一年生予算会議編

三途の川でさえ六文銭なのに

十九番:梅雨

 六月三日。しっとりとした雨粒が傘を打つ音が響く中、スメラギ・真琴は衣替えだということを忘れて慌てて寮への道を走っていた。

 アミティエ学園に入学するまで学校生活など経験しなかった彼にとって、学校行事ともいえる衣替えが常識であることを知らなかったのである。慌てて夏服の白い半袖シャツを取り出し、赤いベストをその上に着る。

 ベストには校章の三日月の船に桜を浮かべたデザインの金糸刺繍が施されており、着るのは自由である。ネクタイも着用自由であり、真琴は好奇心から鞄の中にネクタイをしまう。


 実はラフな格好を一度試してみたかった少年心が疼いたのだが、余裕をもっていたはずの登校時間が終わるのを感じ取った真琴は、ベッドの上に脱ぎ捨てた赤いブレザーをハンガーにかけるのを諦めた。

 念のために部屋の中に置いてある鏡で少し容姿を確認する。黒髪に赤い目。いつも通りの自分が映っているかと思いきや、湿気で直しきれなかった寝癖が再度跳ねていることに気付く。

 その部分を念入りに手櫛で直し、ローファーの内部に水が入ることも厭わずに、折りたたみ傘を片手に学園行きのバス停へと急ぐ。すると同じく遅刻しかけているフジ・裕也と並走することに。


「おはよう、真琴!聞いてくれよ、広谷が先に学校行きやがった!!」

「寝癖も直せないほど遅く起きた方が悪いと思うよ!?」


 見捨てられたことに抗議の声を上げる裕也に対し、真琴は彼の爆発したような明るい赤髪に視線を向ける。青い目はその視線に耐え切れず、明後日の方向を見つめた。

 半袖シャツの下に派手な柄模様のTシャツを着ている広谷は、暑がりなのか黒いズボンの裾まで膝下まで捲り上げていた。そのおかげなのか雨水を跳ねて汚れるのは白い運動靴のみ。

 出発直前のバスに飛び込むように乗り込んだ二人は、同じように息を荒げている生徒達を見つける。特に赤いブレザーを着たまま暑そうに手で煽いでいるマナベ・実流などは注目してしまう。


「……裕也、衣替えって色々あるんだね」

「俺を見ながらしみじみと呟くんじゃねぇ!!今日は雨で寒いから長袖着てるだけなんだよ!!」


 怒鳴るようにバスの中で大声を出した実流だが、そのせいでさらに視線を集めてしまう。中には聞かれないようにと努力しつつも、耐え切れずに吹き出して笑う生徒もいる。

 そのことが気に入らなかった実流は喧嘩を売りに行こうとしたが、別の座席から伸びてきた腕に服を掴まれて止められる。音もなく立ち上がったのは二年B組のカジキ・佑助だ。

 若侍のように黒く伸ばした髪を頭の上でひとまとめにし、凛々しい黒目も涼やかだった。なにより実流と同じ体育委員会所属であり、副委員長でもある。昔やんちゃしていたのを、真琴は写真を通じて知っている。


「体育委員会所属が笑われたくらいで闘気を放つな。大体、衣替えを忘れたお前が悪い。精進が足りんぞ、精進が」

「ぬぐっ!?あ、明日からはちゃんと夏服に着替えるから、別にいいだろうがっ!うざいんだよっ!」

「……忠告を一つ。今日の委員会活動にて、委員長自ら服装チェックと今までの登校履歴から遅刻が一回でもある者は厳重注意と特別訓練追加だ」

「はあっ!?あ、畜生!!やばい!!」


 思い当る節が多すぎる実流は顔を青ざめさせた。そんな実流を前にして、仕方ない奴だと佑助は小さく溜息をつく。それらを眺めていた真琴は流石体育委員会と感心した。

 いずれ討伐鬼隊に入った際に恥ずかしくない礼儀などを身に着ける委員会、それが体育委員会である。そのため熱血指導なところも多く、問題児は大抵そこに放り込まれる組織だ。

 だが真琴は少し気になったことがある。今乗っているバスは遅刻を免れるギリギリの時間で運行している物であり、そこに佑助が乗っている理由。そして長い黒髪が濡れて汗だらけの首筋に張り付いているのに気付く。


「あの、もしかして佑助先輩も衣替えを忘れていて、慌てて着替えに戻ったんじゃ……」

「………………しょ、こほん。そんなことはない」


 噛んだ。長い躊躇いを見せた後に盛大に噛んだ体育委員会副委員長を目の前に、誰も言葉を発することができなかった。つまりはそういうことである。




 鬼が蔓延る2222年。人々は保護区と呼ばれる中で生活し、少しでも脅威を減らすために討伐鬼隊と呼ばれる者達が鬼を退治して回る時代。

 アミティエ学園とは討伐鬼隊にいずれ入る少年達の育成を目標とした男子校である。共学ではない理由として、鬼は女性を好んで襲う習性があるため、少しでも被害を減らすために男性を戦闘要員にしている。

 もちろん討伐鬼隊の中でも女性隊員もいるが、その数は少ない。なので少しだけ湿気が強く暑い日は、アミティエ学園は憂鬱な空気に包まれる。どこを見ても男子生徒だらけなのである。


「あ~……画面の中に入り込める技術は、二百年経っても実現しない現実が辛いでござる」

「僕にはよくわからないけど、とりあえず覗見が湿気で頭から茸生えそうなのかとは思うよ」


 昼休み。雨のせいで学内で食事を余儀なくされた真琴は、同じ一年生だが別クラスのランバ・覗見と会話していた。汗をかいた男子生徒が集まる一年A組教室でのことだ。

 その独特な臭いは確かに食事量を半減させる。普段は三個くらい食べられるパンが、まだ一個目の途中なのである。制汗スプレーを使う者もいるが、その匂いと汗が混ざりあって、化学変化でも起きているのではないかという新境地へと到達する。

 要は気力が半減する臭いが教室に立ちこもっているのだ。窓を開けたくても外は雨。冷房と空調は効いているが、育ち盛りの男子が出す汗の量は尋常じゃない。


 覗見は夏用の毛糸で編まれた白ニット帽に愛用のカーキ色ヘッドフォン、流石に袖あまりの服は暑いと判断したらしく、袖なしの緑色の上着を着ている。微妙な校則違反である。黒い猫目の視線は電子学生証で遊んでいる美少女ゲーム画面に注がれている。

 白シャツも赤いベストも着ておらず、上着の下は黒のタンクトップ。逆に二の腕が寒そうだと真琴などは心配になるのだが、本人は気にせずに短い髪を無理矢理ゴムで縛ったせいで、一部分に集中する汗にうんざりしている。

 ひっつめに近い黒髪に仕方なく腰につけていた小型鞄から取り出した制汗スプレーを吹きかける。女性用とは違う消臭だけを目的としたものだが、微妙に粉っぽいことに真琴は咽た。


「人が食べている横で制汗スプレーを使うな」

「遮音殿はなんでこんな状況下でも普段通りというか……もしかして寒がりでござる?」


 四個目のパンを手にしているアイゼン・遮音は長袖の白シャツを着ていた。シャツの袖長さについては個人の自由ではあるが、ネクタイもきっちりと第一釦まで隠れている。

 金髪だが、前髪だけが意図的に赤く染められている。青紫の瞳は最後に残していたメロンパンを見つめており、一体細身の体にそれだけの量が隠れるのか。赤いベスト上からでは腹の膨らみは確認できない。

 そういえば交流会で目撃した寝間着姿も長袖であったことから、冷えるのは駄目なようであることを真琴は思い出す。遮音は冷めた目で小さく呟く。


「紫音が夏になるとうざいくらいに半裸になるからな。酷い時はパンツのみだ」

「人を露出狂みたいに扱うな!!」


 地獄耳なのか、それとも偶然教室の前を通ったのか。遮音の双子の兄である紫音が勢いよく横開きの扉を開けた。あまりの強さに扉が嫌な音を立てたくらいだ。

 長い銀髪に意図的に後ろ髪の先端を青く染めているが、今は暑いらしく狼の尻尾のようにまとめている。赤紫の瞳は憤慨で燃えているようで、相変わらず顔がそっくりながらも対照的な色味の双子である。

 半袖ではあるが、第二釦まで開けている。その下にはなにも着ていないようで、日で焼けた褐色肌が見えている。手に綺麗な布で包んだ弁当箱があることから、食べ終わって教室に戻るところだったのだろう。


「あと人が折角作った弁当を忘れるな!おかげで茨木と二人で三人分の食事を食べる羽目になったんだぞ!?」

「男子高校生手作り弁当……なんで、なんで紫音殿は男でござるか!?血の繋がらない妹の失敗卵焼き入りお弁当ならば、拙者は喜んで食したというのに!!」

「貴様は俺をなんだと思っているんだ!?大体俺は大変遺憾なことながらこいつと血の繋がった双子の兄なんだ!不本意なことにな!!」

「俺だって好きで弟してるわけじゃない。お前が勝手に料理しているだけだろう。まあ……美味しいけど、悔しいことに」


 兄弟喧嘩に発展するかと思った矢先、遮音の小さな美味しいという言葉に紫音の動きが固まる。どうやら滅多に言ってもらえない単語のようだ。


「そういえば交流会の時の紫音のカレー美味しかったなぁ。遮音は良いね、毎日食べれるんでしょ?」

「……毎日ではないが、まあな。こいつにとって炊事や家事はストレス発散法だからな。ただし菓子が作れない……情けない」

「料理音痴であるお前にだけは情けないとか言われたくないぞ。いいか、明日はちゃんと弁当を持っていけ!あと俺が誤解されるような言動は止めろ!」


 用は済んだと言わんばかりに足音を立てながら教室を出ていく紫音の背中を見送り、一人っ子である真琴は羨ましさしかない。周囲の兄弟は色々とあるようだが、基本的に仲良しに見えるのだ。

 入れ違いのようにハセガワ・広谷が教室に戻ってくる。忘れ物をしたらしく、自分の机へ向かう。鞄からレースのハンカチを取り出した時、若干教室の中が騒めいた。

 柔らかい茶色の髪は年頃の少年にしては伸びており、柔らかい眼差しの黒目も湿気以外の要因で潤っている。白シャツは半袖なのだが、釦の周囲辺りにフリルレースが若干ついているのは気になった。さらに赤いリボンタイである。


 さらに最近はアロマオイルにはまったらしく、爽やかな柑橘系の匂いが彼から香るせいで、教室内にいた男子生徒数人が困惑する事態に。真琴もどう感想を呟けばいいかわからない。

 ベストは着ていないが、白シャツの下が素肌なのは恥ずかしいということで、華やかな花柄のシャツが雨水で透けて見えた時。学校の玄関口で悔しそうに壁を叩く男子生徒もいたらしい。

 衣替え。男子生徒だけでもこんなにも賑やかなのだから、女子生徒がいたらどうなっていたのだろうか。好奇心は尽きないが、見ることは叶わないと真琴は静かに諦めた。


「そういえばそろそろ予算会議でござるな。委員会同士で激しく争うと話題の」

「……え?ちょっと待って。地獄の亡者会とは聞いてるけど、激しく争うってなに!?」

「それは我の口から語ろうではないか!!」


 天井から聞こえてきた声に、真琴はすぐさま座っていた椅子から離れて壁まで退避する。嫌な予感を覚えてのことだが、遮音と覗見も全く同じ行動をとった。

 そして天井板を外して落ちてくる影が一つ。埃を纏って現れたせいで、近くにいた生徒達が被害を受ける。だがそんなこともお構いなしにエゴコロ・若君は床に堂々と着地した。

 相変わらず行動が読めないが、大体は被害を伴うことを学習した真琴は溜息をつく。悪意はないのである。全て善意であるが故に、逆に扱い辛いことこの上ない。


 夕焼け色の瞳は爛々と輝いているが、燃えるような赤毛には埃と一緒に蜘蛛の巣が貼りついてる。額に巻いた白い鉢巻も薄汚れている始末だ。

 白シャツの裾を長く改造し、シャツコートというべき長さになっている。しかも袖は肩まで捲り上げており、ねじり鉢巻きのような状態である。その下は黒のタンクトップに紫色の半ズボンと変わらず。

 ただし靴がビーチサンダルになっている。水を吸っているらしく、歩くたびに床との摩擦で間抜けな音が出ているが、近づく対象とされた真琴はそれどころではない。


「わーそうだ僕用事があったからここは速やかに即座に脱兎と言われても仕方ないけど予鈴が鳴るまでは姿を隠して今起きたことは見なかったことに」

「まあ待て」


 一息で言い訳を並べた真琴のことなど気にせず、若君は晴れやかな笑顔で肩を掴んだ。悪い奴ではない。しかし世の中には善人でも関わっていけない人物はいるのである。

 こうなったら巻き添えにしようと遮音の腕を掴んだ真琴。流れるように窓から逃げ出そうとした覗見の服を掴む遮音。そして窓から半端に身を乗り出した体勢で停止した覗見。

 若君と同じC組である二人は、その問題性を把握している。腕を振りほどいて逃げてもいいのだが、下手すると若君に鬼ごっこと誤解される傾向がある。そうなると貴重な昼休みが台無しだ。


「……手短に話せ」

「任せろ!英雄を目指す者として、要点やあらすじは簡潔にということを守ろうではないか!!」


 心底嫌そうな顔をしている遮音の言葉を真っ向から受け止め、明るく解釈して話を進めようとする若君。しかし覗見にはわかっていた。これは長くなるフラグでござる、と。


「まずは委員会発足の歴史からだな!最初はそれこそ多岐多様に渡り、同好会や部活動までアミティエ学園には存在していた。生徒達は二足の草鞋で活動していたことになる!」

「あ、そうなんだ……って、そんな初期からの話は意味ないよね!?」

「いやいや、あまりにも多くの活動組織が多いため、限りある総予算の分配が雀の涙ほどになってしまう。そこで生徒達は考えた、横にいる奴の組織を潰そうと!!」

「突如血みどろ展開!?ラノベだってもう少し段階を置くと思うよ!?」


 最近は図書室で昔のライトノベルと呼ばれる分野の小説を読んでいる真琴は、思わず若君の語り草にツッコミを入れてしまう。

 覗見と遮音はうんざりした顔で、昼休みが終わるまでに話終えれば僥倖かと考える。真琴と違って二人は予算会議についての知識は多少持っていた。


「そして学園内蠱毒の開始!!流れる血、迸る悲鳴、暴力による支配、最後に残った者が最強となり、最終的に予算を総取り展開!!そこで支配階級ヒエラルキーは完成した!!」

「な、なんかちょっと少年漫画みたいな話に胸がときめいた自分が嫌になりそう……というか学園の話だよね!?」

「予算を総取りした者とその仲間達が生徒会を立て直し、最後まで残った八つの委員会を残したのだ!なにせ時勢を考えて部活動は先細り、弱小委員会はその八つの委員会に吸収されたのだからな!!」

「どうしよう……詳しく聞きたくなってきた。でも絶対長くなる話だよね、これ」


 手に汗握り始めた真琴の背後で、覗見が溜息をつきながら真琴の肩を指先で突く。小さな感触に振り向いた矢先、幼子を諭すような笑みを浮かべた覗見が告げる。


「主殿、それ大分脚色されて嘘になっているでござるよ」

「ええっ!?そんな……わくわくしたのに……」

「昔の生徒会が主導権を握って多くの部活動を失くし、委員会を合併統合したのは真実でござるが……そんな血みどろ展開は主殿が所属している風紀委員会が許さないということに気付いてほしかったで候」

「あ」


 思い出したように真琴は間抜けな声を出した。紫音も一緒に所属している風紀委員会。その主な活動は校内の規律を守ることである。その中でも一番重要なのは、決闘以外での暴力や私闘は禁じているということだ。

 生徒間で問題が起きた時に一対一の形式で戦うことはあるが、それには申請が必要である。手順を踏むことで多くの準備と安全性を確立するのであり、また頭を冷やす時間を与えるという意味合いもある。

 しかし手順を省略する者、一対一の形式を嫌がる者、他にも様々な理由で別の手段を選ぶものは多い。そういった者を取り締まるのが風紀委員であることを所属しているはずの真琴はすっかり忘れていたのだ。


「うむ。そう言うことだな!事実は小説より奇なり、さりとて小説よりも刺激的とは限らぬということだ!いい勉強になったか?」

「とりあえず若君の勢いに流されたら駄目だってことは学んだよ。それで……どうして委員会同士が予算会議で争うの?」

「結果的に、というところだな。別に誰もが争おうとは思っていない……しかし悲しいかな。人は争う生き物。英雄とは闘争より生まれる存在。だからこそ……」


 鳴り響く予鈴により、若君の言葉は中断された。そして颯爽と去っていく若君の背中を眺め、真琴は立ち尽くす。一番肝心な話に辿り着けなかった。

 振り向けば覗見や遮音も自らの教室に戻る準備を始めており、他の生徒達も今の出来事ななかったかのように振舞い、次の授業の準備を進めている。


「……いやだからさ、なんで争うの?」


 その問いに答える者はいなかった。とりあえずは交流会並みの嫌な予感は覚えた真琴は、小さく溜息をつきながら授業の準備を始めた。




 放課後、図書室に待ち望んでいた新刊が入ると電子学生証にメールが来た真琴は歩いていた。しかし途中で廊下を走ることになる。全く知らない相手が追いかけてきたならば、警戒心から逃げるのは仕方がないことだろう。

 白髪が混じった黒髪の上にはハンチング帽、ぎらついた灰色の瞳、赤いカーティガンの袖を首元で縛っており、一昔前の悪徳プロデューサーか三流記者のいやらしさが漂う雰囲気。

 学園備品のタブレット型PCではメモ帳を起動しており、タッチペン機能も付けた小型レコーダー。取材したいと声かけられた瞬間、慌てた様子で二年生の古寺から逃げろと言われて早三分。


「待ちたまえ、チミ!!ぼくちんの取材を拒否するとは、報道規制だ!!横暴な圧力だ!!言論の自由を侵害している!!報道とは自由だぁあああああ!!」

「なんの話かはわかりませんが、僕はこれから図書室に行くだけなんです!!すいませんが、急いでいるので!!」

「図書室……あの有名なスメラギ家の御子息が図書室で猥本を探していると校内新聞の一面記事にすれば、ダウンロード数が倍に!?」

「普通の本を借りるだけです!!とりあえず古寺先輩が逃げろと言った意味が今わかりました!!」


 とんでもない誤情報を流そうとしている相手に対し、真琴は涙目のまま階段を跳ぶように降りていく。しかし相手も手摺を利用して滑りながら追いかけてくる。

 その身のこなしや体格から、三年生かとアタリはつける。校内新聞とは電子学生証の学内専用アプリで読むことができる、広報委員会自作の電子新聞である。真琴も一度だけ見たが、微妙な内容に首を傾げたのを覚えていた。

 どうにも誇大広告というが、安そうな印象が強いのである。とりあえず煽っておけばいいだろう、という炎上商法に似たやり口だと覗見が溜息をついていたことも思い出す。


「まあいい!図書室に先回りさせてもらうぞ、チミ!ふははははははは!!ぼくちんの手にかかればどんなことだって……」

「あおっとぉ!!唐突もなく手が滑って一本背負い!!」


 真琴を追い抜いて廊下を爆走していた青年だったが、曲がり角から出てきたナガラ・空海がわざとらしい態度のまま青年の腕を掴んで床へ叩きつけた。

 三年A組で風紀委員会の委員長でもある空海の登場に、真琴は味方ができたと安心して少しずつ速度を落とす。同じ委員会の委員長の登場なのだから安堵するべき状況だ。

 しかし背後から真琴の肩を掴んだコゲツ・慎也が厳しい目で空海を睨んでいる。慎也は二年B組、そして風紀委員会の副委員長である。つまり風紀をまとめる二人が出てきたという事実。


「なにをするだぁっ!?傷害未遂、いやここは業務執行妨害の罪で訴えてもいいんだぞぉ!?ぼくちんはやられたら百倍返しがモットーだからネ!」

「いや、手が滑ったんだって。ついでに足も滑ったんでレコーダーもタブレット型PCも破壊済み。さらに言えば僕の後輩が嫌がっているのを無理矢理追い回したとして、ストーカー容疑をこっちからかけてもいいけど?」

「器物損害ぃいいいい!!しかしいいのかな、空海S?ぼくちんの手にかかれば、チミの禿げ隠し&ヅラ疑惑が全世界ネットワークで広げることも……」

「三年B組所属及び広報委員会委員長アソウ・教典たかのり、一年の頃に僕の薄毛疑惑を大体的に広げた後の決闘内容を忘れたのかな?ん?」


 空海は笑顔であった。ただし反抗を続けるために言葉を吐き出し続けていた教典が無理矢理口を閉ざした。六月の蒸し暑い空気が一転し、底冷えする怖気を真琴は感じ取った。

 そしてやっと真琴は追いかけてきた相手の素性を知ることができた。恐らく真琴のために空海がわざと仰々しく説明したのだろう。そこへ息を荒げた古寺と颯天が真琴の背後から現れる。


「まこ坊、下手なこと口走ってないやろな!?いいか、あの人に興味持たれたらあかんねん!!なにされるかわかったもんじゃあらへん!」

「古寺の言う通りだ。二枚舌ならばまだ舌を引っこ抜けばいいと思うが、奴には文字を書く腕も、言葉を広げる口も、人の好奇心を刺激する頭脳もある。全身広告塔とはああいうことだ」

「ちなみに三年生は必ず一回はアレに痛い目見せられて、大きな決闘騒ぎを起こしている。風紀委員会のブラックリストにも載っており、万桜先生も要警戒している」


 とりあえず誰もフォローを入れてくれないという点から、真琴は教典を危険人物だと認識する。おそらく若君よりも悪質な類であり、悪意も充分込められているのだろう。

 窓硝子に穏やかな雨音が叩く音が響く中、廊下では空海と教典の言い争いが激しくなる。特に教典の声は男性にしては癖が強く、聞いていてあまり気持ちいいものではなかった。


「とりあえず広報委員会顧問のサザヤ・竹藪先生からは、隙を見て学校備品の悪用を防ぐための破壊をしてくれ、と頼まれてね。新品が欲しければ予算会議でぶん取ってこい、だそうだよ」

「ちぃっ!!竹藪Tめ!!こうなったら年齢詐欺についてでっち上げ、あの外見が嫌でわざと若く見せていることを能力保有プレートを利用しての情報拡散を……」

「反省しろ!!もう、本当に君ほど悪質な人間は中々いないよ!?十文字に頼んでその精神叩き直してもらおうかっ!!君と関わっていると苛々と気持ち悪さで吐きそうだ!!」

「ぬわんだとぉっ!?大体十文字Sの訓練による精神メディカルはこれで二十六回目だ!それでぼくちんの鋼の精神が治ると思うのか!?ぼくちんは理不尽な政治には負けない記者道を突き進む戦士としてなぁ……」

「受けた後は一ヶ月は用心するくせに威張るんじゃない!!ネット社会が生み出した邪悪とはまさに君のことだ!匿名性を利用した隠れ蓑を使って掲示板のデマ流しと炎上についても今回は追及してやる!!」

「何故ばれた!?はっ、源内Tだな!?複数のアカウントと機器を利用して誤魔化したのを逆手に取り、利用経歴時間と衛星通信アクセスキーを遡って特定したなぁああああああ!!!!」


 怒り心頭の空海に引きずられ、教典はいつまでも叫ぶように抗議の声を上げていた。大きな金切り声だったが、それも距離が遠ざかっていけば掻き消えてしまった。

 なんだか聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がする真琴は、背後で大きく息を吐いた三人の先輩の顔を眺める。全員が直接関わっていないというのに疲労困憊な状態だ。

 普段は穏やかな空海を怒らせるだけでなく、あそこまでの強硬手段を取らせるのも珍しい。つまりは空海があそこまでしなくてはいけない相手なのだろうと、真琴は遠くへ行ったことに安堵した。


「うーん、あん人は十文字委員長の手から逃げてでも特ダネ追うために逃げ出す可能性あるしなぁ……まこ坊、経緯説明のためにワイも図書室に同行してもええか?」

「あ、はい。大丈夫です……それにしても凄い勢いの人でしたね……パワフルというか、なんというか……ええと」

「無理して褒めようとするな。アレに関してはこう覚えとけ、記事にされないように逃げるべし、と」

「俺は空海委員長と共に見張りをしてくる……気が重い」


 慎也から聞くとは思わなかった言葉に、真琴は心底驚いた。戦うのが大好きで、普段からその隙を窺っているような慎也が関わりたくないと公言したような物だ。

 そして同情するように古寺と颯天は憐みの視線を慎也の背中に向けていた。よく見れば慎也はネクタイとベストを着用していないが、夏服として標準的な格好をしていた。

 どちらかと言えば半袖とはいえ灰色のパーカーを着ており、フードで顔の上半分を隠している颯天の方が校則違反になるかもしれないレベルである。それ以上が古寺ではあるが。


 夏になったので、半纏ではなく薄手の上掛けにしたらしい。アミティエ学園には上履きはないので、やはり古寺の靴は革靴ではなく草履のままだ。そして腰にはなにも巻いていない。

 しかし草履の方が涼しそうだと真琴は若干羨ましく思う。夏、しかも湿気が強い梅雨では靴下にローファーはうっとおしさを感じる時も多い。裸足は靴の臭いが気になるため、真琴には挑む勇気がない。

 夏の衣替えで普段見慣れている生徒達も、服装が変わるだけで新鮮だった。梅雨も少し楽しいかもしれないと思い始めた真琴は、これからやってくる予算会議が大荒れする予感の一つを目の当たりにしながら、綺麗さっぱり忘れたのであった。

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