最終話 リリーがいなくなった。

 リリーがいなくなった。リリーの言うとおり就職活動を諦めず頑張って、おれが小さな会社で働き出したその日に。初めての研修を終えてくたくたになって帰ってきたら、引っ詰め髪の母が焦った顔で玄関に走り出てきて、

「リリーが帰ってこないの」

 と泣き出したのだ。おれは呆然として立ち尽くし、初めての給料が出たらリリーのためにスペシャル猫缶をたくさん買ってやるつもりだったのにな、なんて考えていた。

 猫がふらっといなくなることなんてざらだ。けれどおれたち家族はリリーが二度と帰ってこないとわかっていた。

     *

「おい、太郎。猫じゃらし持って来いよ」

 ひと月前、就職の内定が決まったばかりのおれに、リリーは命じた。おれは気分がよかったからひょいひょいと跳ねるように歩き、ピンクの猫じゃらしを持ってきて青い座布団の上のリリーの前で揺らした。けれどリリーは興味深そうに猫じゃらしを見るものの、手を出す回数が以前ほど多くなかった。動きも鈍い。頬もこけているし、抱き上げたときには何だか軽いことにも気づいていた。

「リリー、病気か何かか?」

 心配になって訊くと、リリーは目を閉じながら答えた。

「何の病気でもないよ。トシだトシ」

 そういえばリリーはもう十五歳。猫としてはかなりの高齢だ。おれは不安になり、リリーに言った。

「猫又の妖術で寿命延ばしてくれよ」

「そんな術はない」

「リリーがいなきゃやだよ」

 リリーは目を開き、おれを見た。

「お前はおれがいなくても大丈夫にならなきゃいけないな」

 親みたいな言い方にかちんと来たおれは、何だそれ、と唇を尖らせた。同時に胸がもやもやして、

「リリー、長生きしろよ」

 とつぶやいた。でも、リリーは眠ってしまっていた。

 リリーは段々動きがのろくなっていき、眠る時間が増えていった。おれが大学から帰ってきても、寝てばかりいた。

 リリーはいなくなる一週間前から風邪を引いていた。鼻水を垂らし、座布団に横向きに寝るようになった。動物病院に行って注射を打ってもらっても、なかなかよくならない。最後かな、という気がしていた。

 せめて最期を看取りたい。おれと両親はリリーのいない台所でそう話していた。

 なのに、いつの間にかいなくなってしまったのだ。

 会社員の父が帰ってきて、三人でリリーを探した。夜遅くだったけれど、必死であちこち歩き回った。一週間ほどそれを続けたが、リリーは見つからなかった。

 ああ、リリーはいなくなったんだ。そう思った。

     *

 研修生としての日々をこなす。おれはバカだから字の書き間違いだとかうっかりミスだとかが多くて叱られることも多い。それにこの業界は斜陽で、なかなか厳しいのだという。なのに一年ほど事務職をやらされたあと、営業職に回されるのが普通のようだ。おれにできるだろうか、と不安が募る。

 研修が終わって正式な会社員になっても、おれはうまくやれないままだった。まだ正式な仕事を始めて二週間くらいなのに、辞めたいな、などと考えていた。トイレの個室にこもり、考えごとをする。辞めたらどうなるだろう。

「アホか」

 声がした。おれはどきっとして個室から飛び出した。これは、リリーの声だ。

「おっと、おれに声をかけるのはやめておけ。頭がおかしくなったと思われるぞ。おれはお前の頭の中にいるんだからな」

 頭の中?

「猫又妖術魂移しだ。お前の頭を魂の仮住まいにしてるんだ」

 仮住まいって、これからおれの頭に住むってことか?

「そうそう」

 涙が出そうになった。リリーが、リリーが帰ってきた……。

「おっと、泣くんじゃない。お前、せっかく就いた仕事を辞めようと思ってただろ。情けないぞ。福利厚生のしっかりした職場で、お前も興味を持って入ったんだろ? 字の間違いが多いんなら勉強しろ。うっかりミスは事前に防げ。ブラック企業だったんならともかく、自分が悪いのに辞めるなんてアホだぞ。それじゃあどこに行っても続かない。アルバイト感覚でやってんじゃないぞ。あと……」

 リリーの説教がくどくどと続く、おれは何だかうんざりしてきた。でも、このうんざり感は懐かしい。

(わかったわかった。辞めない。頑張るから頭の中から見てろよ)

 口を使わずリリーに話しかけると、リリーは、

「じゃあやってみろよ」

 と偉そうに言った。何だか昔に戻ったみたいだ。

(ところでリリー、体はどうしたんだ?)

「体な。今はいいんだよ。とにかく仕事しろ」

 仕方なくトイレを出て自分の席に戻り、取引先に納入品についてのメールを打つ。最後まで書き終わり、ようし完璧だと思っていると、

「おい」

 と頭の中で声がした。

「最初の挨拶の次に『つきましては』を使うな。これは手紙の最後のほうに使う言葉だ。あと『ご都合』だとか『御利用』だとか、『御』のひらき方がバラバラだぞ。統一しろ。あと全体的に骨折した文章だ。本を読め」

 先輩よりうるさい奴だ。でも、先輩にいかにもうんざりという態度で言われるよりずっと入ってくる。おれは何とか直せる部分を直し、隣の席の先輩に読んでもらった。また間違いだらけなんだろ? という顔で、先輩が覗き込んできた。でも、読むうちに表情が変わっていく。眉間のしわがなくなっていくのだ。

「うん」

 先輩はお洒落な茶色の背広を着た体でふんぞり返り、

「太郎! やればできるじゃん」

 と笑った。いらっと来たが嬉しかった。

「前はキーボード打つのもやっとだったのに文章打つのも早くなったしな。内容も要領を得てるしいいんじゃねえの?」

 先輩ってちょっとリリーに性格が似てるよな、などと思う。茶色い背広がリリーの毛の色そっくりだと思うし、突き放すくせにさりげなく褒めてくれたり、何かと話しかけてくれたりする。以前はそれが怖かったしわからなかったのだが、リリーが頭の中にいる今は二人で先輩に対峙しているように思えて、冷静に彼を見ることができる。

 お茶が配られた。無表情で地味な同期の山村さんは、おれを避けているのだと思っていじけていた。でも、

「ありがとう」

 と声をかけると小さな声で、

「いえ」

 と答えて目をしばたたかせる。それを見て、おれを避けているのではなく人見知りしているだけだとやっとわかった。

 お局様の斉藤さんはおれを馬鹿にしているわけではなく、目つきが悪いだけ。課長はおれが使える人間か試しているだけ。考え方がどんどん明るくなっていく。

(リリーがいてくれるお陰だよ)

 そう伝えると、リリーは深い深いため息をついた。

     *

 仕事にやりがいを感じ始めた。今までは萎縮していたのだ。本だって色々読む。正しい言葉を身につけ、メールもちゃんと打てるし言い間違いもしなくなってきた。リリーは何くれと世話を焼く。先輩と飲みに行ったときですら言っていいことと言ってはいけないことを教えてくれる。

 両親にはリリーのことは内緒だ。リリーが「お前の頭がおかしくなったと思われるぞ」と注意したからだ。母はリリーの写真を写真立てに入れて毎日拝んでいるし、父は帰ってくるたびに低い位置に目をこらしてリリーを探す。リリーがいるとわかったら喜ぶのに。でもリリーは反対らしい。

 仕事に慣れ、給料ももらい、先輩と飲みに行く回数が増え、山村さんと話す機会が多くなってきたある日、仕事中に突然、リリーは言った。

「そろそろお別れだ」

(え?)

「お前の頭に住むのは一時的なものだからな。おれはもう行く」

(行くってどこへ?)

 おれは焦っていた。リリーがいなくなったら、おれはどうすればいいんだろう? リリーのいない家に帰り、リリーのいない会社に通う。それは虚しいとしか思えない日々だ。

「元気でな。まあお前は仕事に慣れたし大丈夫。何とかなるさ」

(やだよ)

「おれの前の体は山の中のいい感じの場所で眠ってる。安心しろ。もう探さなくても大丈夫だ」

(え、嘘だろ? リリー)

「お前につきっきりじゃ、お前も独り立ちできないだろ」

(いなくならないでくれよ!)

「じゃあな」

 頭がふっと軽くなった。何度呼びかけても返事はない。リリーは再びいなくなってしまったのだ。

     *

 しばらく落ち込んだ。リリーが死んだことが確実になったし、心強い仲間が一緒にいないことで体がすかすかになってしまったように感じたからだ。

「大丈夫?」

 自分の席でぼんやりしていると、山村さんが声をかけてきた。おれは彼女の丸い目を見て、リリーを思い出した。

「いや、飼い猫が、いなくなっちゃってさ」

 そこまで言って、涙がにじんだ。山村さんはおれにオレンジ色のキャンディーをくれた。

「見つかるといいね」

 じっとおれの目を見て言った。おれはうなずき、ありがとう、と言った。

 でも、山村さん。リリーは死んじゃったんだ。

     *

 不思議と仕事はできる。ちゃんと仕事に馴染んでいるし周りともうまくいく。リリーは喜んでくれるかな、と思った。褒めてくれたかな。調子に乗るなと怒ったかな。

 九月の半ば、山村さんと一緒に飲みに行った。彼女のことをいいなと思っていたおれは、酔った勢いで告白してしまった。彼女はあっさり受け入れてくれた。恋人がいたことのないおれは、びっくりした。おれはもてない奴だったはずだったのに。

「だって、太郎君いつも頑張ってるでしょ。一生懸命。そこがいいなって思って」

 山村さんは照れくさそうに笑う。

「それに、わたしも猫好きなの」

 おれは彼女のことが本当に大好きになった。ぐいっとビールを飲み干し、

「ありがとう! ユカちゃん大好き!」

 と叫ぶ。どこかでリリーが馬鹿にして笑ってるかなと思いながら。でも、山村さん、いや、ユカちゃんがくすくす笑っているだけ。がっかりするかと思ったら、そうでもなかった。彼女がいたから、何とかやっていけそうだという気になっていたのだ。

 リリーのいない日々に、段々慣れていった。おれは忙しい毎日を楽しみさえするようになっていった。

 そう、あの日までは。

     *

 お隣のクロに子供が生まれるそうだ。クロは雄だが、奥さんに当たる猫が家で飼われ出したらしい。

「太郎、お隣のクロの赤ちゃん、もらおうと思うの」

 母が言った。もうリリーについては諦めがつき、写真を拝むのもやめていた。リリーの写真は未だに居間に飾ってあるが、見ても以前ほど心を痛めることはなくなった。忘れてはいない。猫又リリーはおれたち皆の中にいるのだ。

 新しい猫を飼うのはいいことだと思った。母はいつも家に一人だし、リリーのお陰で家族は皆猫好きだからだ。

「太郎が選んで。リリーのときだって連れてきたのは太郎でしょ」

「いいよ」

「生後三週間くらいのときに来てねって言われてるから、ひと月くらい経ったら行ってね」

「わかった」

 デート中、コーヒーショップでユカちゃんにそのことを話すと、自分も行きたいと言い出した。

「だって、子猫でしょ? きっとかわいいよ」

 ユカちゃんのとろけそうな笑顔にとろけそうになる。おれはうなずき、

「きっとそうだね」

 と笑った。このころお隣のクロがおれの部屋の前をうろつくようになっていた。しょっちゅうおれの目を見て、何か言いたそうな顔をしている。何だかよくわからないが、気にしていなかった。子猫が生まれてよかったな、と心の中で声をかけ、手を振ったりしていた。

 そして、予定の日は来た。秋晴れの日曜日、おれはユカちゃんと一緒にお隣を尋ねた。居間の隅で、バスケットに入ったリリーみたいな茶色い雌猫のお腹の前で、黒と茶色の子猫たちがみゃあみゃあ鳴きながら転がったりじゃれあったりしていた。

「かわいい!」

 ユカちゃんがおれに笑いかける。かわいいのは君さ、と思いながらおれは笑みを返す。

 回覧板が回ってきたのでお隣のおばさんがいなくなった。おれたちはかわいい猫を堪能する。ふわふわでつぶらな目。幼い動き。うっとりだ。そのときだった。

「ふざけんなよ」

 男の声がした。

「ふざけてはいないぞ。おれは猫又妖術転生の理でお前んちに生まれ変わっただけだ」

 え? これはまさか……。

「だからっておれの嫁さんの子に生まれ変わらなくてもいいだろうが!」

 クロが一緒にいた茶色い子猫を投げ出した。一際ぶっさいくな……、というかこれは……。

「お前んちの猫だよ。引き取れ」

 クロが言った。どうやら猫又だったらしい。

「よお」

 ぶっさいくな子猫が言った。どう見てもこいつは。

「リリー」

 おれは涙が出るのをとめられなかった。リリー。子猫だが、この潰れた顔、オヤジ臭い雰囲気、野太い声、確かにリリーだ。リリーは前足をひらひらさせ、

「生まれ変るとしたらお前んちが一番居心地がいいからな。近所で猫が妊娠するのを待ってたんだがまさかクロの子になるとはな」

 と相変わらずの声で言った。クロは迷惑そうな顔だ。そうか、このことを言いたかったのか。

「持ってけドロボー」

 クロがリリーをくわえておれの膝に乗せた。温かなリリーの体。軽いからびっくりだ。おれはリリーが落ちないよう手で小さな堤防を作る。

「ま、とにかく」

 リリーはおれを見上げた。目を細め、笑っている。

「よろしくな、太郎。まずお前の彼女に紹介してもらおうか」

 はっとしてユカちゃんを見た。ユカちゃんは茫然自失の状態。慌てて肩を叩いていると、膝の上のリリーは全身で伸びをして、

「まあお前が一生を終えるまでの間に何度も生まれ変わってお前に飼ってもらうよ」

 と笑った。一生……。一生飼わせる気か……。

「太郎。大好きだぞ」

 悪魔の笑みでおれを見る。おれはぞっとした。けれどどこか嬉しかった。

                                  《了》

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わたし、あなたの飼い猫。あなたと文通しているの。 酒田青 @camel826

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