二十番:先輩

 雨が窓を打つ音。時計の針と同調するように、室内の冷えた空気と共に静けさを呼び込む。穏やかな放課後の到来にスメラギ・真琴は涙しそうになった。

 訳がわからないまま三年生のアソウ・教典に追いかけられたことが夢のようである。もちろん分類は悪夢だ。強烈な印象だけを残して連れて行かれた彼について、真琴は三日は忘れられない人と感じた。

 ヤガン・古寺などの先輩の助力により、なんとか目的地である図書室の前に辿り着いた真琴は、電子学生証に反応して開いた自動扉に慣れた様子で室内へと入る。


 白い壁と天井、本棚と勉強机は茶色で統一されている。しかし本棚にある紙の本は少なく、多くは図書室の二倍はあると言われる地下書庫で補修作業を繰り返されている。

 そして壁際に五台ほど設置された電子書籍貸出端末へと向かう前に、生徒達は図書委員が動き回る少し広めの受付へと訪ねることになる。電子書籍を借りる手順を踏むのに必要だからだ。

 簡単にダウンロードできるならば図書室など必要ではない。しかし期間内だけ借りた電子書籍を読むとなると、多くのセキュリティとシステム構築が必要になってくる。


 例えばスクリーンショットと呼ばれる画面に映っている物をそのまま保存する方法の防止、少しでもシステム面に介入しようとした利用者の電子学生証の一時的な停止措置。

 それらの対策を用具委員会と協力して行うのが図書委員会である。そして電子学生証の図書アプリで行えるのは、図書室目録一覧の閲覧と検索、そして書籍の貸出予約やリクエスト送信などが主だ。

 図書室ではそれらをデータベース管理し、利用者に適切な対応ができるように準備をしておくのである。そして真琴は受付で意外と真面目に仕事をこなしているランバ・覗見に声をかける。


「覗見、今忙しい?」

「おお!主殿に古寺殿!先程は確か三年の教典殿の悲鳴が聞こえたようでござるが、なにかあったでござるか?」

「悲鳴!?一体、あの後なにが……ま、まあなんか追いかけられたというか、なんというか……」

「拙者もあの人に追いかけられたことあるから承知しているでござるが、中々に恐ろしい御仁で候。あ、これが主殿が貸出希望していた書籍の読み込みコードでござる」


 覗見は口を動かしながらもしっかりと委員会の仕事内容である、一種の模様に近い四角い形の二次元バーコードが映し出されたタブレット画面を真琴に見せる。

 二次元バーコードには貸出予約した生徒の端末番号、予約されている書籍の期間限定閲覧制限解除、そして貸出端末にて行う操作の指示書とパスコードの開示が含まれていた。

 この三つを取り入れることで、複数の端末で許可なく閲覧することを制限するようにできている。例えば古寺の電子学生証で真琴の二次元バーコードを読み込んでも、その内部に含まれた端末番号が違うため端末にエラーが発生する。


 もう少し昔の話をすれば貸出カードというのもあったが、紙などが貴重になった2222年においてエコを目指した結果が多くの作業を電子化することであった。

 真琴は電子学生証のカメラ機能で二次元バーコードを読み取り、画面に表示された操作の指示書を見ながら壁際の貸出端末へと向かう。黒い箱に画面をつけただけのようにも見えるが、その端末に多くの書籍情報が保存されたデータベースへとログインできる機能があった。

 指示書の通りに画面を指先で触れて動かしていき、パスコード入力画面で十二桁の番号を打つ。最後に端末の側面に配置されたタッチパネルに、電子学生証を軽く触れさせて完了である。


「ほほう。まこ坊は青春系ラノベが好きなんか?」

「そうです。少しでも悩んでいることのヒントになればと思いまして」


 横から真琴の電子学生証を覗き込んできた古寺に対し、真琴は苦笑しながらも穏やかに対応する。育ての親に命を賭けるに値する友情を見つけてこいと言われ、アミティエ学園入学から早二ヶ月。

 入学式から世間知らずなところが災いし、色々思い悩むことになった真琴にとって、友情とは数学の数式問題や国語の読解問題よりも難解であり、それでいて糸口すらも見つけられない不可解な概念であった。

 そして参考資料になればと図書室で一昔前のライトノベルと呼ばれる、若者向けの小説を読んで勉強している。他にも文芸書や文庫形式で発売された青春物語なども地道に読み進めていた。


「そういえば古寺先輩や颯天先輩はどういった本を読みますか?」

「金稼ぎや賭け事必勝本」

「……雑読」

「そんなこと言うて、実は可愛いマスコット系キャラクターとか動物写真集好きなっだだだだだだだだだ!!??」


 適度に誤魔化そうとした颯天だったが、あっさりと古寺にばらされたことに怒りが湧いての立ちながらできる十字固めを決めた。

 もちろん技をかけられた方の古寺は図書室には相応しくない大声を上げてしまい、雨の音で静けさに満ちていた図書室内に木霊してしまう。

 勉強をしている生徒もいるため、図書室内は基本的に大声を出すのは禁止されている。もしかして委員長などが出てくるのではないかと焦った真琴は、周囲を見回す。


「おい、古寺に颯天。遊ぶのも大概にしとけ。委員長が困ってんだよ」


 大人っぽい響きを持ちながら、どこか幼さを感じさせる声。それが耳に届いた真琴は、視線を下の方に向けながら出所を探す。そして小学生男子ほどに小さな男の子を見つけた。

 快活そうな瞳の色は薄紅、短い金髪は野球やサッカーをする子供によく見かける髪型である。鼻上や頬に絆創膏、そして右腕の手首にも真新しい包帯が巻かれているため、怪我が多い子供らしい。

 受付で忙しそうに動いている覗見、最近知り合ったキンダイチ・斐文も身長としては小さい部類だったが、目の前にいる男の子は彼ら以上に小学生らしい年相応の雰囲気に満ちていた。


「誰かの弟さんですかね?こんにちは、僕は一年のスメラギ・真琴です」


 微笑ましい気持ちになった真琴は目の前に現れた少年の頭を撫でる。手の平には短髪を触った時特有の手触りが心地よく伝わってくる。


「おう。俺は二年のチカマツ・吉丸よしまると言ってな……図書委員会副委員長でお前の先輩だからな」


 聞こえてきた内容に撫でていた手が止まり、思考が固まる。年上。思わず古寺と颯天の方を振り向くが、先程までの大声や技かけも忘れて背中を向けながらも二人は肩を震わせてた。

 ラノベで出てきた単語を使うならば、どう見てもやんちゃ坊主の吉丸の外見をもう一度確かめる。頭一つ半分小さな身長に、それに相応しい雰囲気。声変わりも忘れたような声。

 しかし真琴が頭を撫でた手を止めた後も、怒りでその手を振り払うということはしない。堂々とした態度のまま、真琴の次の行動を待ち構えている男らしい姿だった。


「す、すいません……そうとは知らずに失礼なことを」


 なんとか動揺から戻ってきた真琴は撫でていた手を降ろし、謝罪と同時に頭を軽く下げる。思いっきり子供扱いしたことについて、思い出して赤面するほどだ。

 しかし半袖シャツの下に戦隊系の写真が描かれたシャツに動きやすいようにと改造された半ズボン。しかも膝小僧にも絆創膏が付いている時点で、やんちゃ坊主という印象は最高潮に。

 もしも狙っていないとするならば、天然素材である。むしろ天然記念物のような扱いをした方がいいのかと、羞恥心から思考がずれていく真琴は少しだけ引っかかった言葉を口に出す。


「そ、そういえば委員長って、図書委員会のですか?僕、結構図書室に通っているはずなんですけど、見たことがないような……」

「今も背後にいるのにか?」


 何故背後に。そんな疑問に答えを見つける暇もなく、真琴は慌てて振り向く。しかしどうにも不自然な点どころが、姿形も見えないような気がするのだ。

 とりあえず笑い疲れた古寺が目元を指先で拭い、笑いすぎて咽始めた颯天が口元を袖で押さえ、その後ろで薄い雰囲気の青年が本を片手に微笑んでいるくらいだ。

 なにもおかしいところはない。そう結論付けた真琴だったが、まるでトリック動画を見ているような気分に陥る。間違いがあると言われた絵画を見て、間違いを見つけられていないような心地。


「というか委員長がただでさえ影薄いのに、古寺と颯天の背後にいるのが悪いんだけどな。ほら、委員長!」

「あ、はい……どうも」


 本片手に微笑んでいた青年が動き出したことで、やっと真琴は委員長と呼ばれた青年を強く認識できた。あまりにも図書室の風景に馴染んでいたので、違和感を覚えなかった。

 むしろ背景と同化していたというべきだろうか。図書室で本を持っている学生、という写真の中でもありふれた常識を目の当たりにしているような感覚がまだ胸の奥に残っている。

 真琴の眼前にいるはずなのだが、気配が薄い。自称オタク忍者である覗見があれだけ濃い空気を纏っているのに、委員長と呼ばれた青年の方が忍者に向いているのではないかという錯覚。


「あ、サイトウ・鈴木すずきです。何故か田中と間違われやすいけど、鈴の鳴る木と、そこだけでも覚えてくれたら幸いです」

「丁寧にありがとうございます。スメラギ・真琴です。いつも図書室を利用しています」

「あ、知ってます。というか君が来る日は必ず僕もいるんですが……そうですか、気付かれなかったかぁ……」


 どこか諦めきれてないような声で、それでいて達観した様子で呟く鈴木は穏やかそのものだった。先程の同じ三年生である教典や空海を思い出すと、確かに埋没しそうな雰囲気である。

 程よい茶色の髪と目、電車の中、教室、歩道の上、フードコート、ありとあらゆる日常的な場所に溶け込める容姿。服装も白シャツに規定のネクタイ、規則通りのズボンにローファーである。

 もしも鈴木さんはどんな外見ですかと言われても、中肉中背の特筆することがない相手としか紹介できない。ラノベでよく使われるモブ容姿ってこういうことなのかと、真琴は失礼だと思いながらもそう考えていた。


「委員長は学園七不思議の一つになるくらいだもんな。図書室に現れる幽霊の田中さん(仮)とまで言われる始末だし」

「よ、吉丸くん……だから僕は鈴木なんです。あとサイトウです。それにしても真琴くんに挨拶できてよかったです。君が借りている本は僕がリクエストで購入した本ですから」

「え!?そうなんですか……もしかして鈴木先輩も友情に悩んでいるのですか!?」

「あ、いえ……僕は日常の中に見える甘酸っぱさや輝き、そこに宿る苦悩や葛藤、青春に含まれる意味合いのが好きなだけなんです」


 前のめりで尋ねてきた真琴に対し、少し腰を引かせた鈴木は戸惑いながらも答える。文学少年という単語が似合いそうだが、それでもやはり気配の薄さや地味な雰囲気は拭えない。

 しかし鈴木が思い出したように片方の手の平に、もう片方の拳を乗せる。古典的な発案したというリアクション動作だということに、残念ながら真琴はその面に関しては疎かったため気付かなかった。


「あ、そうです……予算会議の件なんですが。これからも図書室の電子書籍充実のためにも、真琴くん所属の風紀委員会には色々と助力してほしいのでお願いしますね」

「ええ!?いやでも僕が活躍できるような内容には見えないし、そういったことは空海先輩に伝えた方がいいのでは?」

「あ、空海くんには既に伝えていますが、それは他の委員会も同じですから。この本も補修する必要がありますし、紙食い虫ならぬ金食い虫は色んな所に潜んでいますから」


 手にしていた本を片手に、憂いを含めた息を吐く鈴木。真琴が本を見てみると、確かに白革表紙に少し黄ばみが見えた。しかし急を要する類にも見えない。

 だが鈴木が本を開いた瞬間、その答えがはっきりした。表紙に力を入れ過ぎたせいで、中の紙質があまりよくない物を頁に使っているのだ。そのせいで破れた跡や日焼けが酷い状態である。

 図書委員会はこういった本の補修や紙の保存についても学ぶ委員会であるため、学ぶための費用が委員会予算となる。それが少ないとなると、学ぶことが難しくなるのは目に見えていた。


「あ、見ちゃったぁ。委員会同士の癒着的な?」


 何処かからのんびりした声が聞こえ、真琴は周囲を見回す。聞こえてきたのは図書室にある机からだ。自習する生徒や、紙の本は貸出厳禁のために図書室で読むしかない者のための場所だ。

 しかし机に座っている者は誰もいない。だからこそ真琴の視線はその下、椅子に座っている人が足を伸ばして楽に過ごせるように配慮された机の下。そこからはみ出ているのは胴体が妙に長い猫である。

 正確には猫の抱き枕と言うべきだろう。虎猫模様のそれが机下から顔を出している事実を、真琴はどう受け止めればいいのかわからずに言葉を失くした。しかし古寺や吉丸は慣れた様子で近付く。


「宮城、お前はまたそこで寝てたのかよ。寝るなら保健室か矢吹先生がいる化学室にしろよ」

「保健室では諭吉委員長に怒られたばかりだし、今日はなんか化学室は美化委員会が使うとかで香織ちゃんに追い出されちゃったんだよ」

「というか、出てこんかい。本当にお前は自分で動くの嫌いすぎるやろ。将来の夢がマダムに養われるヒモ男と言うだけあるわ」


 古寺と吉丸が猫の抱き枕の頭を引っ張る。それでは中身の綿がはみ出るのではないかと危惧した真琴だが、良い素材を使っているのか予想以上に伸びた。

 そして釣り糸で引っ張られる力のない魚のような体勢で出てきたのは、真琴も驚くほどの美青年だった。女性ならば確実に目を奪われるほど、下手したら茨木よりも整った顔立ちである。

 眠そうに微睡んだ水色の瞳、白い肌の上を滑るように落ちる長い黒髪。それでいて女性らしさとはかけ離れていて、男性特有の色気と噛み合わさって相乗効果をもたらしていた。


「まこ坊、こいつは生徒会の書記やってる二年のリンドウ・宮城や。大体何処かで寝てる奴やし、基本は役に立たんと覚えとき」

「よろしくね、えっと……まこ坊くん?」

「スメラギ・真琴です……宮城先輩、図書室は寝るところじゃないですよ」

「ありゃあ?うーん、見逃して。僕も今の癒着的なの忘れるからったぁ!?」


 吉丸に頭を軽く小突かれ、古寺には軽く背中を蹴られ、颯天には脇腹を靴先を軽く蹴られた宮城は、どこまでも軽薄な調子で反応していた。

 掴み所がない浮雲と言うべきか、それとも信用ならない海月と言うべきか。冷房が効いた部屋でも健やかに寝られるように白い長袖のカーティガンを着ているあたり、他の用事がなかったのは明らかだ。

 そして猫の抱き枕だけは絶対に離さず、だからといって執着している様子もない。長い髪には寝癖一つないが、それを気にすることもないまま呑気に欠伸している。


「本当にええ加減にせいよ、宮城。今年の交流会でものらりくらりと一人で勝手に寝続けて、ワイらがどんだけ苦労して怪我したと思ってるんや?」

「お前の能力保有プレートをもう少し活用していれば被害は減ったというのに、今年は武蔵が一年の面倒を見ているのも忘れてグースカと……」

「そうだぞ。壱膳もブチ切れて、今年の予算会議は酷使してやるとか恨み言吐いてたの忘れたのか……ああっ!?お前、壱膳から逃げてここで寝ていやがったな!!」

「吉丸、大声厳禁……ああ~、壱膳に連絡は止めて、ひいひい言っちゃう~、足腰立たなくなっちゃう~」


 わざとらしい発言で相手の動きを止めようとしている宮城だが、その努力も空しく吉丸の電子学生証から激務中と思われる青年の声が低く響き渡る。

 そこで逃げる様子を見せるかと思っていた真琴だが、特に動じた様子もなく、むしろ潔く諦めて捕まるまでは楽していようと涅槃の体勢に近い寝姿を披露する宮城。開き直っている、というよりはそれが基本らしい。


「壱膳が今後輩を連れて迎えに来るからな。どうせ動く気はないだろうけど、逃げるんじゃないぞ」

「は~い。あと五分くらいは寝れるってことだし、夢の世界よこんにちは、と」

「お、大物ですね……宮城先輩」

「まこ坊、惑わされたらアカン。こいつはただのグータラクズ、三年寝太郎が愛読書の真性の怠け者なだけなんや」


 呆れたような口調で古寺が説明し、その背後では颯天が大きな溜息をついていた。同級生のようだが、色々と二年生は濃い面子だということがわかる光景であった。

 そしてきっかり五分後。眼鏡をかけた青年が静かに、それでいて迅速に図書室へと入ってくる。怒鳴ることもなく、無言で寝ている宮城の首根っこを掴んでそのまま連れて行く姿は馬鹿犬の面倒を見る飼い主に似ていた。

 ただし真琴の視線は眼鏡をかけた青年と一緒に到着した茨木に注がれていた。五月の交流会以降、どうにも茨木との間に微妙な溝を感じ取ってしまい、敬遠している。


 茨木は軽く一礼した後、黙々と宮城の両足を掴んで浮かせた状態で歩き始めたので、言葉を交わすということはなかった。それでも深紅の瞳に自分の姿が映ると、真琴は居心地の悪さを感じる。

 そして生徒会の三人が去ったという事実に気付いた真琴は、すっかり存在を忘れていた鈴木の姿を探す。すると鈴木も待っていたらしく、視線が合うと穏やかに微笑んできた。


「あ、真琴くん。君とは読書の趣味が合いそうですし……また今度お話しましょう」

「ありがとうございます。鈴木先輩も委員会活動頑張ってください」

「あ、そうですね。じゃあ吉丸くん、僕は地下の補修部屋に戻るから、受付対応よろしく。あと三十分で終わりだしね」

「了解です、委員長。そういうことだから古寺達も帰り支度を始めた方がいいぜ。雨はまだ止みそうにないけどよ」


 吉丸に促され、真琴は慌てて電子学生証で時間を確認する。委員会活動には時間が決められており、それが必然的に学校内で活動できる時間となる。

 初夏のため六時まで許されているが、もうそんなに時間が経っていたのかと真琴は驚いた。日が沈むのが遠くなっても、誰かと話して活動するだけで光陰矢の如しを明確に表現するような体感時間。

 覗見に軽く別れの挨拶をしつつ、図書室から出ていく真琴と古寺達。雨雲の空は朝と変わらないが、雲向こうの太陽が少しずつ沈んでいるのがわかるように薄暗くなっていた。


「こりゃ教典委員長も十文字委員長にこってり絞られているようだし、ワイも小鞠の見舞いがあるんでここで帰るわ」

「わかりました。今日はありがとうございます。教典先輩には……本当に気をつけます」

「せやな。それと……絶対に小鞠のことはあん人に告げんといてな!!絶対や!!男の約束やで!!」

「ついでに風花のこともな。ちょっと風花の妹はあの人に知られると色々面倒が起きそうなんでな」

「わ、わかりました」


 古寺達の力強い言葉に頷き、手を振る二人に対して同じ動作をしながら真琴は学校内を一人で歩く。なんだか先輩に多く出会った日だと、名前と容姿を覚えきれているか不安になる。

 特に図書委員会委員長の鈴木は、今の段階で顔が朧気である。とても良い人だったという印象は残っているのだが、それ以外に特徴があるかと言われたら言葉に詰まってしまうほどだ。

 むしろ周囲にいた人達が濃いのではないか、と思い直した真琴だったが、そうすると自分は意外と印象が薄い人間なのではないかと窓硝子に映る自分の姿を見つめることに。


 黒い髪に赤い目。育ちが良さそうな坊ちゃん風と言われることが多いが、確かに気の抜けた顔だと改めて確認する。赤い目は煌家の血を強く継承している証だ。

 雨雲から身を守るのではなく、鬼達から守るために展開されたドーム状の結界は今日も半透明なまま空を覆っている。雨を遮ることもなく、イケブクロシティはいつもより静かな雰囲気だ。

 昇降口に向かう廊下を歩いている最中、女子トイレを見かける。男子校ではあるが、教員には女性もいる。そのため各階に必ず一つ、そして職員室近くに一つと必ず女子トイレは設置されている。


 一生入ることはない場所ではあるが、なんとなく目を向けてしまう。するとわずかに女子トイレの扉が開いていた。横にスライドする形式なので、誰かが閉じ忘れたのかとも思う。

 しかし閉めに行くのも変なので、そのまま通り過ぎようとした真琴は視線を感じた。怖気立つような感覚を辿って振り向けば、女子トイレの扉を掴む女の子の小さな手が見えた。

 もちろん男子校であるアミティエ学園に女児がいるはずもない。なによりその手はあまりにも小さく、そして水に濡れていた。思い出すのは吉丸が冗談で口にしたような話題。


 アミティエ学園七不思議。


 あまり怪談や幽霊談議に興味がなかった真琴だが、信じるかと言われたならば信じてはいないけどいそうな気はする、というとても曖昧な性格をしていた。

 なにより目の前でそれらしい現象が起きている。七不思議の内容など一つも知らない、あえて言うならば先程一つ知った程度、である真琴が対処できた方法は一つ。

 全速力でその場から歩いて逃げる。廊下なので念のために走ることはしなかったが、少しでも早く離れたいために競歩のような速度で昇降口へと一直線に向かった。


 その夜。密かにトイレに行くことが怖かったことは、真琴一人の秘密として保持することはまた別の話である。

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