二十八番:相違
西の商業街。カレーの匂いが漂いそうな雰囲気の中、主婦や学生達が行き交う。ノスタルジックな空気に溢れた夕暮れ時。
空から街路樹に飛び込んだ真琴は若干目を回した。
何事かと通行人達が視線を向けるが、葉っぱが数枚だけ街路に落ちていた。
「ふぅ……お兄様があそこにいるとか、計算外だってのに」
三度笠を被り直しながら、真琴を影の紐で引きずっていく晴明。旧時代でよく見られた犬の散歩みたいな構図だ。
少しずつ理解が戻ってきた真琴は、影の首輪へと触れる。全く息苦しくない。能力保有プレートのおかげとはいえ、随分自由な使い方だと感心した。
能力保有プレートに関して少し悩んでいる真琴。試しに訪ねてみようかと思った矢先、
「きゃあっ!?」
甲高い声が聞こえた。
聞き覚えがあると思って視線を向ける。可愛いマスコットキーホルダーを手に、キリヤマ・
その声を聞きつけ、保護区アイドル仲間のモチヅキ・
「ふ、不潔!! 変態!! ケダモノォッ!!」
「あっらー。真琴くんったら、大人やねー。いや、ウチはそういうのもアリやと思うけど」
「こ、これが高校生……」
女子中学生達が顔を真っ赤にしている中、真琴は呆けていた。なにを言われているのだろうか、と判断が遅れている。
しかしいち早く全てを察した晴明は影を元に戻し、口元を引きつらせながら足早で去ろうとした。他人の振りは苦しい状況だが、それが最善だからだ。
「そんじゃあ知らないお兄さん、さようならと言うことで……」
「ま、待ってよ晴明!! 首輪を解かないで!!」
盛大な舌打ちが晴明の口から発せられた。
しかし唯一の手掛かりを失うわけにはいかない真琴としては、必死に彼の渡世人風マントに縋りつくしかない。
どこかの有名な銅像みたいな光景に、女子中学生達の疑惑はヒートアップしていく。そして晴明が真琴を蹴ろうと覚悟した時、
「愛莉ちゃーん、お兄ちゃんを置いてくなんてずるいぞー」
ドスがきいた声の割に甘い響きの言葉が耳に届く。
蹴る姿勢のまま晴明がピタリと止まった。
「もー、お兄ちゃん! それどころじゃないの! ちょっと、アンタ! こ、高校生だからって不純異性交遊の果てに道の往来で、そ、そ、そんにゃS、SMな……ぷ、ぷれ、プレイ、にゃんて……」
「不純同性交遊やないの?」
言葉に詰まり、盛大に噛んでいく愛莉。彩風の指摘すら耳に届かないようだ。
この時点でようやく真琴も大体を把握した。
妙な誤解を受けている。具体的にはわからないが、とりあえず一般的にはしたない行為、ということらしい。
渡世人風マントを掴んだまま立ち上がり、制服についた砂埃を落としてから深呼吸。真琴はなんとか笑顔を作って、
「えーと、アイリンリン?」
挨拶をしたが、
「オフなアイドルに向かって、その挨拶を変態が使うな!!」
重めの右ストレートが腹にめり込んだ。
照れ隠しならば凶暴すぎる。桃色のツインテールが激しく揺れているのも気にせず、愛莉は「やってしまった」と少し焦った。
膝から崩れ落ちながらも、マントだけは手放さない。そんな真琴など視界に入れず、晴明は冷や汗だらけの顔である男を見つめていた。
「ん? 晴明……てめぇ、俺の可愛い妹に変なの見せてんじゃねぇぞ、ごらあっ!!」
「不可抗力でさぁ、夕莉の旦那!!」
「お……ふぅ……ん?」
聞いた覚えがある名前だった。しかもつい最近どころが、数時間以内の話である。
何処で誰が、と思い出そうとした。しかしおずおずと近寄り、期待しながら陽詩が話しかけてくる。
「あ、あの……今日は紫音さんはいらっしゃらないんですか?」
「……っ! そうだった!! 紫音もさらわれてたんだった!」
あっという間に脳内が別の件で埋め尽くされた真琴だったが、それは驚愕を顕わにした陽詩も同じだ。
「紫音さんが!? ど、どうして……」
「そのことについて晴明から色々聞きたかったのに、なんかこう邪魔というか……」
「あっしの兄貴を邪魔とか言わんといでもらいやせんか?」
夕莉と呼んだ男から目を離さないまま、真琴へわずかに威圧をかけていく。
だが動揺した陽詩までもがマントの裾を掴んできた。青い瞳を潤ませての上目遣い。こげ茶のフェアリーボブも不安そうに揺れている
それに悪ノリした彩風も楽しそうにマントへ触れた。亜麻色の目は事態を楽しんでいるように爛々と輝いている。合計三人に足止めされている状態だ。
「ねえ、コスプレお兄さん。ウチらになにがあったか教えてほしいんやけど」
「お、お願いです! 私も知りたいです!」
「いや、あっしには目的が……」
「んなことより、俺の頼みは? あん?」
女子中学生二人に迫られながらも口ごもっていた晴明だが、夕莉からの言葉で渋々と口を開く。
「旦那の頼みはまあ……朱雀の旦那が継続中ですよって。でも知っている通り、朱雀の旦那一人で解決できる問題じゃありやせんので、早くフォローに戻りたいってのに」
見下すように真琴へ視線を向ける。
それだけで愛莉が肩を尖らせ、考え込んでいた夕莉の腕へと抱きつく。
「お兄ちゃん! まーた危ないことするの?」
「愛莉ちゃん!?」
「春先の事件で少年院に入れられたばかりなのに……愛莉のこと、また独りぼっちにするの?」
両手を胸前で組み、眉を八の字。懇願する上目遣いには涙のオプション付き。淡い赤の瞳がきらきらと光を放つ。
夕日に照らされて輝いているように見える妹を前に、兄はあっさりと陥落した。
「そんなはずがない!」
「じゃあ愛莉に全て教えて」
兄に力強く抱きしめられながら、愛莉は陽詩と彩風に向かってVサインを見せる。
それだけで通じ合う仲であるため、二人はサムズアップで応じる。
「いや、でもこの問題は根が深いというか……愛莉ちゃんに危ない目に遭わせたくないし」
「愛莉、つい最近襲われたんだよ? それなのにお兄ちゃんは離れるの?」
ダメ押しの甘い声。しかし夕莉だけでなく晴明も視線を逸らした。
特に晴明は冷や汗がさらに増えている。
下手すると咳払いで今の会話を誤魔化そうとしている雰囲気まで溢れさせていた。
「愛莉、お兄ちゃんの全てが知りたいな」
「っ、ぐっ、うぅ!」
胸を押さえて苦しみだす夕莉。改めて彼の容姿を真琴は眺める。
妹と同じ桃色の髪だが、男性らしいウルフカット。飴玉のような赤い目は苦悩に満ちている。
夏らしいラフなTシャツに半袖ジャケット、そしてダメージジーンズ。旧時代のオシャレ男子に近い姿だ。
「世界一可愛い愛莉ちゃんのお願い……叶えてあげたいけど、今回は駄目!」
「はぁっ!? ちょ、お兄ちゃん!」
「晴明、ここから離れるぞ!」
「了解でさぁ」
ようやくかと安堵した様子で、晴明は体をひねる。それだけでマントが回転した円盤のように動き、真琴達の手を振り払った。
妹を優しく抱き離した夕莉が伸ばした手を、空に伸びた黒い影が掴む。そのまま影の橋に乗って、あっという間に二人が消えてしまった。
「こらー! 馬鹿兄ー!! まーたお母さんに怒られるじゃん! 戻ってきなさーい!!」
先程までの可愛い妹モードを止めた愛莉が叫ぶも、その声すら届かない遠くまで逃げられてしまった。
呆然とする真琴だったが、それ以上に落胆していたのは陽詩である。
地面に膝をつき、両手で顔面を覆っている彼女はさめざめと呟く。
「うう、どうしよう……紫音さんがSMプレイの被害に遭っていたら」
「え? いつの間にそんな話に!?」
予想外の言葉に、思わず真琴は尋ねてしまう。
「だって真琴さんがそんな状況だったじゃないですか!」
力強く言われてしまい、否定できない空気になってしまった。
さらに興奮してしまった陽詩が、女子中学生にしては豊かな胸を揺らしながら力説する。
「私、知ってるんですよ! 愛莉ちゃんのお兄さんが隠し持っていた電子書籍用リーダーに入っていた、ヤンキー漫画やちょっとエッチな奴とか!」
「うえぇっ!?」
大人しそうな外見から想像もできない勢いで、陽詩は涙目で続けていく。
「さらわれた人って、なんかこう縛られたり、囲まれたり、入れられたり……駄目、これ以上言えない!!」
途中から顔を真っ赤に染め上げてしまい、いやいやと首を左右に振る。
「ど、どうしよう……紫音だけじゃなく遮音もさらわれてるのに」
そして残念ながら、坊ちゃん気質の真琴は彼女の言葉を真に受けてしまった。
二人揃って真面目に深刻そうな表情を浮かべる横で、彩風が暢気な様子のまま、
「あながち間違ってないのがなぁ……」
なんて呟いていた。
いきなり手掛かりが消えたことにも動揺していた真琴の耳に、明るい少女の声が届く。
「アタシに任せなさい! お兄ちゃんが関わってるなら、百パーセント『落ち崩れ』よ」
「愛莉ちゃん?」
「だったら本拠地へ向かうのが早いわ。行くわよ、東エリアの放置区域に!」
泣き崩れている少女を立ち上がらせ、ついでに真琴の頭もノックするように軽く小突く。
真琴よりも小さな体の少女は力強い笑みを浮かべ、理解が追いつかない男子高校生の腕へと抱きつく。
「でもアタシ達弱いんだから、しっかり守ってよね☆」
愛らしいウインク付きで告げると、そのまま真琴を引っ張って路地裏へと向かう。
まだ力が入らない陽詩の背中は彩風が押し、四人は賑やかな西エリアから静かに消えた。
その直後、
「あの三度笠、何処に行ったでござるかぁっ!」
空に消えていった影の橋を見つけた覗見が、実流と茨木を連れて到着した。
買い物中の住人達はその大声に驚いたが、すぐに茨木の整った顔立ちに視線が集まった。もちろん実流にも熱い視線が注がれた。
「方角的に東に向かったみたいだね。ということは……落ち崩れ共の根城かな」
「ああ、放置区域か?」
一人で先走りそうな覗見の服を掴んだ実流が、思い出したように問いかける。
「まあ中等部からここにいれば、今年の春先に起きた事件は知ってるからね」
「あの坊ちゃんが来る前だろ?」
「そうそう。まあ真琴くんがそれを知っているかは不安だけど……彼に関しては今回事件の外側に出しても良いだろう」
笑顔で戦力外通告。
庇うわけではないが、実流としては面白くない発言であった。
「というか、僕としては事件へ積極的に関わってほしくないんだよ。父が心配するからね」
「お前の親父と坊ちゃんにどんな関係があるんだよ?」
「さあね。そこは学園長にでも聞いたらいいんじゃないかな?」
どこ吹く風といった雰囲気で、茨木は実流の疑問をあっさり受け流してしまう。
その間も覗見が走り出そうとしていたが、残念ながら力では実流に敵わない。最終的に息を乱すだけで終わってしまう。
「まあ目的はさらわれた二人の奪還に絞ろう。覗見くん、君もいい加減冷静に対処して」
「うぅ……わかったでござる」
大人しくなった覗見が二人へ頭を下げようとした矢先、
「そこを退くが良い、一般市民よ!!」
嫌な予感しかない声が上空から響いた。
覗見は慌ててその場から飛び退き、実流と茨木は歩道の端まで跳躍した。
肌を切り裂きそうな鋭い風と共に、二つの人影が戦いながら移動していた。
一人は覗見達も馴染み深いエゴコロ・若君。そしてもう一人は影を攻撃的に操っている。
反射的に二人を追いかけ始めた覗見達は、違和感を覚えた。
「お、と……こ? でござるか?」
「いやでも骨格が女っぽいような」
覗見と同じ疑問を抱いた実流が返事する。影を操っていたのは中性的な人物だった。
白い髪に気味が悪いほどの赤い目。全身を影で纏っているようで、黒のラバースーツを着ているのに似ていた。
腰のくびれなどはあるが、要所での凹凸がない。性別不明の忍者みたいだと覗見が親近感を抱く中、
「貴様! 何故アミティエ学園の生徒へ攻撃をした!?」
若君が問いかけるが、口元まで影を覆っている相手は答えない。
それを聞いた茨木は何点かの辻褄がズレていたことに納得した。
「二人とも、彼らを見失わないで! 若君くん、そのまま東エリアに誘導して!」
「いいだろう! 我に不可能という文字はない!!」
縦横無尽に襲ってくる影の攻撃を躱し、時には足場にして反撃を狙う若君。茨木からの指示にも快く応答した。
日常では問題児だが、こういう事態では心強い――と良い話にまとめたかった茨木だが、周囲からの悲鳴や被害を確認して頭が痛くなった。
店先の暖簾は破けるし、露天の商品は砕け、主婦の買い物袋が宙を舞う。あまりにも風のように早く過ぎ去るので、誰もが二人の戦いを把握するのに遅れていた。
「流石は若君殿、強いのに傍迷惑でござるな」
「俺達も全力で走るぞ! 後片付けを押しつけられかねない!」
素早い二人の被害跡を追いかける三人。なにせ周囲の人間が、関係者なのかと責めたそうに見つめてきた。
パトカーのサイレンも聞こえてきたので、さらに走る速度を上げていく。目指す東エリアは少し遠かったが、若君の派手な動きのおかげで注目が少しずつ集約していった。
「ほら、アイスだ」
強面な男が、可愛らしいメロン型のアイスケースとスプーンを朱雀へと渡す。
火照った様子でのろのろと食べ始める彼を見て、
「本当にアンタは変な人だな。偉そうな割に、子供っぽい」
おかしそうに笑う。
「甘えるのに慣れておるからな。買い出しに感謝しよう」
「ははっ、そりゃあ良かった。じゃあ俺はもう行くけど、しっかり見張っておけよ」
そう言って男は倉庫部屋から出て行く。
布団の上で寝転がりながらアイスを食べ続ける朱雀に対し、遮音が声をかける。
「どういうことだ?」
スプーンでアイスをすくうのを止め、朱雀が振り向く。顔の右半分を隠す眼帯のせいで、体ごと動かすしかない。
それでも遮音は壁に背中を預けていた。一定の距離が警戒心を表していたが、それを凌駕する不可解さがあった。
「お前は何の見張りをしている?」
「ほお。気付いたか」
にやりと朱雀が笑う。機嫌を良くしたのか、アイスを食べる手を早めた。即座に完食し、アイスケースを床に置く。
その頃には顔から若干熱が引いており、白い肌から赤味が消えていた。
「さっきの奴は俺や紫音なんか見ていなかった。この倉庫の箱を見上げていたからな」
遮音は眠らされ続けている紫音へと視線を向けた。冷たい倉庫の床、しかも朱雀が手を伸ばせば届く距離にいる。
しかしアイスを買ってきた男。彼は二回も部屋に入ってきたにも関わらず、一度も双子へ意識を割かなかった。
なにより廃墟の倉庫であるはずが、妙に木の箱が多いのだ。しかも空ではない。なにかが入っているらしく、金属製の番号札が打ち付けられていた。
「なあに。薬が入っているだけだ。流通したら、億という金が飛ぶ類いのな」
「危険指定薬物か?」
「増強剤や麻薬に近いな。しかしこれはもっと悪質でな。かつての煌家が研究した薬剤を真似ている」
「なっ!?」
絶句する。
煌家と言えば、鬼への対策に保護区の結界装置などを世に広めた一族だ。
謎は多いものの、彼らに助けられたという事実は揺るがない。二百年も人間が存続できたのは、彼らの偉業による点が大きい。
「これ以上は流石に話せぬ。世界がひっくり返る真実なのでな」
「……鬼に関係しているのか」
「そちらが考えている方向性とは違うだろうがな」
含みを持たせた朱雀の言葉に、遮音は首を傾げる。
――煌家の薬ならば、鬼を倒すためのものではないのか?
そう考えてさらに追求しようとしたが、
「晴明はいるか!?」
扉を蹴破って現れた男の声に遮られた。
朱雀は男に背中を向けたまま、人差し指を口元へ持っていく。禍々しいほど赤い目が厳しく細められる。
苛ついた様子の男が朱雀の肩を荒々しく掴んだ。
「あの三度笠は何処だ!? 何時になったら誘拐した奴を連れてくる!?」
「手こずっているのではないか? 相手はアミティエ学園の生徒。一筋縄でいくはずがない」
耳が張り裂けそうな怒鳴り声を前にしても、朱雀は悠々と答える。
それが気に入らなかった男が朱雀の体を突き飛ばし、転がった彼の腹に蹴りを入れた。
「ぐっ!?」
「病人が生意気な! お前なんかその能力保有プレートを所持していなければ役立たずのくせに!」
「……ふっ。能力保有プレートに人間の価値を見出す者は、愚かにも表面しか捉えられないようだ」
腹を抱えながら上体を起こした朱雀の頭に平手が飛んだ。
体勢を崩したが、慌てて体をひねって床の上を転がる。
危うく紫音の体へと倒れ込む寸前だった。それでも顔を真っ赤にして怒っている男は、彼に憎悪の視線を向けていた。
「口先だけが達者な愚図め! いいか、晴明に連絡を入れろ! 今すぐ対象を連れてこいとな!!」
それだけを吐き捨てて、男は部屋を後にした。
扉が大きな音を立てて閉じられたのを確認し、朱雀は長く息を吐いた。
「そろそろ限界か。では――」
痛みを堪えながら立ち上がり、紫音へと近付く。黒い学ランのポケットから、鋭い切れ味のナイフを取り出した。
身を強張らせる遮音に対し、朱雀は怪しい笑みを浮かべる。
そして、
「解放の時だ」
縄を容易に切ってしまった。
束縛が消えた紫音だったが、起きる気配はない。
特に頓着した様子も見せず、朱雀は次に遮音の縄を切る。手足が自由になったのを確認する彼に対し、
「協力してほしい。よいか?」
朱雀は真剣に尋ねる。
「……事情は説明してくれるんだよな?」
「もちろんだ。ついでにあちらも起こすか。余の【情報誤認】のせいで、まだ薬が効いていると脳が勘違いしているのでな」
ポケットから銀色のプレートを取り出し、解除しようとした。
「いや、待て。俺がまだ把握していないのに、短気なそいつが起きるとややこしくなる。先に説明しろ」
しかし遮音が制止した。朱雀は双子について詳しくないため、素直に頷く。
「ふむ。よいだろう。だが説明に時間を割く余裕はあまりない。終えたらすぐに起こさないと、危ういぞ」
「わかっている。けれど……その脳筋は寝起きが良くてな。起床直後に暴れる可能性が高いんだ」
「ははは。それは確かに問題だな」
言い方が面白かった朱雀は軽く笑うが、それだけで腹が痛みを訴えた。床に膝をつき、額から汗を流す。
「しかし余にも事情が……」
「身近に同じ病持ちがいる。体温だろう? まずは布団の上で横になれ」
朱雀に肩を貸し、布団へと連れて行く。
素っ気ない態度だが、優しい心遣いが可笑しかった朱雀は、またもや小さく笑う。
熱冷ましシートを額に貼り付け、布団に寝転がりながら口を開く。
「実はな――」
古寺は颯天を連れて北エリア経由で東エリアへと向かっていた。
背後では空海が電子学生証で、慎也へと連絡を入れている。
「慎也がもう落ち崩れと関わりたくないのはわかるけど、今回は緊急事態なんだってば」
説得に時間がかかっているようで、少しずつ古寺達との距離が開いていく。
声が聞こえにくいと判断できた瞬間、空海は能力保有プレート【音声奪取】を使う。自らの声を古寺達に聞かれるのを防ぐためだ。
「ヤガン商事が関与しているかも。僕はまだ彼との繋がりはわからないけど、用心に越したことはないだろう?」
念には念を入れて、小声で話す。通話の向こう側で、重めの沈黙が流れた。
空海の視線は息巻いている古寺に向けられていた。風みたいに若君が横切ったこと。そのタイミングから、真琴が誘拐されたと誤解している。
パトカーの被害も若君が動いていたと考えると、空海としても腑に落ちる点は多かった。
「結局……あの事件はしっかり終わってなかったんだよ。慎也、ケリをつけるなら今だよ」
返事はない。
「僕は君を信じる。東エリアの放置区域へ先に行くよ」
言い終えて、空海は通話を切る。同時に能力保有プレートで消していた声を元に戻した。
古寺達との距離はかなり空いていた。それだけ古寺が後輩を心配しており、颯天も同じような気持ちで付き合っているのだ。
問題ばかりを起こしていた後輩達が、先輩になったのだと。空海は少しだけくすぐったい感情を味わう。
「もー、祐介の奴は頼りにならん!」
「本当にな」
十文字にいまだ説教されている相手の文句を叫ぶ二人。空海としても祐介の落ち崩れ関係のコネクションを使いたかったのだが、拒否されてしまった。
それだけ十文字は本気で祐介を更正させようとしている。が、今の状況を考えると中々辛い判断だ。
「僕は警戒されてるけど……上手くいくかなぁ」
二年の終わり頃を思い出し、空海は憂鬱な気分になった。
毎年、二月には大きな問題が起きる。アミティエ学園でひっそりと語り継がれる伝説。
それが外れたことがないのを体験した身として、今日の事件さえ予兆の一つという疑惑が湧いてくる。
「喧嘩の乱戦にならなければいいけど」
独り言のように呟き、古寺達との距離を詰め始める。
これ以上は弱音など吐いていられない。空海は覚悟を決め、足を進めることにした。
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