7.二日目欠席入浴中③

   *   *   *


「さて」


 俺は気合いを入れて目の前にある我が家のエントランスを見上げた。ここは本町商店街の西の外れに建っている。て、なんで自分の家、つーか自分の住んでいるマンションに入るのに、こんなに気張らなきゃなんないの?


 重量鉄骨五階建て、グレーに塗られたマンションの玄関ホールは、ちょっとしたホテルのようでなかなか高級感がある。自動ドアを開けて入ったところには各部屋のインターホンが設置されており、呼び出された人が内ドアのロックを解除しない限り、中には入れなくなっている。

 高校生男子が一人暮らしをするのには、ちょっと贅沢な賃貸マンションだ。

 が、俺の住む4階はワンルーム。てか、各階に一部屋しかこのマンションには存在しない。つまり、シャトーロータスは、狭い土地に無理やり建てたような、ペンシルビルなのである。


「五階、か……」


 玄関ホールの内ドア脇に設置された、呼び出し用のボタンが並ぶパネルをじっと見る。

 ここ、実は一階から三階までは、誰も住んでないんだよな。五階に人がいるのは知っていたけど、俺、引越しの挨拶はしなかったんだ。変に仲良くなってもなんか面倒だったし。

 今、俺はそのことを激しく後悔している。ああ、あの時、そう、下見の時に、ちゃんと住人の確認をしておけば! 絶対、こんなとこには住まなかったのに!


 しかし、時すでに遅し。今さら親に「やっぱ別の部屋にする」とは言えない。俺の一人暮らしには、ただでさえ出費がかさんでいるはずなのだ。これ以上のわがままは通せない。


「はぁ。しゃーねーか」


 俺は諦めの境地に至り、ぴぃん、ぽぉーん、と五階のインターホンを鳴らした。直後。三秒くらいで返事があった。


『はぁ、はぁ。は、はい。無敵です。って、はわぁ! ホホホホ、ホズミくぅんっ!』


 やけに息が切れている。すぐに俺だと分かったのは、部屋側のモニターに映っているからだ。こんなの俺の部屋のと同じだろ。同じマンションなんだから。


「うん。急にごめん。あのさ」


 言い終わらないうちに、『ちょっと待ってて』と言われ、通話はぶつんと途切れた。無敵さんがインターホンを切ったらしい。

 そうか。息が切れているのは、さっきベビーカーをぶん投げたからだな。そして、ここまで走って逃げてきた。待てよ? でも、俺を見て驚くのはなぜだ? さっきは俺に気付いていなかったってことなのか? 平日の朝、商店街にいる制服を着た男子高校生なんて相当目立つはずだけど?


「分からん。なに慌ててんだ、あいつ?」


 俺が首を捻るか捻らないかの間に、内ドアの向こうに見えるエレベーターが動き出した。エレベーター入口の上部にある階層表示が5、4、3、2……と、点灯しては消えていくのを見て、俺はそれに気がついた。

 え? あいつ、この一瞬でエレベーターに飛び乗ったってこと? なんで降りてくんの? 普通、誰か来たら、「どうぞ」って答えて、部屋で待ってるもんじゃない? なんで下まで迎えに出てくんの? これって俺だから? 俺が来たのが、あいつにとって、そんなに嬉しいことなのか?


「はっ。いや、だからって別に嬉しいわけじゃないけどな」


 うっかり緩みそうになった頬を慌てて引き締める。ついでに、わざとらしく「こほん」と咳払いまでしてみた。

 昔、うちで飼ってた犬も、俺が学校から帰ると大喜びで玄関まで迎えに来てくれたっけ。パピヨンのラッシーくん。可愛かったな、あいつ。二年前に死んじゃったんだけど。

 などと切ない思い出にほんの少しだけ浸っていた俺だったのだが、一階に到着したエレベーターのドアが開いた瞬間、そんなものは吹き飛んだ。


 なぜなら。


「ままま、待たせちゃってごめんなさいっ!」

「いや、別に待ってなんて……っ!」


 なんだかデートの待ち合わせみたいな会話だな、などと思っている場合ではない。ぽーん、と鳴った軽快な音と共にエレベーターの中から飛び出して来たのは、バスタオル一枚を体に巻いただけの無敵さんだったからだ。

 ほんのり桜色に染まった細い肩、うなじ、そして、つやつやしたほっぺた。走り寄って来る無敵さんの揺れる髪からは、きらきらとしたしぶきが舞い散っている。


 なんでだっ!? さっきまで、外にいたんじゃねーのかよっ!


「きゃ! きゃああああああああ!」


 かぱ、と開いた俺の口から、女みたいな悲鳴が出た。

 俺、動揺。そして動転。


 コイツ、ホントに何考えてんのか分かんねぇ!


「しっ! 静かにしてください、ホズミくんっ」

「げぶぅっ」


 無敵さんは玄関ホールで絶叫する俺の腹部に強烈な右拳をめり込ませた。あまりの出来事に、俺は「ヤバい」と思う暇すら与えられない。すばらしく美しいフォームから放たれたパンチは、「お前、ボクサーなの?」って聞きたくなるほどのボディブローだ。

 俺も中学ではずっとサッカー部に所属していたので、細身ではあるものの、筋肉にはそれなりに自信がある。ポジションは右ウィング。名前がかっこいいのでそこにした。足が速い俺には最適なポジションだった。しかし、無敵さんの拳は、そんな俺の腹筋など「えいい! 貧弱貧弱ゥ!」とでも言わんばかりに突き刺さっている。


 げぶろぇ! 吐きそう!


「し、静かにしてくれてありがとう。こ、こんな格好でこんなところに男の人といる所を誰かに見られたら、あ、あたし、もう、お嫁に行けなくなるかもって、思って。じゃ、じゃあ、あたしの部屋へ、どどどど、どうぞっ」


 腹を押さえて足をぷるぷると震わせる俺に、無敵さんは照れながら促した。

 静かにしたんじゃねぇ。お前が静かにさせたんだろーが! ダメージが足にきたなんて経験、初めてしたぞ! それが女子のパンチ一発でなんていう、一生誰にも言えないような秘密までプレゼントしてくれやがって!


「あれ? ホ、ホズミくん、もしかして緊張してるんですかぁ? やだ、大丈夫だよ。うち、あたし一人しかいないの。一人暮らしなんだ、あたし」


 俺が震えて動けない理由を、なんだか自分の都合のいいように解釈した無敵さんは、俺の手を取りエレベーターまで引いてゆく。

 あああああ。痛いけど手が湯上りであったか柔らか気持ちいいのに一歩動くたびに吐きそう。もう俺の思考はめちゃくちゃだ。ふわんと鼻腔をくすぐるシャンプーやらボディソープやらのフローラルな香りは、俺の脳を痺れさせた。


 と、ここでようやく重大な事実に気付く。無敵さんが、一人暮らしだということだ。俺は今、バスタオル一枚巻いただけの女子に手を引かれ、他には誰もいない部屋、この場合、密室と言い換えてもいい場所へと、誘われているわけだが。


 これ、結構まずくない? いや、もちろん性的な意味でだけど。待て待て。相手は無敵さんだから。地味で変態で面倒くさくて何を考えているのか一切理解出来ないやつだから。同じ言語でコニュニケーションが取れるというだけで、俺とは何もかもが相容れない人間の女性型生物だから。


 でもそれ、肉体はちゃんと女してるってことじゃんか!


 八月一日於菟、十五歳。高校一年生の春。俺の理性が、試されようとしていた。こんなん、ラブコメ神の暇潰しだろうけどな!


「ととと、とりあえず、そこに座って。すぐにお茶を淹れるねっ」

「ぐうぅ…………」


 エレベーターに引きずり込まれ、押し込められるようにして無敵さんの部屋に上がった俺は、三畳ほどのダイニングキッチンを抜けてすぐある居間の、三角形なガラストップリビングテーブルの前に座らされた。

 無敵さんのパンチでまだ呼吸が正常でない俺は、返事すら出来ない。座るというよりは崩れ落ちた、という感じで、俺は座ることになった。


「こ、このアホ……」


 思いっきり怒鳴ってやりたかったが、絞り出すようにしてしか声が出ない。仕方がないので睨んでみたが、無敵さんはすでにキッチンでやかんを火にかけているところだった。つまり、俺からは背中しか見えない。睨む無駄。にらむだ。

 あと、着替える様子はない。

 無敵さんは、まだバスタオルを一枚、体に巻いたままだった。さっきの《無敵パンチ》でもはだけなかったという、根性のあるバスタオルだ。真っ白でふわふわなのに、芯が強いヤツのようだ。いかすぜ。

 また、小柄な体を包むのには十分な大きさだ。小さい背中に、華奢な肩から続く細い二の腕。膝より少し上まではバスタオルに隠されているが、そこから伸びる脚はしなやかだ。無敵さんが動く度、お尻の形が浮き上がって見える。こぶりで可愛らしいお尻の形が。


 って、いかーんっ! 何を凝視しちまってんだ、俺はぁっ! 殴られたせいとはいえ、息をはぁはぁ吐きながらこんなもん見てたら、俺がまるで変態みたいじゃねーか!


「お茶なんて後でいいから、服を着ろ。とりあえずすることはお茶を淹れることじゃなく、お前が服を着ることだ」


 そう言ってやりたいのに、苦しくて喋れない。てか、こんなん言わなくても、フツー分かるだろ? こいつの優先順位ってどうなってんの? なんか俺、昨日からこいつに行動制限されてんだけど。なんでこいつに関わると、俺の自由ってなくなるの?


「お待たせー。そそそ、粗茶、なんですけど」


 いろいろな思考を渦巻かせてソウルジェムに穢れを溜めていると、無敵さんが俺の前にティーカップをことりと置いた。


「あと、お茶受けですっ。今、これくらいしかないけど。ごめんね」


 続いて、大皿一杯に盛られたクッキーやらマカロンやらがテーブルに置かれた。


「それから、これ。今朝の新聞と、今日発売の週刊誌。これね、あの、最近頻繁に報道されてる、《スクエア・A》のボーカルと、女優の棚瀬マキのね、熱愛真相記事が載ってるんだよ」


 さらには、雑誌までが登場した。いや、そんな芸能情報知らないし。人の恋愛になんて興味ないし。てか、無敵さんが芸能情報? 結構意外だったな。


「おい」


 しかし、いくらなんでももてなし過ぎだ。そう突っ込もうとしてみると、声は普通に出るようになっていた。だが。


「あ、それとも、ゲームしたい? じゃあね、あたしのね、プレステポータブル持ってくるね」


 ついには携帯ゲーム機までをも投入しそうな勢いだ。いそいそと隣の部屋へ行きかける無敵さんに、俺は「待て」と呼びかけた。ぴたりと動きを止めた無敵さんが振り返る。


「え?」

「え? じゃない。気持ちはありがたいが、俺は遊びに来たんじゃねーんだよ」

「そ、そうなんだ。あたし、てっきり……くしゅん」


 なぜだかがっかりした風の無敵さんは、無駄に可愛らしいくしゃみをした。なにしろ季節はまだ春の始めだ。部屋のエアコンは動いているようだが、さすがにバスタオル一枚では厳しいだろ。

 ああ、くそっ。本題に入る前に、とにかく服を着てもらわねーと。それにしても、真っ白なバスタオルから覗く女の足って、なんでこんなにやらしいの? 無敵さんの足にドキドキしちゃう自分が許せないんだけど。


「いいから、とにかく着替えてこい。そのままじゃ風邪ひくだろ」


 なんとなく横を向いてしまった。まさかこのセリフを自分で言う日が来るなんて思わなかった。こういうのって、ドラマかなんかでハードボイルドが言うお決まりのセリフじゃね? ヤバい。俺、今、超ハードボイルド。もし今トレンチコート羽織ってたら、豪雪が吹き荒んでても絶対かけてあげてるよ、俺。で、そのまま名前も告げずに去る。そして凍死。ダメじゃん。ハードボイルド、死ぬじゃん。

 というくだらなさすぎる俺の妄想は、無敵さんの眼力によって打ち消された。


「……ホズミくん。あたしの事、心配、してくれてる……?」

「は?」


 弱々しい無敵さんの声音。ここ、そんな問いかけが来るところ? なんて思い無敵さんを見上げると、通常モードでは漢数字の“一”みたいになっている目が、大きく開かれていた。


 でかっ! それに……、異常にキラキラしてる! なんだこの瞳!

 こいつ……、こいつっ……。

 もしかして、ちゃんとしたらすっごい可愛いんじゃないか!?


 待てよ。この目、そしてこの顔……。

 俺、どこかで見たような気がするぞ。


 何かが心に引っ掛かり、俺は記憶の棚を探り出す。しかし、それはすぐに中断せざるを得なくなった。


「嬉しい……」


 キラキラとした瞳が、ますます煌めく。無敵さんの瞳が潤んできたせいだろう。いや、ホントになんで? お前の涙腺、一度病院で診てもらった方が良くないか? 俺、普通のことしか言ってないけど。

 だが、これはこの後起きる異常事態への予兆に過ぎなかった。


「ありがとう、ホズミくん」


 にぱ、と笑った無敵さん。腕を少し上げ、頬に手をやろうとでもしたんだろう。その時、あれほど激しいボディブローを放っても微動だにしなかったバスタオルが、はらりとほどけた。

 やっぱり、神様はいる。アホでエッチでどうしようもなくイタズラ好きな、ラブコメの神様が。


「ヤバい!」


 頭の中でカチリという音をさせながら、俺はそう確信していた。

 俺の不思議体質ブレイン・バーストが、とてつもなくまずい場面で、またしても発現している。通常時間にすると多分三秒ほどのことが、俺の中では五分ほどになってしまうこの現象、TPOによっては非常に危ないことになる。


 今が、まさにそれだ!


 無敵さんがバスタオルが外れたことに気付くのが遅れれば遅れるほど、それこそじっくりとのんびりとまじまじとがっつりと俺が見てしまうことになるのだ。なんだこの文章。主語多すぎないか? ヤバい。俺、マジ激ヤバス(笑)。

 落ちつけ。まずは落ちつくんだ、俺。まずはこれまでの状況を整理してみよう。でないと、ゆっくり、ゆっくりとスローモーで落ちてゆく無敵さんのバスタオルに神経が集中し過ぎてしまう。そうだ。冷静に、考えながら、間違いなく、確実に、視線を……、そうだな、目いっぱい右に向けるか、いや、それよりも瞼を閉じてしまった方がいい。


 そう判断して瞼に指示を送るも、とにかく脳以外は通常の時間でしか動かない。ふぁー、と落ちてゆく無敵さんのバスタオルは、まだ見えている。バスタオルが落ちるのなんて一瞬だ。すでにバスタオルは、無敵さんの胸の谷間を中ほどまでしか隠していない。左わきの下とおっぱいの間くらいで留められていたバスタオルは、無敵さんの左半身の半分まで開いている。

 つまり。左胸の外側からくびれた腰に続き、美しいカーブを描く太ももへの輪郭は、もう丸見えとなっていたとか思っている間にも、おおお、お、おっぱい、が。お、おっぱいがぁ!


 げぇっ! ここここここ、このままでは、とんでもない所まで見えてしまうぞ! いいのか、これ? いいのかぁぁぁぁぁ!?


 いよいよ本気でヤバいゾーンにまでバスタオルが辿り着き、俺の心拍が急上昇している。だが、それは「どぉぉぉぉっ、くぅぅぅぅんんん……」といった、ゆっくりしたものだ。普通の人間であれば絶対に体感し得ない感覚に、気持ち悪さがこみ上げる。


 ぐええ。れ、冷静に。冷静になれ、俺!


 無敵さんは昨日初めて出会ったばかりのクラスメイトであり、俺にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。あ、関わり合いになりたくないとか思っている時点でそれ以下ではあるかも。

 それはともかく、兎にも角にもそんな女子の全裸など見てしまった日には、これからどう接していったらいいのか非常に悩む。更には無敵さんの裸が夢に出てきちゃったり、そのせいで翌朝、男の生理現象などを引き起こしたりしていた場合、俺はきっと極度の自己嫌悪に陥り「無念!」とか叫んで切腹する。は、おおげさだが、精神的なダメージはそれくらいに甚大だ。これが彼女であったり、せめて好きな子であったりすればまた話も変わってくるのかも知れないが。おいおい。何考えてんの、俺? 状況整理はどうした、おい。


 少しだけ冷静になった俺は「早く閉じてくれ、瞼!」と念じてみた。


 ぬあぁっ!


 だが、一向に目は閉じない。バスタオルはさらに下がり、とうとう無敵さんのバストにおける頂点まであと数ミリというところまで迫っていた。

 なんでじゃーい! 瞬きのスピードって、確か100ミリ秒程度のはずだぞ! 一秒あったら、どんだけ閉じられると思ってんだよ、俺ぇ!

 はっ。と、いうことは。

 さては、俺の《本能》が、脳からの命令をキャンセルしてやがんのか! 「見るな」「見たい」「だめだ。見るんじゃない」「いーや、俺は見たい」って感じで、理性と本能が戦っているに違いない!

 なんてことだ。サイテーじゃないか、俺。もしもこんな場面に遭遇することがあっても、俺は決してガン見するようなヤツじゃない。そうじゃないって、信じていたのに!


 その直後。俺は、この世界の《神》ってヤツが、残酷であると思い知るのだった。


「ひゃわっ。いけないっ」

「なんだとぉ!」


 あと一歩。無敵さんのバストの一番大事な所であり、甘美なアクセントとして存在するはずの、あの、なんていうか、突起部? 露骨に言えばB地区? が「見えた!」と思った瞬間、俺の《ブレイン・バースト》は解除されていた。あれぇ? いつもより、なんか終わるの早くない? 

 同時に、バスタオルが異常事態であることに気がついた無敵さんの両腕が流星のごとく輝いていた。ように、俺には見えた。無敵さんの腕はひゅばばばば、とバスタオルを元の状態にまで復元していたのだ。

 例え俺の《ブレイン・バースト》発動中であったとしても、果たしてその動きが捉えられていたのか分からないほどのスピードだったが。


 くあぁぁぁぁ! なんだよ、おいぃぃぃ! ちらりとは見えたけど。ちらりとは見えたけどぉ! 俺の瞳に残る無敵さんバストの残像、ピンボケした写真みてーになってるじゃん! 

 見えてはいるけど、はっきりくっきり鮮明には分からない。想像、あるいは妄想補正をかければまずまずの映像ではあるが、それはやはり“本物”とは呼べない。

 これならば、全く見えなかった方がいっそ清々しかった! なんだよこの得したのか損したのか良く分からない残念感! またやりやがったな、《ラブコメ神》め! 俺のドキドキを今すぐに返せぇ!

 つーかこれ、全力で悔しがっている俺ってなんなの? 自分の醜くも健全な部分を知ってしまった分、これは完全に損しただろ。


「ひゃわわわ。あぶ、あぶなかったぁ。ご、ごめんね、ホズミくん。お見苦しいものをお見せしそうになっちゃって」

「あ、いや」


 かさかさに乾いた俺の口から、なんとも情けない声が出た。正直、がっかりしているからだろう。しかし。しかし、だ。

 ピンボケであっても、無敵さんのプロポーションは把握出来た。そう。まるで美少女フィギュアがそのまま等身大になったような、実物大のフィギュアのような、生身の人間とは思えない、無敵さんの信じがたいプロポーションを!

 どこにいるんだろ、《ラブコメ神》って? 居場所を突き止めたら絶対に撲殺してやる。それぐらい残念になってきた。

 なので「別に、見苦しいってことは。むしろ、きれい、つーか」と、つい言いかけて、俺は口に手をやった。


「え? え? ま、まさか……、み、見え、ちゃった?」


 無敵さんの唇が「あわわわわわ」と震え出した。顔には縦線がずらりと下がっている。顔面蒼白。てか真っ青。


「み、見えてない。見てもいない。だ、だから安心しろ」

「うそです。ホズミくん、あたしの、は、裸……、み、見た、でしょ」

「うっ。み、見てないって言ってるだろ。何を根拠にそう言うんだ、お前は?」


 ちょっと声が上ずった。く。まずい。なんでこいつってこう、無駄に勘が鋭いの? そういうとこも怖いんだよ、お前は。


「うそ。見たんだ。ふ、ふぇぇ。どうしよう、どうしよう。あたし、嫁入り前なのに、男性に裸体をっ」


 無敵さんは顔を覆って泣き崩れた。ひっく、くすんと泣く声は、こんな場面では不謹慎だと思いつつ、なんだか猛烈に可愛かった。


「いや、落ちつけ。だいたい、嫁入り前に裸を見られたからってなんなんだよ? 今時、裸を見せ合う前に結婚するカップルなんかいねーって」


 そうだよね? 大昔ならいざ知らず、現代日本においてそんなカップルいねーだろ。

 ぺたんとキッチンの床にへたりこんでしまった無敵さんの頭を撫でたくなる衝動に耐えながら、俺はティーカップを手に取った。カップがカチャカチャカチャカチャと小刻みに鳴っている。うおおおお。俺も落ちつけ。


「くすん。ひどいです、ホズミくん。見るだけ見て、あとは知らんぷりですかぁ?」

「おい、やめろ。その言い方、まるで俺が遊び人みたいじゃねぇか。それより、そんなことを言うのなら、速やかに服を着ろ」


 てか、「やるだけやって」なら遊び人だけど、「見るだけ見て」だと、なんだか俺が覗き魔みたいで凄まじくかっこ悪い。本当にやめて欲しい、その言い方。もしこいつがマーシア伯爵夫人だったりしたら、《ピーピングオト》と書いて《覗き魔》と訳されちゃったりするのかな? 自分の名前が後世まで覗きの代名詞にされるなんて耐えられねぇ。トム、尊敬。


「そうやって責任逃れをするつもりですねぇ?」


 無敵さんがにょる、と顔を上げた。いや、このオノマトペがおかしいのは分かっている。しかし「にょる」としか俺には形容出来ないのだ。あれほどキラキラと輝いていた大きな瞳は、もう通常に戻っている。漢数字の一の目だ。それ、ホントに見えてんの?


「責任逃れとかおかしな言いがかりをつけるんじゃない。仮に俺が無敵さんの裸を見ていたとしても、それは望んだことじゃあない。もし責任の所在を問うのであれば、それはお前のバスタオルの管理についてになるはずだ。俺が責任を問われる筋は、どこにもない。そもそも、なんで学校休んだお前が、こんな朝っぱらから呑気に風呂なんか入ってんだよ?」


 ついでに言えば、外でベビーカーをぶん投げて、にゃんこを救ったりもしている。が、そこはとりあえずノータッチ。あれもこれもと追求すれば、話しがややこしくなるからな。

 無敵さんが元の地味な子に戻ったおかげで冷静さを完全に取り戻した俺は、バスタオルにまだ覗く胸の谷間から強固な意志力で目をそらし、容赦なく反論を展開した。完璧だ。これだけ正しい論理なら、無敵さんも何も言えまい。やはり、俺は正しいのだ。それも、常に。

 俺はそうやって挑まれると、反撃せずにはいられない性質なのだ。目には目を。歯には歯を、とは人を裁く時には罪と同等の罰を与えよというモーセの律法だが、俺はバビロン人ではないので当然そんなものには従わない。「もらったものは倍にして返す。なんなら利子までつけてやる」。強いて言えば、それが俺の律法だ。


 と、気付けば俺は、またしても無敵さんと論戦するはめになっていた。頭の中で鳴るゴングが、第二ラウンドの開始を告げた。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る