第6話

 木造の小屋の、部屋の壁に掛けられた時計の針は七時半を指している。ローガンが帰ってくる時間だ。いつもならば心待ちにしているはずのそれも、今のアンゼリカにはさして心を動かすものではなかった。

 ルゥ、ウルソン、反狼の牙……今日いきなりアンゼリカの脳に飛び込んできた様々な情報は、彼女を混乱させるには十分すぎるものだった。そもそもアンゼリカは、自分以外の異形が存在することさえ現実味を持っていなかったのだ。

 彼女の世界はかつては檻の中で、今もこの小屋の中だけだ。それ以外の世界は彼女には全く外のものだった。それで構わないと思っていたし、外の世界のことなど、自分には意味をなさないと思っていた。

 ローガンさえいればいい。そんな思いがあるのは事実だ。

 ローガンがいれば、小さな世界しか知らなくとも構わないと思う。もしも彼がアンゼリカに外の世界を知ってほしくないのであれば、そうしよう。だが、彼は何も言わないのだ。外の世界のことも、それに対して、アンゼリカにどうしてほしいのかも。何故、そう思うのかも。

 だからアンゼリカはどうするべきか分からなかった。どうするべきか、自分がどうしたいのか。

「ただいまー」

 錠が外される金属音が鈍く鳴り、ローガンが帰りを告げた。その音でアンゼリカの意識は現実に引き戻される。慌てて彼女は今まで腰掛けていた椅子から飛び降りて、玄関に駆け足で向かっていく。勢いよく離れたせいで後ろから椅子が転げる音がしたが、振り返りもせずに玄関に走っていくと、そこに立っていたローガンが駆け寄ってくるアンゼリカに気付いて微笑みかけた。彼女が駆け寄った勢いのままにローガンに飛びつけば、彼は軽々とアンゼリカを抱きとめ、そのまま抱き上げる。

「おかえりっ、ローガン」

「ただいま。そんなに慌てなくていいのに」

 おかしそうに、しかし幸せそうに笑って、ローガンはアンゼリカの頬にいつものようにキスを落とす。それに応じてアンゼリカもローガンの頬に小さくキスをした。

「けれど、珍しいね、アンゼリカ。いつもは僕が帰ってくるときには玄関で出迎えてくれるのに。何かしていたの?」

 アンゼリカを下ろしながら、そういえば、とローガンが問うたそれに一瞬アンゼリカは逡巡した。

 ルゥ達や反狼の牙のことを考えていた、等と言えるはずがない。ローガンの言いつけを破り、外に出たことまで自白することになってしまうからだ。

「アンゼリカ?」

「……っ、本を読んでて、つい夢中になっていたのよ。ごめんなさい」

 咄嗟に出たのは嘘だった。初めてアンゼリカはローガンに嘘をついた。ローガンはそれを聞いて少し不思議そうな顔をしたが、そっか、と頷いて、アンゼリカの頭を撫で、いつものように優しく微笑んで。

 ――しかし、ローガンの目がある一点を捉えたとき、彼の優しい顔は一変した。

 アンゼリカの細い両肩を大きな手が強く掴んだ。繊細な銀細工を作りだす器用な指を持ったローガンの手はしかし、同時に剣を握り人の命を奪う物だ。アンゼリカの白い肩に彼の指が食い込む。その痛みで、声にならない悲鳴が彼女の喉に詰まった。

「ロー、ガ……ッ痛い、放してっ」

「アンゼリカ」

 ローガンが片方の手を肩からアンゼリカのワンピースの裾に滑らせ、『それ』を握ってアンゼリカの目の前に出してみせる。ワンピースの裾に付いていた『それ』は、何の変哲もない、しかしずっと小屋にいたならば付くはずのない、一枚の枯れ葉だった。


「外に出たんだね、アンゼリカ」


 ――アンゼリカを見下ろすローガンの青い目は酷く冷たい。いつかの、彼が屋敷を血の池にしたあの日のような、虚ろな目であった。違うのは、その目がアンゼリカに向けられており、そしてその目に、確かにアンゼリカは恐怖を感じていることだ。

 虚ろで冷たい瞳に見つめられたアンゼリカの、頬を伝って顎から冷や汗が一つ、滴となって床に落ちる。ローガンに恐怖を抱いたのは初めてだった。初めてローガンとアンゼリカが話したあの日は、いや、それからだって、ローガンに殺されても良いとさえ思っていたのに。今までローガンになら何をされても構わないと思っていたのに、今、彼が怖くて怖くて堪らない。ローガンから、ローガンのこの目から逃げたいと思う自分が居るのだ。しかし逃げようにも肩を捕らえられて動けない。いや、肩を捕らえられていなかったとしても、アンゼリカはローガンの前から動けなかっただろう。

 ローガンに恐怖を抱いているなどと認めたくない一種の意地のせいであろうか。それもある。同時に、胸が恐怖とは違う何かで動悸して、それが動く気をそいでいた。恐怖と、何か言いようもない感情がアンゼリカを支配していたのだ。

「僕は言っているよね、アンゼリカ。外に出てはいけないと」

 ぎり、とまた肩を掴む力が強くなり、爪が食い込んでぴりっとした痛みを感じた。そこで思考が現実に引き戻される。ともかく離してもらおうと、なんとかアンゼリカはローガンの瞳を見つめ返し口を開いた。

「……栞、が」

「栞?」

 震える声を絞り出して、アンゼリカが答えるとローガンは少し首を傾げた。栞、という答えが少し予想外だったのだろう。少し冷たい瞳が和らぐ。その目をしっかりと見つめて、アンゼリカはまた言葉を続けた。

「ローガンに、貰った栞が……風に飛ばされて、外に出て行ってしまったの。だから……」

「探しに行ったの?」

「……ローガンに貰った、大事な物だから……無くしたくなかったの」

 ローガンの言葉に頷くと、彼は脱力したように膝をつき項垂れて、深く溜息をつく。肩をきつく捕らえていた拘束が解かれて、拘束していたその手は代わりにアンゼリカの背中に回って優しく抱きしめた。

「……栞くらい、また作ってあげるのに」

 その声音はいつもの、優しいローガンのものだった。先程までの冷たさは微塵もなく、アンゼリカは漸く緊張の糸を解いてローガンに身を預ける。肩は未だにじんじんとした痛みを訴えていたが、そんなことは些細なことだった。

「この栞が良いの。ローガンが初めてくれた物だもの。ローガンったら女心が分かってないのね」

「そっか、女心か……うん、ごめんねアンゼリカ、痛かったよね」

 体を離して、アンゼリカと目を合わせてローガンが申し訳なさそうに謝る。気遣わしげな青い目はアンゼリカの、指の痕が付いてしまった肩を見ていた。

「大丈夫よ、これくらい。心配しないで」

「うん、それならいいんだけど……ところで、アンゼリカ。外で、誰にも会わなかったよね?」

 ローガンが心配そうに問いかける。瞬間、脳裏に過ぎったのはルゥとウルソンだ。話しても良いだろうか、とアンゼリカは思った。他言するな、とルゥは言ったが、ローガンは異形への偏見はないはずだ。異形であるアンゼリカを許容しているのだから。

 ならば言っても問題はない。もしかしたら、ローガンは反狼の牙とやらに賛同を示し、協力をしてくれるかもしれない。それはルゥ達にとってもプラスになるのではないか? そう思い、アンゼリカは口を開こうと、した。

『ならアンゼリカ、お前、反狼の牙って知ってるか』

 突如、アンゼリカの脳にルゥが言った言葉が蘇る。

『俺達と同じ境遇であるお前に、関係ない話ではないと思うが。どうしてそいつはその話をお前にしないんだろうな。市場で働いているならそんな噂、いくらでも入ってくるだろうに』


「……いいえ」


 いつの間にか、アンゼリカの口はローガンへの返答を紡いでいた。


「誰にも、会わなかったわ」


 ローガンはそれを聞いて、そうか、と安心したように笑った。

「それならいいんだ。さぁ、アンゼリカ。晩ご飯にしようか。お腹がすいただろう」

 そう、アンゼリカの頭を一度優しく撫でて、ローガンは立ち上がって部屋へと歩を進めていく。その後ろをアンゼリカもついて行った。

 しかし、何故自分が嘘をついたのか、アンゼリカには分からなかった。

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