十五番:温泉

 緑色のにごり湯。効能としては痛みに関することから美肌効果まで。幅広い泉質をしており、B4保護区オニオシの名所でもある。

 近くに火山があるため、火山岩で取り囲んだ温泉に浸かるのは男子高校生のみ。一種の暑苦しい光景で、誰も得しないが、入っている本人達は大はしゃぎだ。

 真琴は腰にタオルを巻いた状態で入るのだが、多くの生徒は隠すこともせずに飛び込むように温泉へ進んでいく。傍にいる覗見は広谷から借りた可愛い髪飾りで頭をまとめている。


「ああ、男子校が恨めしいでござる……普通ならば温泉イベとは混浴であるべきでござる」

「僕もラノベで温泉シーンの予習したけど、それって大抵主人公が殴られたり焦るオチだよね。僕はゆっくり浸かりたいよ」


 残念がる覗見の言葉に、苦笑しながら答える真琴。お坊ちゃん気質のせいか、女性の裸よりも温泉でのんびりしたいと考えている。

 しかし広い温泉で、いくつか用意されてるとはいえ百人弱の男子高生がお湯に詰め込まれているのだ。多少気後れし、足が中々進まないのも仕方ない。

 中には桶を使って下品な一発芸をする者もおり、注意してくれる相手がいないとここまで解放的になるのかと、真琴は若干カルチャーショックを受けていた。


「ふわぁ、これがオニオシの温泉……美肌効果あるらしいけど、僕達には関係ないね」

「……そうでござるなぁ」


 胸の上まで長タオルを巻いた広谷に対し、遠い目で返事をする覗見。髪も軽く髪飾りでまとめており、タオルを固定する手の位置も胸の上。

 なにより温泉の熱気で赤らんだ頬や白い肌、通りかかる男子が一瞬女子かと疑う仕草に、真琴でさえどう反応していいかわからない。女子力という単語が炸裂している瞬間である。

 その横を無関心に遮音と紫音が通り過ぎていく。今度は双子の対比に思わず視線を送ってしまう。おそらく一卵性なのだが、あらゆる面で発育が違うのだ。


「遮音と紫音……あの、肌の色ってどういうこと?」

「紫音のは日焼けだ。毎年夏になると日中でも下着一枚になって筋トレするからな。傍迷惑だ」

「そういう遮音こそなまっちろい肌をしている。もう少し筋肉をつけろ、見苦しい」


 軽い口喧嘩を始める双子。褐色肌の紫音に、白い肌の遮音。長く伸ばした銀髪に後ろ髪の先端だけを青く染めた紫音に、短い金髪に前髪だけを赤く染めた遮音。筋肉質の紫音に、細身の遮音。

 対照的すぎるが、顔だけはそっくりなのである。ただし紫音の目が赤みがかった紫に対し、遮音の目は青みがかった紫である。最早意図的に相手と反対になっているようにしか見えない。

 ただしお互いに腰にタオルを巻いている。紫音は髪が湯につからないように私物の髪ゴムと黒のバレッタでまとめ上げている。ただし一部の生徒は、バレッタを付けているせいで後ろ頭限定で女子に見える、ただし首から下は筋肉と囁いている。


「はいはい、喧嘩はそこまで。早く体洗ってお風呂に入ろう」


 二人の喧嘩を止めるように茨木が声をかける。深い緑の髪に深紅の目。白い肌もきめ細かく、それでも年頃の男子らしい体格をしている。

 それでも漂う色気を感じ取った敏感な者が数人視線を熱烈に送るほどだ。その視線の意味がわかる覗見は辟易した顔で項垂れている。


「ふん、タオルで隠すような体をしてい……る……」


 さり気なく通りかかった振りをして真琴を馬鹿にしようとした実流だが、普段は服で隠されている真琴の体を見て愕然とする。簡単に言えば、実流より逞しい体をしているのだ。

 うっすらついた腹筋に、脂肪を落としたが故の筋肉質な手足。食生活も規則正しいため、全体的にバランスが取れた肉体。大人びてきた顔と同じように、成長途中を感じさせる。

 実流は気付かれないように自分の体を見下ろす。筋肉はあるが、体の表面に現れるほどではない。平均的な、平凡とも言える肉体である。


「……今回は、不問にしてやる」

「なんでそんなに上から目線なの……」


 大人しく引き下がった実流の真意がわからず、気持ち悪そうな者を見る目で見送る真琴。明日は雨かもしれないとも考える。

 そんな実流も、走ってはいけない場所で全力疾走してきた裸の若君に首を掴まれ、盛大に温泉へとダイブすることに。上がる水飛沫が真琴達の体にかかる。


「ふははははは!温泉とは気持ちいいな!!」

「ぶべっ、ごはっ、この馬鹿!!湯を呑んじまっ、た……」


 若君に怒ろうとした実流は、頭から湯に濡れた巨漢を見上げる。漢のフェロモンを漂わせる、生徒会副会長の武蔵である。何故か風呂場でもサングラスをしている。

 胸毛が生えた胸筋も見事だが、実流と若君の視線は臍よりも下の位置である。タオルで隠していない箇所に、今まで湯に浸かっていたであろう痕跡。そして手足にも男らしい体毛。

 実流は言葉もなく口元を押さえ、慌てて脱衣所へと逆戻りする。見ていた側も顔を青ざめさせる内容。要は武蔵が肩まで浸かっていたお湯を飲んでしまったのである。


「おいこら!風呂場で走るんじゃない!!俺ちゃんみたいに堂々とゆっくり浸かれ!!」

「武蔵先輩の武蔵先輩はマンモスヘビー級ですね!!拝んていいですか!?」


 武蔵の姿に感動した男子生徒数名が両手を合わせて拝み始める。その中に混じる裕也の視線も、臍より下の部分である部位に注目している。

 男にとって戦いもなしにヒエラルキーを決める勝負において、武蔵は圧勝していたのである。その儀式の意味がわからない真琴は頭に疑問符を浮かべることしかできない。

 広谷も顔を真っ赤にしつつ武蔵の下半身に熱の込めた視線を送っており、あの若君でさえ武蔵に尊敬の眼差しを向けている。ただし面倒だと思った生徒はその場から静かに離れている。


「ここで男子ってやーねーと言ってくれる女子募集中でござるよ……」

「よくわからないけど、関わると大変そうだから体洗おうか」

「ぬああああああ!!ここで女子風呂ならば体流しっこしようきゃっきゃうふふとかあるのにぃいいいい!!現実は無情でござるぅうううう!!」


 よくわからない理由で悔しがる覗見だが、男は女子風呂に入れないだろうと真琴は冷静に判断を下していた。

 ちなみにもう少し世の事情に詳しい茨木の場合、女子風呂の方が殺伐としてるけどなぁ、ということは口にしない。男のような裸の付き合いを、女性は嫌うものである。

 そういうことに一切興味がない遮音と紫音は既に体を洗い始めている。眺めていれば、二人共同じ順序で体を洗うのが目撃できただろう。


 昼間に汗をかいていたので、真琴は丹念に体を洗う。特に髪の毛に関しては、根元の汚れまで届くようにしっかりと。

 父親代わりの叔父が、若い頃から頑張っていれば、と小さく呟いたのを幼い頃に聞いてから、真琴は髪の毛に若干気を遣っている。

 そして遮音がいる温泉へと向かう。本来ならば腰に巻いたタオルは外した方がいいのだが、人の目が気になる思春期男子としてはその勇気は湧かなかった。


「うーん、気持ちいいー。ね、しゃお……」


 体中のこわばりが溶けていくような心地よさに、同意を求めようと振り向いた真琴は固まる。首から下というか、顎から下までどっぷり浸かっている遮音を目撃したからだ。

 相当温泉が気に入ったのか、腑抜けた返事しか返ってこない。微睡む猫のように目を細め、満喫している。真琴が見てきた遮音の中でも、一番幸福そうな姿である。

 その隣にいる紫音は岩に両腕を預け、野太い声を出しながら息を吐いている。覗見が、おっさんのようでござる、と言っても怒りはしないほど気が抜けた姿だ。


「なんというか、にごり湯って便利だよね。見苦しくないというか、視界に優しいというか……」

「女風呂だけ透明仕様が欲しいでござるなぁ」


 笑顔で冗談を言う茨木だったが、真面目な顔で返事した覗見に笑顔が硬直する。どこまでそのネタを引っ張る気なのか。

 そして戻ってくる様子がない実流を探しに若君が脱衣所へ向かい、五分後には青い顔で体を洗い始める実流を真琴は目撃する。いつもより覇気のない背中だ。

 実流の隣ではいつの間にか小学生かと見間違う斐文が体を洗っていた。その瞬間まで忘れていた真琴は、純粋に驚く。そして湯気のせいか、斐文の足元が薄く見えた。


 そして武蔵がいる温泉では筋肉を触る許可を貰っている広谷と、兄貴分として尊敬を向ける若君と裕也が騒いでいた。

 暑苦しい空気が温泉の熱気を上げていき、ついには比べあいっこ大会が始まると大声で宣言された。なにを比べるのかと振り向こうとした真琴だが、茨木に肩を掴まれて止められる。

 茨木は笑顔のままゆっくりと首を横に振る。温泉に入って暖かくなったはずの体温が、一瞬だけ悪寒を覚える笑顔であったため、真琴は気になりつつも振り向かないと決めた。


「煩いぞ!風呂くらいゆっくり入らんか!!」

「は、はい!すいません、万桜せん、せ……?」


 怒鳴り声に速やかに謝った真琴は、その声の出所へと視線を向ける。温泉を区切る自然材質で作った壁の向こう側、もう一つの温泉郷があるであろう場所。

 湯の中を音もなく即座に移動した覗見が、壁に耳をくっつけて向こう側を確認している。その目は鬼気迫るものがあり、真剣な様子で忍者らしく探っている。

 他の生徒達も肩車や聞き耳、あらゆる方法を駆使して向こう側を確認しようとする。そしてそれぞれが必死に集めた情報を逐一確認していく。


「おそらく三名。事務員の杏里殿、養護教諭の未森殿……そして万桜殿と推察されるでござる!!」

「どうやら三人は既に体を洗い終え、湯に浸かりながらの歓談に移行している模様。いつ消えてしまうかわからない」

「新情報だ!!少なくとも万桜先生はタオルを付けてない!!そして未森先生の胸には黒子!!」

「桃源郷はそこにある!どうする、野郎共……決まってるよな?GO!WEST!!」


 盛大な一致団結の声が浴場に響き渡る。野太い男共の叫びが、心が、強く重なって力を持つ。空気が震えるほどの意気込み。

 西の方角にある女湯に視線を向けて、茨木は笑顔のまま若干熱くなっている者達と距離を取る。紫音と遮音は我関せずである。

 裕也と覗見は既に両手を上げて軍団の一味として準備運動を始めている。用意がいい者は、桶を積み重ねて簡易な階段を作り上げていた。


 このままでは秩序が崩壊する。しかして男達はやむを得ない犠牲がが発生することを承知の上で、挑むのである。見果てぬ夢を追いかけるため。

 突き進み手を伸ばした先にしかない、砂粒一つの希望。もう二度と訪れないかもしれない奇跡。まだ子供と名乗れるからこその蛮行を、彼らは迷いなく行う。

 真琴が周囲の高揚についていけず見守る中で、男達の前に立ちはだかる男がいた。杏里へと常に告白をする副会長、トウゴウ・武蔵である。


「馬鹿野郎!!おめぇら……自分がなにをしようとしているのかわかってんのか!?俺ちゃんがいることを忘れたのか!?」

「む、武蔵先輩……でも俺達は、俺達は!!」


 既に戦列に加わり、先頭に立ち始めた裕也は悔しそうな顔で武蔵を見上げる。尊敬するが故、敵対するのは心苦しい。しかし争うならば、捨てねばならぬ感情がある。

 それが例え偉大な先輩だとしても。裕也に加勢するように、実流と若君が武蔵の前に立つ。巨体の威圧に負けそうになりながらも、意地で胸を張る。

 相手は一人とはいえ、二年生なのだ。その強さも、能力も、経験さえ未知数である。数で勝っているとはいえ、能力保有プレート次第では逆転することすら可能なのだ。


「ったく、愛すべき馬鹿共め……俺ちゃんの背中についてきな」

「せ、先輩……?」


 肉厚な背中を向けて進み始める武蔵に、裕也が疑問符を浮かべる。振り返った武蔵の顔は頼もしい笑みを浮かべ、力強い一言を告げる。


「行くだろ?死ぬ気で来い!!」


 その言葉に歓喜の声が捧げられる。男達の中には涙を流し、それでも武蔵の背中を見続ける者がいるほどだ。


「せ、せんぴゃ……兄貴ぃいいいいいいいいいいい!!」

「うおおおおおお!!副会長ぅおおおおおおお!!最後までついていきます!!」

「アンタ男や!!ほんまもんの男やぁあああ!!」


 最早止められぬ流れに置いてけぼりにされた真琴は、とりあえず温泉を楽しもうと茨木のように距離を取ろうとした。

 しかしその肩を掴む手があった。振り向けば涙を流しながらも笑顔で真琴を見ている若君。にごり湯を利用して、真琴はある物を掴む。


「行くぞ!真琴!!ここで男を見せるのだ!!」

「だよね!?遮音んんんんん!!」


 完全に気を抜いていた遮音は自分の手を掴んでいた真琴の手に引っ張られ、その対策として隣でどこかの親父のように両手を岩に預けていた紫音の腰に巻いていあるタオルを掴む。

 タオルを奪われては困ると紫音は自分のタオルを掴みながらも立ち上がり、三連結として不本意に若君に引っ張られていく。茨木に視線で助けを求めた紫音だが、笑顔で手を振られるだけで終わった。

 そしてほぼ全裸の男共は突き進む。目指すは桃源郷、女湯。まだ見ぬ幸福を目にするため、その光景を恩恵として授かるため、男達に立ち止まることは許されなかった。





 そして数十人もの男子生徒はほぼ裸のまま林に身を隠す。男風呂とは違う華やかな熱気と湯気が、鼻をくすぐるような錯覚。

 響き渡る女性の声で既に昇天間近の者もいる中、真琴は逃げようとする遮音の腕を力強く掴み、遮音は同じく逃げ出そうとする紫音のタオルを離さない。

 率先して覗見と若君が右へ、裕也と実流が左へ見張りがいないか確認している。そして覗き隊の統率を図る武蔵が、女性陣に聞こえないような声で呟く。


「いいか、おめぇら。俺ちゃん達は裸を見たいんじゃない。紳士として、男として、嗜みとして。女湯を覗きに来た、いいな?」


 どう違うのか。真琴はごく当たり前にそう思ったのだが、多くの男子生徒は武蔵の言葉に頷いている。遮音と紫音は同時に深く溜息をついた。

 覗見達は女湯の周囲に見張りがいないことを武蔵に伝えた。そして女性陣は更衣室に一番近い温泉でゆっくりと談笑していることも。

 武蔵はゆっくり頷き、五つのグループに男を分けることで犠牲を少しでも減らし、確実な任務の達成を目指すことを伝える。


「少しでも暴行、及び力尽くを行使しようとした奴は俺ちゃんが許さない。手で触れることもだ。一定距離を保ち、健全に前屈みになるとこまでだ。わかったな?」

「サー、イエッサー!!」

「良い返事だ、馬鹿野郎。行くぞ、そこに俺ちゃん達の夢がある!!」


 真琴が視線で遮音と紫音にツッコミを求めるが、二人は全く同じ動作で首を横に振った。見事な同調の仕草である。

 そして武蔵と若君のグループに無理矢理入れられた真琴は、色々と諦めた様子で虚ろな目のまま女湯へと忍び込むことに。

 その隙に逃げようとした紫音は裕也と覗見、遮音は実流と行くことに。気配を殺し、音もなく目的地へと歩みを進める。


「去年を思い出すぜ、あの時も古寺達と馬鹿やったもんだ……へっ、懐かしいな」

「ああ、だから古寺先輩が夜にお楽しみがあると……毎年なんですか?これ」

「伝統行事ってやつだ。暗黙のな」


 酷い伝統もあったもんだと、真琴は頭を抱えたくなる。武蔵は懐かしそうに、古寺達は元気だろうか、と呟く。まるで死んだ戦友に向けるように。

 実際は生きている上に別の交流会で楽しんでいることは知っているが、困難に立ち向かう空気が色々と思い出に補正をかけまくっている。

 緑色のにごり湯の中で水音を立てないように進み、熱さと興奮で倒れそうになるのを堪えながら進む光景に、真琴は最早帰りたい気持ちで一杯である。


「あれ?でも毎年ってことは……万桜先生達も知っているんじゃ」

「当たり前だ、毎年毎年……そろそろ飽きてきた頃だ、大馬鹿共よ!!」


 温泉の飾りとして活用されている大きな火山岩の上から響いた声に、真琴は慌てて視線を向ける。そしてすぐに両手で目を覆う。

 恥を一切捨てた全裸姿で万桜が仁王立ちしているのだ。あまりにも勇ましい姿に、逆に男子生徒達が恥ずかしさで悲鳴をあげることに。

 一種の情けない地獄絵図の中、若君と武蔵だけは目を逸らさずに万桜へと視線を向ける。額に青筋を浮かべ、握り拳にも怒りで血管が浮かぶほどだ。


「お前達には最早ポニーテール武術すら生温い……有栖流格闘術秘伝、浮気男撃滅巨星脚をとくと味わうがいい!!」

「それは覗見が恐れていた伝説の!?む、武蔵先輩、逃げた方が……」

「馬鹿野郎!!それでも男か!?俺ちゃんは、俺ちゃんはなぁ……裸見られて顔真っ赤になった杏ちゃんに頬を殴られるまで帰れねぇんだ!!」

「男の意地の使い所って他にもあると思っ、だ、わぁっ!?」


 緑色のにごり湯が弾けるように飛び散る。火山岩から勢いをつけて落ちてきた万桜の蹴りで発生した、お湯の衝撃波。

 一瞬で視界が水と湯気に覆われ、真琴が慌てる中でいくつもの悲鳴が塞がれた視界の向こう側から響く。そして若君と武蔵が離れていく気配。

 置いていかれたと思った次の瞬間に、湯気を切り裂くように真っ直ぐ突き出された拳が眼前に迫る。真琴は急いで横に避ける。


「貴様は同じ委員会のよしみで、その鼻っ柱を叩き折るだけにしてやろう!!潔く殴られろ!!」

「それで頷いたら僕は唯の危ない人ですよ!?というか、去年の慎也先輩や古寺先輩はどうしたんですか!?」

「古寺達は上手く逃げおおせ、慎也は興味がないと温泉で寝ていた。どいつもこいつも……巨乳がそんなにいいのか!?」

「……どちらかといえば」


 正直な気持ちを小さく呟いた真琴の顔横を火山岩が飛んでいった。あまりの勢いに掠っただけで薄皮一枚が破れ、軽く血が滲む。

 周囲を見回せば足の付け根を押さえながら湯船に浮く男子生徒の残骸らしきものが散乱し、他は逃げてしまったのだと真琴は気付く。

 目の前には怒りのあまり体を隠す気もない全裸の万桜。普段は上に結っている長い黒髪が濡れ、体に張り付いているせいで一味違う雰囲気になっている。が、真琴に味わう余裕はない。


「それに僕は無理やり連れてこられたので……ほ、本当にすいません!!」


 真琴は直角になるようにお辞儀し、すぐさま万桜に背中を向ける。最初から謝っていれば良かったと、少しだけ後悔する。

 しかし背中から感じ取る万桜の気配が少しだけ柔らかくなる。今ならば、と真琴は男湯の方へと向かう。やはり断る勇気を持つべきだったのだ。

 そして後ろから水が飛び跳ねる音が聞こえ、真琴は直感で身を屈める。その頭上を万桜の細長い脚が岩を砕く勢いで通り過ぎていく。


「謝って済む問題ではない!!」

「ですよね!?」


 どうあっても万桜の怒りは鎮められないと観念した真琴は、迷いなく男湯へと向かう。こうなれば避難所として活用するしかない。

 タオルが落ちないように手で整えながら、男湯と女湯を繋ぐ林に向かって走り出す。しかし身が軽い万桜がその眼前に飛びだしてくる。

 それでも突っ切るしかないと、一撃は覚悟した真琴は勢いを緩めずに足を動かす。万桜は強烈な足蹴りを食らわせようと、足首に力を込める。


 瞬間、水で濡れた岩床のせいで万桜の足が滑り、走ってくる真琴の体へと傾く。


 勢いが止められない真琴の体と、バランスを崩した万桜の体がぶつかる。湯船のお湯が柱を作るように跳ね上がった。

 真琴は尻餅ついたことに痛みを感じながら、目の前が白いことに違和感を覚える。水に濡れた温かい白さに、少しずつ判断力が戻ってくる。

 湯船の中で真琴の上に万桜が倒れ、両腕で真琴の頭を抱えているのだ。顔に血が集まり沸騰するような感覚に、真琴はなんとか視線を動かしていく。


 鼻の頭が胸の谷間なのだが、殆ど山らしきものはない。ただし腹筋の上あたりに万桜の臍やくびれが当たっているらしく、その質感に頭が眩みそうになる。

 なにより男性の体にはない部分が臍の上に乗っかっている状態なのだ。思春期と初心が暴走状態となり、真琴は声も出なくなっていく。

 しかし頭が金環の輪で苦しめられるような力強さに、冷や汗が背中を伝って湯船へと溶けていく。頭上から万桜の低くも震えた笑い声が聞こえてきた。


「ふ、ふふ……記憶を消す!!」

「あだだだっだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ!!!!!!」


 肌の柔らかさも吹き飛ぶ万桜の照れ隠しから派生した強烈な絞め技に、真琴は気絶するほどの痛みと戦い、最終的に湯船に浮かぶことになったのであった。





 真琴達が悲鳴を上げているのを聞きながら、茨木は男湯でのんびりと温泉を楽しんでいた。横にはタオルで髪をまとめた広谷と、広い湯舟を泳ぐ斐文。

 至って平和な光景に心安らかな精神のままで、とりあえず真琴が万桜と戦っている音と、杏里が悲鳴を上げた直後に小気味いい平手の音と武蔵が感謝の声を出していた。

 未森が男子高校生の生の筋肉に興奮し、逆に襲撃者となって男子生徒達を追い回す声すらも無視しながら、茨木は紫音の悲鳴に小さな笑いを零した。


「良い気持ちですねぇ……美肌効果って、男にも現れるのかなぁ?」

「肌の調子を整えてくれるんじゃない?それよりも……斐文だっけ?君、どこから来たの?」


 泳ぎ続けていた斐文の動きが止まる。問いかけた茨木は笑顔だが、目が笑っていない。広谷は目を丸くして二人の顔を交互に眺める。


「確か一年にそんな名前の生徒はいない。なのに自然と混じって、なにを企んでるのかな?」

「あちゃー。さすが学園長の甥……と、言われても某は危害を加えようとは思ってないから安心してよ。悪霊じゃないからさ」


 流すように笑いながら再度泳ぎ出す斐文。茨木もそれ以上は問いかけず、これ以上は逆上せると湯船から出る準備を始める。

 広谷もその流れに合わせて立ち上がる。真琴の悲鳴が聞こえ、遮音が葉っぱだらけになりながらも男湯へと戻ってきた。覗見は男湯と女湯の仕切りである壁を飛び越えての登場だ。

 しかし覗見の場合は鼻血を流しており、体全体を真っ赤にして浴場の床へと倒れる。次に気を失った実流が若君に背負われながら戻ってくる。


「きょ、巨乳なのに肉食系野獣が、いた……」


 そう言って疲れ果てた若君も浴場の床へと倒れ込む。広谷は裕也が戻ってこないと思ったが、おそらく女湯の湯舟に浮かんでいるのだろうと思い、着替えるために更衣室へ。

 泳いでいた斐文の姿が消えていることに誰も気付かない間に、男教師である夕鶴と矢吹と桐生が男湯へと入る。予想通りの惨状に矢吹は深々と溜息をつき、体を再度洗っている遮音に声をかける。


「確か遮音は保健委員だったよな?逆上せてるやつが多いと思うから、麦茶や氷の用意、扇風機の前にタオルを敷き詰めておいてくれ」

「……わかりました」


 毎年のことであるため慣れた対応がされている。女湯からまだ聞こえてくる双子の兄である紫音の悲鳴を無視し、遮音は体を洗い終えて更衣室へ。

 夕鶴は若君と実流、ついでに覗見も肩や腕を使って運んでいく。桐生は生徒数の確認を能力保有プレートを使いながら行い、多くの生徒が女湯の方で浮かんでいると矢吹に伝える。

 矢吹は男湯越しに女湯に早く上がるように伝え、少しでも人手を集めようと死屍累々の状況で逃げ出してきた生徒達に声をかける。未森がそれを追いかけて巨乳を揺らしながら男湯に乱入した際、矢吹は頭を抱えた。


「ふ、ふひっ、若い少年の未成熟ながら成長していく筋肉がっ!!肉体の躍動、熱を持って震える固い肌が、日に焼けた褐色が!!うふっ、ふふふふ!!!ふははははははははははは!!交流会最高!!」


 四つん這いに近い体勢で男湯を練り歩く姿に、ホラーを感じた男子生徒達は次々に更衣室へと逃げていく。矢吹は足止め役として未森の前に立つ。


「未森先生、今年はもうこれくらいで。来年もありますから……この馬鹿行事」

「今年の筋肉は今年しかないの!!しかも今年は豊作よ!!さっきなんか超絶好みの銀髪くんの、あの!あの!!うへへへへっ、逃がしてたまるものかぁ……」

「ていやぁ」


 やる気のない手刀を未森の首筋に打ち込み、無理矢理昏倒させる。矢吹はそのつもりで手を振り下ろしたが、その手頸を未森に掴まれる。

 予想外の反撃に矢吹は盛大に溜息をつく。目が血走り、涎を流して鼻息が荒い未森は、興奮した状態のまま赤い唇を歪ませながら矢吹を笑顔で見上げる。


「なんなら矢吹先生が脱ぐのでも、ああっ、熟れた三十前の男の肉体が眼前で顕わになるその瞬間をっ……」

「ふんぬ」


 今度もやる気のない気合を入れながら、未森の腹に膝を入れた矢吹。そこまでされるとは思っていなかった未森は涎を垂らしたまま白目になる。

 矢吹は来ていた白衣で未森の体を隠し、渋々抱き上げて更衣室へと向かう。生徒達の団結力と士気向上のため、学園長であるリー・梁があえて生徒と女性教諭の入浴時間を一緒にしているのである。

 普通の学校ならば大問題なのだが、アミティエ学園では暗黙という名で、オニオシには観光客も来ないことを理由に伝統行事としてしまったのである。矢吹も実は昔同じことをしたので、反対意見を出せない。


 犠牲になった生徒達に心の中で手を合わせながらも、来年も同じことが起こるとわかっている矢吹は静かに場の鎮静化に努めるのであった。

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