第4話王子様の帰還

 しとしとと、静かな雨の降る日だった。先週から梅雨に入り、ここ数日はすっきりとしない天気が続いている。特にきっかけがあるわけでもないのに物憂げな気分になるのは、この湿った空気のせいだろうか。

 ふと窓の外に目をやると、背が高くスタイルの良い女性が、店の前を歩いていた。モデルさんだろうか、などと考えながらぼんやり眺めていたら、なんと彼女はドアを開けてうちの店に入ってきた。

 いらっしゃいませ、といつも通り声をかけたつもりだったが、少々上擦っていたかもしれない。スタイルだけではなく、女性は顔立ちも整っていた。私と同年代だろうか。赤茶色の髪は背中まで届くストレートで奇抜なのに、それがしっくりきている。本当に、雑誌から抜け出たかのようだった。

「あの、ちょっとお聞きしたいことがあるんです」

 攻めた見た目とは裏腹に、彼女の喋り方はごく普通だった。怖い人でなくて良かった、と私は胸をなでおろす。

 女性は封筒から写真を取り出すと、私の前に置いた。

「これ、写真に関わる物のようなんですが、何だかわかりますか?」

 写っているのは、木と金属を組み合わせて作ったらしい機械だった。学校の机くらいの木の台があり、歯車やローラーも見える。木はところどころ腐って黒くなっていて、金属にも錆が浮いている。相当古いもののようだ。

「ちょっと、私の知識にはないものですね。少なくとも現代でよく使われる器具ではないと思いますが……これは、分解された状態ですか?」

 おそらく、と女性は言った。

「潰れてしまった印刷工場の倉庫を使わせてもらっているのですが、そこに残っていたものです。古いものだということと、写真が趣味の社長さんが生前買ったものだという情報はありますが、それ以外のことは私もわからないんです」

 参考になるかわからないが、と女性は紙袋に入れていた箱を出した。

「この器具の近くにあったものです。写真がいくつか入っていました。ちょっとかび臭いので、気を付けてください」

 私は一応手袋とマスクをして、箱を開けた。中には写真が統一感なく入れられていて、ネガフィルムもあった。確かに、写真表面にはカビが浮いているのが見える。あとは丸められた和紙が数枚あり、床の間に飾られていそうな水墨画が描かれていた。

「参考になりそうですか?」

「今は思いつかないですが、関係があるかもしれませんね」

「じゃあ、調べていただけるということですね?」

 ぱっと光が差したような顔になって、女性は言った。

「これの原型と、何という名前なのかが気になるんです」

「名前、ですか?」

「ええ、やっぱり名前と本来の姿がわからないと、警察に……あっ、何でもないです」

 今警察と聞こえたが、空耳だろうか。それから女性は、不自然なくらい話題を転換した。

「そういえば、写真ってこんな風にカビが生えてしまったりしますよね」

「え、ええ……写真に使われているゼラチンが、カビにとって栄養になりますから。特に生えやすいのは多湿で、高温の場所ですね」

写真には「中庸」が良いと、有名な修復保存家が言っていた。熱すぎず寒すぎず、湿度も高すぎず低すぎず。そう説明すると、女性はなるほどとうなずきながら聞いていた。

料金の説明を終え、彼女に了承してもらったところで、私はずっと気になっていたことを尋ねた。

「あの、失礼ですが、テレビとかに出られている方ですか? お客様の声に、聞き覚えがあるような気がして……」

 女性はとんでもないと慌てたように言った。

「小さな劇団の舞台女優です。あとはちょっと、脚本家の真似事を。華やかな場所には憧れますけど、私なんかじゃとても」

 私には彼女も十分、芸能界が似合うように見えたが、実際はそう簡単なものではないのだろう。私は彼女の劇団の名前と安斉あんざい春香はるかという芸名を教えてもらい、今度やるという舞台を見に行く約束をした。

「えらく美人だったなあ。女優だって?」

「平志さん、そういうところだけ聞いてるんですから。それより、これ、なんだと思います?」

 写真に写っている機械は、分解されていることもあり、どんな用途の物か見当がつかなかった。大きさがあり、歯車がいくつかついていることを考えるとそれなりに大がかりだが、写真を焼き付けるための物だろうか。印刷会社の倉庫ということだから、複製なども含めて調べてみた方が良いかもしれない。

「俺はわからん。見たこともないな」

 ほとんど考えもせず言った後で、平志さんがにやにやして私を見た。

「どうせ、写真博物館に行くんだろ?」

 見透かされているのは悔しいが、その通りだ。

今回は写真に関する古いものを調べるのだから、おあつらえ向きだろう。この暇人が、と智景くんに冷たい目を向けられることもあるまい。

「でも今日は火曜日だから、あさってか」

 カレンダーを見てにやつきながら、私は他の依頼をこなしていった。


 その翌日、私は懐かしい顔と再会した。高校のクラスメイトだった男子だ。洲倉智陽と同様クラスのムードメーカーだった彼が、できるだけ地味に過ごしていた私をまだ覚えていたのは、少々意外だった。

「おおすごい、ホントに彩野がいる」

 店に入ってきたなり、珍獣でも見たときのように彼は言った。何がすごいのかわからないが、恐らく意味はない。高校時代からそうだった。

小安こやすくんこそ、日本にいたんだ」

「いや、オレ確かに外国人寄りの顔のハーフだけど、ちゃんと日本人だから。なんなら英語なんて全然喋れないし!」

 彼、小安ハロルドは名前も外国人寄りだが、英語が苦手だと胸を張った。

「海外行ったのは彩野の方だろ? 帰ってきたって智陽から聞いたから、わざわざ会いに来たのに」

 なるほどそういうことかと、私は納得した。智陽くんは高校時代、この陽気なチャランポランと仲が良かった。

「それでさ、彩野サンにちょっと相談があるんだよね」

 小安くんは私の前までやってきて、一通の封筒を出した。宛名は彼の名前で、差出人の名にも見覚えがあった。

藤間ふじま夏樹なつき、覚えてるよな」

 もちろんと私は頷いた。

「イケメン三人衆の一人で、バスケ部のエース。あだ名は王子」

「ふはっ! 懐かしいなイケメン三人衆」

 よく一緒に行動していた彼らに、クラスの誰かが名づけたのだ。小安ハロルドと藤間夏樹、そして洲倉智陽。同学年で三人のことを知らない人なんていなかったのではないかと思う。

「で、その夏樹から久しぶりに手紙が届いたんだけどさ」

 小安くんは封筒の中身を大胆にカウンターの上にぶちまけた。写真の束と、紙が数枚ある。

「――なんとこれ、暗号なんだ」

「暗号?」

 私は紙の一枚を拾い上げ、開いてみた。数字の羅列が印刷されている。もう一枚の紙には、ひらがなの羅列。そのまま読んでも意味を成さなかった。

「何の前触れもなくこれだけ送られてきたの?」

 そうだと頷いた小安くんは、なぜこんなものが送られてきたのか、その理由からしてわからないと首を捻っていた。

「ただちょっと気になってるのはさ、あいつ、実業団でケガしてバスケやめたんだよね」

「そう、なんだ……。ケガは大丈夫なの?」

「膝の筋がなんとかって話だけど、日常生活には問題ないって。それで、両親は今東京であいつは横浜にいるらしいんだけど、実家はおろか自分の家にもあまり帰ってないみたいなんだ。電話は出るけど、会って話したのは二年前が最後」

「小安くんも、ずっと会ってないの?」

「オレも二年前くらいかなあ。ケガした後に、ちょっと会って励ましたつもりだったけど」

 あんまり役に立たなかったのかもなあと、小安くんは悲しげに言った。

「だからさ、もしこの暗号解いたら夏樹に会えるって話なら、オレは絶対解きたいんだよ!」

 さっき落ち込んでいたと思ったら、今度は叫ぶように言う。感情の起伏が激しくてついて行けず、私ははあと気の抜けた声で答えた。

「ええと、相談というのは、その暗号を解くのを手伝ってほしいってこと?」

「その通り。オレも一応考えたけどさ、こういうの苦手なんだよ。だからお願い!」

 掌を合わせて拝むという日本人の古典的なポーズで、小安くんは言った。私が断る理由は特にないのだが、疑問が一つ。

「私に頼むより、洲倉くんに頼んだ方が確実じゃない? 私より頭いいし、早く解けると思うけど」

 洲倉、の名前が出た時点で小安くんはクワっと鬼のような形相になった。

「それはオレもわかってるさ! あいつのとこにも、同じものが届いているかもしれない。でもそれじゃ、負けを認めたことになるだろ」

 はあ、と私はまた気のない返事をした。

「あれか、男同士の面倒くさいプライドの張り合いってやつね」

「面倒くさいって言うなよ!」

 仲の良い友人同士でなぜ張り合うのか私にはわからなかったが、張り合う相手が洲倉智陽という時点でかなり分が悪いのは確かだった。二対一で戦うくらいで、ちょうど良いかもしれない。

「とりあえず考えてみるから、貸して」

 先ほどは紙の方しか見なかったが、今度は写真の束を手に取った。写真は二つの束があり、一方は四枚、もう片方は六枚あった。それぞれクリップでまとめられている。写真に写っているのは、すべて横浜の風景だ。それも、一目見てどこかわかるような、みなとみらい周辺の観光スポットである。

 まず、四枚の束から見ていく。

「赤レンガ倉庫、パシフィコ横浜、馬車道駅、桜木町駅の四か所……」

 続いて、六枚の束。

「中華街の門、マリンタワー、山下公園、港の見える丘公園、こっちにも赤レンガ倉庫と、桜木町駅」

 印刷されている数字の方は、数えると一六個だった。スペースなく数字が連続している。

『0233087136624150』

 そして平仮名と記号の混ざった二枚目の紙。

『しとざえんはねげきーしてざさにたどあし』

 ざっと見ても、全くピンとこない。今予想できるのは、写真の束と紙は恐らく一対一で対応していて、何らかの法則で数字と文字を拾っていくのだろうということくらいだ。

「一番重要なのはその法則を見つけ出すことだけど……小安くん、どうかした?」

 ぽかんと口を開けて黙っている彼に声をかけると、いや、と戸惑ったような返事があった。

「彩野は頼りになるなあと思ってさ。お前、勉強できたもんなあ」

「そう? 別に普通だったと思うけど」

 私の通っていた高校は、普通科の進学校だった。智陽くんに限らず、勉強のできる子はたくさんいたと思う。

「とりあえず今思いつくのはここまでだから、法則を見つけるのが宿題ね」

「それなら、実際その辺を回ってみるのはどうだ? やっぱり実際見た方がひらめく気がするだろ」

「そうね、行ってみれば法則が見つかるかも」

 私たちは、私の店の定休日である月曜日に、写真の場所まで行ってみることに決めた。

「よし、いける気がしてきた。そんで一緒に智陽を出し抜いてやろうぜ!」

 小安くんは私の手を握って熱くなっていたが、私はぼんやり、智景くんは解けるだろうか、と考えていた。それに、どちらかというと行方不明になりかけのクラスメイトの方が私は心配だ。

「あ、そうだ。ついでにこれ、今配ってるんだ」

 小安くんがリュックから出したのは、B5サイズの紙だった。赤い文字で、「目撃情報求む」と書かれている。

「先週の土曜日の深夜に、石川町駅付近で背後から突然頭を殴られた人がいて、その時間帯の目撃情報を探してるんだ。彩野はその日出かけてなかった?」

「日中は出かけたけど、深夜は家にいたから、何も見てないと思う。……というか、どうして小安くんがそんなことを?」

「そりゃあもちろん――」

 彼は懐に手を入れると、印籠のように誇らしげに、ポケットから出したものを私に見せた。

「オレが、その事件を担当する刑事だからだよ」

「ふーん、暗号解けなくても刑事にはなれるんだね」

「うっ、痛いとこ突くのやめろよ。これでも結構、直接犯人を捕まえたりしてるんだぜ?」

 それはたぶん、その容姿では警察官だと思われず警戒されないせいだろう。ある意味、適職なのかもしれない。

「じゃあ、彩野も夜遅く歩くときは気をつけろよ。凶器は『バルブのようなもの』らしいから」

「え、“バールのようなもの”?」

 バルブ、と小安くんはもう一度言った。

「オレもそう聞き返したけど、科捜研が言うにはバルブらしいぞ。あのガスボンベの先とかについてる、キュッと回すやつ。大きさは人の頭くらいあるって」

「結構大きいのね。そんなもので殴れるの?」

「丸っこいから、持ちにくそうだよな。まあ、丸いおかげで被害者も切り傷はなくて、もう退院してるんだけどな」

 小安くんはもう一度、気をつけろよと言って去っていった。


そして木曜日、私は予定通り写真博物館を訪れていた。早速智景くんに写真を見せるが、全く同じものは博物館に展示していないということだった。

「奥に資料室があるから、そこで探してみたら? 専門書ばかりだけど、彩野さんならわかるだろうし」

 今日も博物館には受付のおじいさんと智景くんがいるだけで、お客さんの姿はなかった。本当に時々、どこかで撮影の後立ち寄ったらしいカメラを持った人や、散歩の途中立ち寄った人を見たくらいだ。

 資料室に入ると、図書館と同じちょっと埃っぽい匂いがした。ただでさえ静まり返っていた建物の中でも、ここは一層静かだ。

 資料は部屋の壁に作り付けの本棚に並んでいて、入り口以外をぐるりと囲んでいた。中央には大きなテーブルがあり、周囲にパイプ椅子がある。本は年代順に並んでいるようなので、印画に関わる内容が書かれていそうな本を適当に数冊、選んでテーブルに積んだ。

 小一時間ほど調べたが、これだ、という発見はなかった。そもそも原型がわからないので、何を探しているかもあやふやだった。

 律儀にノックをして、智景くんが入ってくる。

「何か、見つかった?」

 私は首を振り、現物を見せてもらうべきだろうかと呟いた。どこかにメーカーを示す刻印でもあれば、手がかりになるかもしれない。

「一つ、気になったんだけど……」

 智景くんが指摘したのは、近くに置かれていた箱の中身についてだった。写真のほかに、和紙に描かれた水墨画が入っていたのだが、その水墨画が気になっていたと言いう。

 私は一緒に持って来ていた箱を開け、丸められた絵を智景くんに見せた。智景くんは早速、拡大鏡で絵を見ている。

私は絵画についてはほとんど知識がないので、それがもし有名な絵だったとしてもわからない。しかし、箱の中に粗雑に投げ入れられていたものに値打ちがあるとは思えなかった。それに、印刷会社の倉庫なら、その絵だって印刷されたものである可能性の方が高い。

「彩野さん、これ見て」

 智景くんが拡大鏡で絵の一部を拡大して、私に見せた。

「一般的な印刷方式――インクジェットやオフセットだと、印刷された像はインクが点の集合体になるんだ。だからこうして拡大すれば、点になって見えるはず。でもこれは、それがない」

「じゃあこの絵は、肉筆で描かれたものだってこと?」

「その可能性もあるけど、今回は『コロタイプ印刷』が使われたんじゃないかと思う。あれは版画のようにインクを塗るから、点にはならないんだ」

「あれ、それって昔写真の印画に使われてたものと同じ?」

 確か、かなり大掛かりな設備が必要な印画法だったと思う。それは、その工程によるところが大きい。

まず、写真のネガと、同じサイズのゼラチンを塗ったガラスを密着させ、紫外線を当てて焼き付けを行う。その後焼き付けたゼラチンの面にインクを付け、紙に転写するのだ。その原理上、ネガとゼラチン版と転写する紙はすべて寸法が同じなので、出来上がりを大きくしたければ装置も大きいものが必要になるのだ。

 ゼラチン版を作ったり紫外線を当てる装置が必要だったりというのは相応の設備がないとできず、職人の腕も重要なので、コストパフォーマンスは良いとはいえない。しかし、原本の再現度は高く、耐久性もあるというメリットがあるので、芸術作品のレプリカ作製には向いている。現代ではこれを悪用して、コロタイプ印刷で作った本物そっくりの贋作が売られていることもあるらしい。

「それで、その写真に写っているローラーや台が、円圧式のコロタイプ印刷機に似ているんじゃないかと思う」

 こんな感じの、と言って智景くんがスマホの画面を私に見せた。日本でコロタイプ印刷を行っている企業のページだ。確かに、ローラーや歯車のような部品が見える。

「すごい、全然知らなかった! 智景くんは物知りだね。私なんてまだまだだわ」

「……別に、マニアックな話だし、知らなくても普通だよ」

 智景くんはふいと顔を背けて言った。褒めて褒めてと寄ってくる兄とは大違いだ。

 ひとまず、依頼人の女性、安斉さんには印刷機だったことを伝えられそうだ。ほっとした私は、智景くんに小安くんと久しぶりに会ったことと、例の暗号の話をした。一応、智陽くんには言わないでと注釈をつけておく。

 私の話を一通り聞いた後、智景くんは暗号の答えがわかったともわからないとも言わなかった。私の予想では、あまり興味がなかったからだと思う。やはり、彼の気を引くには暗号より写真にまつわる謎なのだろう。

「とりあえず、実際にバスで巡ってみればいいんじゃないかな」

「やっぱりそう思うよね。次の月曜日、一緒に行く約束してるんだ」

 智景くんの瞼がピクリと動いて、私はおやと思った。

「一緒に行くって、二人で?」

「うん、そうだけど……」

 何か、気になることがあったのだろうか。智景くんは集中している時とはまた違った顔で、口を尖らせていた。

 

 店に帰りつき、私は早速安斉さんに連絡した。十回目のコールでようやく出た彼女は、舞台の稽古が大詰めなのだと充実を滲ませた声で言った。

「印刷機だった、ということですか?」

「ええ、そうです。コロタイプ印刷という、特定の印刷法のためだけの印刷機ですね」

 私はできるだけ簡単に、印刷の原理や機械の仕組みについて説明した。

「では、名前は『コロタイプ印刷機』ですね。それで、その機械に足りない部品とかって、ありませんでした?」

「うーん……原型がわからないので確証はありませんが、調べた資料の写真を比べると、側面に取り付けていた取っ手がなさそうですね。たぶん、棒状か、回して調節できるような輪っかのようなものかと思うのですが」

「輪っか? それって、車のハンドルみたいな丸いのですか?」

 電話越してもわかる勢いに気圧され、私はたじたじになった。

「え、ええ、丸いものなら見た目はハンドルみたいになるかもしれませんね」

 電話の向こうでは、やっぱり、と小さく聞こえた気がした。

「ありがとうございます! 今度写真を引き取りに伺いますね!」

 昔の電話ならガチャン、と鳴りそうな勢いで、電話が切られた。

「足りない部品探して、修理するのかなあ。結構、大変だと思うけど……」

 私は切られた電話を前に、一人で呟いた。


 約束の月曜日、待ち合わせ場所に現れた小安くんを見て、私は少し後悔していた。中身はともかく、彼の容姿はすれ違う人の目を引くレベルの高さなのだ。さすが元イケメン三人衆の一人。単なる散歩の延長くらいに考えていた私は服装にも化粧にも力が入っておらず、隣を歩くのは気が引けた。

 しかしそんな細かいところを全く気にしないのが、小安くんだ。周囲の視線には頓着せず、行こうぜと笑顔で私に言った。

 スタート地点は、二つの写真の束の両方に登場している、桜木町駅にした。まず先に、このまま歩いて行けるパシフィコ横浜を目指した。長いエスカレーターと動く歩道を使い、ランドマークタワーの下にあるランドマークプラザを抜けていく。

 平日の午前中なので、人はまばらだった。観光に来ているらしいアジア系の外国人や、優雅な生活をしていそうなマダムのグループがいたりした。

 その先のクイーンズスクエアを抜けると、ようやくパシフィコ横浜が見えてくる。今日は特にイベントをやる予定はないらしく、風がびゅうびゅうと吹き抜ける以外は静かなものだった。

「写真の位置は、この下から撮ったものだったよな。行ってみるか」

 私たちは階段を使って地上に降りた。少し歩いて、同じアングルを発見する。

「まだ一個目だし、よくわかんないね。とりあえず、記録します」

 私は自分のスマホで、同じアングルからの写真を撮った。

「よし、次行ってみよう!」

 次は赤レンガ倉庫だ。国際橋を渡り、コスモワールドを横目に見ながら直進する。ワールドポーターズの近くに来たあたりで、赤レンガ倉庫群が見えてきた。遠目にずっと見えているのだが、歩いて行くとなると意外と時間がかかる。

 赤レンガ倉庫の写真を撮った後、コーヒーを飲んで少し休憩した。ここにはパンケーキ屋さんも可愛い雑貨屋もあるのでゆっくりしたかったが、これからの予定を考えるとあまり時間はない。私たちは馬車道駅に向かうべく、ワールドポーターズの方に戻り、万国橋を渡った。横浜第二合同庁舎の先に、馬車道駅がある。

「なんか、一応少ない方の四か所回ってみたけど、特に発見とかないよな」

「そうだね、特に共通点も見つからないし……」

 滲んできた汗を拭きながら、私も同意した。今日は梅雨の晴れ間で、雨が降っていないのはありがたかったが、その分気温が高い。半袖から出た腕がじりじり焼けている気がした。

 小安くんは六枚の方の写真の束を出し、まだ訪れていない場所を確認していた。

「中華街とマリンタワーと山下公園に、港の見える丘公園か。これちょっと、歩いて回るのはきっついな」

「観光用の周遊バスがあるから、それを使えばいいんじゃない?」

 確か、馬車道駅にもバスの停留所があったはずだ。

 駅の案内板を見ると、停留所の場所もわかった。そう、「あかいくつ」という名前のバスだった。童謡の「赤い靴」のモデルとなった「赤い靴はいてた女の子」の像が山下公園にあることから名付けられたのだろう。

「お、ラッキーだね。こっちの中華街元町ルートに乗れば、これから行きたいところ全部回ってくれるよ」

 停留所に書かれた行き先を見て、小安くんが弾んだ声を上げた。「赤い靴」の走るルートは二種類あり、一つがみなとみらいルート、もう一つが中華街元町ルートだ。確かに、中華街元町ルートは見事に行き先が被っている。そして今更だが、私たちが歩いてきたルートを辿るなら、みなとみらいルートに乗れば良かったようだ。

「もう少し調べておいたら楽できたのに……ん?」

 私の中で、何か引っかかるものがあった。

「どうかしたのか、彩野」

「いや、これって、偶然なのかなあと思って」

 写真の四枚の束の方はみなとみらいルートの停留所で、六枚の方は中華街元町ルートの停留所にすべて含まれている。私は思いついて、暗号文の書かれた二枚の紙を小安くんに見せてもらった。

「十六と、二十……」

 始点と終点を別に数えれば、停留所の数と文字数が一致している。これは、正解に近づいているかもしれない。


 私たちは「あかいくつ」には乗らず、駅近くのファミレスにいた。きっかけは見えたが、もう少しゆっくり考えたかったのだ。私は自分の頭の中を整理するついでに、小安くんに説明した。

「この暗号を解くカギは、『あかいくつ』のバス停だと思うの。こっちの二枚の紙、それぞれ文字数を数えてみて」

「えっと……数字の方は十六で、ひらがなの方は二十だ」

「それで、これは今ネットで調べた『あかいくつ』のバス停一覧。桜木町駅を出発して、終点の桜木町駅に戻るまで、みなとみらいルートはバス停の数が十六。中華街元町ルートも同じ停留所がいくつかあるけど、それも別に数えると二十」

「おお、数が一緒だ。ってことは、数字がみなとみらいルートで、ひらがなが中華街元町ルートだな」

「そして、写真の場所から、四枚の束はみなとみらいルートだから数字、六枚の束はひらがなに対応してることになる。それぞれの写真をバスが回る順に並べてみると……」

 四枚の方は桜木町駅、パシフィコ横浜、赤レンガ倉庫、馬車道駅の順だ。六枚の方は桜木町駅、赤レンガ倉庫、中華街、港の見える丘公園、マリンタワー、山下公園の順になる。

「例えば、みなとみらいルートの方のパシフィコ横浜。これはバス停だと十番目でしょ。暗号文は『0233087136624150』だから、十番目の数字である6を示してるってことじゃないかな」

 桜木町は始発の方と考えると、一番目だから0。ここまでで、06と並んだことになる。

「彩野、すごいな! マジ天才!」

「ちょ、ちょっと、小安くん声大きい!」

 店員さんや周りのお客さんが一斉にこっちを見て、私は慌てた。しかし小安くんはやはり、全く頓着する様子がない。

「よーし、法則がわかればオレにもできそうだ。ひらがなの方は『しとざえんはねげきーしてざさにたどあし』だから、こっちも桜木町駅で『し』だろ……」

 そして最終的に得られた答えは、「0625」と「しんげーてざ」だった。

「数字の方は、日付っぽいよな。今日は六月の十五日だから、十日後だ。そんでしんげーてざは、新ゲーテ座で間違いない。去年新しくできた、劇場だ」

「ああ、旧ゲーテ座跡の隣にできたあれね」

 場所は港の見える丘公園の近くだ。明治時代に日本初の本格的な演劇場として誕生したのが現在旧ゲーテ座跡と言われている建物で、こちらは今資料館のようになっている。その隣に作られたから、新ゲーテ座という名なのだろう。

「じゃあ、六月二十五日に新ゲーテ座に来いっていうメッセージだな。よっしゃ―解けたー! 待ってろよー夏樹!」

「もう、だから声が大きい!」

 結局私もつられて叫び、再び注目を浴びることになってしまった。

「でも、劇場に呼ぶってことは、演劇をやってるってことかな」

 私はスマホで検索し、その日新ゲーテ座で上演する劇団があるか調べた。

「その日は、十八時から……え、劇団夢幻むげんほうよう? 安斉さんの劇団だわ!」

「夢幻泡影……?」

 偶然に興奮する私の前で、小安くんが顔をしかめ、マジか、と呟いた。

「小安くんも知ってるの?」

「ああ、あんまり良くない理由だけどな。――その劇団、この前話した傷害事件の犯人がいるかもしれないんだよ」

「え、“バルブのようなもの”で殴りつけた人?」

「そう。調べてみたら、被害者は演劇評論家で、事件の少し前にその劇団の舞台の批評を書いてるんだ。それが割と辛口でさ、それで恨まれたんじゃないかってわけ」

 なるほど、それは怪しい。しかし凶器も発見されておらず、犯人への手掛かりは今のところないらしい。

「でもそうなると、夏樹の奴が心配だなあ。あいつ正義感強いから、もし気づいたら一人で暴走しそう……」

 頭を抱える小安くんを見て、やはり“王子”こと藤間夏樹は特別な存在なのだなと思った。

 彼は基本的に誰にでも友好的だったが、それはつまり親しげに見えても彼にとっては知り合いの一人という感覚だったりする。そのせいで数多の女子生徒に勘違いされ、誰が好きなのかと問いただされた挙句、智陽くんと答えて修羅場になったという噂を聞いた。きっと彼にとっては、そんな冗談で済ませられる程度のことだったのだろう。

「何にやにやしてるんですか、彩野サン。オレはこれでも、あいつのこと本気で心配してるんだぜ?」

「……うん、ごめん。そういう関係が続いているって、いいなと思って。私には学生時代からの親友とかって、いないから」

「そっか。……あー、そうだよな、鹿倉かぐらのことがあったから。もしあいつが生きてたら、今も親友だっただろうけどな」

 突然飛び出してきた名前に、私の心はひどく動揺した。悟られないように、俯いてそうだねと答えた。

「そういえばさ、この劇団のホームページ、見たか?」

「えっと、団員の紹介とかは見たけど」

「公演の内容は? そのストーリーがどうも、鹿倉の話に似てるような気がしてさ」

 私は震える指先をスマホの画面に強く押し付け、“お気に入り”に保存していたページを開いた。

 ホームページは全体的にセピア色で、夢幻泡影という言葉について書かれていた。夢と幻と泡と影。人生の儚いことのたとえ。

現在公演中の舞台のところに、物語の紹介も書かれていた。演目は、「未来みらい航路こうろ」。小安くんが言ったのは、これだろう。私は早鐘を打つ心臓を無視するように、文字を目で追った。

少女は貧乏な家に生まれる。父は数年前に蒸発し、母親は妹と自分を養うため、昼も夜も働いている。母に甘えることもできず寂しさを感じていた少女は、ある時謎の老人からヴァイオリンを譲り受ける。少女は瞬く間にその楽器に心を奪われ、隠れていた才能が開花していく。しかし、音楽の道に進むにはお金がかかる。高校を卒業して働き家計を支えるべきか、自分の夢を追うか。葛藤する少女の前に現れたのは、”どちらかの未来”を選んだ大人になった彼女で――。

「……そうだね、よく似てる。途中からファンタジーみたいだし、ラストがどうなるかわからないけど」

「もしあいつが関わってるとしたら、ハッピーエンドに間違いないって! 物語なら、現実と違ったっていいんだから」

 私は無言で頷いた。

「夏樹のやつ、鹿倉ともよく話してたもんな。あいつはバスケで鹿倉はヴァイオリンで、一緒に世界を目指そうとか言っててさ。あの時は羨ましいと思ったけど、そううまくはいかないもんだなあ」

 本当にそうだ。あの頃は、才能があり、努力を苦に思わない鹿倉望のぞは、私よりずっと世界の舞台に近いところにいた。音楽の神に愛された人間とは彼女のような人のことなのだと、間近にいた私はまざまざと見せつけられていた。たとえ金銭面での不安があっても、彼女ほどの才能があれば、資金援助だって受けられた。彼女が成功しない未来なんて、想像できなかった。

「それがまさか、自殺しちゃうなんてなあ」

「うん、はじめは信じられなかった」

 あの時はとにかくびっくりしたと、小安くんは言った。

 高校の卒業式から、数日後のことだった。彼女は音楽を学ぶため渡航の準備をしているはずで、私も似たような状況だった。語学学校に通ったり、留学先のことを調べたり、バタバタしていた。

「そうだ、昔夏樹に誘われて、鹿倉が通っていたヴァイオリン教室の発表会を見に行ったことがあるんだ」

 湿っぽくなった空気を払うように、小安くんが言った。

「発表会が始まる前に鹿倉を見つけてさ、近づいていったら、他の生徒何人かが、鹿倉のヴァイオリンは安物の上子供用だって言って笑っていたんだ。そこへ夏樹が割って入って、何がおかしいんだって一喝してさ。鹿倉よりうまく弾けないのが悔しいなら、相手を蹴落とすんじゃなくて自分が上へ行け! ってね」

「すごい、さすがバスケ部のエースだわ。カッコいい!」

「そうそう、思考回路がスポ根だよな。それ見てオレ、かっけえなって感動したんだよ。オレはつい、丸く収めようとしちゃうから。戦うってのが、苦手なんだよな」

 普通はそういうものだと頷きながら、私は矛盾に気づいた。

「じゃあ、小安くんはどうして警察官になったの? 刑事なんて、戦うことそのものじゃない」

「そういう、今まで避けてきたものと向き合ってみようかなって思ったんだよ。学生の頃は適当にやり過ごせばどうにかなったけど、事件は待ってても解決しないだろ。ちゃんと戦って、しかも勝てる人間に、オレはなりたいんだ」

 小安くんは照れ臭そうにしていたが、誇らしげでもあった。みんな、変わろうとしている。ちゃんと前を向いて、歩いている。

私も、変わらなければと思った。ようやく仕事は軌道に乗り始めたけれど、まだ私は過去と決別できてはいない。望海ちゃんのこともそうだ。彼女のことを思い出すたび、私は自分の醜さを思い知る。彼女の死を知った時、ああこれで彼女に負けることは永遠にないのだと、ほっとした自分を。


六月の二十五日。私と小安くんは、暗号に書かれていた新ゲーテ座前に来ていた。

「……よーし、行くか」

 小安くんは少し、緊張しているようだった。口では行こうと言うものの、前に出て歩く気配がない。仕方ないと私が小安くんの前に足を踏み出そうとすると、間の悪いことに小安くんの携帯の呼び出し音が鳴り響いた。

 仕事の電話だと私に断って、電話に出る。そうか、と弾んだ声を聞いて、悪い知らせではないようだと思った。

「石川町駅近くの河川敷から、凶器が見つかったらしい。被害者の頭の傷とぴったりなんだってさ」

「結局、凶器はバルブだったの?」

「いや、どうも違うみたいだ。形状は似ているが用途はわからないらしい。これからオレの同期がこっちに来るみたいだ」

「え、ちょっと待って、公演は?」

「うーん……最悪、中止?」

 そんな、と私は落胆の声を上げたが、気持ちは小安くんも一緒だろう。

「とりあえず、中に入らない? まだ今なら、普通に劇団員さんとも話せるだろうし」

「そうだな、警察に邪魔される前にせめて夏樹と話だけでもしておこう」

 私たちは先ほどの躊躇が嘘のように、早足でゲーテ座の入り口をくぐった。

 入ってすぐのところはロビーらしく、ソファにはすでにお客さんの姿があった。昔のガス灯のような照明が使われていて、壁も赤茶色のレンガなので、レトロな雰囲気がある。

「あれ、二人一緒に来たんだ」

 背後から声をかけられて振り返ると、智陽くんが立っていた。

「暗号は無事解けたみたいだね。ハリーだけじゃ難しいと思ったけど、彩野さんに手伝ってもらうとは」

「お前のところにも、夏樹から連絡があったのか?」

 智陽くんはにこにこと頷いた。

 私たちは当日のチケットを販売しているカウンターに行き、この劇団に藤間夏樹という人間はいないかと尋ねた。

「藤間……ああ、本名の方か。ええ、いますよ。奥の控室にいるんじゃないかな」

 私は感激したらしい小安くんに抱き着かれそうになり、何をやっているのだと智陽くんに引き離されていた。開演前に一言かけられないか、と思っていたのだが――。

「警察です。すみませんが、劇団員の方全員にお話を伺わせてください」

 私たちの横から、ずいっと警察手帳を掲げた女性が言った。

「げっ、来たな警察!」

 顔をしかめた小安くんに、クールビューティーな女性刑事はチッと舌打ちした。

「お前も警察だろうが。阿保なことを言ってないで仕事をしろ」

 男らしい口調で小安くんに言い放つと、劇団員を逃がさないように見張っているよう指示した。不満を表情に浮かべながらも、小安くんは劇場の裏手に回るため、外に出て行った。

「神奈川県警のたちばなと申します。うちの小安がご迷惑をおかけしてすみません」

「いえ、迷惑は特に……」

 かけられていません、と答える前に、橘刑事は受付の劇団員を伴って、奥に行ってしまう。会話から、団員たちは今舞台のあるホールに全員そろっているようだ。

「ねえ彩野さん、俺たちも行こうよ」

「え、でも私たち部外者だし、勝手に行ったら怒られるんじゃ」

 あの橘刑事は、怒っていなくても怖いので、怒ったらもっと怖そうだ。

「でも、気になってるんでしょ、凶器のこと。その正体が、あの印刷機の部品なんじゃないかって」

「どうしてそれを?」

 智景くんには事件については一言も話していないはずだ。しかし智陽くんは、あとで話すよとだけ言って、答えてくれなかった。

 

 ホールの分厚いドアの隙間から覗くと、ライトに照らされた舞台が見えた。皆の注目は橘刑事に向いているようなので、私たちはこっそり入り、ドアの近くに立っていた。

 劇団員は全部で、二十人くらいだろうか。ライトの近くにいる人の顔は良く見えるが、客席の方の暗がりにいる人達の顔は判然としなかった。

 しかしその中で、髪の長い安斉さんの姿はすぐに見つけることができた。舞台から少し離れたところに立ち、不安そうな表情を浮かべている。

「――ということで、凶器が見つかりました。これから本格的に捜査を行えば、犯人はすぐにわかります。しかしその時間と手間を少しでも減らすため、犯人には名乗り出ていただきたい。もしくは、犯人に心当たりのある方は、教えていただきたいのです」

 劇団員たちは顔を見合わせ、ひそひそと話した。風邪をひいている人もいるのか、ゴホゴホ咳をするのも聞こえる。

「あの、私たちは事件当日、都内にいました。ですから、現場も見ていませんしアリバイもあります」

 手を上げてそう言ったのは、若い女性三人だった。彼女たちは合コンに出ていたという。それをきっかけに、他の劇団員たちもアリバイを主張し始めた。

 丁寧に話を聞いていた橘刑事は、未だ何も言わない劇団員たちに向かって、当日何をしていたか尋ねた。

「僕らは石川町駅の近くで飲んでました……」

 飲み会のメンバーは男性三人と安斉さん、安斉さんより少し年上の女性だった。その五人で、十一時半ごろまで飲んでいたという。

「その時に演劇論が盛り上がって、駅の近くにある稽古場に行ってまた飲み出して……正直、あまり記憶がないんです」

 そこまでの行動はその通りだと、安斉さんが言った。

「その後私たち女性陣は稽古場の仮眠室で休んでいましたが、話し声は少なくとも午前二時くらいまでは聞こえていました。でも声だけですから、誰がいたかはわかりません」

 橘刑事は頷き、男性陣三人に目を向けた。一人は、先ほどから質問に答えていた黒髪で短髪の男性。演出を手掛けているという。二人目はマスクをしている茶髪の青年。先ほどから咳をしていたのは、彼だ。三人目はこの季節なのに革ジャンを着て長髪を縛っている、どう見ても勤め人に見えない男性だった。

 その革ジャンが、橘刑事に意見した。

「そもそも、我々の中に犯人がいるという前提は正しいんですか? 恨みなんてなくても、ただ人を殴りたかったから殴るやつだっていると思いますけど」

「それはまあ、これから凶器を調べれば証拠が……」

「なんだ、じゃあ証拠もないのに犯人がいるって決めつけてるのか!」

 演出家が言う。橘刑事は毅然としていたが、少し困っているようにも見えた。

「うわ、なんか雰囲気悪いな」

 遅れて入ってきた小安くんが、私たちに聞こえるくらいの声で言った。誰かが不当な捜査だと言い出し、そろそろ公演の準備をしなければという声も上がった。不満が頂点に達しようとしていたその時――。

「でも、凶器はうちの倉庫にあったものだと思うわ。それを持ち出せるのは、私たちだけじゃないかしら」

 安斉さんが言い、視線が一斉に彼女に向けられた。橘刑事が、彼女に問う。

「どうして、凶器のことを? あれはまだ、私たちも出所を知らないんですよ」

「私たちが使わせてもらっている倉庫に、元からあった印刷機の部品だと思います。丸い、ハンドルのような形をしているんです」

「形状は合っていますが……ええと、その印刷機というのは?」

「確か、ケロタイプ印刷機という名前の――」

「コロタイプです!」

 私は反射的にツッコみ、注目を浴びて逃げ出したくなった。特に、橘刑事の視線が怖い。

「私は凶器がその印刷機の部品かもしれないと思って、そちらの彩野さんに依頼して、調べていただいたんです。そして、ハンドルのような部品があった可能性がある、と教えていただきました」

 安斉さんのフォローに感謝しながら、私は必死で頷いた。

「なるほど、ではその倉庫にある印刷機の残骸に、凶器がピタリとはまれば、出所がはっきりするわけですね」

 橘刑事は冷静にそう分析し、電話で手早く説明した。

「その印刷機についてなんですけど、かなりカビがついていませんでした?」

 隣にいた智陽くんが、安斉さんに話しかけた。橘刑事の顔がまたもや険しくなったが、私と違って智陽くんは怯まない。

「そう……ですね。青っぽいカビがかなりついていたと思います」

 なるほど、と真面目な顔で頷いた智陽くんは、橘刑事に向かって言った。

「僕はこの近くの病院に勤める医師なんですが、もし犯人がこのカビを吸い込んでいたら、大変なことになるかもしれません」

「と、言うと?」

「カビの胞子を吸い込むと、肺や気管支に異常をきたすことがあります。咳や痰など軽い症状から始まって、呼吸困難になったり、肺の中に菌の塊ができたり、さらに重篤になると血管内に侵入してほかの臓器も――」

 ガタン、と大きな音がして、私は音の主である男性を見た。マスクをしてせき込んでいた茶髪だ。智陽くんはちらりと彼に目をやった後、続けた。

「でも、今は治療法も確立していますし、すぐに治療すれば問題ありませんよ。まあ、裏を返すと、遅すぎると手遅れになるってことですけど」

 橘刑事はゆっくりと、マスクの男性に近づいていく。

「あなたは、凶器に触れた記憶がある、ということですね?」

 男性はうなだれて、かすれた声で言った。

「殴ったのもオレです。倉庫で見つけた部品を、酔っぱらって手に持って帰っていて、そしたらあの男が前を歩いていて……」

 それから男性は、安斉さんを睨みつけて叫んだ。

「なんで余計なことするんだよ。お前が何も言わなきゃ、ばれなかったのに。仲間だろ!」

 私なら、怯えて立ちすくんでしまう剣幕だった。しかし安斉さんは、同じくらいの剣幕で言い返した。

「あんたなんか仲間じゃない! 演技が下手って言われたのが悔しかったなら、努力して上手くなって見返してやりなさい!」

「なんだと、えらそうに!」

 剣呑な空気を察してか、小安くんはいつの間にか二人のそばに来ていた。そして男性の肩に手を置くと、なだめるように言った。

「悪いねえ、こいつは昔からこうなんだ。正義感が強くて、突っ走る。でもさ、言ってることは間違ってないよな」

 そうだろ、と小安くんは安斉さんを見て言った。

「お前は見た目が変わっても中身はそのままだな――夏樹」

「えっ、夏樹って……安斉さんが、藤間さんだったの?」

 隣では智陽くんがにやにやしていて、彼は初めから知っていたのだろうな、と思った。なるほど、だから声に聞き覚えがあったのだ。

「ふふ、やっぱりハリーにはばれたか」

 藤間さんはそう言って、にかっと嬉しそうに笑った。ショートカットの黒髪だった私たちのクラスの“王子”は、美しい大人のレディに成長していた。


「ありがとな、智陽。犯人確保はお前のおかげだ」

 犯人は先ほど、死にたくないと叫びながらパトカーで連行されたところだった。のんきにお礼を言う小安くんの横で、橘刑事は不安そうに尋ねた。

「しかし、まずは医師の診察が必要でしょうか。先ほどのお話だと、重篤化すると厄介ということですよね」

「ああ、それは問題ありません。彼はただの風邪です。先週、僕が診察しましたから」

「はい?」

 ぽかんと口を開けた橘刑事は、慌ててきりっとした表情に戻した。

「どういうことですか?」

「カビ云々の話は嘘ではないですが、彼が犯人だろうと思ったので脅すために言っただけです。診察した時、袖についていた錆を指摘したら、ひどく動揺していたので。あれはたぶん、凶器の錆がついてしまったんでしょうね。やましいことがないなら、動揺する理由がないですし」

 再び呆気にとられている橘刑事を慰めるように、小安くんは彼女の肩をポンポンと叩いた。

「お前も、中身は変わらないなあ」

 智陽くんはありがとうと返し、小安くんは褒めてねえよと笑った。

 事件が解決し、三十分遅れで幕が上がることになり、劇団員たちは急いで準備を始めた。しばらくして、楽器を抱えた一人の女性が慌てて駆け込んできた。

「大変です! ヴァイオリンを弾ける人がいません!」

 話を聞いていると、先ほど警察に連れていかれた墨田すみだという青年は、劇中でヴァイオリンを弾く役どころらしい。

「少女が憧れるイケメン外国人ヴァイオリニストの役なの。とりあえず、ハリー代役やって!」

「え、オレ? 無理だって、弾けないしセリフも覚えらんないし」

「大丈夫、どこかにセリフ貼っておくし、もともとそんなに量がないから!」

 藤間さんの意見に、演出家も賛成した。

「墨田君よりはまってるじゃないか。実はイケメンにも外国人にも見えないって批判があったんだよ」

「そ、それはさすがにどうしようもないのでは……」

 少しだけ、墨田氏が可哀そうになった。

「でも、ヴァイオリンはどうしようもないな。できれば生演奏が良かったけど、何か適当な音源を流すかなあ」

 演出家の男性がああでもないこうでもないと悩んでいるのを見て、私は迷っていた。私のクラスメイトが、頑張って作り上げた舞台だ。力になれるなら、なりたい。でも私は、音楽を忘れることで今の平穏な心を手に入れた。ここでそれを覆しても、大丈夫だろうか。

 視線をさまよわせていると、智陽くんと目が合った。不思議なことに、それだけで背中を押されたような気がした。

 私は小さく息を吸い、口を開く。

「あの、私、弾けます――」


「良いお芝居だったね」

 帰り道、私と智陽くんは、坂を下りながら話していた。

「そうね、ハッピーエンドで良かった」

 私はそう答えた。

 音楽の道に進んで良いのか悩む少女に、未来から来たという大人の彼女は、自分はとても幸せだと笑う。世界に行くことと、家族と共に暮らすこと、どちらも選べない少女から、大人の彼女はヴァイオリンを奪ってしまう。そして半狂乱になった少女に言うのだ。

――あなたはもう、“これ”がなければ生きていけないのよ。とっくに、心は決まっていたはずでしょう?

 そして少女は決心する。音楽の才能一つで、すべてを手に入れることを。

 物語は海外に渡った少女が大勢の観客の前で演奏するシーンで終わるが、その後の明るい未来を感じさせる終わり方だった。藤間さんはきっと、望海ちゃんにそんな未来を歩んでほしかったのだろう。

「洲倉くんは、藤間さんのこと聞いてたの?」

「いや、俺も一か月くらい前に手紙が来て、なっちゃんが今どうしてるか知ったんだ。それでハリーにも会いたいけど、恥ずかしいから暗号を送り付けようって話になって――」

「じゃあ、あの暗号は洲倉くんが作ったの?」

「そうだよ。それで、二人で散歩がてら写真を撮って回ったんだ。でもなっちゃん目立つからさ、見られて落ち着かなかったなあ」

 暗号はどうだったかと聞かれ、私はえらそうに、なかなかの出来だったと答えた。

「でも、どうして洲倉くんには普通に連絡したのに、小安くんだと恥ずかしかったの?」

「それはまあ、彼女にとってハリーが特別だったってことじゃない?」

 なるほど、そういうことだったのか。もしかして、”王子”時代から、彼のことが好きだったのだろうか。いつか、本人に聞いてみたいところだ。

「その流れで、あの傷害事件が起きたときに相談されたんだよ。なっちゃんは放っておくと直接尋問を始めそうで危険だと思ったから、まず怪しいと思う物を調べた方がいいって助言したんだ。それで、彩野さんのことを紹介したってわけ」

 やたら凶器について詳しいと思ったら、藤間さんに直接話を聞いていたからなのだ。智陽くんが小安くんに伝えればもっと早く解決して、私も巻き込まれずに済んだ気もする。でも、また小安くんや藤間さんと会えて嬉しかったから、これで良かったと思うことにした。

「藤間さんの演技も、良かったよね。私、裏で聞いてて感動しちゃった」

 彼女は、ケガによって道を断たれたアスリートの役だった。しかし少女の演奏を聞いて、“何か別のものになろう”と色んなことに挑戦を始めるのだ。藤間さん自身の心の叫びを、聞いているみたいだった。

「それは、彩野さんの演奏の効果もあったんじゃない? お客さんの中にも泣いてる人がいたし」

「それは役者さんの力だってば! ほら、小安くんも頑張ってたもん」

 精一杯やったけれど、当然毎日練習していたころに比べればひどい演奏だったと思う。

「そう? 俺はむしろ、高校の時より今の方が、好きだと思ったけど。なんていうか、昔は窮屈そうに見えたけど、今は自由な感じ?」

 思わず立ち止まった私を振り返った智陽くんは、珍しく焦ったように言った。

「ごめん、勝手なこと言って。そりゃ、今日突然頼まれて弾いたんだから、納得いかないよね」

「……違う。そうじゃ、なくて」

 智陽くんが坂の下から窺うように上目遣いで私を見ていて、不覚にも、少しかわいいと思った。自然と、笑みがこぼれていた。

「ちょっと、嬉しかったのかも。私の演奏を、そんな風にちゃんと聴いて、覚えてくれている人がいたってことが。それにたぶん、洲倉くんが言ったことは合ってる。私はあのころ、毎日ギリギリで、逃げ出したくてしかたなかったの」

「今はもう、そうじゃないの?」

 私はふふ、と笑って坂を下った。智陽くんを追い越して振り返る。

「洲倉くんが言ったんじゃない。私は今、自由だって!」

 そう、自由だ。私があのころ、どれだけ望んでも手に入らなかったもの。一番、ほしかったもの。もしそれを手にしたように、彼に見えたのなら。

 私が選んだこの道は、きっと間違っていない。

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