第4話

信号待ちをしていた男の子の横に、きれいな茶色の大型犬が並んだ。

ガッチリした胴輪をつけ、そこを飼い主がしっかりと握っている。

フサフサとした尻尾に気を引かれ、男の子はその毛を二、三本思い切り引っこ抜いてみた。

ビクリと一瞬体を強張らせた犬は、しかしこちらを振り返りもしなかった。

それがなんだか腹ただしく、男の子は犬の後脚を蹴りつけた。

「なにをやってる!」

突然背後から怒声が聞こえ、男の子の肩がグイッと引かれた。

斜め後ろに立っていた若いサラリーマンが、真っ赤な顔をして肩を掴んでいた。

「盲導犬に乱暴するなんて、どこの子だ!」

男の子はとっさに大声をあげた。

「助けて!コロサレル!」

「え⁈」

サラリーマンが一瞬ひるんだ隙に、その手から抜け出し駆け出した。

あまりにうまく逃げだせたので、途中から笑いまで込み上げてきた。

まだ小さな体を生かして物陰に隠れると、そっと逃げてきた方をうかがう。

サラリーマンは男の子を追うのを諦めたらしく、犬の後脚を触っていた飼い主に声をかけたようだ。

その女性は立ち上がり、サラリーマンへと頭を下げる。

しばらく二人でぺこぺこと頭を下げあっていたが、やがて笑い合い、犬を優しく撫でてから一緒に歩き出した。

「…なんだよアレ。」

男の子がつまらなそうに呟いた時、背筋に悪寒が走り、その手の甲を荒い毛皮が擦った。

「…いたんだ、ぞわぞわ。」

振り返るといなくなるとわかってきたので、男の子はそのまま動かずに毛皮の感触を楽しんだ。


その男子生徒は、新入生の中でも飛び抜けて小柄だった。

着ている学生服が他の誰よりもぶかぶかで、それ以上小さなサイズがなかったのだとすぐにわかった。

なにか病気を抱えているという話で、たしかに肌は、あまり健康的ではない黒ずんだ色をしていた。

疲れをためると良くないらしく、ちょくちょく保健室へ休みに行っていた。

それでも元から朗らかな気質だったらしく、教室にいる時は周囲と楽しそうに談笑をしていた。


少年はなんだか、それが面白くなかった。

その男子生徒の席の後ろを通る時には、必ずその椅子の脚を蹴るようにしてみた。

時には大きくぶつかり、その小柄な体を机に押しつけるように仕向けてみた。

「悪り!ヨロケちったよ。」

必ず一言そう謝ってみせたので、男子生徒もそのまわりも、何か言うタイミングが掴めないようだった。

1日に何度も繰り返される悪戯は、男子生徒の体調を容易く悪化させた。

肌はますます黒ずみ、顔は明らかに浮腫んでいた。

そしてある日の午後、崩れるようにうずくまって保健室へ運ばれ、親が迎えに来ることになったと聞いた。

帰りのホームルームで担任から簡単に話があり、しばらく入院するだろうと言うことだった。

周りのクラスメートはヒソヒソと情報を交換していた。

「…ジンゾウが…」

「トウセキしないと…」

「最後はイショク…」

興味もないまま耳に届く言葉を無視して、少年は窓の外を眺めた。

校庭端の裏門近くに保険医が立ち、中年男性と話をしている。

門の外に停められていた車に、あの男子生徒が母親らしき女性の手を借り、乗り込んだところだった。

ならばあの中年男性が父親なのだろう。

程なく男性は運転席に乗り込み、車は走り出した。

そのまま病院に行くであろう車を保険医が見送っている。

なぜか強烈に舌打ちをしたい気分になっていた少年は、背中を走る悪寒と、窓にかすかに映る黒い影に気がついた。

「なんでわざわざ後ろ向き?」

少年は小さく呟いた。

「ざわざわ、チョーウケる。」

くつくつと小さく笑いながら、窓越しに小山のような動物のようなそのシルエットを眺め続けていた。


その学校は、青年にとっては楽に呼吸のできる場所だった。

似たような境遇と似たような思考をもつ仲間が多く在籍し、ごく少数の真面目な生徒は固まってひっそりと過ごしていた。

甘く整った容姿の青年の周りには、いつもヒラヒラと人がまとわりついていた。

「オレだってさぁ、頑張ってるんだぜぇ?なのにそのバイト先のババァ、声が小さいとか態度が悪いとか。グチャグチャうるせーんだよ。」

「うっそー、かわいそう!」

「頑張ってるんならいいじゃんねー。」

ツヤツヤと光る少女たちの唇からは、我先にと青年を慰める言葉が溢れてくる。

「うちのクソババァは金よこさないし、オレ今日はメシ抜き決定だわー。」

「えー、かわいそう!アタシのお弁当分けてあげるよー!」

「アタシも!アタシ料理かなりウマいよー。」

「アンタの弁当、レンチンばっかじゃん!」

「なにそれ、笑えるー。」

賑やかに言いあううちに、不意に一人の少女が青年と腕を組み、しなだれかかってきた。

「アタシ今日バイト代貰うからさ、デートしよ!ファストフード位なら奢れるし。」

「ちょっと…!」

途端に他の少女たちがいきり立った。

「なに言ってんのよブス!」

「ファストフード位で偉ぶんじゃねーよ!」

「離れろよ!」

なおも離れない少女を引き剥がそうと、他の少女から手が伸びてきた。

パンッと音を立て、青年がその手を払いのける。

「…オレの前でうるさくすんなよ。」

低くなった青年の声に、少女たちがピタリと口を閉ざした。

「…まぁ、順番にデートすりゃいいんだろ?金はねぇけどなぁ!」

一転明るい声でそう言い放ち、縋り付いていた少女の頬を撫ぜる青年の様子に、少女たちはホッと息を吐いた。

「…じゃあ明日はワタシね。うちのジジィから小遣い取ってくるわ。」

「あ、アタシも!バイトの給料日近いし!」

「はいはい順番な?良い子にしてたら可愛いがってやるからさぁ。」

途端にきゃーっ!と上がる歓声を聞き流しながら、青年は少女の頬を撫ぜつづけた。


深夜にアパートに帰宅した青年を、母親の不機嫌な声が迎えた。

「…いい気なもんねぇ。こっちは必死で働いてんのに。だれのおかげで飯食えてると思ってんだか。」

「…あぁ?」

青年はだらしなく座り込んでいた母親に近寄り、真上からその顔を覗き込んだ。

「少なくとも今日の昼と夜は、テメェの金じゃなかったぜ?」

カッとなった母親が振り上げた手を余裕で受け止め、青年は逆に母親の頬を殴った。

横倒しになった母親の横を通り、洗面所へと向かう。

「…オマエなんか、産むんじゃなかった。さっさと出ていけばいいのに!」

「チッ!」

強く舌打ちした青年は踵を返し、まだ起き上がれていない母親の腹を軽く蹴り上げた。

「言われなくてもな。高校卒業したらその日に出て行ってやるよ。ババァがそれだけはやってくれって言うから守ってるだけじゃねーか。こーんないい息子はいねぇだろ?」

イライラが収まらない青年は、再び靴を履き、外へと飛び出した。

「どこ行くんだよ⁈」

後ろから母親の声が追いかけてきたが、それには答えずに夜の町を歩いて行く。

八つ当たりのように踏みにじられるアスファルトは、先ほど一時降った雨に濡れ、街灯に照らされて黒々とした艶を見せていた。

ふと気がつけば、青年の影に寄り添うように異形の影が落ちていた。

小山のような、動物のようなその影は、しかし青年が振り返ってもそこに本体は見出せなかった。

それでいて背中に悪寒は走り、影はまだそこにあった。

「…なんなんだよ、テメェは一体。人の後ろをコソコソとよぉ、一回くらい真正面からツラ見せやがれ!ぞわぞわよぉっ‼︎」

青年の怒声は聞く者もなく撒き散らかされ、路上を転がっていくだけとなった。

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