二十七番:遭遇

 腰に携えていた伸縮式の警棒を伸ばし、祐介は晴明へと迫る。身軽さでは慎也の方が上だが、跳躍した際の足音の重さと体幹の滑らかな動きは一朝一夕で手に入る物ではない。

 勢いの強さを口笛で囃し立てながら、晴明は足下の影を真っ直ぐ伸ばす。自身は動かずに上空へと移動し、影の側面に棘を生やす。

 尖った影が眼前に現れた祐介は、近くにあった電灯へと強烈な電流を送る。瞬時にまばゆい光と硝子が破裂した。足場の影が消えた晴明は舌打ちし、地上へと落ちていく。


「話には聞いておりやしたが、確かに悪質な能力保有プレートだことで」

「それは褒め言葉だな」


 あくどい笑みを浮かべ、落下途中の晴明の腹へと飛び蹴りを食らわす。返ってきた衝撃に声を詰まらせ、片足だけで二、三歩と距離を取る。

 右足を上げたまま顎の下を腕で拭う。流れ落ちる汗の量は尋常ではない。夏場のせいというのもあるが、痛みによる発汗も重なっていた。


「防弾ベスト……しかも分厚いゴム製か。自分との戦いでも想定していたか?」

「用心しろ、と忠告されていましたんでね。備えあれば憂いなし。でも正直無傷というわけにはいきませんがね」


 咽せつつも不敵な笑みを零す晴明は、あまり祐介に集中していなかった。視線が周囲に飛び交い、耳を澄ませて状況を探っている。

 対峙している祐介は勿論、観戦していた真琴や古寺達も彼の不自然な様子に気付いていた。

 なにかを警戒している。そして戦いをあまり長引かせたくないのか、自らが攻撃をしかけようとはしない。


「全く……ただでさえお荷物抱えてる身だってのに、厄介事ばっか引き受けちまってまいってるんですよ。ねえ、お兄さん。ここは穏便に話し合いでも」

「するわけないだろう」


 相手の言葉が終わる前に、答えと同時に走り出した祐介。

 にやり、と晴明の笑みが深くなった。古寺と颯天は真琴の服を掴んで物陰に隠れ、これから起こるであろう混迷から逃れようとする。


「ほう? 栄えある体育委員会副委員長が交渉に応じぬと?」


 背後からの厳格な声が耳に届いた瞬間、祐介は晴明のことなど忘れてその場で正座した。顔が青ざめ、切腹を命じられた武士に似た悲壮な雰囲気を醸し出していた。

 笑みを顔に貼り付けている晴明だったが、姿勢が真っ直ぐになっている。それくらい風格を持って現れた男の雰囲気は厳かであった。

 ヒトツバシ・十文字。威風堂々と腕を組み、仁王立ちしている。その背後には苦笑を浮かべたナガラ・空海が静かに合掌していた。


「い、委員長……いえ、あの、これには深い事情が」

「一般人へと暴力を振るう事情があると?」

「はい、えっと、そのですね……」

「しかも能力保有プレートを悪用して監視カメラを壊すほど、か」


 正座から流れるように土下座へ。むしろ覚悟を決めて介錯を求め、首を晒す罪人の如く。祐介は言い訳や抵抗は無意味だと悟った。逃れる術はない。


「まあまあ十文字。そちらの少年にも不可解な点があるし、説教は後回しだ」

「ふむ。いいだろう。だが貴殿はその場で正座を続けろ。指示があるまで動いてはならぬ」

「はい」


 恐る恐る上体を起こし、再度正座の状態に戻った祐介。顔面蒼白なまま、地面を眺めている。その様子に物陰に隠れた真琴は同情した。

 古寺と颯天は警戒を続けていたが、それも空海が手招きした瞬間に終わる。足音を消した状態で近寄っていた慎也に三人揃って背中を蹴られたからだ。

 転がるように二人の委員長の前へと躍り出る。古寺と颯天も緊張した面持ちで正座し、空気を読んで真琴も地面に座る。夏の暑さが残る人工の地面は些か固かった。


「君、アミティエ学園の入学生ではないよね? それだけ特徴があれば僕が覚えているはずだし。となると落ち崩れかな? じゃあ刑事罰適用だ」


 にこやかな顔で問いかける空海に対し、またもや晴明は視線を動かして周囲を窺う。一拍、間を空けてから息を吐いた。


「さすがはアミティエ学園の風紀委員のお兄さん。恐れ入りやした。確か音や声を消す能力保有プレートをお持ちだとか」

「へえ。よく調べてるね。去年の騒動の際には見かけなかったけど、今年の春辺りにでも加入してるのかな。ということは、僕が既に警察を呼んでいるのは予測済みだろう」

「ええ、まあ。予測した上で、お知らせしときやすね。来ませんよ、それ警察


 三度笠の位置を調整して顔を隠す晴明。

 真琴は既視感を覚えた。音の違和感。それは普段から似た状態を味わっている慎也と空海もすぐに理解した。

 白と黒が特徴的な車が無音で宙返りしていた。叫び声も聞こえない状況で、真琴は手荒く首元を掴まれて投げ飛ばされたのを感じ取っていた。


 重みのある車が無音でバウンドし、衝撃だけが体を震わせる。サッカーボールのように転がって、街路樹を何本も薙ぎ倒してようやく止まったほどだ。

 十文字は空海と祐介を抱えてパトカーの着地地点からズレていた。腰を抜かした古寺は慎也に髪の毛を掴まれ、颯天の能力保有プレートで脅威から逃れていた。

 次に疾風と見間違うほどの速さで二つの人影が横切り、東エリアに向かって姿を消した。呆然としている最中、突如として音が戻ってきた。耳をつんざくエラー音と雑踏からの大声。


「なんや!? ちゅーか、さっきの人影……まこ坊、あれは、ってあり?」


 動揺してすぐに間の抜けた声を漏らした古寺。荒っぽいやり方で転がしたとは言え、男子高校生の体を遠くに飛ばす力を持っていない。

 近くにいるはずの真琴の姿が消えていた。さらに渡世人風という目立つ姿の晴明さえ、気配も残さずに去っている。

 異常事態と把握し、空海は顧問である万桜へと連絡を入れる。場合によっては緊急事態宣言を学園長に行って貰い、能力保有プレートの限定使用許可を全生徒に下さなければいけないからだ。




 イケブクロシティに緊迫した空気が流れる中、とある倉庫で少年が呟いた。


「ホモに目覚めたい」


 寝起きに聞く一言としては最悪の部類だ。手足を縛られながらも、芋虫のように這いずって距離を取る。だがすぐに壁が目前に塞がった。

 観念しつつ、警戒心むき出しで壁に背中を預ける遮音。元いた場所では深い眠りに落ちている紫音が同じく手足を縛られていた。彼に関しては念入りに目隠しを施され、耳栓によって聴覚も封じられている。


 寂れた倉庫だった。かつては東エリアの野菜保管庫として扱われていたのだろうが、供給よりも需要が上回って持て余したせいで廃墟になっている。

 具体的には、全体的に保護区内の住人が減少している。生産者も比例し、故に輸送量が減った。しかし食べ盛り男子が多いイケブクロシティにおいて独自の生産では保管するほどの数が確保できない。

 まだ危機感を覚えるほどではないが、そんな裏事情から放置されている建物を勝手に利用している輩というのはどんな時代でも出てくる。


「だが男に興奮できぬ」


 遮音は胡乱な目を向ける。寂れた倉庫に似合わない高級布団の上に寝転がっている少年は、床に散らばった紫音の銀髪を指先で摘まむ。先端が青く染まっている長髪を一通り眺めた後、興味をなくして手放す。

 黒い少年だった。長い黒髪を三つ編みにしてまとめている。それでも足首まである長さだ。着用している学ランも黒、顔の右半分を隠す布の眼帯も真っ黒だ。

 ただ異様に白い肌と、生気が満ち溢れている赤い左目。実験用の病弱な白兎に黒を塗ってみましたと言わんばかりの風貌だった。


「どうすれば男に発情できようか?」

「俺に聞くな」


 げんなりしながら遮音は答える。起きてから数十分、監視とは言いがたい態度の少年は思いついたことを片っ端から口に出して暇を潰しているのだ。

 何度か問いかけようと試みたが、その度に質問という先手を打たれてしまい、挙げ句の果てに頭が痛くなって口を噤む。繰り返される内容に辟易するほどだ。


「しかし男子校で勉強していると聞いたが? そういう人が多いはずだとも」

「偏見で物事を語るな。そんな奴は一人もいないっ、わけではないが……」

「心当たりでも?」

「俺に聞くな」


 苦虫を噛み潰したような顔で、絞り出すように何度も出した定型文を用いる。頭に浮かんだ女子力満載の同級生を必死に振り切った。

 一番は無言を貫き通すことだが、それを五分前に試したところ近寄られて髪を弄られそうになったので仕方なく応答している。

 無意味な質問ばかりで、一切状況がわからない。しかし黒い少年は時折咳き込み、額に手を当てている。風邪をひいた子供のように、定期的に熱も測っていた。


「まあいい。長く生きたいわけではないし、恋したいなどと甘い夢を見る状態からも遠い。だが次世代は体の強い子をと願われて、強靱な肉体の女性に押し倒されてというのも疲れた」

「……身の上話か?」

「そう。余は子々孫々なんて残したくないが、種が残っている内にと他が慌てている。医療が発達した現代を活かして、冷凍精子でも使えばよかろう。まあ冷凍も数十年経てば劣化してる恐れとか、色々あるらしいがな」


 欠伸をし、高級布団の上で少年は微睡む。寝言のように浮き上がってくる会話の声は、感情が欠落して無機質だった。どこか冷めて、諦めている。


「それにしても災難だ。能力保有プレート関係で誘拐だなんて。まあ関与している余が言うことではないか。だが頭は下げぬ。代わりに許さずともよい。っと、少し生活臭が滲み出てしまった」


 平坦な声ながら、威圧感がわずかに現れた。言動が読みにくい少年だったが、そこだけは彼の本質に近いような気がした。


「退屈だ。晴明め、早く帰ってこないか。あやつがいると些か青春を謳歌しているようだ。まあ多少血と暴力の匂いに包まれ、さながら旧時代のヤンキー漫画の如くだがな」

「漫画を読むのか」

「うむ。紙媒体でな。中々の贅沢だろう?」


 電子書籍が主流となっている今、紙を使った書籍は確かに高い。旧時代の書籍も残っているが、漫画の場合は使用するインクの多さや大量生産を目的とした安易な紙質によって、多くは失われてしまった。

 現在において紙媒体の漫画とはアンティークやヴィンテージの一つとして扱われている。コレクターもいるが、大体は読まずに保管しているくらいだ。


「確かにな。おかげで大体正体も掴めたが」

「ははは。聡いのは良きことだ。なにせここにいる者の多くは気付いておらぬ故な。ふむ、晴明には軽々しく名乗るなと注意されたが、褒美だ。謹んで聞くが良い」


 上機嫌になると同時に、顔を赤くした少年は告げる。


「余は朱雀すざく。そう! あのげほっごほっがふっ!!!!」


 ポーズまで付けて名乗り上げようとした矢先に盛大に咽せた。顔の赤味が強くなっていき、喘息のような呼吸音まで発し始める。

 高級布団の横に置いてあった呼び鈴を何度も鳴らすと、熱冷ましシートと氷嚢を抱えた男達が、厳つい顔ながら心配してくる。


「またか!? ほら、横になって! アンタは体を動かしちゃいかんって、あの三度笠に言われてるだろうに。なんか食べたいものあるか? できれば冷たいので」

「アイス」

「買ってくるから大人しく休んどけ。あと、見張りは怠るなよ! けど安静第一!」


 あっという間に寝かしつかされた朱雀は、口に体温計を咥えるという古典的な寝姿になっていた。手慣れた対応を前に、遮音は見覚えのある光景だということに気付く。


「むぅ。晴明め、そんなに心配せずとも良いのに。余だって我が身の面倒くらい見られるもん」

「もん、って……」

「さっさと用事を済ませてしまえばいいのに。将を射んと欲すればまず馬を射よとは言うが、あの親子は一筋縄ではいかぬと何度も苦言を申したというのに馬鹿者め」

「親子?」


 ようやく疑問を出せた遮音に対し、器用に体温計を咥えたまま朱雀は明言する。


「あの鬼子母神の息子だ。お互い面識はないだろうがな」




 真琴は困惑していた。気付けば晴明の影に囚われ、連れ去られ、中央エリアへと移動していた。

 アミティエ学園に一番近いエリアであるため、助けを呼べば晴明と離れることもできるだろう。しかしどうにも様子がおかしい。

 最初は影の動きも攻撃的だったが、今はなにかから身を守ろうと息を潜めているように静かだ。晴明も首を動かして周囲を探り続けている。三度笠と前髪で片眼を隠しているせいで視界不良なのも理由の一つではあるだろうが。


「あの……なんで首輪?」

「逃げられちゃ困るんで」


 真琴は自らの首を戒める影の首輪に指を伸ばす。苦しくはない。むしろ触るまでわからないほどだ。ただ指先に滑らかな質感があり、肌とは違うのが明白だった。

 薄手の布地が緩く巻き付いているような感触だ。それでも傍から見れば怪しいだろう。白シャツの襟をそっと立てて隠してみる。

 鎖があったら警察案件だったが、それを危惧したのかもしれない。晴明から逃げた際の仕掛けはわからないが、緊急性はないと判断できた。


「えっと……晴明、くん?」

「呼び捨てで良いですよって。別に親しくなりたいわけじゃないんで」

「あ、うん。えー……予算会議のとき、来襲したの?」

「否定はしやせんよ。けどあえて言い訳するってんなら、あれは手伝いに駆り出されたようなもんでさぁ。ちょいっと面倒事がありやしてね。まあお兄さんが気にかけるほどではありやせんよ」


 そう言って周囲に視線を張り巡らせた晴明の肩を真琴は掴む。

 赤い目が真っ直ぐと射貫いてくるのを、少し意表を突かれたように晴明は見つめた。


「あれのせいで同級生が誘拐されて、危ない目に遭って、首輪もされてるんだ。首を突っ込まないと気が済まないよ。晴明の狙いってなに? 僕に関係してるの?」

「……まあ、そうですけど。その前にお兄さん、随分ややこしい状態で」


 体ごと振り向いた晴明は、興味深そうに真琴へと顔を近付けた。見上げてくる青い右目に気付き、真琴は思わず口に出してしまう。


「あれ? 晴明って身長低い?」

「低くありやせん!! 標準でさぁ!!」


 予想以上に大きな声を出した晴明に対し、真琴は両手を軽く挙げて降参を示す。

 最初の建物破壊や祐介との戦闘を目の当たりにしたせいで、実際よりも身長が高いと錯覚していた。

 顔を真っ赤に染めて怒鳴った晴明は、すぐに三度笠で顔を隠した。少し間を空けた後、わずかに赤味が残る顔のまま舌打ちをする。


「お兄さんがデカいんでしょ。いや、というか五センチくらいしか違いはないでしょ」

「じゃあ百七十センチに満たないんだ」

「口は災いの元って知ってやす? その喧嘩買い叩くのもやぶさかではないんですけど」

「ご、ごめん。周囲にもっと小さな人がいるし、なんか晴明は雰囲気が大人だなぁって」


 慌てて謝る真琴は、実は三度笠も含めてもこの身長ということは……とわずかに考えていた。しかし注意されたばっかりなので、口を噤んだ。


「……調子の狂うお兄さんでさぁ。変なのも取り憑いてるし、連れてきたのは失敗でしたかねぇ」

「取り付いてる? え!? ガムとか踏んじゃった!?」

「無自覚なのは幸せなこって。さっさと用件済ますとしやすか。そろそろ旦那のことも心配になってきやしたしね。監視で誤魔化すのも、まあ残り一時間が限度でしょうし」

「そうだった。僕も急ぎの用事があるし、その、痛いのや危ないこと以外なら、協力してもいいけど」


 おずおずと提案する真琴に、晴明は歯を見せて笑う。八重歯が少し尖っていて、獣のようだった。


「じゃあ早速電子学生証を出して、母親に電話してくだせえ」

「僕、母さんの番号を知らないけど」


 あっさりと、普通に。目論見の失敗を突きつけられた晴明は頭の中が真っ白になった。

 動きを止めてしまった晴明に対し、真琴は電子学生証の連絡先一覧を眺める。家族は父親代わりの叔父の番号しかなく、それ以外はイケブクロシティで出会った人達ばかりだ。

 三十秒くらい硬直していた晴明だったが、少しずつ動き出す。ただし表情はあまり冴えない。意気消沈していると言っても良い。


「その……母親に繋がりそうな連絡先は?」

「いるけど、昔似たような話をしたら渋い顔になって落語が始まっちゃったしなぁ。それに一度も会ったことないしね。電話に出た人が本当に母さんか判断できないや」

「……一度も?」

「うん。事情があるみたい」


 朗らかに笑う真琴の顔を、晴明は不可解そうに見つめる。深く考えていなさそうな笑顔は晴れ晴れとしている。一切頓着していない。


「ご家庭の事情には追求しやせんよ。逆にこっちに矛先が向かったら厄介ですし。じゃあお兄さんは用済みでさぁ。解放してあげやすから、何処へなりとも」

「そんな!? 待って、僕には君が必要なんだ! だから首輪を外さないで、お願い!!」

「ちょ、大声……」


 中身が詰まった袋の落ちる音がした。嗅ぎ慣れない煙草の臭いが鼻を掠め、晴明は撥条人形ばねにんぎょうの勢いで首を動かす。少し遅れて真琴も同じ方向を向く。

 適当に整えられた金髪に、白い外套。それは討伐鬼隊では隊長にしか許されない色の隊服だ。首から提げられた銀色のチェーンには能力保有プレート。

 青い瞳が二人を捉え続けている。視線を少し下にずらせば袋には「おにころし」と言う名前の菓子箱が入っていた。無精髭を撫でようとした男は、母校に訪ねるということで綺麗に剃ったのをようやく思い出した。


「ハル……育ててはいないが、どうしてそんな特殊プレイに目覚めたんだ?」

「いや、ちがっ、というかお兄様がなんでここにいるんですか!?」

「お兄様?」

「ぶぁっ!? え、あ、ごほんごほん!!!! あ、兄貴には関係ないことでさぁ」


 苦悩する男を前に狼狽する晴明。少しでも体裁を保とうと大きな咳払いで色々と誤魔化そうとするが、真琴は全く別の要素に驚いていた。

 見覚えのある男だった。入学前に一度見た、危機を助けてくれた隊員。ほのかな憧れを抱いている相手だ。

 声をかけようとした矢先、首輪であった影が大きく動き出す。レッドカーペットのように広がり、伸びていく。晴明に首根っこを掴まれた真琴はあっという間に地上が離れていくのに恐怖した。


 学校の門前で四つん這いのまま呻く男がいる。報告を受けた矢吹は電子煙草を揺らしながら見下ろす。久しぶりに会った旧友が情けない姿で嘆いていた。

 そして矢吹の背後にはいつの間にか斐文が現れていた。晴明が遠ざかったのをしっかりと確認し、それでも縋りつくように矢吹の白衣を掴んで離さない。


「なにやってんだ? 生徒達が不審がってんぞ。隊長の意地を見せろや、こらー」


 やる気のない矢吹の声で、ようやく男は立ち上がった。短くなった煙草を携帯灰皿の中に入れ、何度か深呼吸してから告げる。


「久しぶりに会った弟がスメラギ隊長の息子さんに首輪を付けて調教していた……」

「疲れてんのか?」

「そうかもしれない……斐文の幻覚も見える」

「残念。幻覚じゃなくて幽霊ですー。二人と違ってピッチピチの姿だよ!!」


 すっかり三十代間近の二人に対し、斐文は誇らしげに胸を張る。それが気にくわなかったアラサー男子達の拳骨は相応の痛みがあった。

 頭を抱えた斐文を前に、男は目頭を押さえる。頭痛も併発してきた。これ以上は処理落ちすると言わんばかりに熱も感じるほどだ。


「まあ久しぶりだな、御門。色々と相談したかったし、丁度良かった」

「俺は良くない。あんな素直で可愛かったハルが反抗期に……」

「どこらへんがだよ?」

「兄貴って呼ばれた」


 殴って正気に戻すべきか。少しだけ矢吹は迷ったが、面倒だったので盛大に息を吐くだけに留めた。


「今夜は酒でも飲んで愚痴に付き合ってやりてぇが、問題が起きてな。悪いが学園長に挨拶でもして茶でも濁しとけ」

「問題? やたら騒がしいと思ったが、学生間での学外喧嘩か?」

「去年も落ち崩れ関係で一騒動あったんだがな、その時とは違う規模で能力保有プレートによる騒ぎが発生。緊急事態宣言が先程為された。これから警察と教師間で生徒達の把握を迫られている」

「某はその状況下だと下手に動けないから、様子見でもしながら手助けしていくよ。特に御門の弟くんが一番ヤバいんだよね。さっきは御門のおかげで気付かれなくて良かったよ」


 落ちた袋を拾い上げた斐文は、安堵した様子で胸を撫で下ろす。菓子箱が無事なのを確かめて御門へと手渡してから宙に浮く。


「じゃあまた後でねー。あ、そうそう」

「なんだ?」

「煌家の御子息が関わってるらしいから、御門はあまり表に出ない方が良いよー」


 空中に浮かんで消えた斐文の発言。それは御門だけでなく矢吹の思考を全てぶっ飛ばす爆弾だった。

 一体イケブクロシティでなにが起きているのか。処理落ちした御門が動き出すのは、矢吹が我を取り戻した一分後だった。




 嫌々といった様子で茨木と共に行動する実流。何度かとんずらを試みたが、悉く失敗した。笑顔の茨木が逃げ道を潰すのだ。

 十分前には電子学生証から緊急事態宣言を知らせるアラートが鳴った。画面に表示された宣言時の行動の事細かさに、実流は予想以上に問題が大きくなっていると感じた。

 しかしこれといって新しい発見があるわけでもなく、延々と歩いている。再度の襲撃や誘拐もない。むしろ平和ではないかと疑ってしまうくらいだ。


「なあ、おい。後は警察に任せた方が良いんじゃねぇの?」

「うーん、悪手かな。相手だって誘拐騒ぎまで起こしてるし、ビルも一部破壊している。だったら警察が動くなんて想定済みで、それでも大丈夫だと高を括ってるか……」

「相手取る自信がある、ってことか。ちっ、俺はあの坊ちゃん殴る口実が欲しいだけなのに面倒な」

「でも君がいると助かるよ。盾にも銃弾にもなるしね」


 せめて銃弾扱いだけの方がまだマシだった。自然と盾という役割を与えられた実流は戦慄する。状況の真っ只中にいるはずなのに、高みの見物気分で関与しているのが茨木なのだ。

 しかし時折立ち止まってはわずかに唸っていたりする。納得しきれないというのか、首を傾げて考え込むのも一度や二度ではなかった。

 北エリアと西エリアの中間地点。商業と住居か交わる辺りで、人通りも多い。買い物袋を片手に寮へと帰っていくアミティエ学園の生徒を何度も見かけた。


「さて、相手がどう動くかな。一応狙いは誘拐して、真琴くんになにかしら干渉しているみたいだし。裏をかくなら僕達二人が最適なんだよね。後は手掛かりの一つでも……」


 茨木がそう呟いた直後、頭上を覆う影があった。夕方だから伸びているのではなく、落下して近付いている。実流が茨木の背中を蹴飛ばし、その反動で自らの体も後退させる。

 二人が歩いていた地点に小柄な体が着地した。不満そうな表情を浮かべていた茨木だったが、落ちてきた相手の顔を見て目を丸くする。


 傷だらけの覗見が地面に膝をついていた。彼の眼前には細長い体の男が立っている。

 蟷螂カマキリのような男だった。手足が長く、あらゆる肉が削げ落ちている。目玉が零れそうなほど飛び出ており、口からはみ出た長大な舌にはピアスがいくつも着けられていた。

 手首、足首。それぞれに包帯が巻かれており、草刈り鎌の刃が装着されていた。回転式らしく、手を揺らすだけで刃が踊る。


「なんと面妖な……痛みにも鈍いとは困ったでござる」

「イヒッ☆」


 嬉しそうに笑った男が腕を振るう。肘、手首、そこの動きが読めても刃の軌道まで思考が及ばない。

 覗見の胸が紙を切るように易々と両断された。


「なっ!?」


 驚きの声を上げた実流だったが、覗見の姿が揺らめく。

 それが彼の能力保有プレートによる映像だと気付いたのは、男の背後に音もなく忍び寄った覗見が小刀を振りかざしてからだ。

 気配の消去も完璧だった。しかし男が踵を跳ね上げただけで、足首の刃が動いて覗見の太股を掠めた。それだけで体勢が崩れる。


「ミーターヨー☆」

「ぐっ、一撃は入れさせてもらっ」

「ダーメー☆」


 肘鉄が覗見の側頭を揺らした。手から小刀が零れ、男はそれを排水溝へと蹴り入れてしまう。街路を転がった覗見は立ち上がろうとしたが、目の前がぼやけて揺れた。

 襲い来る吐き気を堪えきれず、肘をついて体を震わす。男の足音が近付くのを理解しながら、動くことができない。


「サーヨーナーラー☆」

「お前がなっ、キモ虫野郎っ!!」


 自分の体を弾丸のように飛ばした実流が、男の顔面を殴った。重みのない体が地面を引っ掻きながら転がっていく。

 その間に覗見に近寄った茨木が、彼に肩を貸す。まだ揺れる頭に痛みを覚えながら、覗見はようやく二人の存在に気付いた。


「実流殿に茨木殿? 如何なさった?」

「それはこっちの台詞だ、オタク忍者! なに一人で勝手にかっこよく喧嘩してんだ!?」

「えー? 誤解でござるしぃ……調べ物してたら襲われたんでござるよ。それより、実流殿気をつけなされ」

「あん?」

「其奴は速いでござるよ」


 どういうことだと振り向いた実流の頬に一直線の赤い傷ができた。条件反射のように動けば、男の長い足が鞭のようにしなっていた。

 関節が柔らかいどころではない。首があり得ない角度に曲がっても男は涎を垂らして笑っていた。むしろ快感で悦に入っているのか、嬌声に似た叫びを発している。


「……調べ物ってなにかな?」

「三度笠の男でござる。そいつの後を追いかけて東エリアの廃墟に忍び込んだら、攻撃を受けたでござる。遮音殿もそこにいるとは思うが、ちょっときな臭い場所でござった」

「ふーん。薬物には手を出さない連中だったのに、相当ヤバいのが入り込んだのかな。去年の騒動を考えれば、まあ無理ないかな。統率とる頭がやっと少年院から出たわけだし」

「茨木殿ぉ……なーんか訳知り顔でござるけど、核心を掴んでるのでは?」


 覗見の問いは笑顔に黙殺された。これだから顔が良いのは、と思っている間にも実流は攻撃範囲が広い男に苦戦していた。

 体の全方位を守るように手足を振り回す男に対し、実流はどう攻撃するかで迷っていた。圧倒的質量さえあれば弾丸として飛ばし、押し潰すことができる。しかし周囲にはこれといった物がない。

 小石などでは弾かれてしまう。もう自らの体を使った奇襲は通じない。男の手足は加速し続け、目で追うのも不可能になってきた。


 そして男の体が浮いた。人間離れした動きが物理法則を超えたのかと身構えた実流だったが、不審を感じた男も手足の動きを止めた。それでも体の上昇が止まらない。

 男の高さが家の屋根を越えた。笑いが消えた彼の耳元に囁きが一つ。


「ポルターガイストって知ってる?」


 男が言葉の意味を理解する前に、地面に体を叩きつけられた。自然な落下ではなく、殴り落とされたような速度だった。しかし衝撃は小さかった。

 地面には傷一つついていない。白目を剥いた男の背中も無傷だ。恐怖で意識を失った男の腹上に小柄な幽霊が降り立つ。


「あまり若い子を虐めちゃ駄目じゃないか、なーんてね。やあ、平気かい?」

「……誰だっけ?」

「ガーン!?」


 実流の一言に、斐文は声を出して衝撃を表現した。残念ながら実流にとって彼は印象の薄い相手で、名前すら忘れるほど関わりが低いのであった。


「うわ。貴方も関わってるなんて、面倒な」

「おや、斐文殿。まさか今のは能力保有プレートのお力で?」

「わーん、覗見くんくらいだよぉ!! まともなこと言ったの! でも君は彼と因縁がありそうだから、あまり手助けできないや! ごめんね!」


 嫌そうな表情を隠さない茨木を無視して、斐文は傷だらけの覗見に泣きつく。しかしすぐに離れてしまう。


「とりあえずこれは君達に譲るよ。縛っても縄抜けされるかもしれないから、特殊な縛り方をお勧めするよ。ね?」

「なんでそこで僕を見るんですか」


 視線を向けられた茨木はうんざりしていたが、覗見と実流は納得していた。なんかできそうだ、と。

 覗見は腰に装着しているポーチから軟膏が入った容器を取り出し、傷がついた部分へと塗っていく。止血効果があり、赤い筋が幾つも消えていく。

 実流も指先分を貰い、裂けた頬の傷を埋める。電子学生証の鏡アプリを使って確認すれば、傷跡が見えないくらい自然に塞がっていた。どんな効能だと容器を見るが、製品名すら表記されていなかった。


「じゃあ僕は他へ向かうよ。タイムリミットはあと三十分くらいかな。それまでに双子を助けないと危ないかもね」

「具体的には?」


 気絶した男を亀甲縛りで捕縛している茨木が淡々と問いかける。その手際の良さは素人とは思えなかったが、誰も深く追求しようとしなかった。


「ヤク漬け、かな」


 去る前に残された斐文の不穏な言葉は、茨木の顔から表情を消すには充分な類いだった。夕日が沈むまではまだ時間がある。だが悠長にしていられる余裕はなくなっていた。

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