8.二日目欠席入浴中④

 そして、無敵さんの反論が始まった。


「学校を休んだ? お風呂? 話をそらさないでくださいっ。あたしは、裸を見られたことについて言っているんですっ」

「はい?」


 そうなのだ。反論されたということは、完璧だと思っていた俺の論理が、無敵さんには通らなかったということだ。うっそーん。

 ええー? なに、この子? まともな理屈が通用しないタイプなの? 無敵さんが学校を休んだことについても、俺がここに来た最大の理由なのに、軽く脇に置かれちゃってるし。こいつ、やっぱりめんどくせぇー!


 ぷくー、と膨らんだ無敵さんの頬を眺める俺の額に、つつーっと汗の伝う感触があった。しかして、無敵さんは語り出した。俺の思考回路では少し追いつかないようなことを。


「責任の所在がどうとかより、あたしが裸を『見られた』ということに対するホズミくんの考えを聞かせて欲しいの。ほら、自分が悪いわけじゃなくっても、相手に可哀そうなことをしたなぁ、って思う時とか、あるじゃないですか」

「え? あ、まぁ、それは確かにあるけど。でも、だからって自分が悪くもないのに、謝ったりとかするのは違うだろ?」

「それはもちろんそうです。でも、その場に相応しい適切な言葉が見当たらない時、相手がとても、とってもへこんでいるにも関わらず、『そんなの俺のせいじゃねぇ』とかって、ホズミくんは堂々言えちゃうわけですか?

 これが例えば恋愛だったりした場合、あたしがこっぴどく振られた原因にホズミくんがいたとしましょう。つまり、あたしが好きで好きでしょうがなくなって、告白までした人が、リアルBLだったことになるわけです。ホズミくんはその人のことをなんとも思っていなかったとしても、それでも事実、あたしは間接的にホズミくんによって恋路を邪魔されているわけです。

 とんでもない恋の結末です。あたしの心は大変に傷ついているはずです。でも、ホズミくんはそのことを打ち明けたあたしに、『そんなの俺のせいじゃねぇ』と、やっぱり言ってしまうわけですね? ひどいです。鬼畜です。そんなの、人間の皮をかぶった悪魔ですっ」

「いや、ちょっとちょっと。そんなおかしな例えで責められても意味分かんないから。リアルBLとか、その対象が俺だったとか、マジで気持ち悪いから」


 なるほど、そう来たか。事実関係から自分の非がないと証明する俺に対し、無敵さんは人道的な視点から攻める気でいるようだ。それにしても、俺の一生に本気で「人間の皮をかぶった悪魔」なんて言われる日が来るとは思わなかった。それも、こんな人間の皮を被った被捕食願望持ちの変態に。これ、すげー納得出来ないんですけど。


「意味が分かりませんか? うそです。ホズミくんなら、こんなの絶対分かるはず」

「あー、まぁ、な。でもさ、そんでお前、結局何が言いたいの? 俺にどうさせたいわけ? 俺に出来ることならしてやるが。あ、予め言っとくけど、謝れってのは断固拒否するけどな」


 なんかもう本当にめんどくさっ。このままじゃあ、一向に本題に入れない。そう考えた俺は、無敵さんの意向を探ることにした。それを叶えてあげれば、こんなわけの分からない会話も打ち切れるはずだし。これが一番手っ取り早い。と、思ったのだが。


「謝って欲しいなんて言いませんけど……」

「けど?」


 違うのかよ。じゃあ、どうすりゃいいんだよ。もうイライラしてきた。


「ホ、ホズミくんって、見かけによらず、ど、鈍感、なんだね」

「悪かったな。でもな、人は見かけじゃ分からないもんなんだ。勉強になっただろ? だから、これで良しとしないか?」

「で、出来ませんよっ。いいですか、ホズミくん? 女の子が裸を見せるのって、ほんっとーに、大事な人にだけ、なんだからっ」

「あー、それはそれは。俺が大事な人じゃなくって重ねがさね悪かったな。はいはい、どうもごめんなさいっと」


 俺は投げやりになっていた。どこにこのやりを投げようかと部屋を見回してしまうくらいに。もー、女って、どうしてこうも面倒なの? いや、そんな風に思ってしまったら、恋愛に失望してしまう。こんなのこいつだけだ。そう決めた。


「本当に、悪いって、お、思って、る、の?」

「は? あ、ああ。て、ちょっと」


 急に声が近くなり、驚いて顔を前に向けると、無敵さんが至近距離にまで接近していた。人にはそれぞれ他人に侵されたくないパーソナルスペースというものが存在する。俺の場合、一メートル以内に近付かれると不快になる。

 が、無敵さんは俺のそれをやすやすと越えていた。俺の視界いっぱいを、無敵さんの顔が占めている。真っ赤な、無敵フェイスが。しかも、瞳が、また大きく開かれている。きらっきらの、きれいな瞳が!

 ちかっ! 近いかわいいい! おいおいおい、近すぎるだろ、それ! その距離、恋人同士じゃないとあり得ないぞ、多分! ぐああ、また心臓がどっきんどっきんし始めたぁ!


「おおお、思ってる思ってる。無敵さんの将来の彼氏に申し訳ないことをしたとか、俺、マジで思ってるから」


 俺は慌てて顔を背け、全然思ってもいないことをそれらしく言っていた。こんな時に重宝する俺の特殊スキル《嘘八百》の発動だ。

 だいたい、将来彼氏になるヤツより先に、その子の裸を見たことあるってのは、正直言ってかなり優越感あるだろ。でも、そういうのって、普通、幼馴染で小さい頃、良く一緒にお風呂に入ってたとかいう設定だよね。こんなシャレにならない年齢でそうなるのって、相当荒んだ性生活を送ってる子しかいないんじゃないのかな? こんなことって、まずないし。


「はっ。そ、そういえばそうかも。あたしがもし誰かと付き合ったとして、もしそういうコトをする事態に陥った時、『お前の初めての男は、俺だよな?』って聞かれても、どう答えていいのか困るですっ」

「今気付いたのかよ、お前」


 しまった。余計なことを言ってしまった。俺は「ち」と小さく舌打ちした。

 それにしても、いちいちリアルな妄想をするやつだ。将来は是非クリエイティブな職業に就いて欲しい。出来ればラノベとか書いて、多くの青少年たちに夢と希望と性欲の捌け口を与えてくれ。俺も含めてだけどな。


「で、でも」


 真っ青になり、もの凄く困った顔をしていた無敵さんだったが、数瞬後には再び熟れたトマトのような色に頬を染めていた。なんか激しくもじもじともしている。


「ん?」


 何を言い出すのかと身構えた俺の判断はやはり正しかった。次の一言を無防備に聞いていたら、俺は「精神反応微弱! 自我境界線が崩壊を始めています!」とか、オペレーターに叫ばれることになっただろう。いや、エヴァには乗ったことないんだけど。当然。

 そして、吐息がかかるほどの距離で、無敵さんはその言葉を発した。


「も、もし、それがホズミくん、だったなら……。その問題は、解決、します」

「は? それって、その将来の彼氏が……?」


 俺は自分を指差した。無敵さんは、こくんと小さく頷いた。


「はぁぁぁぁぁ!?」


 絶叫した。そりゃ絶叫だってしちゃうだろ! 何を言い出しやがってるんですか、こいつはぁ! ただでさえバスタオル一枚なんて姿で性への興味が絶頂期にある高校生男子(なりたて)の目の前にいるヤツが、そんな誘惑めいたことを言うなんて! それは俺に「おいしく。た・べ・て☆」ってお願いしているのと同義だぞ!

 いや、でも、もしそうなっても俺は我慢が出来るはず。ここは無敵さんが一人暮らしをする部屋で、邪魔する人は誰もいないし、絶好の環境ではあるけれど。告白がこういう状況では、デートを何回かしてからキスするとか、そんな順番は飛ばしてしまっても仕方が無いもんな。

 いやいや、仕方が無いってどういうこと? やる気マンマンじゃない、これ? おい、頑張れ、俺の理性よ!

 む、無敵さんなんて、普通にしてたら地味だし目なんか漢字の一だし、おっぱいの形もいいし、スタイルなんて俺の部屋に飾ってあるフィギュアにも負けないくらいにいいけども。俺、あのフィギュア、何度もぺろぺろしているけども。


 ぜんっ、ぜん! 我慢出来る気がしねぇ! ダメじゃん、俺! もう全くダメな子じゃーん!


 俺の中の《必殺技ゲージ(性的興奮メーターとも言う)》が満タンを一瞬で突き抜けた時、無敵さんはまたしても衝撃的な一言を言い放った。


「でも、もう一つ問題があるんです。それはね、あたしが、ホズミくんのこと、なんとも思ってないことなんですよねぇ」


 無敵さんは頬を押さえると、「ほぅ」と小さく嘆息した。


「ふぎゃあぁぁぁぁ!」


 思わず尻尾を踏まれたネコみたいな声が出た。もんどりうってテーブルに倒れ込んだ俺は、紅茶やクッキーを盛大に頭からかぶりまくった。一気にK.O.ゲージがゼロになる。「You Lose」なんてアナウンスも脳内に流れている。


「あああ。何をしてるんですか、ホズミくん。せっかくのお茶が、もったいない。クッキーとか紅茶って、頭からかぶるものじゃないんですよ? 知ってる?」

「知っとるわ、んなこと! お前は人をどんだけバカにしてんだよ! そろそろマジで殺意が芽生えてきたぞ、俺ぇ!」


 俺はがばっと跳ね起き反論した。もう顔真っ赤。熱いーっ!

 きゃわわわわ。俺、超絶派手に一人相撲取ってたじゃん。俺だけがどきどきしてたとか、こんなに恥ずかしい経験したことないぞ。これ、絶対一生残るトラウマだろ。思いだすたび悶絶するのは確実。寝る前とかだと自殺する危険すらある。しばらくは自分を布団ごと縛って寝よう。衝動的に飛び降りたりするかも知れないし。そんなとこを誰かに見られたりしたら緊縛趣味の変態野郎だと思われるかも知れないが、命には代えられん。


「それですよ、ホズミくん」

「え?」


 恥ずかしさを怒りに変換して叫んだ俺を、無敵さんが凛とした表情で指差した。


「それってなに?」

「ですから、殺意があるんですよね?」

「あ? ああ、まぁな」


 俺は首肯した。本気で人を殺したいなんて思ったことないし、今回も「出来るわけないけど」ってのが「殺意がある」の前に隠れているけれども。そんなの当たり前だろ、常考。だが、無敵さんにそんなのは通用しないらしかった。


「そうなると、あたしとホズミくんの思いは一つ。もう何の問題もありません。ノープロブレムであると言いたいです」

「いや、それはお前にとってでしかないという予感がして仕方がないけど。まぁ、試しにどういうことか言ってみろよ。聞くだけは聞いてやる」

「こほん。つまりですね、ホズミくんはあたしを殺したいわけですよ。で、あたしはお見苦しい裸を見られたので死んじゃいたい。誤解しないで欲しいのは、あたしは裸を見られて恥ずかしいとかじゃなく、ホズミくんに酷いものを見せてしまい迷惑をかけたことが死ぬほど申し訳ないのです」

「ふーん。で?」


 もう分かった。お前が何を言いたいのかは、もう完全に予想出来た。でも、そんなアホなことを本気で言うわけがない。そうじゃないと信じたいので、その先も聞かせてもらう。でも、やっぱり裏切られちゃうわけだよなー。


「なので、ホズミくんにあたしを殺してもらえれば、お互い希望が叶ってビーハッピー、ということです」

「……お前、バカなの? なにそれ本気で言ってるの? さっき俺に鈍感って言ったのはこのことか? 殺して欲しいの気付かないとか、それは鈍感とは言わねぇぞ。ただ俺が常識的なだけだろが。ただ、事故とはいえ、確かに俺は、お前の裸を見てしまって申し訳ないとは思っている。でもな。そんな俺の良心につけこんで、お前はそんな途轍もない要求をするのか? そりゃあ、裸どころか素顔を見られただけで死ななきゃならないような国もあるらしいけど、ここは日本で俺はもちろん日本人だ。法律的にも道義的にも、それは完全に間違ってる。そうだろ?」


 先にも罪と罰について少し触れたが、これは完全につり合いが取れていない。お前は俺か? 人から見ると、もしかして俺ってこんなヤツなのか?


「ダメですか?」

「無論だ」


 俺はにべもなく肯定した。無敵さんの目さえ線になってくれていれば、俺は冷静冷徹に対処出来るようだ。なんだこれかっこ悪っ。


「ふふん。じゃあ、あたしは昨日寝ずに考えた、新しい自殺の方法を実践してみるまでです。誰にも迷惑をかけずに済む、ニューセルフキルシステムを」

「……なぜ鼻で笑う? それに、その英語って絶対テキトーだよな? てか、そんな方法を考え付いたなら、まずはそっちでどうにかしろよ。なんで俺に殺させようとするんだ?」


 なんだ。これなら海外渡航など無理そうだ。昨日、ほっときゃ良かった。


「え? ……あ、そう言われればそうですね。なんでだろ、あたし。……ホズミくんなら、迷惑かけてもいいような気がするのかな?」

「唇に指を当てて、そんな可愛らしいポーズで腹が立つことをさらっと言うなよ。俺なら迷惑かけていいとか、すげー失礼だと思うんだが」


 とは言いつつ、俺はちょっと嬉しさを感じたりもしていた。迷惑をかけてもいい相手って、結構特別な関係じゃない? とか、一瞬思ったからだ。

 もしかして、無敵さんって俺の腹違いの妹とかだったりして。いや、ないな。あのアホオヤジ、母さんラブが病気レベルだから。


「それでですね。その、ニューセルフキルシステムのことなんですけど」

「聞けよ、人の話。失礼に失礼を重ねてるぞ、お前。それに、そんなの間違いなく却下だ。どうせ太平洋の真ん中まで船で行って飛び込めば、サメに食われるんじゃないかとか思ってんだろ? 昨日も言ったが、もしも行方不明になった場合、どの道捜索されるんだ。それから、沿岸からの投身自殺も迷惑過ぎる。もし浜辺に遺体が上がったら、第一発見者が可哀そうだろ? ぶよんぶよんに腐ったお前を、万が一、子どもとかが見つけてみろ。その子の心に、海より深い傷を作るぞ、きっと」

「あ、ぐぅっ」


 むかついたので言いそうなことを全て先回りして潰してやると、無敵さんは苦しそうに呻き声を上げた。図星かよ。徹夜までしたとは思えない冴えないアイディアだな、おい。お前、バカだろ。


「あ。じゃあ、ナイアガラの滝に飛び込めば? あそこの滝つぼ、絶対死体が上がって来ないらしいですよ?」


 それでも無敵さんは挫けない。負けない退かない諦めない。友情努力勝利の物語で主人公が貫くべき姿勢を無敵さんが持つと、こんなにも残念なことになるんだな、とかしみじみ思った。これは、手加減無用容赦無しに叩き潰さねばならない。こんな負の連鎖は断ち切らなければならないのだ。だって、もうこんな不毛な議論に巻き込まれるのはイヤなんだもぉん!


「却下。あそこにどんだけの観光客が訪れると思ってんだよ。楽しい旅行で見に来た人を、しんみりさせたいのか、お前は? 迷惑なヤツだな」

「はぐぅ。め、迷惑っ」


 無敵さんががっくりと項垂れた。良し。無敵さんの弱点は完全に把握した。「迷惑」だ。ちゃらららっちゃっちゃっちゃー♪ 「メイワク」の呪文を覚えた! 俺は無敵さんを封じ込める魔法の呪文を手に入れた。どうやらレベルが上がったらしい。MPを消費しない呪文なので、これから存分に多用したい。

 昨日と同様の展開に、またしてもしょんぼりとする無敵さん。その姿に少なからず心が痛んだ俺は、よせばいいのに余計なことを訊いてしまった。


「……なぁ、無敵さん。お前、なんでそんな風なんだ? なんでそんなにオドオドビクビクしてるんだ? 自己紹介くらいで死にそうになるとか、そんなんで今まで良く生きてこられたな?」


 そうだ。たかが自己紹介で、あんなに自分自身を痛めつけてしまうのなら、学校行事はおろか、授業ですらまともには受けられないんじゃないだろうか? 授業中、指名されるのなんてしょっちゅうだし、人前に出なくちゃならない行事だっていくらでもある。その度にあんな風になっていたら、普通になんて生きられないはずなんだ。


 無敵さんは、ゆっくりと顔を上げると、俺を見つめた。じっと瞳を覗きこまれ、俺の体が固くなる。勘違いしないで欲しいのは、固くなったのは体全体であって、特定の部位ではないということだ。真剣な無敵さんの眼差しに晒されては、いくら俺でもそんな反応など起こり得ない。

 そして、無敵さんは俺の質問からはちょっとずれたところから答え出した。


「あたしがこうなってから、あんなにハッキリと言いたい事を言ってくれたのって、ホズミくんだけなんです」

「それって俺が空気の読めない人間だって言いたいわけか?」

「あ、いいいええ。そそそそういう意味じゃなくって。だって、そうしてあたしに気を遣って腫れものを触るように接してくれていた人たちって、結局、あたしがして欲しかったことじゃないわけなので。そういう意味では、ホズミくんはあたしにとって正しい選択をしてくれているんです。だから、空気が読めないどころか、心までも読めているんじゃないかって、そう言ってもいいくらいなんですよ」


 正しい、だって? やめろ。俺を正当化するんじゃない。そういうのは、もうたくさんだ。


「いや、心なんて全然読めてねぇし。読みたくもねぇし」

「は、ひ、ふぅ」

「変な声出すな。産気づいてんのか、お前は」

「え? いえ、こ、心当たりは、ない、です」

「照れるな。真面目に受け取るな。心当たりなんてあったら引くぞ、俺。あと、さっきちょっと言ってたけど、こうなってからっていつのことなんだ?」

「あ。そ、それは……」

「やっぱりいい。今の質問は忘れてくれ。俺はこれ以上お前のことを知りたくない」


 俺は腕をクロスさせて拒否を示した。示したんだ。なのに。


 かすかに、無敵さんの唇が震えた。刹那、俺は直感する。


 コイツは、何か大事な、重大なことを伝えようとしている、と――


「……あたし、いらない子、だから……」

「え? なんだって?」


 かすれて小さな無敵さんの声は、うまく聞き取れなかった。でも。でも、こいつ、今、とんでもなく――、とんでもなく、哀しいことを言ったんじゃないのか!?

 それだけは感じ取れた。ということは、もしかして俺は、今、無意識に無敵さんの言葉を「聞かなかったこと」にした、ってことなのか?


「だから、あたしって、いらない子なの。誰にも必要とされないし、いるとみんなを不幸にしちゃう。だから、あたしはいらない子。いたらダメなの、あたし」

「…………」


 聞かなかったことにはできそうにない。無敵さんは力なく笑った。その笑顔は、俺の心を鋭く抉った。別に驚いているわけじゃない。同情しているわけでもない。こう言ってしまうと俺がいかに冷たい人間であるかを否応なしに自分自身で知るわけだが、そんな余裕を一瞬にして失ってしまったのだから仕方が無い。

 声が出ない。言葉を失う。思考が停止しているのだから当然だ。油断していた。不覚だった。俺の心は、無敵さんの言葉に激しく強く共鳴してしまっている。


 なぜなら。

 俺は、”許されない男”なのだから。

 他人から排除されているという点で、俺と、無敵さんは、同じ、だ。


 そのまますっくと立ち上がり、隣の部屋へと消えてゆく無敵さんの後ろ姿を、俺は黙って見送ることしか出来なかった。



   *   *   *



 隣の部屋に消えた無敵さんが戻るのを待たずして、俺はエレベーターに乗り込んでいた。四人乗れば満員になるような狭いエレベーターの中、足元がふわふわとしているような気がして不安になる。俺はエレベーターの冷たい鉄の壁にもたれかかった。俺の精神エネルギーはかなり消耗しているらしい。


 結局、何も聞けなかった。

 学校を休んだ理由も。

 自分を「いらない子」とする意味も。


「……ま、聞かない方が正解、か」


 俺だって、自分のことを詳しく人に教えたくはない。不快にさせるだろうからだ。同時に同情もされるだろう。なにより、俺のくだらない過去の葛藤に巻き込んでしまうことになるかも知れない。それが俺には許せない。

 俺が俺の事を語るのは、“俺にとって正しい反応”をしてくれると確信した人間だけになるだろう。また、面倒をかけてもいいと思えるくらいに甘えられる存在でもあるはずだ。

 つまり、語ることは無い。俺が他人にそこまで甘えることはない。そもそも“正しい反応”なんて、俺にも分からないのだから。


 ぽーん、と一階に到着したことを知らせる音がし、ドアがするすると開いてゆく。


 そこには「あ?」と、敵意をむき出しにして、俺を見下す男がいた。「モデルかなにかやってますよね?」と思わず訊いてしまいそうになるような、すらりとした長身の男だ。びしっと着こまれた黒いスーツが大人びてはいるものの……、纏う雰囲気は”暴虐”としか言い様がない男だった。


「誰だ、てめぇ? ここには、無敵さんしか住んでいないはずだ。まさか、てめぇ……」

「え? は? ひ?」


 めちゃくちゃ怒ってらっしゃるらしい。拳をぼきぼきと鳴らし、びきびきとこめかみに血管を浮き出させたデルモな男に、俺はただうろたえるのみだった。


「ちっ。まさか、こんなことで人を殺すことになるとはな。俺の人生はもう終わった」


 デルモ男(今命名した)は、ボキボキボッキンと指やら拳やら肩やら首やらの骨を鳴らすと、ずい、と俺に歩み寄る。デルモ男の背中から、暗黒のオーラが立ち昇っているのがはっきりと視認出来た。


「え? 嘘? これ、絶対錯覚だよな? それか手品?」


 気圧された俺は、エントランスの壁に背をぶつけた。腐女子であれば、ここで《壁ドン》を期待するに違いない。自分で言うのもなんだが、俺とこのデルモ男とであれば、かなり受けることだろう。いや、俺は受けも攻めもイヤだけど。


「悪いけどよ。今、手持ちの凶器が無いからさ。楽に死なせてやれないけど、悪く思うんじゃねぇぞ」

「えええ! 悪いけど悪く思うなって、おかしいでしょ!? そんなの無理だ!」


 攻めだの受けだのアホなことを考えている場合ではなかった。デルモ男の切れ長の目にはくっきりとした“殺意”があった。それはもう、瞳に《殺》って字が浮かんでいるくらいに。

 いかん! 妙な誤解で殺されるなんて死んでもイヤだ! てかこいつ、一体どんな想像してやがるんだ!?


「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺はここの四階に引っ越してきた八月一日(ほずみ)って者だ! ここには人が五階にしか住んでないって、そりゃいつのこと言ってんだよ!」


 く、くそっ。こいつが無敵さんの関係者である以上、この情報は与えたくなかった。が、痛い思いとか、痛いで済まなくて遺体になる事態とかは避けねばならない。俺は断腸の思いでそれを伝えた。


「ああん? てめぇ、助かりたい一心で嘘ついてんじゃねぇだろな? 証拠はあんのかよ?」


 うおお。なんて高飛車な男なんだ。ケンカしても必ず勝つって思ってんだろ。どうしてこういうイケメンって、みんな自信に溢れてんの? イケメン限定でそういう薬でも売ってんの? それっていくらで売ってんの? おい、興味津々じゃないか、俺。


「嘘じゃないさ。ほら」


 俺はポケットから鍵を取り出した。キーホルダーを付け替えるのとか面倒な俺は、まだ大家さんにもらった状態のままでこの鍵を使っている。薄っぺらいごく普通の鍵には、『4号室』と書かれたプレートがぶら下がっている。


「ふぅん。嘘じゃなさそうだな。そんなもん、今用意出来るわけがねぇし、4号室なんて書いてある鍵も珍しい。たいていはどこも各階に何部屋かあるから、2‐1だの3‐2だの書いてあるだろうしな」


 デルモ男は結構あっさりと納得した。


「分かってくれて良かったよ。じゃ、俺はこれで」


 とにかくここから逃げなければ。学校にも早く戻らなくちゃいけないし。自分の家に戻るだけでえらい大冒険しちまった。俺は無敵さんに関わると早死にするに違いない。次からは『やくそう』をしこたま買うか『ホイミ』の呪文を覚えてから旅立とう。


「おう。んじゃな」


 手を軽く上げたデルモ男の後ろで、ぽーんと軽快な音を鳴らしたエレベーターのドアがするすると開いた。めちゃくちゃ嫌な予感が俺を撃つ。


「ホズミくんー。携帯、部屋に落としてましたよー」

「げえぇぇぇぇっ!」


 エレベーターから飛び出してきたのは、俺の携帯を高く掲げた無敵さんだった。なにしてくれちゃってんだよ、俺ぇ! どうしてポッケからお外に出ちゃったの、マイ携帯ぃ!


「な! なっにぃいぃぃぃいいいぃ!?」


 振り返ったデルモ男が、悲鳴にも似た声を上げて目を見開く。

 無敵さんは、いまだバスタオル一枚を巻き付けたかっこうのままだった。その無敵さんが、俺の携帯を手にして、「部屋に落としてましたよ―、よー、よー……よー……(エコー付き)」と声高にご説明してくれている。

 これで誤解をしないやつなどいるはずがないと断言出来た。考えるまでもなく、俺はダッシュを開始していた。


「てめぇーっ! 俺を騙してやがったなぁっ!」


 デルモ男が先っちょの尖った蹴られると痛そう、てか絶対刺さるような革靴を、ガガガと鳴らして追いすがる。もちろん俺に。返事はしない。てか、出来ない。

 無敵さんが聞いている以上「本当です」とは反論出来ない。なぜなら、ここに住んでいることが無敵さんにバレるから。「はい、嘘です」とも答えられない。それはデルモ男から完全に“敵”だと認定される答えだからだ。俺の帰る場所に出没するに違いない、やたらと気が短くてケンカ早い男に、だ。

 家にもおちおち帰れなくなるなんて最悪な返答だろう。結局俺は、デルモ男の怒りを軽やかにスルーするしかないのだ。


「ちっくしょう! なんて逃げ足のはええやつだ! チャカ(拳銃)を持ってくりゃよかったぜ!」

「あっ。ホ、ホズミくーん? ……と、水無人(みなと)くん?」


 デルモ男の言い放った「チャカ」のインパクトが強すぎて、俺は無敵さんの呟きに気付けない。とにかく逃げろ。俺の足なら、大概のやつからは逃げられる!


「ちっくしょおー! もう、絶対に無敵さんとなんて関わらねぇーっ!」


 俺の魂の叫びは、本町商店街のアーケードに虚しく木霊していった。





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