製で、落ち着く雰囲気だ。
「こんなお店、あったんですねえ」
私は和奈さんの向かいに座ると、きょろきょろと店内を見回した。私たちがいる辺りはカフェスペースで、店の入り口側に本棚がある。おしゃれなブックカフェという感じだが、ここの特徴は、並んでいる本すべてが古本だということだろう。この店の話を和奈さんから聞いた時、そう教えてもらった。
「光里ちゃんでも知らなかったかあ。ブックカフェになったのは十年前だし、なんとね、古本屋としてはもう五十年以上ここで営業してたらしいわよ」
「え、そうだったんですね。ここ、通ったことは何度かあったはずなんですけど……」
思い返してみても、ここに古本屋がある、という記憶はなかった。
「影が薄いのよねー。店長と一緒で」
和奈さんが大きな声で言うと、カウンターの向こうからひょろりと背の高い男性が出てきた。和奈さんと同じ、三十代半ばだろうか。丸い銀縁の眼鏡をかけていて、髪は男性にしては長く、耳の下まである。
「まったく、三澄さんはキツイなあ。……あ、初めまして、店長の
長い体を折りたたむようにして、新井野さんは頭を下げた。私が口を開こうとすると、知ってますよ、とほほ笑む。
「あの彩野覚さんの娘さんで、今は商店街の写真館で写真修復をされているとか。いや、僕も昔写真をやっていたので、縁があるなあと――」
しゃべり続けようとする新居野さんに、こらこらと和奈さんが割って入った。
「光里ちゃんが可愛くて色々話したいのはわかるけど、ちょっと落ち着きなさい。お客様にはまずお冷でしょう」
「はい、大変お待たせしましたー。お冷です!」
続いて出てきたのは、私より年下、おそらく二十代前半の女の子だった。茶色く染めたショートカットの髪はパーマがかかっていて、外国人の少年みたいな可愛らしさがある。
「ありがとね、
「もう、そろそろやめてよ三澄さん」
来海ちゃんと呼ばれた彼女は、和奈さんと一緒に、困り顔の店長を見て笑った。それから私の方を向くと、じっと私の目を見た。観察されているようで、なんだか居心地が悪い。
「彩野覚さんの娘さんってことは、ヴァイオリンも弾けちゃったりするんですか?」
「う、うん、一応は。父のこと、知ってるの?」
「もちろんですよ! 日本人ならみんな知ってますって」
当然、という顔で言う来海ちゃんの答えが、私には意外だった。父は世界を股にかける演奏家で、クラシック音楽に詳しい人達には有名だと思うが、一般的な知名度はそんなに高くないと思っていた。
「昨年日本で発売されたアルバムが大ヒットしてね、それからかな」
「ああ、そういえば、そんな話を聞いたような……」
確か、有名女優が出演したCMに曲が使われて、その曲が入っていたアルバムがクラシック部門で一位を獲得したということだった。
「でも、光里さんは音楽の道には進まなかったんですね。なんでですか?」
ぐいぐい質問をしてくる来海ちゃんにたじたじになりながら、私は言った。
「途中までは目指してたんだけど、私には向いていなかったみたいで……」
「ふうん、お父さんの才能を受け継いでも、そういうこともあるんですねえ」
彼女に悪気はないと思うのだが、いろいろな意味でその言葉は私の胸に刺さった。他のお客さんのオーダーを取りに来海ちゃんがテーブルを離れ、ほっとする。
「最近の若い子は、聞きにくいことをさらっと聞いてくるわねえ」
アイスティーの氷をかき混ぜながら、和奈さんが苦笑いしていた。私が注文したカフェオレを持ってやって来た新居野さんが、申し訳ないと頭を下げる。
「彼女、いい子なんだけど、思っていることを全部口に出しちゃうから」
「いえ、大丈夫ですよ」
私は新居野さんが気に病まないよう、そう答えた。来海ちゃんの言葉に傷を抉られたのは、彼女のせいではなく私の問題だ。
「あの子は美大生でね、将来は絶対デザイン関係の仕事に就くって宣言してるんだ。狭き門だと思うけど、なんていうか、まだ挫折を知らないんだろうね」
新居野さんは私が傷ついた理由の一つを、しっかり理解していた。驚くと同時に、ちょっと嬉しくなった。そしてもしかしたら、彼も何かを目指して、諦めたのかもしれないと思った。
「まあ、芸術の道は実力だけじゃどうにもならないこともあるわよね。私の場合は、運が良かったと思うわ。彩野先生の目に偶然留まって、今こうしてる。たぶんそうじゃなきゃ、音楽は諦めて別の道を選ぶしかなかったでしょうね」
和奈さんは、遅咲きのヴァイオリニストと言われていた。三十歳間近で父の弟子になり、それをきっかけに才能が開花した。彼女の演奏は、薔薇のように妖艶で美しいと評されていて、二年ほど前から世界各地を回って演奏をしている。
「で、悩むとよくここに来て、新居野くんに愚痴ってたってわけ。この人、話を聞くのはうまいのよ。特にいいアドバイスをくれるわけじゃないけど」
「三澄さんはいつも、一言余計なんだよねえ」
私は二人の和気あいあいとしたやり取りで、毛羽立った心が少し落ち着いた。私もこんな風に相談できる相手がいたら良かったのになあと、少しだけ後悔した。
数日後、父から連絡があった。高宮氏のお家を訪ねる話についてだ。できるだけ早い方が嬉しいとのことだったので、次の日曜日に父と向かうことにした。
「何十年か前に伺ったことがあるが、坂の上にあって、見晴らしの良いお家だよ」
山手の住宅街を歩きながら、父は言った。思えば、父と二人でどこかに出かけるのは初めてのことだった。父はほとんど家におらず、私もレッスンが忙しかった。気まずいわけではないけれど、こそばゆい感じがする。
高宮邸は資産家といわれるだけあって、豪奢な洋館だった。雰囲気は観光地化されている「外交官の家」に似ているが、一画には灯篭の点在する日本庭園もあり、中華風の大きな壺のようなものもあり、不思議な光景だった。これらも、高宮氏の趣味で集めた物だろうか。
私たちを出迎えてくれたのは、高宮氏の
美沙子夫人はあの彩野覚を呼びつけてしまったと、しきりに恐縮していた。
「ちょっと軽い気持ちでお話したつもりが娘さんまで巻き込んでしまって」
「ママ、そんなにオロオロしてたらかえって失礼よ。せっかく来ていただいたんだから、きちんと教えていただきましょ」
亜利沙さんは見た目通りのさっぱりした方で、母親を明るく諭していた。沙羅ちゃんはお客さんが嬉しいのか、広い部屋の中を走り回っている。
程なくして、良い香りの紅茶が運ばれてきた。使用人はいないらしく、美沙子夫人自ら淹れてくださったようだ。添えられたショートブレッドも、バターが効いていて美味しい。
「高宮さんのお加減は、いかがですか?」
父が夫人に尋ねると、彼女はもううんざりというように息を吐いた。
「もうね、遺産がいくらになるとか固定資産税がどうとか、そんな話ばっかりで。それ以外はずっとぼんやりしているんです。死ぬ気満々ですよ」
心配より、憤慨しているようだ。
「でも、とりあえず安心させないとうるさいのでね、申し訳ありませんが見ていただけるかしら?」
「ええ、もちろんです」
私はワクワクしながら、写真が集められているという書斎に向かった。
「わあ、すごい……!」
本棚に立てかけられている額縁の写真を見て、私は思わず声を上げた。きっと、智景くんも感動するだろう。日本だけでなく、海外の古い写真もある。
現在ではほぼ使われることのない技法である、ゴム印画。これは版画やパステル画に近い見た目だが、れっきとした写真だ。
鶏卵紙の写真で作られたアルバムもあった。鶏卵紙とは、その名の通り鶏の卵、卵白を含むバインダー層を持ち、紙が支持体になっている。この時代は、写真をアルバムに収めて見せるという習慣が広まったころで、彫金された銅やブロンズの留め金などを使った、最も美しい写真アルバムが作られた時代だといわれている。
「これだけ集めるのは、かなり時間がかかったでしょう?」
私の質問に、夫人は呆れたように首を振りながら答えた。
「時間もそうですけど、お金がかかっていると思うわ。あの人は色んなものを集めていましたけど、ここまでつぎ込んだのは写真くらいでしょうね」
コレクションのリストを作るだけでも、半日はかかりそうだ。
私たちが話していると、ばさばさと何かが落ちる音が聞こえてきた。
「こらっ、沙羅! この部屋は物が多いんだから、走り回らないの!」
どうやら、沙羅ちゃんが床に置かれていた段ボールの箱をひっくり返してしまったようだ。沙羅ちゃんは口をへの字に曲げて、つまらなそうにしている。
散らばったものを拾っている亜利沙さんを手伝って、私は一冊のアルバムを拾い上げた。年季が入っていて、表紙も背表紙も、元のえんじ色が剥げかけている。綴じている糊も粘着力が落ちているようで、落としたらばらばらになってしまいそうだった。しかし、元はそれなりにしっかりした造りだったのだろう。
私は美沙子夫人に断り、丁寧にアルバムの表紙をめくった。それは、学生時代の写真のようだった。皆ゼッケンをつけたユニフォームを着て、帽子をかぶっている。白黒の世界で、野球に打ち込む男子学生が躍動していた。
覗き込んだ夫人が、初めて見たわと驚きの声を上げた。
「そういえばあの人、昔は野球少年だったのよ。これはたぶん、高校生の頃ね。勉強そっちのけで野球に夢中だったみたいよ」
夫人の言うように、写真の中身は野球部のユニフォームを着た姿ばかりだった。試合や練習中だけでなく、ふざけ合って笑っている写真なんかも入っている。
少々毛色が違うのが、最後の見開き一ページだった。十枚の写真が、等間隔で並んでいる。一枚に写っているのは一人だけで、まるで選手紹介の写真のようだ。そしてこれらの写真だけ、カラー写真だった。
カラー写真が日本で本格的に普及し始めたのは、国内の企業がネガフィルムを販売するようになり、現像所が増えてきたころだ。一般家庭でカラー写真が主流になったのは一九六〇年代後半だと、何かの本で読んだ。
「あの、この写真が撮られたのは何年ごろかわかりますか?」
夫人に聞くと、彼女は指を折って計算しながら答えた。
「今から六十年は前だと思うから、一九六〇年ごろかしらねえ……」
「まだ、一般的にカラー写真が普及する前ですね」
フィルムの値は張るだろうし、手に入れることも大変だったかもしれない。そんな時代にカラー写真撮ったのは、何か理由があったのだろうか。
「あら、このファイルは写真じゃないのね」
事務用のファイルのようなものを開いた亜里沙さんが言う。それをのぞき込んで、父が顔をほころばせた。
「懐かしいなあ、野球カードだよ」
「野球カード?」
女性陣三人は、揃って聞き返した。
「こういう風に、野球選手の写真が印刷されたカードさ。裏面には紹介が書いてあったりする。これは昔の大リーグの選手だな。日本のプロ野球選手のカードもあって、父さんはお菓子のおまけに入っているものを集めていたよ」
男女の差か、私はそういったものに興味を持ったことがなく全然知らなかった。美沙子夫人や亜利沙さんも、同じらしい。
「……お父さん、野球好きだったの?」
「ああ、やる方はからっきしだが、見るのは好きだよ」
それも、全然知らないことだった。
「あの人ったら、こんな頃から集めるのが好きだったのねえ」
夫人は呆れたように言ったが、笑みを浮かべていた。
みんなの興味は野球カードに移っていたが、私はカラー写真が気になっていた。珍しいからではなく、なんだかちぐはぐな印象を受けたからだ。
「光里さん、何かありましたか?」
亜利沙さんに聞かれ、私は頷いた。
「この写真、退色の具合がそれぞれ違う気がするんです。写真の裏面に印画紙のメーカーが書かれていてそれはすべて同じなので、プリントしたのは同時だと思うんですが……」
私はカラープリントの退色について、簡単に説明した。強い光に当たると急速に退色することや、暗所で保存していても退色が起こること。見た目としては、黄色っぽくなったり、赤っぽくなったりするが、退色する色の順は保存環境によりまちまちであること。
「例えば、暗い所と明るい所では、同じ写真でも退色する色の順が違うことがあるんです。つまり、この写真は一旦ばらばらになって、その後ここに集められたのではないか、と思います」
私が話し終えると、場がしんと静まり返った。どうでもいいことをペラペラしゃべってしまっただろうか。私がびくびくしていると、夫人が私の手を取って言った。
「素晴らしいわ! 探偵さんみたい。あの内向的で頑固な覚さんが、こんな立派なお嬢さんを育てられるなんて……ねえ?」
「いやいや、恐縮です」
父が見たことのない顔をして照れていた。なんだか私まで恥ずかしくなる。
「それにしても、パパってばチームメイトの写真まで収集してたのね。筋金入りだわ」
私たちが笑い合っていると、沙羅ちゃんが何やら不思議なポーズをしながら奇声を上げていた。野球カードを見ながら、選手のポーズをまねているらしい。
「そうそう、こうやって真似したなあ。箒をバットに見立てたりして」
父は選手の名前を呟き、たぶん渾身の物まねを披露した。残念ながら、誰一人としてその選手を知らなかったが。
しかし、そのおかげでもう一つ、私は気づいた。カラー写真の球児たちのポーズが、野球カードの選手と同じことに。体格も背景も違うのでよく見ないとわからないが、よく似ている。私が指摘すると、今度は神経衰弱のようにして、野球カードとそれを真似た写真の組み合わせ探しが始まった。
「お父さんと一緒で、この人たちも真似してたんだね」
「男の子は、誰でもやりたくなるのさ」
わざわざカラーで撮ったのも、野球カードに似せたかったからかもしれない。アメリカの方がカラー写真の普及が早く、カードはすべてカラーだった。
「……うーん、この写真だけ見つからないわねえ」
美沙子夫人が、一枚の写真を指差して言った。
右手にグローブをして、左手は帽子の鍔に手をやっていた。マウンドに立っているから、ピッチャーだろう。精悍で、整った顔つきだった。亜利沙さんも、格好いいわねえと言って眺めている。確かに、このままカードになってもいいくらい、雰囲気のある写真だった。
よし、と手を合わせて頷いたのは、美沙子夫人だった。
「あの人の収集癖を利用しましょう」
突然何の話だろうと、私たちは戸惑った。夫人だけが、にんまりしている。
「だってあの人、この写真と同じポーズの野球カードをせっせと集めていたんでしょう? それがあと一つのところで揃うってなったら、どうかしら。おちおち死んでいられないんじゃない?」
「なるほど、生きる意欲がわくかもしれないわね。――よし、そうと決まったらちょっとパパを煽って来るわ。行くよ、沙羅!」
亜利沙さんは沙羅ちゃんの手を引っ張り、疾風のようなスピードでいなくなってしまった。キャッキャッと楽しそうな声を上げる沙羅ちゃんの声が、遠ざかっていく。
「あの子ったら、行動する前にまず考えなさいって言っているのに……」
おっとりと夫人は言った。
「あの、よろしければ私もお手伝いさせてください。同じポーズの野球カードを探すなんて大変だと思いますし、インターネットを使えば多少は楽だと思います」
これは写真修復にも鑑定にも全く関係ないが、元は私が写真について指摘して始まったことだ。それに、三人の様子を見ていて私も何か力になりたいと思った。
「ありがとう、光里さん。とても心強いわ」
「あと、この写真の中で連絡先が分かる方はいらっしゃいますか? その方にお話を聞ければ、当時のことがわかると思うんです」
高宮氏宛の年賀状を探せばわかるかもしれないと、夫人は言った。
「ああでも、一人すぐ近くにお住いの方がいらっしゃるわ。山手でお医者様をされていて……今はさすがに引退されているかしら。藪中さん、という方です」
「ん? その名前、どこかで……」
「藪中先生? ああ、一応まだ現役だよ」
電話で智陽くんに聞いてみたら、案の定、藪中医院の先生のことだった。世間は狭い。
「え、でももう七十代後半でしょ?」
「うん、だから勤務は週に二日くらいかな。まあ、あの年にしては化け物並みに元気だけど……いたっ!」
「えっ、どうしたの?」
何やら物音と悲鳴が聞こえた。
「いや、今昼休憩中なんだけど、ちょうど後ろを藪中先生が通ったから。化け物を化け物と言って何が悪いのか……」
頭か肩をはたかれでもしたのだろう。元気そうなのは確かだと、私は笑った。
翌日の休憩時間、早速話を聞いてもらえるということで、私は数か月ぶりに藪中医院を訪れた。思えば、智陽くんと散々な再会をしたのがこの場所である。
藪中先生は、灰色がかった目と長いまつげが異国情緒を漂わせる、様子の良い紳士だった。若いころは相当モテただろう。そして、実年齢より十歳は若く見えた。
「そうか、高宮が。あいつは昔から、考えすぎて寝込むタイプだったんだよなあ」
藪中先生は懐かしそうに頷きながら言った。
「確か、あいつがフライを取り損ねたせいで高校最後の試合が終わってね。その後も三日は熱を出して寝込んでいたよ」
聞きたいこととは、と話を振ってもらえたので、私は先日の高宮邸でのことを話した。藪中先生は昔の記憶がしっかりしているらしく、すぐに思い出して言った。
「そうそう、部員の中に、親がよく海外に出張に行くという奴がいてね、彼の家は裕福で新し物好きだったから、カラーフィルムもあったんだ。それで、野球カードのように撮ってみようと遊び出したんだな」
私はこれ、とキャッチャーミットを構えた写真を指差して藪中先生が言った。マスクで顔が見えないので、面影はよくわからなかった。
私は借りてきたアルバムを広げ、野球カードを真似て撮られた写真を見せた。
「この写真、退色の具合からしばらくは別々の場所にあったのではないかと思うのですが、どんな経緯があったんですか?」
「確か、卒業前に写真を撮って、同窓会の時にそれぞれ自分の写真を持ってくる約束だったんだ。それで、自分が真似をしたのと同じ選手のカードを一番多く持ってきた奴が優勝、というルールだったね」
誰が優勝したかは忘れた、と藪中先生は笑った。
「では、同窓会の時に集まった写真とカードを、高宮さんが保存されていたんですね」
「うん、あいつはそういうのを集めたり整理したりするのが好きだったからね」
それで、と私は一枚の写真を指し示した。
「こちらの写真だけ元の野球カードがわからなかったんです。それについては何か、事情をご存知ですか?」
「ああ……これは、タケか」
彼は台湾人だったのだと、藪中先生は言った。
「
しばらく宙を見上げていた藪中先生は、思い出したと声を上げた。
「そうだ、同窓会の直前に、郵便でこの写真が届いたんだ。彼は卒業と同時に台湾に帰ってしまってね、来られないということだった。不思議なことに、彼が真似た野球カードというのは、誰も見つけられなかったなあ」
「――本当は、存在していなかったりして」
ひょっこり姿を現した智陽くんが、そんなことを言った。しかし本題はそれではなかったらしく、お客様だと私に言った。
「高宮さんって方。待ちきれなくて来ちゃったんだって」
その素早さはやはり、亜利沙さんだった。父に連絡をしたところ私がここにいるとわかり、やって来たということだった。
「ちょっとね、書斎から気になるものを見つけたから。あの写真のカッコいい子から、手紙が来ていたみたいなんです」
「張さんですか?」
「ああ、チャンって読むんですね。写真が入っていたから、同じ人だとわかったんです」
他にも色々と入っていたのだと、亜利沙さんは封筒ごと見せてくれた。
「でも、高宮さん宛ですよね、勝手に見て大丈夫ですか?」
「いいのいいの、どうせもう半分死んだ気でいるんですから」
亜利沙さんは豪快に笑い飛ばした。どこからツッコめばいいのかわからないが、中身は気になる。見せてもらうことにした。
「これは横浜中華街の地図なんだけど、なぜか『宝の地図』って書いてあって、あと写真も何枚か入っていました。これも、中華街みたい」
じゃあ、と亜利沙さんは再び風を巻き起こして去っていった。
藪中先生と智陽くんの前で、封筒の中身を検分してみる。まずは、写真を確認した。野球のユニフォーム姿の張さんが、年配の男性の横で満面の笑みを浮かべている。
「これは確かに、タケだな。このユニフォームはどこのチームかわからないが、野球を続けていたんだな」
「藪中先生には、お手紙は来ていなかったんですか?」
「私は大学で地方に行くことがわかっていたから、高宮に出したのかもしれないな。それに、部員の中ではマメだったし。でも、それなら同窓会の時に教えてくれてもいいと思うが……」
「『宝』を独り占めしようとしたわけじゃないですよね」
智陽くんが横から言い、藪中先生は鼻で笑った。
「そんな小狡いことをする奴じゃない。君とは違うよ」
「先生、まだ患者さんが僕を指名したの根に持ってるんですか? おじいさんの嫉妬は見苦し――」
智陽くんは藪中先生が振り上げた手を避けて躱したので、代わりに私が叩いておいた。
「ちょっと、彩野さん先生より痛い!」
涙目の智陽くんは無視して、手紙を開いてみた。どうやら日本語はあまり得意ではなかったらしく、ところどころ想像で補う必要がありそうだった。
「まあ大体の内容としては、社会人野球でピッチャーとして活躍している、ということみたいだね」
藪中先生は嬉しそうに言った。しかし、と最後の一文を指して首を捻る。
「こいつは一体、どういう意味かねえ……」
そこには、「サードフライ思い出せ」と書いてあった。
「先ほど、フライを取り損ねたという話がありましたよね」
「ああ、高宮が……確かにあいつはサードだったなあ。でも、失敗を忘れるなっていうのも、酷だと思わないか?」
確かに、高宮さんは寝込むほど落ち込んだのだから、この手紙を読んで傷が抉られたかもしれない。
「もしかして、同窓会に手紙を持って来なかったのは、そのせいだったりします?」
有り得ることだと、藪中先生は頷いた。
「あいつ、蒸し返されるのが嫌だったのかもしれないな。かと言って、手紙が来たと言って見せないのも不自然だから、何もなかったことにしたんだろう」
「でも、その張さんはそんなにミスをしたことを怒っていたんですか?」
「いや、むしろ一番慰めていたのは彼だったよ。あれは自分が捕るべき位置だったと、一緒に泣いていた。だから、余計にこの言葉は不自然なんだよなあ」
藪中先生は首を捻り、うーんと唸った。それから地図と写真を智陽くんに突き出し、笑顔で言った。
「よし、洲倉くん。君はこの宝のありかを見つけてくれたまえ。その分は私が代わりに働こう」
「……まあ、いいですけど」
智陽くんは思ったよりあっさりと受け取り、私の予定を尋ねた。
「じゃあ、あとはハリーとなっちゃんにも聞いてみるね」
どうやら宝探しにかこつけて、中華街を満喫するつもりらしい。こういうところが小狡いと言われるのだろうな、と私は心の中で結論付けた。
奇跡的に全員の予定が合った水曜日の午後、私は智陽くん、藤間さん、小安くんの三人と中華街にいた。今日は三十度越えの真夏日で、照り付けるアスファルトと太陽の両方にじりじり焼かれているような気がする。
張さんからの手紙に同封されていた写真は全部で四枚あり、いずれも中華街の門が写っていた。こちらは白黒写真だ。藤間さんと小安くんにも事情を話し、まずはその場所を巡ってみることにした。
「宝探しかあ。埋蔵金とかかな」
「それよりは、古い壺とかの方がありそうじゃないか?」
たぶんそんな値打ちのある物ではないような気がしたが、乗り気になってくれているようなので、私はあいまいに笑っておいた。
今回調べてみて初めて知ったが、中華街の門「
写真に写っていたのは、朱雀門、朝陽門、延平門、そして中華街のほぼ中心にある善隣門だった。善隣門は中華街で最も早く作られた門だ。
私たちは元町・中華街駅から歩き、まずは朱雀門に向かった。門の下から見上げると、両側に羽を広げた朱雀の姿があった。とりあえず、いくつかのアングルで写真に収めておく。
「彩野がそうしてると、暗号解くために歩き回ったのを思い出すな」
小安くんが言った。私もちょうど、同じことを考えていた。
「ハリーってば狡いよね。ほとんどひかりんに解いてもらったんでしょ?」
「ひ、ひかりん?」
私のことだろうか。私の頭上では、二人による言い合いが繰り広げられている。
「うるさいな、お前だって智陽にほとんど作ってもらったんだろ?」
「だって暗号なんて私に作れるわけないじゃん!」
「オレだって解けるわけないじゃん!」
その横で、何を威張ってるんだか、と智陽くんが笑っていた。気を抜いていたら、突然藤間さんに腕を取られてびっくりする。
「ハリーばっかりひかりんとデートしてずるいから、今日は私と一緒ね。お腹もすいてきたし、手分けして回ろうよ」
話し合いの結果、私と藤間さんは朝陽門、男性陣は延平門と善隣門に行き、写真を撮ってくることになった。
「じゃ、集合は
藤間さんは高校生時代と変わらぬハイテンションで、私をぐいぐい引っ張っていく。
「あ、あの、藤間さん……」
「夏樹か、なっちゃんって呼んで!」
じゃあ、なっちゃんで、と答えると、ようやく腕を離してもらえた。なっちゃんはにかっと歯を見せて、楽しいねと言った。
「この間は、本当にありがとう。それから、ごめんね。ひかりんに事情を話すと、ハリーとの板挟みになっちゃうかなって思って……。でも、結局はそれも私の勝手な都合だったわけで」
ごめん、となっちゃんはもう一度謝った。
「ううん、びっくりはしたけど、私のこと頼ってもらえて嬉しかった。それに、藤……なっちゃんが元気で良かった。ケガのこと聞いて心配したけど、女優さんもすごく似合ってたよ」
「うう……ひかりん大好き!」
なっちゃんが私をぎゅうぎゅうと抱きしめ、私はみしりと骨のきしむ音を聞いた。さすが元アスリート、筋力が半端ではない。
「ひかりんは、今の仕事楽しい?」
「うん、楽しいよ。初めは一人で務まるか不安だったけど、写真を修復してお客さんが喜んでくれると、やりがいもあるし」
「そっか、良かったね。はいお祝いに栗あげる」
それはさっき配っていた天津甘栗だろう。中華街にくると至る所で勧められるのだ。特に栗好きではないが、勢いに押され受け取ってしまった。口に放り込むと、久しぶりのせいか記憶より甘くておいしかった。
「でもなっちゃん、良かったの? 小安くんと二人で回ったらよかったんじゃ……」
「ああ、智陽から聞いた? うーん……ずっと三人で行動してたから、二人きりだと気まずいんだよね」
なっちゃんは照れ臭そうに、頬をかいた。
「ひかりんこそ、どうなの?」
「え、どうって?」
智陽、となっちゃんは言った。
「あいつ絶対、ひかりんのこと好きだよ」
私は飲み込もうとしていた栗が変なところに入り、咳き込んだ。なっちゃんが、トントン私の背中を叩いて謝る。
「いや、私は……。というか、本当に私のことなんて好きなのかな? お医者さんだし、釣り合わないというか、もっと他に良い人がいるんじゃない?」
「いやいや、写真修復師だって立派な専門職だし、そもそも智陽は社会的地位とか気にしないでしょ。それに、高校の時からひかりんのことよく見てたもん」
私はもう一度咳き込みそうになったのをなんとかこらえた。
まさかそんなことはないだろうと思うけれど、でも親友の彼女が言うなら本当かもしれないとも思う。本当ならいいなと期待する自分に気づいて、私は愕然とした。
少し前までの自分なら、他に好きな人がいるからと簡単に答えられたはずだ。勢いがあれば、智景くんが、と言えたかもしれない。でも、今はわからなくなっていた。
私たちが乾珍楼の前でメニューを見ていると、少しして智陽くんと小安くんがやって来た。小安くんが嬉々として、一つ発見があったと言った。
「こっちの、善隣門なんだけどさ。この写真と今日撮ったこっちの写真、違うだろ。調べたら、一九八九年に建て替えられたらしいんだよ。だから、この写真はそれより前に撮られたってことだよな」
「まあ、手紙の消印が一九六六年だから、当然なんだけどね」
「あっお前、絶対気づいてて言わなかっただろ!」
智陽くんは悔しがる小安くんを笑いながらなだめ、そこになっちゃんが参加し、お腹がすいたと主張した。
「ほらひかりん、早くいこ!」
私は頷いて駆け寄る。楽しいねと、さっきのなっちゃんのように笑った。高校生の時、もっとこんな風に過ごせたら良かった。損をしたな、と少し後悔した。
ランチを食べながら「宝」について考えてみたが、結局今日のところは何も思いつかなかった。門はアングルもそれぞれ違って、特にこだわって取られたようには見えない。
「もう一つくらいとっかかりがないと、繋がらないんだよね」
藪中先生に、何か思い出したことがないかもう一度聞いてみようと、智陽くんが言った。私は少し上の空で、その話を聞いていた。それは料理に夢中だっただけじゃなく、なっちゃんに言われたことを意識してしまったせいもあるかもしれないけれど、それについてはあまり考えないようにした。
「それで、今回は特に写真も関係ないのにここへ?」
一層冷たさに磨きをかけてきた目が、私を見ていた。
「なんだかここに来ると、煮詰まってることがうまくいくんだよね。おまじないみたいなものかな」
私はお土産だと言って智景くんに月餅を献上した。ひとまず受け取ってくれたので、許されたと思うことにする。
「ネットでちょこちょこ野球カードのことも調べてるんだけど、例の元になったカードが見つからないのよね。でも、趣旨としてはないとおかしいはずだし……」
宝のありかもわからないが、こちらも難航している。唯一の良い報告は、亜利沙さんの“煽り”により高宮氏が収集癖を思い出しつつあるということだった。英語でメールを書き、問い合わせようかと言い出すくらいまで気になっているらしい。
「そういえば、洲倉くんは野球に詳しい?」
「……さあ、普通だと思うけど」
首をかしげる彼に、私は言った。
「ねえ、『サードフライ』って何?」
「……え?」
「藪中先生も智陽くんもそのまま流してたから聞きづらかったんだけど、私野球って全然わからないの。ヒットとか、ホームランとか、どうやったら点が入るかくらいはわかるけど、それ以上のことはさっぱり!」
智景くんはしばらく固まっていたが、やがて紙とペンを持って来て、ひし形を四つ描いた。
「これがホームベースで、右回りに、ファースト、セカンド、サード。それで、バッターがホームベースの左か右に立って、ピッチャーが投げたボールを打つと――」
智景くんはホームベースの横に棒人間を描き、バットらしきものの前に丸を描いた。そして線を引っ張り、サードベースの手前まで伸ばした。
「……洲倉くん」
「何? わかりにくかった?」
「ううん、説明はわかりやすい。でも、絵、下手だね」
智景くんは静かにペンを置くと、私を見た。
「もう、説明はいらないということ?」
「……ごめんなさい、もう二度と言わないです」
智景くんは無言でペンを取り、線の終点をペン先で示した。
「高く打ち上げられたボールのことをフライと言って、これをそのままバウンドせずに捕れば打者をアウトにできるから、普通は近くにいる守備の選手が捕球する。捕球した選手が三塁手だったら、サードフライになる」
私はわかったと頷いた。高宮さんはサードを守っていた三塁手で、フライを捕るはずだったけれど、落としてしまったということか。幻のサードフライ。うん、大体の状況はわかった。
「それが何か、関係があるの?」
「わからないけど、違和感があるって藪中先生が言っていたから、考えてみようかと思って」
私は今更ながら、手紙の文面を智景くんに説明した。彼は少し考えてから、昔、と口を開いた。
「台湾に旅行をしたことがあるんだけど、看板とか商品とか、間違った日本語が結構使われていた気がする」
「あー……そういえば、お土産でもらったお菓子も、微妙におかしかったかも。袋の切り口があるところに、命令口調で『開けよ』って書いてあって」
智景くんが俯いて、ふっと吹き出した。笑ったのを見たのは、初めてだ。何とも言えない嬉しさが、じわじわ胸を満たしていく。
「だから、その張さんて人も、『サードフライ』が宝の在処の鍵だと伝えたかっただけで、少し言い回しを間違えたのかもしれない」
取り繕うように言う智景くんがおかしくて、私はにこにこしてそうだねと答えた。
翌日、私と父はお客さんが来ないのをいいことに、店のカウンターに「宝の地図」を広げていた。今日は平志さんも店にいるが、ひとしきり父との再会を喜んだ後は定位置で昼寝をしている。
「写真が四枚あるでしょ、だから、野球場に見立てられないかな、と思ったの」
閃いてから早速、私は父に連絡した。閃いて地図を見てみたものの、そこから先が進まなかったのだ。
「門の位置関係としてはちょうど良さそうなんだけど、どう配置すればいいのかわからなくて……」
朱雀門、朝陽門、延平門、そして善隣門。地図上でその四か所に丸を付けてみると、ちょうどベースの位置に見えないこともない。なるほど、と父は腕を組んで言った。
「そういうことなら、指標がないわけでもないぞ。一般的に、ホームベースは北側になるんだ」
「えっ、そうなの?」
バッターが打席に立っているとき、南を見るように建設されていることが普通なのだという。
「じゃあ、そのルールに従って配置を決めると……」
四つの門の中で最も北にあるのは、朝陽門だ。ここをホームベースにすると、サードは朱雀門に当たる。「サードフライ」の位置はその近辺になるはずだが――。
「駐車場ばかりで、あまり気になるものはなさそうだな」
父の言うように、これといった建物が見つからなかった。良い線まで行っている気がするが、違ったのだろうか。
「おや、頑張ってますね」
いつの間にか、智陽くんが店の入り口近くに立っていた。彼は如才なく父に挨拶をすると、今日のお土産を掲げた。
「今日は橘花屋第二弾、ラムショコラです!」
ラム酒の利いたスポンジケーキをチョコでコーティングした、橘花屋のもう一つの看板商品である。ラム酒とチョコレートが口の中で混ざり合って溶けていく瞬間は、まさに至福の時だ。
私たちはいそいそとお茶の準備をし、再び地図に向き合った。智陽くんにも私の推理を話すと、彼はさらりと言った。
「でも野球場の建設って、そこまで厳密ではないですよね。現に、中華街のすぐ近くの横浜スタジアムも、ホームベースは北側じゃないですし」
なんと。私と父は急いで地図を確認した。「宝の地図」にもご丁寧にハマスタが描かれている。そしてホームベースの位置は、南側だった。
「逆じゃないか、きっちりせんか!」
父は誰かわからない人に向かって怒りをあらわにしている。
「じゃあ、気を取り直してもう一回見てみると……」
南をホームベースとするならば、朱雀門。サードは延平門だ。今度は、それなりに店などが並んでいる辺りが「サードフライ」の位置になりそうだ。
「藪中先生の話だと、ピッチャーも取りに行ける範囲だったみたいだから、ややホームに近い方かもね」
明らかに半分以上ラムショコラに気を取られているというのに、智陽くんはまた鋭そうなことを言った。
「それなら、実際に行ってみないとわからないわね。これ以上のヒントは、今のところなさそうだし」
そうだな、と父は頷き、二人で見てくると良い、と言った。
「お父さんは一緒に行かないの?」
私の言葉に、父はなぜかクシャっと顔をゆがめた。もしかすると、ウインクだろうか。なんで、と考えて、盛大に勘違いされていることに気づいた。
「お父さんあのね、私たちそういう――」
「よし、彩野さん、お父さんもお疲れのようだし二人で行こうか」
父のどや顔というものを初めて眺めながら、私は店に父を残して出かけることになった。
夜の迫った中華街は、この前昼間に四人で来た時と趣が違った。牌楼はライトアップされ、赤や青が暗くなりかけた空に映えている。
私たちは南の朱雀門から、西の延平門を目指してゆっくり歩いていた。私は道の左側の店を、智陽くんは右側を、それぞれ注意して見ていく。
「でもさ、結局『宝』って何なんだろうね。俺たちが見て、すぐわかる物なのかな」
「藪中先生も心当たりがなさそうだから、ちょっと予想がつかないわね」
私たちは
「関帝廟に何か残してきた、とかはないよね……」
訝りつつ、私たちはどちらともなく石段を上り、境内に着いた。私も詳しくは知らないが、関帝とは三国して有名な関羽のことで、中央に関帝を祭っている。商売の神とされているため、この中華街のように華僑が商売をするような場所には関帝廟を作り、商売繁盛を祈願しているらしい。
結局何も見つからず、石段に戻ろうと踵を返したとき、智陽くんがあ、と声を上げた。
「彩野さん、あれ見て、あの看板!」
「看板? どれのこと?」
私は智陽くんの指さす方を見たが、ちょうど木が邪魔になっていて、私の身長では看板は見えなかった。
「だから、あれだって――ちょっと失礼」
「ひゃあっ!」
私が情けなく悲鳴を上げたのは、智陽くんが私をよいしょと持ち上げたからだ。だがそのおかげで、問題の看板はしっかり目に入った。
「あの写真と同じ、張さんの……!」
私ははしゃいで智陽くんに顔を向けたが、あまりの近さにびっくりしてぐっと背を反らした。
「えーと、もう見えたから……大丈夫です」
「うん……ごめん、勢いで、つい」
智陽くんが私を下ろし、微妙な空気が流れた。が、今はまずあの看板だ。張さんの写真と同じ構図の看板が、掲げられていた。店の名前らしきものが見えたので、中華料理屋だろう。私たちは石段を下り、早足で店に向かった。
「武天閣」というどこか勇ましい名前の店だった。そこには確かに、張さんそっくりの青年が、あの写真と同じポーズで看板に描かれていた。
智陽くんがドアを開けると、油の香ばしい匂いがした。美味しそうな湯気を漂わせながら、料理が運ばれていく。まだ十七時ぐらいなのに、席は八割方埋まっていた。
「いらっしゃいませ、二名様ですか?」
中国語訛りの女性店員さんがすぐに気づいて、こちらにやって来た。私は張さんの写真を出し、この人を知っているかと彼女に尋ねる。
「あー、お兄さんね! ここにはいないですよ。妹さんはいます」
「その、妹さんにお会いできますか?」
店員さんは頷き、軽い足取りで階段を上がっていった。少ししてから戻ってきて、こっち、と私たちを呼ぶ。
「どうやら、当たりみたいだね」
私は智陽くんに頷き、興奮を鎮めるように、ゆっくり呼吸した。
階段を上がると、奥の窓際の席に腰かけているお婆さんがいた。私たちを見て、ゆっくり立ち上がると、こちらへ歩いてくる。
「あなたたちが、兄の写真を?」
全く訛りのない、日本語だった。
「初めまして、張武雄の妹の、
私は差し出された右手を取り、名乗った。高宮さんの名を出すと、志玲さんは懐かしそうに目を細め、何度も頷いた。
「……そう、あなたたちが兄を見つけてくださったんですね。ありがとう。もう、誰にも会うことはできないのかと思っていました」
志玲さんは私たちに席を勧め、自分も腰を下ろした。そして、この長い宝探しの終わりにふさわしい物語を、私たちに語ってくれた。
「私と兄は、日本で働くことになった両親と共に、小学生の時こちらに引っ越して来ました。初めが言葉の壁がありましたが、徐々に日本語を話せるようになると、友達もできました。高校生活は、本当に楽しかった。私はマネージャーとして、兄は選手として野球部に入って、そこで高宮さんたちと出会いました。高校卒業後、私は日本に残ることにしましたが、兄は自分の夢をかなえるため、台湾に戻りました。夢というのは、野球選手になることです。それも、メジャーリーグの」
厳しい道であることは間違いなかったが、台湾のとあるチームの監督が興味を持ち、育ててくれることになったという。
「兄はまず台湾で活躍し、そしてメジャーリーグに挑戦しました。ほんの数年間ですが、メジャーリーガーになったんですよ」
志玲さんはそう言って、一枚のカードをテーブルに置いた。看板と同じ、そして、写真と同じポーズだ。
「じゃあこれは、本物の野球カードなんですか?」
私たちが驚くのを、志玲さんは嬉しそうに見ていた。
「贔屓の選手の野球カードの真似をして撮る約束だというのは、私も知っていました。でも兄は、敢えて誰の真似もしなかったんです。ずっと不思議に思っていましたが、兄がメジャーリーガーになるという夢をかなえて、ようやく気付きました」
「武雄さんは、“未来の自分の野球カードの真似”をしていたんですね」
その通り、と志玲さんは頷いた。なるほど、だから同窓会の時は、高校時代の写真しか送ることができなかったのだ。それにしても。
「途方もない夢をかなえたのに、高宮さんたちがご存知ないなんて。今からでも、教えてあげなくちゃ」
私の言葉に、志玲さんもぜひお願いします、と言ってくれた。
「実は、十数年前に火事に遭って野球部の方の連絡先が焼失してしまって……だから、この店であの看板を掲げて待つことくらいしか、私にはできなかったんです。でもこれで、ようやく報われました。――ありがとうございます」
志玲さんは私たちに、深々とお辞儀をした。そして、食べきれないほどのご馳走を振舞ってくれた。
その翌日、私は早速、高宮邸に真相を伝えた。美沙子夫人や亜利沙さんはもちろん、高宮氏も驚きと喜びで飛び起きたという。
――志令ちゃんが中華街にいる? それはぜひとも会いに行かないとなあ。
亜利沙さん曰く、そう言って鼻の下を伸ばしていたそうで、今度は別の問題が起きそうだと嘆いていた。つまり張さんが「宝」と評したのは、マネージャーでおそらくマドンナ的存在だった、妹のことだったのだ。
そしてもう一つ。兄の武雄さんは今、台湾で暮らしているという。それを聞いて、元野球部で台湾旅行をする計画が持ち上がっているそうだ。
「なんだかあっという間で忙しなかったけれど、全部が良い方に向かったみたいで良かったわ」
私は心地よい疲労を感じながら、平志さんのコーヒーで癒されていた。
「ああ、光里のおかげだよ。本当に助かった」
そう言って父も、おいしそうにコーヒーを飲んでいる。その様子を、藪中先生の様子を報告に来た智陽くんが、にこにこしながら見ていた。なんだろうと思って見返すと、智陽くんは私と父を見て言った。
「二人とも、同じポーズでカップを持って、同じタイミングでコーヒーを飲んでるから、面白いなと思って。さすが、親子だね」
私と父は顔を見合わせ、はにかんだ。どんな慰めより、その言葉は嬉しかった。
血は繋がっていなくても、私たちは親子だ。エアコンの効きが悪い店で、熱いコーヒーをふうふうと飲みながら、私は暖かい気持ちをかみしめていた。
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