第7話

 一夜が明けた今日もやはり昨日と同様に深い木々に光が遮断され、正午だというのに森は陰鬱としている。しかしそんな湿気た空気とは裏腹に、草を踏むとさくりと軽い音が鳴った。

 昨日、森に出たときはそんな音など気にしている余裕は無かったが、今味わってみるとなかなか楽しいものだ、と、秘密で抜け出ている状況にしては緊張感のない事を考えながら、アンゼリカはローブを深く被って森を歩いていた。

 ローガンは今日も朝から夜まで市場に行っている。そうでないのは市場が閉まっている土日だけだ。

 だから、いつも通り一人の昼食を済ませ片付けを終えた後でも、ローガンが帰ってくるまでに、ルゥに言われたとおり昨日彼らと会った場所に行く程度の時間はあった。言いつけを破り、秘密で外に出ることに罪悪感は勿論ある。ローガンを困らせたいわけではない。ローガンが、アンゼリカに外に出てほしくないと思っているのも分かっている。それでも、アンゼリカは今日こうして外の土を踏みしめていた。

 その理由はアンゼリカにも分からない。ローガンへの反抗心が芽生えたというわけではない、はずだ。確かに昨日、異常なほどにアンゼリカが外に出たことに怒りを露わにした彼に一抹の恐怖のようなものも抱いた。しかし、彼を嫌いになった、など、そんなことはあり得ないのだ。ローガンはアンゼリカにとっては全てだと言っていいほどに大きな存在なのだから。少なくとも、アンゼリカ自身はそう思っていた。だからそれはアンゼリカにとっては真実だった。

 その思いと、行動が、違っているとしても。

 その場所までの道は覚えていたので迷うこともなく、そう時間をかけずに昨日の傷の付いた木の前までたどり着いた。そこにはまだルゥ達は来ていないのか、見渡す限り木ばかりで人の気配はない。アンゼリカは一応ローブをもう一度深く被って、声を張り上げた。

「ルゥ、ウルソン! 居ないの?」

「ここだ」

「ひゃっ」

 誰も居ないと思っていた背後からの返答に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまいアンゼリカは頬を染める。慌てて振り向くと、いつから居たのか背後にはルゥが腕組みをして立ち、アンゼリカを見下ろしていた。

「お、驚かせないでよ! いつからいたの!」

「お前が来るより前からだ」

「き、気付かなかったわよ……」

「気配を消して隠れていたからな。……ちゃんと一人で来たな」

 言外に、約束を破ってローガンを連れてくると思っていた、と言われたように感じてアンゼリカは不満げに眉をしかめた。

「昨日のことを、ローガンとやらに話さなかっただろうな」

 そんなアンゼリカの様子など気にしていないように、ルゥはまた質問――というには語調がきついが――を重ねる。アンゼリカはもう文句を言うのも諦めて、代わりに一度溜息をついた。

「話してないわよ。外に出たことはばれちゃったけど……誰にも会わなかったって言ったわ、ちゃんと」

「アンゼリカ、外に出たことばれたのか!?」

 第三者の声はルゥの後ろから聞こえた。

 どうやらウルソンはルゥの後ろに隠れていたらしく、彼の背中に隠れて顔だけ出したまま声を上げた。未だ体の半分以上をルゥで隠しているのは昨日のことでアンゼリカに少しの恐れがあるからだろうか。

「アンゼリカ、殴られなかったか……?」

 やはりウルソンのイメージではローガンはアンゼリカを騙している酷い男、であるらしい。アンゼリカは昨日のように怒ろうかとも思った。だが、ウルソンの眉は垂れ下がって、心配そうにアンゼリカを見つめている。純粋に彼はアンゼリカを心配しているのだろう。そう思えば、怒るのは筋違いなようにも思えた。

 異形が基本的にどんな扱いを受けるのかはアンゼリカも知っている。ローガンのような人間の方が珍しいのだ。おそらくウルソンにとっては異形でない人間は異形を騙し暴力を振るうものであったのだろう。冷静になって思い返せば、昨日怒鳴ったのも悪いことをしてしまったように思う。はあ、と一度溜息をついて、己の肩をさすった。

「……大丈夫よ。ローガンはそんなことする人じゃないから」

「! そ、そっか……!」

 アンゼリカが出来るだけ優しい声音で答えると、怒鳴られると思っていたのかおどおどとしていたウルソンは安心したようで、少し笑って漸くルゥの背から離れアンゼリカに駆け寄ってきた。

「おれ心配だったんだ。殴られてなくてよかった」

 そう人懐こい笑顔で言ってみせるウルソンに、思わずアンゼリカの胸がときめく。恋愛のそれではなく、母性本能がくすぐられるとでも言うのだろうか。こみ上げる衝動のままに、アンゼリカはウルソンの頭を撫でていた。

「アンゼリカ?」

「あ、あぁ、ごめんなさい……弟ってこんな感じなのかしら」

「……おれアンゼリカとそこまで歳変わんないと思うんだけど」

 むぅっと拗ねたように小鼻を膨らませたウルソンはやはり幼い。言っていることに説得力が伴われていないと、思わずアンゼリカが吹き出すとウルソンが今度は熊の両手を振り回して「笑うなよ!」と不満を訴えた。

「ふふっ、ごめんなさい……っ」

「笑ってんじゃん! 何だよ子供扱いすんなよ!」

「……いつまでじゃれてるつもりだ?」

 呆れたように声をかけてきたルゥに、一転してアンゼリカは不機嫌な顔になる。

「何よ、いいじゃない。ルゥは可愛くないわね、ウルソンとは大違いだわ」

「可愛くなくて結構だ。……そんなことより、本当にそいつから何も無かったんだな」

「何かって何よ。ローガンはそんなことする人じゃないって言ってるでしょう」

「そうかよ」

 言って、ルゥがつかつかと無遠慮にアンゼリカに歩み寄り、彼女が距離をとる間もなくアンゼリカのローブを奪い取った。

 ローブを取り払われたことで、いつもの白いワンピースが露わになる。肩紐は細く、アンゼリカの細い肩が露出したデザインのワンピースは、昨日ローガンに付けられた指の痣を隠してはくれなかった。

「ならこれは何だ」

「っ……」

「さっきからやけに肩を気にしてるから、妙だと思った」

 これは、と答えようとして、言葉に詰まる。どう説明すればいいのか分からなかった。

「アンゼリカ、やっぱりそいつに痛いことされたのか……!?」

 ウルソンが心配そうに問いかけてくる。反射的にアンゼリカは首を横に振った。

「っ、これは、違う」

「違うって何がだ。どう見たって人の指の痕だろうが」

「違う……!」

 何が違うのか、アンゼリカ自身にも分からなかった。ローガンにきつく肩を掴まれて痕がついた。痛くもあった。痛いことをされたと言って間違いではないだろう。しかしローガンがウルソン達に責められるのは不本意だった。

 強情なアンゼリカに、ルゥが一度溜息をつく。相変わらず眉は顰めたままだが、不機嫌そうな様子とは反対に案外優しい手つきで、先程奪ったローブをアンゼリカにかけた。

「とりあえず、さっさと行くぞ」

「……行くってどこによ」

「着けば分かる」

 そう言って、ルゥはさっさと前を歩いて行ってしまう。ウルソンはそれについて行き、仕方なくアンゼリカもローブを羽織り直して二人の後を追った。

 足早に進んでしまう二人とはアンゼリカは歩幅も体力も違っていた。そもそも、彼女は昨日までの二年間外に全く出ていなかったのだ。すぐに息が切れ、先を行くルゥとウルソンからどんどん距離が出来てしまう。

「ちょ、待ってよ、……ルゥ!」

 アンゼリカが必死に呼びかけると、森の奥へ奥へと進んでいたルゥが漸く立ち止まって顔だけ振り向いた。ウルソンも立ち止まり、どうしたんだ、などと声をかけてくる。ルゥがやはり不機嫌そうに眉を寄せたまま、「遅い」と言い放った。

 思わずアンゼリカはむっとして言い返す。

「仕方ないじゃない! 今まで外になんか全然出てなかったんだから!」

「体力つけろ。この先困るぞ」

「煩いわね、余計なお世話よ! 大体どこ行くのってば、ローガンが帰ってくる前には家に帰らなきゃいけないんだから、あんまり遠くには行けないわ」

 アンゼリカの言葉に、ルゥが眉間の皺を深める。無言のままの彼はくるりとアンゼリカの方に向き直り、そのまま大股で歩み寄ってきた。

 アンゼリカには遠く感じられた二人の間の距離をものの数歩であっさりと無くしてみせたルゥは、己より頭一つ分ほど下にあるアンゼリカの顔を見下ろす。木から漏れた光が当たって金色に輝く瞳は名前の通り狼のようで、その威圧感はアンゼリカを竦ませた。

「そいつの所に、帰るつもりなのか」

「……っ当たり前、でしょ」

 ルゥの静かな問いかけに、震えそうになるのを堪えて何とか答える。そんなアンゼリカを見下ろして、ルゥはまた一歩、彼女に向かって足を進めた。

「何故そう頑なにそいつを信用する。そいつがお前に何をした」

「……ローガンは、私を助けてくれたわ。貴族に飼われていた私を解放してくれたの」

「それは本当に『助けてくれた』のか?」

「……どういうこと?」

 アンゼリカは威圧感から少しでも逃れようと、後退る。出来るだけ強く、ルゥの金の目を睨みあげた。ルゥにとっては子猫の威嚇のような他愛ないものだっただろうが、それがアンゼリカに出来る最大限の抵抗だ。

 ルゥが目を僅かに伏せて、アンゼリカを見つめた。

「お前の所有権が貴族からそいつに移っただけの話なんじゃないのか、と言っているんだ。お前がそいつを頑なに信じるのは、洗脳なんじゃないのか?」

 案外落ち着いた声で告げられたそれは、しかしアンゼリカに衝撃を与えるには十分だった。

 否定したかった。だが、否定できる材料を持っていない。確かに、今アンゼリカが置かれている状況は貴族の屋敷にいた頃とそう変わりはないのではないだろうか。外に出る自由はなく、ただ家主に愛でられるだけの存在。観賞植物と同じそれは、貴族の屋敷での暮らしと変わらないのではないだろうか。ただ、檻が小屋に変わっただけで。

 いいや、重要なのはそれではない。自由がない事が重要なのではない。自分は、それでもいいと思っていたのではなかったか。小さな世界から出られなくても良いと。それどころか、ローガンにならば、たとえ自身を害されようとも構わないと思っていたのではなかったか。何故ならば、アンゼリカはローガンを愛しているのだから。

 ――そうならば、何故ルゥの言葉に、ここまで動揺を覚えているのだろうか。

 ローガンを愛している。本当に、愛している。ローガンとなら不幸になってもいいとさえ思えるほどに。

 ああ、だけど、これが『愛』なのか。最早、アンゼリカには分からなかった。お伽噺のように甘くもない、あの本のように切ないものでもない、この、言い難い奇妙な感情は、愛なのか。

「ま、まぁ、アンゼリカもいろいろ混乱するだろうしさ」

 アンゼリカが黙りこくって、その場に気まずい空気が流れたことにいい加減いたたまれなさの限界が来たのだろう、静寂を破ったのはウルソンだった。そんなウルソンを一度見やって、ルゥが溜息をつきアンゼリカに背を向ける。漸く威圧感から解放されてアンゼリカは密かに安堵の息を吐いた。

「……俺達が向かっているのは反狼の牙のアジトだ」

「!」

「お前に反狼の牙がどういうものなのか見せてやる」

 唐突に話し出したルゥにアンゼリカは反射的に顔を上げ、ルゥを見る。ルゥはアンゼリカに背を向けたまま、また口を開いた。

「そう遠くない。時間に気をつけていれば、日が暮れるまでには帰ることも出来るはずだ。……だが、帰るならアジトのことは口外するな。分かっているとは思うが」

「わかっ、た……」

 アンゼリカが何とか答えると、ルゥは無言で歩き出す。アンゼリカも、今度は何も言わずついて行った。

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