第3話鳥居の下で待ち合わせ

 呪いの写真があるらしい。ふらりと食後の散歩から帰ってきた平志さんが、突然そんなことを言い出した。

「どうしたんですか、平志さん。怪しげなカルト教団にでも声をかけられました?」

「いや、声をかけられたのは確かだが、かけてきたのは知り合いだ。なんでも、家に長年飾ってあった写真が、いきなり黄色っぽく曇り始めたらしい。一年前にそいつの旦那が死んで、その呪いじゃないかって言うんだ」

「旦那さんの呪い? 穏やかじゃないですね。もともと夫婦仲が悪かったんですか?」

 平志さんは知らん、と素っ気なく言った。

「悪いが光里ちゃん、ちょっと見に行ってくれねえか? どうせ、呪いじゃなくてただの劣化だろ。俺は幽霊だのなんだのは、信じてねえからな」

 心霊写真の鑑定を依頼されたらどうしようかと思ったが、そういう話なら私の分野だ。断る理由はない。

「わかりました、すぐに行きましょう。それで、どこのお宅ですか?」

とみさか商事の元会長のとこだ。山手にでっかい屋敷があるだろ?」

「ええっ! とみ辰也たつやさん? 超大物じゃないですか。全国ニュースで訃報が流れたの、覚えてますよ」

 富栄商事といえば大手の総合商社だ。不動産を多く持っていることと、貿易を中心とした経営が特徴の、有名企業である。

 驚く私だったが、平志さんは一言もなく定位置の椅子にどっかり座った。昔、その元会長と何かあったのだろうか。いや、声をかけてきたのは元会長の奥様だから、何かあったなら彼女か。気になったが、平志さんは狸寝入りを始めたようなので、とりあえず訪ねてみることにした。

 とはいえ、突撃して不審者扱いされても嫌なので、あらかじめ電話をかけた。出たのは使用人だという男性で、話は概ね平志さんの言った通りだった。一週間ほど前から写真の一部にもやのかかったような変色が見られ、それが徐々に広範囲に渡っていったという。使用人の彼にも思い当たる原因はないようで、怯えた様子だった。オカルト的なものを信じるたちなのかもしれない。

 すぐにでも、と請われた私は、翌日富居家の邸宅を訪れた。今までまじまじと眺めたことはなかったが、門構えが堅牢で、立っているだけで圧を感じる。手前に黒塗りの高級車があり、石畳の先に玄関が見えていた。

 インターホンを鳴らして出迎えてくれた男性が、昨日電話で話した人だろう。鴻崎こうのざきさんという人だ。喋り方からもっと若いかと思っていたが、四十代後半くらいに見えた。

「どうぞ、奥様はもうお待ちです。昨日、彩野様が明日来てくださると申し上げたら、とても喜んでおられました。一日でも早く、呪いを祓っていただきたいと」

「お、お祓いは無理ですが、写真の鑑定や修復なら……」

 私はびくびくしながら、スリッパに履き替え、長い廊下を進んだ。絨毯の毛足が長く、足元が心もとない。鴻崎さんも歩きづらそうにしていて、時々うっかり足を取られてお茶をこぼしてしまうのだと言った。

 この家が建てられたのはかなり昔のはずだが、古さは感じなかった。微かにペンキの匂いがしたので、こまめに塗り直しているのかもしれない。

「あなたが彩野さんね。来てくださってありがとうございます」

 廊下の途中の部屋からひょっこり顔を出して、“奥様”ことトキさんが私を手招いていた。待ちきれなくて出てきちゃった、と悪戯っぽく笑うところは少女のようだが、ショートのシルバーヘアと品の良いドレスがよく似合う、素敵な女性だ。自分の育った環境から、所謂上流階級の人間はたくさん見てきたが、この人も間違いなくその階級に位置する人だろう。でもそのわりに気さくな方のようで、安心した。少々、せっかちのようだけれど。

「それで、さっそく本題に入るわね。問題の写真というのは、これなの」

 ピカピカに磨かれたローテーブルの上に、深緑のベルベットがかけられたものが置いてあった。トキさんは近くのソファに腰を下ろし、私にもソファを勧めると、なぜか自分の目を両手で覆った。その状態のまま、彼女は口を開く。

「鴻崎、彩野さんに見せて差し上げて」

「かしこまりました」

 鴻崎さんが、布の端を持って優雅に取り去る――予定だったと思うのだが、額縁に布が引っかかってしまったため、テーブルと額縁が当たって派手な音を立てた。どうやら、ちょっと不器用な人らしい。

「なあに? 大丈夫なの?」

 トキさんはトキさんで、まだ目を覆っている。もう一人くらい、まともな人はどこかにいないだろうか。私は部屋を見回したが、残念ながら誰もいなかった。

「失礼いたしました、どうぞご覧ください」

 鴻崎さんに促され、私は写真を見た。額縁に入っているが、表面にガラスはなく、写真がむき出しのようだ。

 額縁のサイズはおよそ七十センチ×五十センチなので、二十号だ。白黒写真で、港の風景が写っている。構図を見るに、プロの写真家が撮ったものだろう。船の配置や波に当たる光がまるで絵画のように整っていて、カモメの群れも躍動感を加えている。

 黄変が現れているのは、灰色がかったやや薄い色の部分だった。この時点で写真の種類はほとんど絞り込めたが、私は拡大鏡を取り出し、表面を見た。三層から成る構造の、ポジプリント。先日大地くんたちが持ち込んだものと同じ、ゼラチンシルバープリントだ。

 私は拡大鏡から目を離し、トキさんに尋ねた。

「最近、この写真をペンキを塗った部屋などに置いていませんでしたか?」

 二週間ほど前に、外壁の一部を塗り直したとトキさんは答えた。

「そういえば、この写真を飾っていた部屋も、ペンキ臭くなってしまったことがあったわ」

「すみません、私がうっかり窓を閉め忘れたせいです」

 鴻崎さんが、面目なさそうにペコペコと頭を下げた。

「では、額縁にガラスを入れていないのは、元からですか?」

「それは去年の暮れかしら。大掃除の時取り外そうとして、鴻崎が」

「申し訳ありません、うっかり」

「あなた、本当に主人が亡くなってからうっかりしているわねえ」

 私はシュールなコントを見せられているような気分になって、最後に一つ、質問した。

「奥様が先ほどからそのようにされているのは、写真を見ないようにするためですか?」

「そうよ、だって気味が悪いんですもの。シミみたいなものが人の顔に見えてくるの」

 写真の確認は済んだので、私は鴻崎さんに布をかけてもらった。もう大丈夫だとトキさんに言うと、ようやく手を外してくれた。

「この写真はゼラチンシルバープリントという種類でして、その名の通りゼラチンと銀が使われています。写真をプリントする紙の上にはゼラチンと臭化銀を混ぜたものが塗られていて、現像液によって臭化銀を還元し銀に変化させることで、像が浮かび上がる仕組みです」

「暗室で液に浸すあれね」

「その通りです。今回のこの黄色い変色は、その銀が酸化したことによるものだと思います。酸化というのはただ空気に触れていても起こりますが、ペンキの溶剤によって急速に進むことがあります。つまり――」

「原因は鴻崎がうっかりしていたからね」

「も、申し訳ありません! 大事なお写真を!」

土下座をして謝る鴻崎さんに、トキさんは穏やかに顔を上げるよう言った。

「起きてしまったことは仕方ありません。それに、この写真を気に入って買ったのは主人です。だからもういいわ」

 トキさんは鴻崎さんに写真をしまうよう言いつけ、鴻崎さんは危なげな足取りで写真を抱えて部屋を出て行った。

 ため息をついてその後姿を見ていたトキさんは、私に向き直って言った。

「ありがとうございます。さすが、田平ちゃんが認めただけのことはあるわ」

「タヘイちゃん?」

「あなたのお店にいる、信楽焼の狸みたいなおじいちゃんのことよ」

 絶妙な表現に、私は思わず吹き出してしまった。相田平志だから、真ん中の二文字を取って田平、というわけだ。

「平志さんとは、お知り合いなんですか?」

「ええ、子供のころに、一緒に悪戯をして怒られた仲よ。といっても、高校は別だったし、歳もあちらの方が何歳か上だけれど」

「幼馴染ということですか?」

「まあ、田平ちゃんは腐れ縁と言うかもしれないわね」

 くすくすと笑いながら、トキさんは言った。それから、まだ何か聞きたいことはあるかと、私に問いかけた。トキさんの目はやや灰色がかっていて、賢い猫のようだと思った。すべて見抜かれているように思えて、私は疑問を口にしていた。

「……どうして、『呪い』だと思われたんですか? “霊が写っている”というような表現ではなく、まるで呪われる心当たりがあるかのような……すみません」

 さすがに言い過ぎたと思い、私は口を噤んだが、トキさんは微笑んで頷いた。

「やっぱり、そう思うわよね。でも、私はあの黄色い靄を見た瞬間、あの人の――主人の呪いだと思った」

 トキさんは優雅に立ち上がると、サイドボードまで歩いていき、写真立てを手に戻ってきた。

「ねえ、光里さん。素敵な名前だから、光里さんと呼んでいいかしら。あなたにね、もう一つ頼みたいことがあるの」

 トキさんはそう言って、写真立てから取り出した写真を、私の前に置いた。

 それは、若い男女の写った白黒写真だった。男性は詰襟で、女性はセーラー服だ。長椅子に、並んで座っている。顔立ちの整った美男美女。女性の方は、トキさんに面差しが似ている。

「こちらの方は、もしかして富居様ですか?」

「トキでいいわ。ええ、そう。高校を卒業した記念よ」

「素敵ですね。この腕時計も……あ、これは湊屋みなとや時計店の『M ウォッチ』ですね!」

「ええ、正解よ。卒業祝いに父に買ってもらって、嬉しくて家の中でもつけていたわ」

 商店街にある、明治創業の時計店だ。全国的にメジャーではないが、オリジナルの『M ウォッチ』は度々雑誌に特集されている。ちなみにMはマリンに由来していて、横浜らしく海や船をモチーフにしたデザインだ。文字盤には必ずデフォルメされたMの文字が入るので、知っていればすぐにわかる。この写真のMの文字は現在のデザインとは違うが、昔のモデルだからかもしれない。写真では、時計がよく見えるようにか左手首の袖口が少し上がっていた。

「――では、男性の方は?」

 トキさんは微笑むと、囁くように、内緒、と言った。ほっそりした右手のひとさし指を、唇に当てて。右手首のジュエリーウォッチが、きらりと光った。

「私の頼み事はね、この写真を修復していただくことよ。この二人を隔てる壁を、取り去ってちょうだい。それから、できればこの件は田平ちゃんには内緒ね」

「……かしこまりました」

 私は丁寧に写真を受け取った。写真には、大きな亀裂があった。裏返すと、テープで止められているのがわかる。一度完全に破れて分断してしまったものを、貼り合わせたのだ。

 写真はちょうど、二人を分かつように破れていた。


「……それで、どうしてここに?」

 智景くんが私のはす向かいで頬杖をつき、あきれ顔で言った。彼は基本的に表情が乏しいが、最近微妙な差がわかってきたような気がする。

 あきれ顔の理由は、私が写真博物館のスタッフ用休憩室で仕事をしているからだった。

「平志さんに見られるのが困るのもそうだけど、ここだと洲倉くんのアドバイスももらえるし」

 さすがに図々しかったかと様子を窺うと、彼はふいと顔を背けて言った。

「……別に、いいけど」

私はその言葉に甘えることにして、写真に意識を戻した。お預かりした写真がテーブルの上に、昨日スキャナーで取り込んだ画像がパソコンの画面上にある。

「そういえば、ここって年間パスポートはないの?」

「ないよそんなもの。こんなとこに年に何回も来る物好きなんていないし」

智景くんは相変わらずの塩対応だが、この頃はそれが少し楽しみでもある。自分にそんな性癖があったとは思わなかった。

私がパソコンで写真の間の破れを修復しようと奮闘していると、智景くんの手が伸びて写真を持っていった。テープで貼られた写真の継ぎ目をなぞったり、ひっくり返して裏面を見たりしている。

「何か、気になることがあったの?」

 私が尋ねると、智景くんは首をかしげて言った。

「こっちは濡れた跡があるけど、こっちはないな、と思って。この写真、ずいぶん長い間、別々にあったのかな。破れた部分も、だいぶ欠けているみたいだし」

 確かに、よく見れば写真の継ぎ目はいびつだった。他にもピースがあったけれど、見つからなかったのかもしれない。

「でも、ここまで綺麗に二人の間で破れるのは、偶然じゃないよね」

この写真のように、二人の仲は割かれてしまったのだろうか。私はそんな想像をしたが、智景くんは何も言わなかった。ただ、再びああでもないこうでもないと私が写真の修復を始めると、こう言った。

「好きなんだね、写真」

私は画面から顔を上げ、答えた。

「うん、好き。でも、感謝の気持ちの方が強いかな」

 問いかけるような視線の智景くんに、私は照れながらも続きを話した。

「フランスで、音楽で食べていく自信もなくて、一人ぼっちで落ち込んでた時にね、小さな写真展を見たの。日本の写真家の作品を集めた企画展だったんだけど、その中でも一瞬で恋に落ちた作品があったんだ」

 その白黒写真には、色があった。矛盾した表現だが、そうとしか表し様がなかった。渓谷には淡いピンク色の桜が咲き乱れ、川面は透き通ったコバルトブルーだった。空は川とは違う、目に痛いくらいの冴えた青だった。

 その写真を見た瞬間、霧が晴れるようにして、世界が色を取り戻した。私はようやく気付いたのだ。先の見えない絶望の日々を過ごしていた私の世界には、色がなかったことに。

「――それが、洲倉くんの写真だった」

 私の言葉に、洲倉くんははっと目を見開いた。

「私は雷に打たれたみたいにいろんなことを思い出して、考えたの。気が付いたら大学を辞めていて、写真を学べる学校を探していた」

 思い出したことの中にはもちろん、智景くんのこともあった。もしかすると、最初に思い出したのが彼だったかもしれない。私とは違う、才能に愛された人。

「……俺も、好きだよ」

「え?」

「……写真。気づいたら、そこにあったから、いつからかはわからないけど」

「そっか、そういうものだよね」

今日はここまでと宣言した私は、そそくさと立ち上がった。

博物館を出てから、顔が赤くなっていなかっただろうかと心配になった。

「さすがにあの『好きだよ』でドキッとするとか、ベタすぎるでしょ。少女マンガか! ……あーでも、想像しちゃった!」

私はにやにや口元を緩ませながら、坂を下った。

緑の匂いが、かすかに湿り気を帯びていた。そろそろ、梅雨が近づいている。


とりあえず修復の目処がついたころ、またトキさんの名前を聞くことになった。

「トキさんがご乱心?」

 その話題を持ってきたのは、もはやお菓子の差し入れに来ているとしか思えない智陽くんだった。()()()()今日のお菓子は“初心に戻って”、「暁楼ぎょうろう」の「あか煉瓦れんがショコラ」にしたそうだ。元町発祥で横浜土産の定番だが、地元民は意外と買わなかったりする。私も久しぶりに食べてこんなに美味しかったっけと驚いた。チョコレートそのもののような濃厚なケーキに、ヘーゼルナッツとブランデーの風味が香る。

 トキさんに話を戻すと、智陽くんの病院に通っている患者さんたちが、噂をしていたそうだ。最近、トキさんを元町商店街で毎日見かける。それも、買い物をするわけでもなくただ歩いている。

「トキさんが、旦那さんの喪が明けた解放感のせいで“徘徊”し始めたんじゃないかって、患者さんたちが言うんだ」

 はっきりと言うならば、痴呆とか、うつ病とか、そういった病気を心配しているということだろう。

 これに激しい口調で反論したのは、平志さんだった。

「冗談じゃねえ、この前話したときはいつもの調子だったぞ。そんなほら吹きの患者がいる病院なんて、やめちまえ」

 暴論に苦笑しながら、智陽くんは穏やかに答えた。

「トキさんご本人も時々うちにいらっしゃいますけど、年齢の割にかなりしっかりされてるし、目立って悪いところもありませんよ」

「そりゃそうだろう、あいつは昔から健康優良児だったからな。男勝りで負けず嫌いで、はねっ返りだった。いたずらも大胆でな、売れ残った商品を持ち出して、割ったらどれが一番いい音か聞き比べる遊びなんてのをやってたんだ」

「商品というと、トキさんのご実家は商店街で店を開いていたんですか?」

はなぶさ商店って、少し行ったところにあるだろう。陶磁器専門の」

「ああ、知ってます! いつもキラキラしていて、素敵なお店ですよね」

 イギリスや北欧などの洋食器のほか、国内の高級ブランド食器もある。私にとっては、特別な日に使う物が置いてあるイメージだ。確か、少し前にみなとみらいのランドマークタワー店もオープンしている。

「英商店は戦後の駐留軍との繋がりから家具や食器の輸入を始めて、欧米との独自の輸入ルートを持ってたんだ。それに富栄商事が目をつけて、事業拡大していったんだな。まあトキにとっては、ずいぶんな玉の輿だ」

でも、と私は思った。それは本当に、トキさんが望んだ縁談だったのだろうか。

「そういうことなら、あの写真の人が好きでも断りづら――むぐっ」

私は智陽くんの口に赤煉瓦ショコラを押し込んだ。

「写真の人? なんの話だ?」

「いえいえ、なんでもないです。最近、そんな感じのドラマがあって……ね?」

その話は平志さんに内緒にするよう、トキさんに言われていたのだ。彼は目を白黒させながら口の中のお菓子を飲み込むと、智景から伝言、と私だけに聞こえるよう小さく言った。


私は智陽くんと共に店を出て、人通りの比較的少ない元町通りをゆっくり歩きながら話した。

「智景くんが、写真のことについて何か言っていたの?」

 智陽くんは頷き、伝言の内容を教えてくれた。

「あれさ、元は別の写真だったんじゃないか、って」

「……やっぱり?」

 実は私もそうではないかと思っていた。保存状態の全く異なる写真。いびつすぎる継ぎ目。元から二枚の写真だったのなら、すべて説明がつく。あれは別の時に撮られた写真で、彼女の言った二人を隔てる壁とは、時間の壁だったのだ。

しかし一番の問題は、トキさんがなぜそんなことをしたか。ずっと昔の写真を、今持ち出した理由がわからない。

「もしかして、これも“ご乱心”の一つ?」

 私は首を傾げ隣に尋ねたが、彼もどうだろうねと曖昧に言った。

「そういえば、智景がもう一つ気にしてたんだけど、トキさんは普段どちらの手に腕時計をしてる?」

 私は数日前、トキさんに会った時のことを思い返した。たしかシルバーのジュエリーウォッチをつけていて――。

「……うん、右腕だった。左利きかな?」

 それがどうしたのかと問うが、自分も聞いてほしいと頼まれただけだから、と智陽くんは言った。

「あ、英商店だ」

トキさんの実家だという噂の店だ。老舗でありながら古臭さはなく、ショーウィンドウの中では今日も理想の食卓が演出されている。久しぶりに、足を踏み入れたくなった。

開け放たれたドアをくぐると、イギリス王室御用達の食器がずらりと並んでいた。奥のテーブルには、日本の高級ブランドのカップ&ソーサーも見える。こんな食器で朝食を用意したら、私の作る不格好なオムレツも、ホテルのバイキングくらいには感じられるかもしれない。

店内には、ほかにお客さんはいないようだった。静かにクラシック音楽が流れている。微かに人の声がすると思いそちらに目をやると、レジの奥の方で、険しい顔で話をしている二人の男性がいた。一人は五十代で、もう一人は六十代くらいだろう。

聞き耳を立てるのも行儀が悪いと思ったが、店内が静かなので聞こえてしまった。会話の中に、「トキさん」という言葉が。

智陽くんを見上げると、彼も聞いていたようだった。レジの方に迷いなく進み、明るい声でこんにちは、と声をかけた。客がいることに気づいていなかったらしく、二人の店員はそろってはっとした顔になった。

「ああ、藪中医院の」

 智陽くんは人好きのする笑顔で頷くと、ところで、といきなり尋ねた。

「今、トキさんのお名前が聞こえたような気がするんですが、何かあったんですか? うちの患者さんの中にも、トキさんのことを心配している方がおられるんです」

 心配というより噂話のタネだが、嘘というほどでもない。店員さんたちも気を悪くした風はなかった。しかし、話すべきかは迷っているようだ。ひそひそ声で、身内の恥、でも若い人の方が、と聞こえてくる。

結局、実は、と話が始まった。正直なところ、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。

「最近は、インターネットで簡単に物を売れるんですよね。私もよくわからないんですが、スマートフォンのアプリでそういうのがあるとか」

「ああ、所謂『フリマアプリ』ですね。僕も利用したことはないですが、便利だと聞いたことはあります」

 五十代と思しき小太りの店員さんが、これなんですが、と自分のスマートフォンの画面を私たちに向けた。

 私も名前を知っている大手のアプリだ。一人の出品者が出品している物を一覧にして表示しているが、すべて食器のようだった。

「この中には、今はもう手に入らない限定品や日本ではほとんど流通していないものもあって、愛好家たちの間で話題になっているんですよ」

 年配の方の店員さんが、それでね、と渋い顔で言った。

「これらの持ち主は、トキさんだったはずなんです」

 私と智陽くんは顔を見合わせた。それはどういうことだろう。私は首をひねりつつ言った。

「でも、失礼ですがトキさんの年代だと、スマホを駆使して出品するなんて、難しいのではないでしょうか」

「そこはほら、家でお世話してくれている人に頼んだんだろう」

「鴻崎さんですか?」

 そうそう、と二人はそろって頷く。

「あのうっかりしてる人が……?」

 私はあの短時間で失敗談をいくつも披露していた鴻崎さんの姿を思い浮かべ、呟いた。

「トキさんが、その高価な品を売りに出す理由はあるんですか?」

「いや、それが我々にもわからないから、もやもやしているんだよ。お金には困っていないだろうし。いや、もしかして何かで借金でも……」

 しかしトキさんは先代の姉で、店員さん二人にとっては直接聞きづらい相手だという。

 また、“ご乱心”の項目が一つ増えてしまった。店を出た私は、なんだかどんよりした気分だった。

「トキさん、もしかして本当にどこか悪いのかな。この前も、呪いが、なんて気にされていたし」

「うーん、それより気になるのは……」

「なあに?」

「いや、彩野さんもお店の人達も、善人なんだなって思ったんだ」

 智陽くんは曖昧に答えると、そろそろ午後の診察があるからと病院に帰っていった。私はなんとなくまっすぐ帰る気分になれず、仕事を少しさぼって商店街をぶらぶらとしていた。

 途中、「M ウォッチ」の湊屋時計店の前を通りかかった。看板には時計の文字盤と同じ、デフォルメされたMが描かれている。かなり年季の入った看板だったが、トキさんの時計のMのデザインと若干違うような気がした。どこが違うのかわからないが、なんだか違和感があるのだ。帰って写真を確認してみようと、今度は帰路に着くことにした。

「……あ、あれって、トキさん?」

 私の前方に、トキさんの背中が見えた。トキさんはヒールのある靴を履き、颯爽と歩いていた。その足の運びだけでも品の良さがにじみ出ていて、平志さんの言ったようなお転婆な姿は想像もつかなかった。

 このまま進むと、私と平志さんの店の前を通る。私たちを訪ねに来たのかと思ったが、トキさんは店を通り過ぎ、道を曲がって姿が見えなくなった。

あっちは、何があっただろうか。

 私はトキさんの消えた角まで行き、道の先を覗いた。上り階段の先に、赤い鳥居が見えている。

「ああ、元町厳島神社……」

 思い返してみれば、確かにあそこに神社があった。奥まった場所にあるが、わざわざ遠くからお参りに来る人もいると聞いたことがある。

 私はほとんど無意識に、トキさんの背中を追っていた。

 トキさんはゆっくりと階段を上がり、鳥居をくぐっていく。

 慣れた様子でお参りを終えると、トキさんはまたゆっくりと階段を降り、そのまま坂道を登っていった。

 写真のことや売られていた食器のことは気になっていたが、今の私には話しかける勇気がなかった。下手に関わって、恐ろしい、あるいは悲しい事実を聞かされたらどうしようという自分本位な怯えがあった。

 ぼんやりトキさんの姿を見送っているだけの私に、近づいてくる人がいた。私の親と同じくらいの歳の、女性だった。社務所の方から来たので、おそらく神主さん一家なのだろう。

 彼女は私と同じようにトキさんの方を見ると、ぽつりと言った。

「最近、毎日のようにいらっしゃるのよねえ。何か、お願い事があるのかしら」

「毎日のように? それは確かに不思議ですね」

 しかしこれで、噂の真相の一つはわかった。手ぶらで帰っていくのに、毎日商店街に出かける理由。単にお参りをするだけなら、手ぶらで当然だ。

「まあ、ああして坂道を歩けるくらいだから、少なくとも足腰は若いと思うのだけどね」

 私を安心させるように、女性は笑顔で言った。


 考えれば考えるほど、こんがらがって訳が分からなくなっていた。トキさんの、不可思議な行動の理由だ。

 きっかけは、写真を修復してほしいという依頼。しかしあれは恐らく、元は別々の二枚の写真だった。それを一緒に撮ったようにしてほしいということ。

 次に、トキさんが所持していたはずの価値のある食器が、次々と売られていること。

 そして、毎日のように元町厳島神社にお参りしていること。

 全く関係ないように見える三つの行動が繋がる理由がどこかにあるのだろうか。

「また、トキのことを考えてるのかい?」

 ここのところ仕事そっちのけで考え込んでいる私を見かねて、平志さんが言った。

「光里ちゃんは優しいなあ。あんなばあさんの一人、放っておいても自分には影響がないだろうに」

 あんなばあさん、というのはずいぶんな言い方だが、平志さんはむしろ、家族に対するような気安さを込めているように聞こえた。

「だって、心配なんです。トキさんは何か伝えたいことがあって、でもなかなか言い出せないことがあるんじゃないかって」

「まああいつは、一人で抱え込むこともあるからなあ。しっかり者のぶん、人を頼るのが苦手なんだろう。今はもう、旦那もいないしな」

 その言葉で、私は思い出した。“呪い”について、トキさんが言ったことに。夫の呪いだと思ったと、彼女は言った。その理由は教えてもらえなかったけれど、あの写真の男性が絡んでいるのなら、答えは一つしかない。

「そうか、わかった、繋がったわ!」

 私が叫んだその時、智陽くんが店にやってきた。彼は何事かと、驚いたように私を見ている。私は彼を手近な椅子に座らせると、早口で言った。

「トキさんはあの写真の人のことが好きだったけれど、二人は結ばれなかった。そしてあの人は、何らかの理由で先に亡くなってしまったの。それで、旦那さんの喪が明けたから、トキさんは彼のもとに行こうとしているのよ。私に頼んだ写真の修復は、天国で一緒になれるようにと願いを込めたから。神社にお参りに行くのも、神様にお願いするため。食器はもういらないから、売ってしまうことに決めた。……どう?」

「繋がったというより、力業で引き寄せたって感じ?」

 私は智陽くんの言葉を完全に無視した。

「どうしよう、もしトキさんが自殺するつもりだったら……!」

 私は今すぐにでもトキさんを訪ねたい気持ちだったが、智陽くんはひとまず座るよう、私を促した。

「彩野さんの考えたストーリーの大前提は、あの写真に写った男性が亡くなっている、ということだよね。逆に言えば、その前提が崩れれば、事実とは違うことがわかる。――あの写真、見せてくれる?」

 私はちらりと平志さんをうかがった。しかし智陽くんは、にやりと笑って言う。

「『平志さんに内緒にしておいて』は、伝えて、と同じ意味だったんじゃない?」

そんな天邪鬼な、と思ったが、私としても、トキさんを助けるためであれば約束を破ることは仕方ないと思う。私は二人の前に、トキさんから預かった写真を出した。

「こりゃあ……」

 呆然と呟いた平志さんは、続いて私の予想もしていなかったことを言った。

「俺じゃないか」

「ええっ?」

 悔しいことに、智陽くんは予想がついていたようだった。どうして気づいたのかと詰め寄ると、彼は二人の座る椅子を指差した。

「これ、平志さんがいつも座っているあの緑の椅子でしょ。つまり、この写真はどちらもこの相田写真館で撮られたものだよ。――そうですよね、平志さん?」

 間違いないと、平志さんは頷いた。

「だが、二人一緒に写した記憶はない。卒業式の後、そう約束したが、俺が破ったんだ」

「約束を……どうしてですか?」

「あのころからもう、富栄との縁談が出ていたからだよ。俺たちは高校に入ってからも、時々こっそり会っていた。あいつが通っていたF女学院は、異性交遊ってのが禁止されていたからな。卒業の日にうちで写真を撮って、俺の両親にも話して、堂々と付き合うつもりだった。でも、そんな話があるなら身を引くべきだと、町の写真屋の倅と結婚するよりあいつのためだと、その時の俺は思ったんだ。だから、卒業したその日から、俺は親戚の家に行くと言ってしばらく帰らなかった」

 カッコ悪いよなあと、平志さんは頭をかいた。

「ただ覚悟がなくて、逃げただけだ」

 それ以来、二人が話すことはほとんどなかったという。トキさんが当時の富栄商事の社長の息子と結婚したことも、商店街の噂で聞いた。

「この写真は、卒業式の直後、同じ年に中学を卒業した妹と一緒に撮ったんだ。その後、逃げるように家を出た。でもあいつは、約束通りちゃんとここに来たんだなあ……」

 平志さんの声が湿り気を帯びたような気がして、私は目をそらした。

 智陽くんはどうだというように、私を見ていた。私はまだ、混乱の渦中にあった。

「私の仮説が間違っていたことはわかったけど、それなら食器とお参りの件はどうなるの? そもそも、どうして写真を一つにしたかったのかも、よくわからないし」

「それはやっぱり、トキさん本人に聞いてみるしかないかなあ。事実がわかったとしても、何を望んでいるのかまでは超能力者じゃないからわからないし」

 涼しい顔で、智陽くんは言った。事実についてはすべてわかっていると言ったも同然だった。時計をちらりと見ると、そろそろかなと店の外に目をやる。

「そろそろって?」

「トキさんが、ここを通って神社に行く時間。その椅子から毎日外を眺めている平志さんなら、ご存知ですよね?」

「……はる坊、お前はヤな奴だなあ」

 よく言われますと、智陽くんはにっこりした。

「じゃあ、トキさんはやっぱり、平志さんに気づいてほしかったの?」

 昔、好きだった人。自分を、裏切った人。それでもやっぱり、好きなままだった人。素直に話をするには、トキさんの気持ちは複雑すぎたのかもしれない。

「あ、来た来た」

 智陽くんは店のドアを開け、軽い調子で通りがかったトキさんに声をかけた。

「こんにちは、今日は蒸し暑いですね」

「あら……洲倉先生? ごきげんよう」

 意外な場所で意外な人物と会って、トキさんは口元に手を当て驚いていた。

「少し休憩して行かれませんか? おいしいコーヒーがありますよ」

 智陽くんは意味ありげに視線を平志さんに送り、平志さんはため息をついた。本当にヤな奴だ、と呟く口元に、笑みが浮かんでいた。


「まさか写真館でコーヒーをいただけるとは思っていなかったわ」

 優雅にカップを傾け、トキさんは言った。平志さんは落ち着きなく、あちこち視線をさ迷わせている。

「トキさん、先日ご依頼いただいた写真の件、今お話ししてもよろしいでしょうか?」

「ええ、構いませんよ。田平ちゃんにはもう見せたの?」

 私が頷くと、トキさんは平志さんを見てにやりとした。これまで見たことのない表情だった。

「それで、結論から言いますと、この写真の“修復”は不可能です。なぜなら、この写真はもともと二枚の別の写真だからです」

「どうして二枚だと思われたのかしら?」

 私は二枚の写真の保存状態が違い、全く異なる環境に長く置かれていた痕跡があることを説明した。

「あの写真は、しばらく経ってから破かれ、テープで張り合わせたのだと思います。支持体の紙も、写真の端と破れた中央では黄ばみ方が違いました」

 トキさんは静かにカップとソーサーをテーブルに戻すと、私をまっすぐに見た。

「それだけ?」

「……え?」

「それだけじゃ、元が別の写真であったことの証明にならないんじゃないかしら。一枚だったけど真っ二つに破れてしまって、違う場所にしまっていただけかも。紙の黄ばみだって、絶対的な証拠にはならないわよね」

 まさかそんな風に反論されると思っていなかった私は、言葉を失った。トキさんの言う“絶対的な証拠”を、私が見落としているということだろうか。

「証拠なら、ありますよ」

 横から聞こえた声に、私は驚いて振り向いた。

「……と、写真家の弟が言っていました」

 智陽くんはトキさんの手首に目をやり、次いで写真を見た。

「気づいたきっかけは、腕時計です。あなたは普段右手に時計をされているのに、この写真では左手ですね。そして最も確実なのは、この時計の『M』のデザインです」

「これ、私も違和感があったの。今のデザインとは違うよね」

「いや、この時からデザインは同じだったはずだよ。……見て」

 智陽くんは自分のスマホを出し、「M ウォッチ」の写真を表示した。

「それで、次はこっち」

「え、どういうこと? 今のモデルなのに、Mの部分だけトキさんの写真と同じに……」

 いや、違う。よく見れば、文字盤のカモメや錨の絵も、移動している。左にあったものは右に、右のものは左に。

「そうか、左右反転してるのね。つまりこの写真は、『裏焼き』されたものだわ」

 裏焼きとは、ネガフィルムからポジプリントを作る際、裏表を逆にして焼き付けることだ。これによって、出来上がった写真は鏡に映ったように左右反対の画像になる。

「そう、だから二人並んで撮ることはできないんです。トキさんは、平志さんと同じように椅子の左側に座っていたはずですからね」

 トキさんは私と智陽くんを見て、目を細めてほほ笑んだ。

「お見事よ。この写真はね、ここで裏焼きしてもらったの。あの“約束”が、果たされたことにしたかったから。……意地悪を言ってごめんなさい、あの頃の私がどれだけ必死だったか、わかってほしかったのよ」

 今まで黙っていた平志さんが立ち上がり、深く頭を下げた。

「悪かった。全部、俺が意気地なしだったせいだ。お前を幸せにする自信が、あの時の俺にはなかったんだ」

「頭を上げてちょうだい。高校を出ただけで、そんな自信なんてあるわけないわ。結局、そういう理屈を押しのけられるほどの思いがなかったということよ。……あなたにも、私にも」

 それに、とトキさんは言った。

「私、決して幸せじゃなかったわけじゃないの。辰二さんはいい人だったわ。子供にも恵まれた。これで文句を言ったら、それこそ呪われちゃうわね」

 トキさんはころころと笑い、張り詰めていた空気は緩んだ。平志さんは力が抜けたように腰を下ろし、言った。

「そういや、結婚前両親に何度か、ほかに好きな奴がいるんじゃないのかって聞かれたなあ。このことだったか」

「ええ、裏焼きを思いついて頼んだ時、全部ぶちまけたもの。あなたのお母さん、一緒に怒ってくれたわ」

「もう一度ここに来て、写真を撮り直さずに裏焼きをお願いしたんですか?」

 私の疑問に、だって、とトキさんは稚く言った。

「“約束”の日の私は、あの写真の中だけでしょ?」

 今の技術なら、先ほど智陽くんが見せたように写真を一瞬で反転させられる。でもそうして出来上がった画像は、裏焼きされたあの写真には敵わないのだと、私は思った。

「じゃあそろそろ、私はお暇するわ。コーヒーご馳走様」

 立ち上がろうとしたトキさんを、平志さんが止めた。

「まだ話は終わってないぞ。お前はどうして、俺の前をウロチョロしたんだ。困ってることがあるんじゃないのか。お前は昔から、聞かれるまで何も言わなくて面倒なんだよ」

 ぶっきらぼうに言い放った平志さんは、強い意志を込めてトキさんを見ていた。トキさんの手がピクリと震え、唇がわななく。

「……トキさんがご実家から譲り受けた物が、勝手に売りに出されているんですよね?」

 はっとした顔で、トキさんは智陽くんを見た。

「先日、英商店の方からお話を伺ったんです。インターネット上で、トキさんがお持ちのはずの食器が売られている、と」

「え、じゃあ、それはトキさんの意思じゃなかったってこと? それなら、誰が……」

 一人しかいないと、智陽くんは言った。

「トキさんの家の使用人である、鴻崎さんですね」

 トキさんは息を震わせて顔を覆い、頷いた。

「おそらく、彼はうっかり割ってしまったとでも言って、特に値の張りそうな高級品ばかり持ち出していたんじゃないですか?」

 うっかりさを殊更に強調していたのは、そんな理由だったのか。一緒に騙されていた私も、怒りを覚えた。

「……ええ、そう、私は知っていた。でも、誰にも言えなかった。こんなおばあちゃんのことなんて信じてもらえるかわからないし、そのことだけ目を瞑れば、平穏に過ごしていられるもの。仕事の忙しい息子にも、迷惑をかけたくなかった」

 トキさんは手を下ろし、平志さんに言った。

「もう頼れる人は田平ちゃんくらいしかいなかったの。でも、やっぱり田平ちゃんにも迷惑をかけるのは申し訳ないからやめようと思って――」

「迷惑なんて思うかよ」

 口を引き結んで、平志さんが言う。不覚にも、ちょっと格好いいと思ってしまった。

「余計なこと考えずに、俺を頼ればいいんだ。今度は絶対、逃げねえからな。そんで、罪滅ぼしさせてくれ」

 そしたらおあいこだ、と平志さんは調子のいいことを言って笑った。トキさんはハンカチで目元をぬぐいながら、相変わらずねと笑っていた。


 それから数日後、鴻崎さんは窃盗の罪で逮捕された。事件は当然元町近辺に知れ渡ったが、唯一良かったことは、トキさんへのいろいろな疑いが一気に払拭されたことだった。トキさんはしばらく、山手に買ってあったマンションで一人生活するという。一人で気楽だと思っていたのに息子夫婦が頻繁に訪ねてきてのんびりできないと、嬉しそうに愚痴を言っていた。

「……よし、これでばっちりです。格好いいですよ、平志さん」

 私はスーツに身を包んだ平志さんの肩をポンと叩いた。

「いや、なんだか窮屈だなあ。やっぱり靴だけでも普段の――」

「ダメです。せっかくキハマさんがくださったんですから。トキさんと釣り合わなくなっちゃいますよ」

 私は間髪入れずに言った。ちなみに、スーツは英商店の店員さんの一張羅を借りたもので、ネクタイも商店街の紳士服店がタダ同然で譲ってくれた。トキさんを元気づけるためなら、と皆さん快く協力してくれたのだ。彼女はみんなから愛されている。もちろん、平志さんも。

「じゃあ最後に、僕らからです。レストラン『霧暁楼』の食事券」

「おいおい、さすがにそれは……」

 遠慮する平志さんのポケットにお食事券をねじ込んで、私たちは平志さんを送り出した。

 トキさんとの待ち合わせ場所は、あの神社の鳥居の下。かつてと同じように、坂道を降りてきたトキさんの前に、商店街の方からやってきた平志さんが、姿を現すのだろう。

「そうだ、智景くんにもお礼言っておいてね。『裏焼き』のこと、悔しいけど気づかなかったわ」

 あそこでトキさんが口を閉ざしてしまったら、こんな風にうまく収まったかわからない。

「……わかった、言っておくよ。でも、俺もそれなりに頑張ったと思うんだけどなあ」

「はいはい、お疲れさまでしたー」

 私はかかと立ちをして、智陽くんの頭を撫でた。正直、今回は彼の洞察力が鋭すぎてそら恐ろしくなるほどだった。飄々としているが、実はものすごく頭が良いのではないだろうか。高校の時は、成績が優秀くらいにしか思っていなかったけれど。

「……ホント、智景と比べて扱いが雑!」

 そう不満を言う彼の顔が赤くなっていることと、釣られて私もちょっと照れてしまったことは、今は考えないようにした。

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