第3話

「たっだいまー!うちの王子はどっこかなぁ!」

明らかに酔いに呑まれている母親の声に、湿っぽく薄い布団に包まって寝ていた幼子は反応が間に合わなかった。

「ママのお帰りだぞー。ハグハグしなきゃダメじゃーん!」

そういって掛布を引き剥がし、幼子を無理矢理引き起こすと、酔っ払いの無遠慮さで抱きしめた。

「ほーら、ちゃーんと挨拶しろよ〜。」

「ま、ママ、お帰りなさい。」

息がしづらいほどの力が弱まることを期待して、幼子は母親の首に腕を回し、その背をなぜた。

「よく出来ました!さすがアタシの王子君だねっ!」

さらに強められた腕の力に、幼子は必死で抗おうとした。

懸命に息を吸い、母親が肩にかけたままのバッグのチェーンベルトが食い込む左脇腹の痛みに耐えた。

しかし酔っ払いの抱擁はしつこく、とうとう限界に近づいたのか、視界がすっと暗くなった気がして、手が無意識に周囲を掻きむしっていた。

「なにすんのよっ!」

突然幼子の頰が燃え上がるように痛み、殴られたと認識する間も無く軽い体は吹き飛ばされ、タンスに激突して止まった。

「髪を引っ張るなんて、ムカつくガキッ!ふざけんなっ‼︎」

母親は足音も荒く洗面所の方へ行ってしまった。

幼子はとりあえず母親の意識が自分から逸れたことに安堵し、引き寄せた掛布に隠れるようにくるまり、痛む頰や肩、左脇腹を意識しないように自分に言い聞かせた。


その時の打ち身が原因だったのか、幼子は数日熱を出した。

母親はブツブツいいながら幼子の枕元に食パンとペットボトルのお茶を置き、そして夜の仕事に出かけた。

体の辛さと心細さに幼子がぐずると、母親はますますイラつき、昼間も外出するようになり…

ある日唐突に、黒い子猫を連れ帰った。

「そら。」

母親は幼子の膝に、小さな子猫を無造作に落とした。

「それがいれば、暇潰せるでしょ。わざわざ拾ってきたんだから、感謝しなよね。」

腕の中の温かい重みに目を丸くしていた幼子は、再び出かけようとしていた母親へ慌てて声をかけた。

「この子、ご飯なに食べるの?」

「食パンちぎってやりゃあいいんじゃない?」

それだけを言い残し、玄関の向こうへ母親は行ってしまった。


「おいしい?よかったね。」

カップ麺の空容器に小さくちぎった食パンをいれ、少し考えてから水でふやかしたものを、黒い子猫は必死に食べていた。

小さな体でも食べやすいように容器を斜めにしたまま支え、空いた片手でその背を撫ぜつづける。

長めの毛でよくわからなかったが、子猫は思ったよりも痩せており、指先にはっきりと骨を感じる。

ひとしきり食べて落ち着いたのか、子猫は口の周りをなめた後、幼子の膝に丸まった。

「ねこちゃん…」

すっかり嬉しくなった幼子は、子猫をぎゅっと抱きしめた。

まさに数日前、自分が母親に抱きしめられた時のように。

「かわいいねこちゃん!」

甲高く鳴きながらもがく子猫を、逃さないようにさらに力を込めて抱きしめる。

ギャッ!と今までと違う一鳴きをした子猫の小さな牙が、幼子の腕に噛みついた。

「痛い!」

反射的に腕を振り回すと、子猫は先日の自分のように壁にぶつかって動かなくなった。

噛まれたところは幸い出血もせず、四つの赤い点の跡があるだけだった。

ホッとして子猫の様子を見に行くと、すっかりと大人しくなり、かすかに口を開けたまま時折ビクビクと震えながら寝ていた。

「寒いのかな…」

幼子は部屋の隅に小山になっている洗濯物の中からタオルをひっぱりだし、子猫にかけてやった。


「なによこれ!」

その夜、帰ってきた母親がタオルをめくった時には、子猫はすでに冷たくなっていた。

「キッタネーし、最悪…」

母親は吐き捨てるように言いながら子猫をコンビニの白いビニール袋にいれ、幼子に押し付けた。

「アパートのゴミ捨て場に置いてきな。」

幼子は黙ったまま袋を受け取り、大人用サンダルを履いてパタパタと音をさせながらアパート前のゴミ集積所へやってきた。

空っぽの集積所の隅にそっと袋を置き、なんとなく立ち尽くす。

縛っていない袋の口から子猫の顔が少しのぞき、青味がかった茶色の瞳がこちらを見つめているようだった。

一つだけ見えるその瞳を見下ろす幼子の背筋に、不意に悪寒が走った。

同時にふくらはぎをこすった、毛皮の感触。

振り向いた幼子の目の端を、子猫と同じ様な黒い色の影がさっと掠めた。

「ねこちゃん…?」

しかし先ほど触れた毛皮の感じは、子猫よりは荒い気がした。

もっとボサボサで少しかたく、もっと長めの毛のようだった。

「…ぞわぞわ…?」

なんとなくそう呼ぶのが正しいような気がして、幼子は夜の闇にそう呼びかけたが、その声に応える生き物はでてこなかった。

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