9.三日目七谷水難事件①

 入学三日目、朝。もうすでに、俺はこの高校に来たことを激しく後悔していた。なぜなら。


「おっはよー。あれれー? どったの、オトっちゃん? こんなにいい天気なのに、オトっちゃんとこだけ雨でも降ったー?」


 がらっと教室のドアを開け、窓際の自分の席へ、キュポキュポと床を踏み鳴らして歩いて行く俺に、七谷(ななたに)菜々美(ななみ)が朝の挨拶を朗らかにしてくれた。《無敵さんシフト》の為の席替えはもう完了しているらしく、七谷は俺の右斜め後ろの席にいる。つまり、無敵さんの後ろの席だ。

 今日もゆるふわカールヘアーがみょいんみょいんとナチュラルかつ美しく揺れている。カラコン入れてる青い瞳と目を合わせるのはきついけど。あと、やたら際どいとこまでしかないスカートもどうにかしてくれ。油断すると、視線がそっちに行くんだよ!


「ああ。校舎玄関に入る手前で、集中豪雨を喰らったようだ」


 これについて説明出来ることは何も無い。俺にはこれしか答えようがなかった。七谷の女子高生力(こんな力があるのかは未確認)を鋼鉄の自制心で振り払い、必死で平静を装ってそう答える俺。こう解説すると、自分が妙にかわいく思える。が、実際にはただのムッツリーニだ。


 かばんを机の横にかけ、椅子を引いてどすっと座る。その衝撃で、床にびちゃびちゃと水が垂れた。俺はもうずぶ濡れだった。頭のてっぺんからつま先まで、それはもう見事に濡れそぼっていた。顔に張り付く髪が邪魔で、俺は前髪をかき上げた。


「おおー。そういうのって、なんだか妙にかっこいいー」


 そんな俺の仕草が気に入ったのか、頬を上気させた七谷が、ぱちぱちと拍手した。


「はぁ? お前、それで慰めてくれているつもりかよ」


 俺は七谷を横目で睨んだ。そういう風にからかわれるのって、俺、嫌いなんだよね。マジマジ。そんなこと言われたってそわそわしたりウキウキしたりなんかしないのだ。

 ほら、その証拠に、椅子に座る時、片足を高く上げてから組んでみた。いや、かっこつけてるわけじゃないよ? これが俺のいつもの座り方だし。マジマジ。


「いやいや、ほんとだよー。ま、それはともかく、そのままじゃ風邪ひくよ? タオルある?」

「ねぇ」


 こんなにアイドル力(ビッチ力とも言う)の高そうな七谷が、俺の心配をしているだと? まぁ、全然嬉しくなんかないけどな。マジマジ。その証拠に、そっけない返事とかしてるだろ? これはすぐに気の利いた言葉が思いつかなかったからってわけじゃあない。こんなのこれで十分だし。

 でも、七谷の表情が「ぴくっ」とかなったらもう少し何か言おうとは思ってる。ほら、俺って優しいから。マジマジ。


「だよね。まだそんなに暑い時期でもないし、部活もまだ始まってないもんね。タオル持ってる子なんていないだろーなー。よし。菜々美、ちょっと職員室行って借りてくる。待っててね、オトっちゃん」

「え? いや、いいって。おい」

「遠慮しないの。同じ《無敵さん係》でしょ?」


 止めるが早いか、七谷はぴょこんと席を立って教室の前側ドアから出て行った。七谷は見かけによらず世話焼き気質なようだ。意外だけど、本当にいいやつなのかも知れない。


「いいって言ってんのに……」


 なんだか申し訳なくなった。てゆーか、久しぶりに人に優しくされたなー、とか気付いたら、ちょっとうるうるしてしまった。

 でも、本当に放っておいてくれても良かったのに。俺の濡れ方、見た目は派手だが、実質厄介なのは髪だけだ。制服については撥水加工がされているので染み込んだ分ってそれほどでもないし、中のYシャツだって頭がガードしてくれた。なにしろ真上からの“豪雨”だったもんな。


「ふーん。貴様、玄関前で水浴びしたのだな?」


 え? 俺、貴様呼ばわりされた?


「黒野。まぁな。したくてしたわけじゃないけども」


 七谷が去った後、右斜め前に着席していた黒野が、振り返って話しかけてきた。つまり、無敵さんの前の席だ。


「そうか。だが、その水浴び、したくても出来ない人だっているのだぞ」

「は? それってどういう意味?」


 あと、その偉そうな喋り方がお前のキャラなの? 現実にそんな話し方する女の子がいるとは思わなかったぞ。


「そのままの意味だ。貴様が詳しく知る必要は無い。“今は”、まだ」


 ラノベの伏線そのままな、気になる黒野の言葉に、俺は「おい、それはどういうことだ? おい。おい、黒野」と少々しつこく粘ってみたが。

 黒野はそんな俺を完璧に無視して、なんだか小難しそうなハードカバーの分厚い本を読みふけり始めた。うん。ラノベじゃないことは確かだな。

 待てよ。西尾維新の作品なら、その分厚さのもあった気がする。あ、違うな。さては『STEINS:GATE』だろ! ……厚さはともかく、大きさが違いすぎるか。くそっ。ラノベ読めよ、お前。


「お待たせ―。オトっちゃーん。タオル借りてきたよー」


 そこへ七谷が帰って来た。結構早い。タオルを握り締めた手をぶんぶんと振り回し、にこにことしている様は、「どんなもんだい」って感じに映る。かなり得意げだな、おい。


「悪い。ありがとう、七谷。しかし、やけに早かったな」


 七谷から「ほい」と手渡されたタオルでさっそく頭をごしごしとやりながら、俺は何気なくそう言った。が、その答えは意外に面白いものだった。


「うん。職員室でさ、留守先生に『タオル貸してくださーい』って言ったら、『そこに準備してあるから自由に使ってね』だって。見たら職員室の入り口の机に、新しいタオルがたっくさん、きれいに畳んで置いてあって。まるで菜々美みたいな人が来ることを予想していたみたいだねー」

「ふーん。本当にそうだな。……偶然にしても、どうしてタオルなんか準備していたんだろう?」


 とは言いつつも、偶然ということはまずないだろうと思っていた。七谷の言うことが職員室でのことを正確に描写しているのであれば、だが。

 生徒が突然タオルを借りに来るのだ。「どうしたの?」と聞くこともなく「そこにあるから自由に使って」というのは不自然だ。

 七谷のいうように、水をかけられた生徒が来ると予想していたに違いない。そして、タオルが大量にあったという事実は、俺と同じような奴がまだ何人も出るだろうと考えていることも示唆している。

 ということは、先生たちは生徒が濡れねずみになる理由を分かっている。もしかしたら、誰がやったのかということもある程度把握しているのかも知れない。


 これ、ちょっとむかつくぞ。分かってんなら防止してくれよ。あと、少しくらい心配してくれ。俺、留守先生には心配されないと寂しいし。出来れば「あら、大変。このままじゃ風邪ひくわ。先生が拭いてあげるから、さぁ、脱いで。もちろん全部よ。ズボンも、その、下も……。うふふっ」なんてことになって欲しいっ!


「じゃあ、菜々美が拭いてあげよっか、オトっちゃん」

「ああ、まぁ、お前でもいいか。じゃ、頼む……、って、あれれれれれぇ?」


 妄想から現実に戻ってみれば、七谷がにやにやしながら俺の机に座っている。俺を見下す青い瞳が冷たい軽蔑の光を放っていた。


「あれれれれれぇ? じゃない。貴様、自分の下劣な妄想を垂れ流ししていたぞ」

「ええええええええええ! げ、下劣っ!」


 前の席に座る黒野が、本のページをぱらりとめくり、振り返りもせずに教えてくれたが。


「ふーん。オトっちゃんって、そーゆー人なんだねー。留守先生が好きなんだー。年上が好みなのー?」

「あ、あばばばばば」


 七谷の青い瞳はどこぞのエクソシストみたいな炎を映している。ように、俺には見えた。そうそう、その青い炎は魔王の息子である証なんだよな。てことは、七谷は魔王の息子?

 そうか! 昨日、俺が「こんなやついたっけ?」って思ったのは、実は七谷が男だったからなんだ! おとといの入学初日は普通に男の姿で登校し、翌日からは女装してきた! 謎は、全て解けた! じっちゃんの名に懸けて!


「解けてないよ! 菜々美、ちゃんと女の子だし!」

「え? そうなの?」


 俺の推理はわずか数秒で破綻した。推理が声に出ていたようだ。自己申告を鵜呑みにするなど探偵として失格ではあるが、七谷の性別を確かめる術を持っていないのだから仕方が無い。


 だってそうだろう? おっぱいなど作れるのだから、触ったくらいで真贋を見極めるのは不可能だ。なにしろ俺は、本物のおっぱいがどんな感触なのかさえも知らないのだ。となれば、見て分かる所。それも、特に専門的な知識がなくとも一見して分かるような部分で確かめるしかないだろう。そんな所、見せてくれるわけがない。だから不可能だと言ったんだ。

 なに? 諦めるな? お前の真実への探求心はそんなものなのか、だと? いいだろう、そこまで言われては俺も男。やれるだけのことはやってやる!


「七谷っ!」

「見せないよ?」


 決意を秘めた俺の願いを、七谷はばっさりと拒否しやがった。てか、当たり前だろ常考。


「だよな。ま、もちろん冗談だから忘れてくれ」


 俺は髪と制服を拭いたタオルを机に置いた。それを七谷が丁寧に折り畳んで置き直す。なんだそのさりげない気遣い。些細なことだけど、俺ってそういうの、結構弱いんだが。

 それにしても俺、髪はぐちゃぐちゃだし、制服は水を吸ったところだけ暗い色になっちゃってる。かなりかっこ悪いけど、ま、どうってことないか。

 だって「見て見て。ホズミのヤツ、すっげー情けない感じ。ぷーくすくす」とか笑っているやつらがいるくらいだしな。嫌われ者の俺がかっこ良くしてたって誰も喜んだりはしないのだ。むしろ情けない姿を晒した方が、世の為人の為になんぼか貢献出来るだろう。


 笑いたくば笑うがいい! 俺はそれを快感にまで昇華することで抗おう! それが俺の戦い方! 笑う方も笑われる方も勝者となるこのWIN‐WIN理論に死角はない! これでみんながハッピーだ!

 ただ、唯一の懸念は、俺の性的嗜好に問題が発生するかも知れないことだ。そのうちに「虐待されないと愛を感じられないんだ」とか言い出すかも。それで幸せならそれでもいいけど、なんだこの卑屈でリスキーな戦い方。やっぱ全然ハッピーじゃねぇぞ。


「くすっ。変わらないね、オトっちゃん」


 七谷が小さく微笑む。その笑顔は、春の到来に咲き誇る桜の花のようだった。いつ散ってしまうのかとドキドキさせる無垢な小悪魔。小さな小さな薄紅色の桜の花だ。いや、見惚れている場合じゃない。こいつ、今、すげー気になること言ったぞ!


「ちょっと待て、七谷。変わらないねって、それはどういう」

「あ。そういえばさ、昨日は結局どうなったの? オトっちゃん、菜々美たちが帰る頃になっても、教室に戻って来なかったじゃん?」

「それは……。その前に、さっきの言葉の意味を」

「ねねね。どうなったのどうなったの? 無敵さんには会えたの? ねーねー」


 俺の質問はスルーされた。七谷のサイヤ人的話題転換力の前には、俺などただの地球人だ。


「……会えたよ。家にも上がって話したけど」


 やっぱこいつ苦手だ。強引な会話するやつって、俺の天敵なんだよなぁ。


「ふーん、そーなんだー。やーらしー」

「何がやらしいんだ? 会って話すしかなかったんだからしょうがないだろ」

「どうだかー。で、なんで休んだの、無敵さん?」

「わからん」

「わからん? なんで?」

「聞いてないから」


 説明が面倒なので、俺はそのまんま答えた。


「なにしに行ったの、オトっちゃん? オリエンテーション欠席してまで」

「それを言われると二の句が継げないが……」


 七谷に言われるまでもない。ホント、何しに行ったんだ、俺。

 あの後、デルモ男から逃げ切った俺は、まさかの補導をされていた。当然だ。平日の朝、制服を着た高校生が繁華街をうろついているのだから。運悪く警官に発見された俺は交番に連行され、尋問を受けたのだった。交番には、もう用が無かったのに。

 俺は不良とかでは無い。街にいた理由も、担任の先生に頼まれたからだ。自分の誇りを守る為、俺は必死で説明した。が、警官がそんな話を簡単に信じてくれるはずもなく。

 警官は学校に電話確認をするに至った。その電話を受けたのが、運悪く校長先生であったらしい。俺を交番まで引き取りに来た留守先生は、引きつった笑顔を浮かべていた。


「お待たせ、ホズミくん。さ、学校に帰りましょう。先生ね、この後、また校長室に行かなくちゃならないの」


 昨日のように、泣くまで説教をされるのだろう。ごめんなさい、先生。俺のせいで。とか一瞬思ったが、やっぱりこれは留守先生のミスだろう。警官も「生徒を使いに出すなんて。しっかりしてくださいよ、先生」なんて、嫌味ったらしく留守先生に言ってたし。

 朝の俺の予感は当たっていた。留守先生は、一昨日同様、やはり昨日も負けたのだ。何かに。


 なんてことは、七谷はおろか、誰にだって話してはいけない。「な、内緒よ、ホズミくん。これは先生とホズミくんだけの秘密なのっ」と、留守先生にお願いされてしまったからな。

 誰かに話せば、その時点で二人だけの秘密では無くなってしまう。そんなの嫌だ。だって、もったいないだろう?

 女教師との秘密の共有? それも確かにいいだろう。だが、これは俺が体を張って手に入れた『カード』でもある。いつか、何かに使えそう。そっちの方が重要なのだ。やっぱり俺ってサイテーだぜー☆ いえーい☆


 あと、気になる事と言えば、無敵さんが持っているはずの俺の携帯だが……。あいつ、今日、ちゃんと持ってきてくれるんだろうな?

 あのデルモ男に渡してたりしたら全力で殴ってやる。女とて容赦せん。手加減したらひらりとかわされそうな気がするし。その上、反撃とかありそうだし。クロスカウンター喰らってる自分が鮮明に想像出来るし。やっぱ怖いな、あいつ。


 そして、件(くだん)の無敵さんが朝の教室に降臨した。それも、衝撃的な姿で。


「おおおおおお、おはよぅ、ございぃ、ますぅ」


 カララララ、と思い切り悪く教室後ろのスライドドアを引き開けて、無敵さんが入って来た。そーっとそーっと、物音を立てないように忍び足で泥棒のように侵入してくる無敵さん。彼女が歩いたあとには、なめくじみたいにぬめぬめと光る道が出来ている。

 無敵さんは今、泥棒のようななめくじになっていた。……せっかく登校してきたところ悪いけど、もう帰ってくれないかな、こいつ。


「お、おはよぅ、無敵、さん……?」

「お、おは、よ……」


 辛うじて挨拶を返した者もいたが、大半のクラスメイトが硬直していた。ばっしゃんばっしゃん、びっちょんびっちょんと床を騒がしく叩きまくる大粒の水しぶき。それは無敵さんの髪やスカートの端、手に提げられたカバンの底などから容赦なく滴り落ちていた。


「お、おはよ、ホズミくん。あの、き、昨日は……」

「……………………」


 俺は絶句していた。「え? あたし、どこか変かな?」って感じで俺を見るな。お前、頭のてっぺんから足のつま先まで、全てが完全におかしいから。それがデフォルトとかいうなら話は別だが。

 でも、昨日家に行った時も濡れてたっけ。そうか。こいつはこれが正常な状態なんだ。きっとそうに違いない。


「ああ、おはよう。昨日は急に帰っちゃってすまなかった。結局聞けなかったけど、昨日ってどうして学校休んだんだ?」


 俺など比べ物にならないほどに水浸しとなっている無敵さんだが、これが正常であるならば問題はなにもないので、俺は普通に会話することにした。


「か、帰っちゃったのはいいんですけど。その様子だと、水無人(みなと)くんから無事に逃げきれたみたいで良かったです」


 にぱ、と笑う無敵さん。前髪が顔に張り付き、完全に目を隠してしまっているので口元でしか表情は確認出来ないけど、多分笑っているんだろう。


「あー。まぁ、な。ずいぶん危険なやつみたいだから、もう絶対に会いたくない。で、昨日学校を休んだ理由は? 俺、そのせいでお前の家まで行ったんだが」

「そ、そうだったんですか? そういえば、ホズミくんこそ、昨日はどうして制服なんか? 学校は、昨日休みでしたよね?」

「いや、学校じゃなくて、お前が休んでたんだろう?」

「え? 違いますよ。学校が休みだったんですよ?」

「は? 何言ってんの、お前?」


 どうにも会話が噛み合わない。てか、こんなずぶ濡れになってる子と普通に話すってのがもう異常。ああ、イライラする。突っ込みどころがあり過ぎるのに触れないようにするのって、こんなに気持ちが悪いんだな。


「何って……? ほら、昨日はこの高校の創立記念日だったでしょう? それでお休みだったんです」


 無敵さんは水をぼたたたた、と垂らしながら力説した。


「はぁ? おま、それって誰から教えられたの?」


 突っ込む所は一つ一つ消化していこう。まずはこれだ。昨日から気になっていた学校を休んだ理由。でも、まさかこんなアホな理由だったとは思わなかった。どこの世界に新学期二日目を創立記念日休校にする学校があるんだ。騙されてんじゃねーよ。気付けよ、この馬鹿。

 しまったな。話が長くなりそうだ。先に携帯を返してもらえば良かったが……。


「誰って。阿久戸くんですけど」

「阿久戸……?」


 思いがけない名前に、俺は教室最前列へと視線を流した。窓際一番前の席には、春風を受けてさらさらと髪を遊ばせる阿久戸志連(あくとしれん)の後ろ姿がある。

 阿久戸は何人かの女子に囲まれ談笑していた。阿久戸の口から爽やかに軽やかに歌うように発せられる言葉たちは、会話でワルツを踊っているようだ。

 その光景に、俺はぞくりとした悪寒を走らせた。ねとねととしたワームが、背中を這いずり回っているようだ。直後。


「はーい。二人だけの世界に入っているところ悪いけど、そろそろ菜々美も口出しするねー。無敵さん、ものっそいずぶ濡れなんだけど、タオルとか持ってるのー?」

「ふふふ、二人だけの世界なんか作ってねぇっ!」


 俺と無敵さんの間に割って入ったのは、七谷菜々美だった。


「つーか、なんで不機嫌になってんの? 無敵さんを心配し過ぎなんじゃないか、七谷? こいつの場合、これがデフォルトなんだから、そんな心配いらねーよ」

「んなワケあるかっ」


 ぺしん、と七谷に頭をはたかれた。ああ、こういうのって久しぶりかも。結構嬉しいもんなんだな。こういう気を使わない扱いって、いざされなくなると寂しいらしい。


「あ。タ、タオルは持ってないです、けど」

「んじゃ、菜々美がひとっ走りして、また持ってきたげるよ。待っててね、無敵さん。でも、これって一枚じゃ足りそうにないねー。たははは」


 言うが早いか、短すぎるスカートを際どいところまでひるがえし、七谷はまた職員室へと走っていった。一部の男子たちから「おおお」という喚声が上がったので、七谷のスカート丈にドギマギしているのは俺だけじゃあなかったらしい。安心したぜ。俺は普通だったのだ。


「それにしてもお前、俺と同じで、その水かけられたの玄関前だろ? 上を見たか?」


 玄関は校舎のど真ん中にある。下駄箱を上がってすぐ階段があり、踊り場を経て二階へと至る。その二階に上がってすぐの所が、玄関の直上。そこには窓があるのだ。俺たちにかけられた大量の水は、まず間違いなくそこからぶちまけられたはずだ。

 こんだけピンポイントにこれだけの水を降らせようと思えば、三階だと難しい。感じた水圧から考えても、二階からと見るのが妥当だろう。ということは、こんなイタズラをした犯人は二年生である可能性が高い。二階は二年生の教室が並んでいるのだから。

 俺たち一年生がそんなところにいたら不自然だ。三年生でもちょっと変だなとか思うだろう。その違和感は犯人の特定を早める結果をもたらすに違いない。バレるのが嫌なのであれば、そんな危険は犯すまい。


 もし、バレたくないのであれば、だが。


「いえ。み、見てないです。あ、あたし、何が起こったのかしばらく分かんなくって」

「だろうな。俺もしばらく硬直した」


 と話しているにも関わらず、無敵さんは廊下側から二列目、前から二番目の席へ、のろのろと歩いてゆく。そこは入学初日“だけ”、無敵さんの席だった場所だ。俺の右隣に席が替っていることを、無敵さんは知らない。昨日、休んでいるのだから。

 すぐに教えてあげればいいのだが、「あいつ、そのまま元の席に収まらないかなー?」という希望に、俺は縋った。が。


「あ、あの、あの」


 と、元の自分の席に座っている女子に、小声でおずおずと話しかけようとしている無敵さんを見ていたら。


「無敵さん。貴様の席はそこではない。ホズミの隣が新しい貴様の席だ」


 と、黒野が冷たい声音で言い放った。


「へ? そ、そーなんですか? で、でも、どうして?」


 びくっと肩を震わせて、そろりと振り返る無敵さん。良く知らない人にいきなり怖そうな感じで話しかけられ、相当動揺しているようだ。


「どうして、だと? それは、貴様が阿呆だからだ。そんなことも分からないのか。この愚図が」

「は、はひぃっ! すすす、すいませんごめんなさいすいませんごめんなさいっ!」


 がくがくと震える無敵さんから、水がしぱぱぱぱ、と飛び散った。震え方が電動歯ブラシみたいだ。超音波とか、絶対出てる。


「ち。なぜ、そうすぐに謝る? なにをそんなにびくびくとしているのだ? いいから座れ。貴様が無駄に動けば、教室が無暗に水浸しになってゆくのだからな。私はそういうのが我慢ならん。さぁ、分かったら速やかに座るんだ」

「お、おい。黒野」


 視線は本に固定したまま、黒野は容赦なく無敵さんを責めたてる。これにはさすがに無敵さんが気の毒に思えた。

 こいつ、委員長キャラだとばかり思っていたが、どうやら毒舌キャラだったらしい。ヤバい。ラノベの中であればわりと好きなキャラだけど、現実には出会いたくなかったぞ。


「なんだ? 無敵さんが可哀そうだとでも言いたいのか?」


 黒野は本のページをぱらりとめくる。


「いや。まぁ、うん。そうだけど。お前の言いたいことは分かるけど、もっと言い方ってものがあるんじゃないか?」

「くだらん。言い方を変えれば、その阿呆が変わるのか? 私は、そうは思えない。どう言おうが変わらんなら、よりストレートな方が効率的だ。そうだろう、ホズミ?」

「…………」


 俺としたことが、黒野への反論を失っていた。てゆーか、俺の考えって、元々黒野寄りなんだよな。だとすると、これは俺ってことなのか? 俺ってこんなやつだったんだろうか?


「ただいまー。お待たせ、無敵さん。はい、タオル。……って、え? どったの?」


 職員室から帰還した七谷が目を瞬かせた。

 立ったまま、動きを止めた無敵さん。滴る水はまだ床を叩いている。黒野も俺も無言で、異様な雰囲気を作り出していたからだろう。七谷は、そんな空気を敏感に察知したようだ。


「あ。あ、ありがとう、ございます……」

「う? うん」


 七谷の手から三枚のタオルを受け取った無敵さんは、力ない笑顔を作った。


 ちょうどその時、タオルを渡し終えた七谷の後ろで、がたっと椅子の鳴る音がした。俺は立ち尽くす無敵さん越しに、誰が来たのかを確認した。少し興味があったから。

 なぜなら、その席は、無敵さんの右隣。《無敵さんシフト》によれば、そこは『後藤田(ごとうだ)晃司(こうじ)』というヤツの席だったはずだ。


「よう。おはよう」


 俺の視線に気付いたそいつは、しゅたっと片手を上げて朝の挨拶をしてくれた。その声は、低く太く男らしいものだった。そいつは、つんつんと尖った短めの髪と、穢れの無い無垢な瞳を持っていた。体格はがっちりとしていて背も高い。どこからどう見ても爽やかスポーツマン系の男だ。


「おはよう。えっと、後藤田、だっけ?」


 なんだか見ているだけで目が痛い。後藤田の口元から覗く歯が、きらきらと輝いているせいだろう。初見で、すでに俺はこいつが苦手になっていた。

 今の気持ちを例えるなら、後藤田という潜水艇の照明に照らし出されて苦しむ、醜い深海魚である俺、みたいな。撮影までされちゃって、その映像を無理やり見せられる、みたいな。こいつを見ていると、暗い影だらけの自分が、凄く可哀そうになってくる。……って、どんだけ光に弱いんだ、俺? どうしてそこまで自分を卑下しなくっちゃなんないの?


 それにしても。こいつ、もの凄い目力だな。さっきっから、全然目を逸らしてくれないんだけど。

 これ、道端で出会ってたら、「なにガンつけてんだ? ああぁん?」とかなってもおかしくないぞ。で、ここで「つけてませんよ」とか答えると、「じゃあ金よこせ」とかいうおかしな会話になってくんだ。

 ガンつけてないなら金よこせとか、どうやったらそんな結論が導き出せるの? 「いやです」って断ると「じゃあジャンプしてみろ」とか言うし、あいつらって絶対日本語通じてないよね。俺はこの事に小学生にして気付いている。思い出すのも腹立たしい思い出だ。

 とか考えながら見ていると、後藤田はようやく返事をしてくれた。耳から脳への情報の伝達に問題があるんだろうか? 恐竜なみのインパルススピードだな、こいつ。


「ああ。俺は後藤田晃司。よろしく。俺もお前らと同じく、無敵さんの面倒をみることになるようだ。……で、早速だが、そのなりはどうしたんだ、無敵さん? ホズミも」


 普通だ。後藤田は、ごく普通に話している。誰もが当たり前に気にすることを、普通の言い方で、当然のように訊いてくる。それが俺には衝撃的で、すぐに返答することが出来なかった。

 眩しい。こいつ、なんて眩しいやつなんだ。俺が憧れてやまない普通さに、爽やかさまで持ち合わせているなんて。後藤田晃司。こいつは、神に愛されている。俺にとってはそう思える。まぁ、ちょっと鈍そうではあるが。


「おはよ、ごとっちゃん。あのね、二人とも、校舎に入るところでね、玄関前なんだけど、何者かに上から水をぶっかけられちゃったみたいなんだよ」


 なんだか悔しくて歯ぎしりをしている俺と、黒田から受けたダメージによるものか、「はぅはぅはぅ」とおかしな声を出して動けない無敵さんに代わり、七谷が答えてくれた。

 七谷、後藤田は“ごとっちゃん”て呼ぶんだ。俺は“オトっちゃん”だよな? 紛らわしくないのか、それ。


「ふーん。いたずらか?」


 少し間をあけた後、後藤田はそう言いながらかばんを机の横に引っかけて着席した。普通に。


「さぁ? でも、いたずらじゃなかったらなんなんだろね? きゃははっ」


 七谷は広げたタオルを無敵さんの頭にふわりとかけて軽薄に笑った。テキトーだな、こいつのやりとり。ちゃんと考えて喋ってんのか、こいつ? 脊椎反射で話してんじゃないだろな?


「いたずらじゃないさ。これは明確な意思表示だと俺は思う。それなりに、ちゃんと理由もあるはずだ」


 七谷に頭をごしごしとされるがままになっている無敵さんを見ていたら、ちょっとイラっときたのでつい話に乗ってしまった。思わず断言しちまうほどに。


「ほう。なぜ分かるんだ、ホズミ?」


 予想通りの後藤田の突っ込みに、俺は「なぁ、黒野?」と、黒野に話を振ってやった。だが黒野はそっけなく「さぁな」とだけ言って本に目を落とし続けた。後藤田はそんな黒野の様子に少しだけ首を傾けた。

 直後、後藤田は本性を現した。それはまさしく本性と呼ぶに相応しい。

 普通で爽やかなスポーツマンだと? こいつのどこがそうなんだ? と、ついさっきの自分に詰問したくなるくらいの本性だ。人は見た目じゃ分からない。そして、俺には人を見極める目がなかった。


「ん? おい、ホズミ。お前、前髪が目にかかっているぞ。毛先というのは案外固い。そのままでは眼球を傷つけてしまうかも知れない」

「そうか?」


 まぁ、そんなこともあるかも知れない。そう思い、俺は前髪をかきあげた。すると。


「あはあぁぁぁああぁ~」


 なんだか妙にエロそうな声がした。


「な、なにっ? 今の声、なに? オトっちゃん?」


 七谷がびくっとして俺を見る。


「俺じゃない」


 俺は手をぷるぷると振って否定した。


「ごごご、後藤田、くん?」


 タオルをブーケのようにかぶったまま、無敵さんが後藤田を線みたいな目で見つめている。俺と七谷も無敵さんの視線を追った。そこには。


「どうした? 今、何かあったのか?」


 やはり普通な後藤田が、無敵さんの向こうに座っていた。


「いや、今、変な声が」

「そうか? 俺には聞こえなかったがな。それよりホズミ、前髪がまた落ちてきているぞ」

「あ? ああ」


 後藤田に言われるまま、俺は周りを見渡して、再び前髪をかきあげた。すると。


「あっふぅぅううううぅうぅうぅ~」

「気持ちわるっ! 誰なの、この変な声っ!?」


 七谷ががばりと振り返った。


「ひっ!」


 直後、七谷ががちんと固まった。


「は?」


 俺の目は点だった。自分では見えないけど、多分そんな感じになっていると思う。後藤田は。


「は、はひふうぅ」


 と、名状しがたい謎の吐息を洩らして、その頑強な肉体を狂おしくよじっていた。

 あ、あれ? これ、ホントに後藤田か? さっきまで普通に爽やかスポーツマンしてなかった? どうしたどうした? 一体、何があったんだ?


「あ、え? ど、どうしたの、ごとっちゃん? 気分でも悪くなった?」


 同じように思ったのか、七谷が後藤田へと問いかける。七谷の片手は口、もう片方の手はおずおずと後藤田を目指す。無敵さんは「はわあぁ。キ、キモいぃ」と正直過ぎる感想を述べてがくがくと震え出した。


「はっ。いや、何でもない。気にしないでくれ」


 後藤田はそう答えると、上目使いに俺を見た。俺と視線がばちっとぶつかる。すると、さっきまでガンつけてんのかって言いたくなるくらいだったのが嘘のように目を逸らした。しかも、なんか、顔が赤かった。「ぽっ」って音が聞こえそうなくらいに。

 何その反応? いや、ラブコメではありふれたことだけどさ。だけど、まさかまさかだろ? 俺、どっからどう見ても男だし。ラノベだったら男同士でそういう反応が起こる相手って、たいてい“男の娘”キャラじゃない? そんなの後藤田みたいなヤツがやってもさ。


 ぜんっぜん! 嬉しくないんですけどっ! むしろ恐怖なんですけどっ!


「何でもないって感じじゃなかったよ? はっきり言って超異常だったけど?」


 七谷は後藤田への追及の手を緩めない。

 おいおいおいおいおい。やめてくれ、七谷。もういいじゃないか、そんなこと。そいつはたまに稀になぜか衝動的にそういうおかしな声を出すキャラってことでいいだろう? 理由なんて知ってなんになる? 真実って、知らない方がいいことだってあるんだぜ。

 そう言おうとしているのに、口がぱくぱくするだけで声が出ない。どうしてだろうと自分の胸に聞いてみる。すると「へたな刺激を与えるのが怖くて声が出せない」と返って来た。

 くそっ! なんて脆弱な精神力なんだ、俺! 声を出せ! 言うんだ! ここは傍観していていい場面とは思えない! 最悪の事態を回避せねば!


 そんな俺の心の葛藤虚しく、後藤田が口を開いた。



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