カトー・ナカサキ、あるいはコヨーテ
5.1
スプリンクラーが室内に作りだしたスコールは、ほどなくして止まった。
カトーたちは最奥の扉を開けて、水浸しになったペントハウスを眺めまわす。白基調の生活感のない部屋だ。シャンデリアから垂れ落ちる水音以外に音はない。人の気配もまるでなく、ミセス・ホールトンがペントハウスで生活していたのか不安になるほどだった。唯一といってもいい住民の記憶は、サイドボードに置かれた写真くらいだ。
「
呟き、カトーは古ぼけた写真を見つめた。
中央に身なりのいい男と女が一人ずつ。二人を囲うように後ろに並ぶ男たち。誰も彼も笑っているが、女の後ろにいる杖をついた男だけが険しい顔をしている。どこにもジャックはいないから、キングスの写真なのだろう。
写真立てを戻したカトーは、とうとつに叫んだ。
「ミセス・ホールトン! カトー・ナカサキが自分で賞金貰いに来たぜ!」
ぷっ、と誰かが失笑した。ジェシカだ。
「何それ。賞金首って自首したらお金がもらえるの?」
「もらえるわけないだろ」とジャック。
「おそらく上にいるんだろう。敵の気配はない。行こう」
言いつつ、階段を上っていく。
カトーとジェシカは顔を見合わせ、エレベーターで行けない十二階に上がり込んだ。
相変わらず人の気配はないが、今度は多少の生活感がある。壁にかけられた素朴な色彩の少女の絵に、花瓶に活けられた白い花。上等なホテルの最上階にしては質素なものだが、素朴で牧歌的だと言い換えてもいい。
何か思うところがあるのか、ジャックが重いため息をついた。
「まだ階段があるよ?」
呆れたようなジェシカの声に、ジャックが顔をしかめる。
下から数えて十三階。不吉な数字だ。
三人は枯れかけた小川のような階段を登った。
「ま、ギャングがそんなんでビビってられないってことかもな」
カトーは飄々としてそう言い、水のしみ出してくる扉に手をかける。
「準備はいいか?」
「カトーが開けるの? 危なくない?」
ジェシカが山刀の柄に手を置いた。ジャックの手が重なる。
「俺が開けよう。これでも元・旦那だからな」
「ミセス・ホールトンはあんたを殺したがってるらしいぜ?」
カトーの減らず口に肩を揺らし、ジャックは拾ってきたブローニングの遊底を引いた。弾が一発飛び出して、階段の下へと転がり落ちていった。
「だからだよ」
ジャックが扉を開いた。
まるで展望台のような部屋だ。ドーム型の天井に、大きな窓――テラスへの出入り口を背にして、紫檀の机が一脚。壁を埋め尽くす帳簿の類が詰まった棚。それらを守るために、スプリンクラーは天井だけでなく、壁からも水を吹いたらしい。
ポタリ、ポタリ、とそこかしこから水の滴る音がしていた。
窓から差し込む月の光を背に受けて、ミセス・ホールトンが待っていた。濡れそぼった躰を執務机に預け、俯いていた。カトーと勝負した日と同じように真っ赤なスティレットを履き、手には一本の剃刀を握っている。自殺を試みたのか、左手首から一筋の血が流れていた。
なぜ、死ぬ必要があるのか。
カトーは顔をしかめた。せっかく会いに来たというのに。
考えるよりも聞くのが早いか。
前に出ようとするカトーに先んじて、ジャックが部屋に踏み込んだ。
顔を上げようとしないミセス・ホールトンに、ジャックは声をかけた。
「……ジェシカ?」
「へっ? なに?」
呼ばれたものと勘違いしたのだろう。ジェシカが慌てて顔を上げた。
ジャックは「違うよ、ミスジェシー」と苦笑した。
「おじさんの奥さん、ジェシカって名前なの」
口を開いたのはミセス・ホールトンだ。冷たい声音。耳から侵入し臓腑を食い荒らすかのような、聞く人に痛みを与える声だった。
そしてその声は、ジャックただ一人に向けられていた。
「お前……誰だ?」
ジャックは、ミセス・ホールトンに、そう尋ねた。ただならぬ気配だった。口を開きかけていたジェシカが黙り込んでしまうほどの圧力だ。
「私を忘れてしまったの?」
まるで幼女のような舌ったらずな口調で尋ね、ミセス・ホールトンは、薄気味悪い微笑みを浮かべた。どこかカトーの鉄仮面にも似た笑顔だった。
しかし、感情を押し隠すカトーと異なり、ミセス・ホールトンの微笑みからは、感情が失われているかのようだ。
ジャックは静かにブローニングを持ち上げ、銃口を向けた。
「もう一度、聞こう。お前は、誰だ?」
「……ジャック?」
ジェシカはジャックの声色に怯えているようだった。縋るような目でカトーを見た。
カトーはいつもの鉄仮面を崩し、小さく頷き返す。大丈夫だと伝えるために。
ミセス・ホールトンはゆらりと躰を傾け、机から離れた。真っ赤に染まった左手をジャックに伸ばす。指先から、紅い雫が滴り落ちた。
「おじさん、なんでパパを殺しちゃったの?」
銃を握るジャックの手が、跳ねるように震えた。
彼が聞いたという、レイザー・ブリッグスの娘が言ったという、呪いの言葉だ。
つまり、ミセス・ホールトンは――、
ジェシカは血走ったジャックの目を盗み見て、一歩
「な、何? どうしたの? ジャック」
「……ミス・ジェシー、お前は、レイザー・ブリッグスの娘じゃないのか?」
にわかにジェシカの気配が鋭さを増す。怯えと怒りが混じった、まるで毛を逆立てる猫のような気配だった。
「何言ってんの!? アタシは! アタシの父さんは――」
「私のパパが殺したの」
ミセス・ホールトンの、声がした。
「あなたジェシカって言うのね? その肌の傷、大事にしてね? 私とお揃いよ?」
「な、に?」
ジェシカの手が山刀の柄にかかる。
その手が動くより早く、カトーが横槍を入れた。
「なんだかよく分からねぇ話だ。おいジャック、どうなってんだ?」
「俺が、聞きたい」
ジェシカがただの被害者で、目の前の女がレイザーの娘だったとしたら――、
ジャックの妻だという、本物のジェシカは?
その人を探し求める声は、弱々しく震えていた。
「ジェシカは、俺の女房はどこだ? お前はいったい……」
「まだ分からないのかしら? それとも、分かっていても信じたくはない? 私はあなたが殺したレイザー・ジョン・ブリッグスの娘。それと――」
ミセス・ホールトンはゆっくり首を回すと、虚ろな瞳をジャックに向けた。右手にもった剃刀を首にあてがい、掻き切る仕草をした。
「ジェシカ・ホールトンは、もう死んでるわ?」
ジャックが目を見開いた。吐き気をこらえるかのように俯く。顔から血の気が引き、床を見つめる瞳が忙しなく動き回っていた。銃を下ろし、見つめ、次の瞬間、
「殺してやる」
ジャックは銃口をミセス・ホールトンを名乗る女に向けた。指が引き金に乗る。同時、
「なんで?」
ジャックの指が止まった。
ミセス・ホールトンは無感情な薄笑いを浮かべたまま、言った。
「あなただって、お金のためにパパを殺したじゃない。いまのあなたとは何の関係もない話でしょう? それとも、死んだ賞金稼ぎの中に、あなたの血縁でもいたの? 家族がいたの? もしいたなら私は少し嬉しい。あなたの銃が殺したようなものでしょう?」
「それ、は……」
それ以上、言葉は続かなかった。
ミセス・ホールトンの言葉は一面的には正しい。
たしかに十年前にレイザー・ブリッグスを殺したのはジャックだ。ジェシカを一人にしてしまったのもジャックだ。
しかし。
ジェシカを捨てたわけじゃない。ジャックは自分が恨みを買っているのは知っていたから、守ってやるために離れた――、
ジャック自身が、誰かの仇になっていたから。
「でも、ひとつだけ。ジェシカ・ホールトンはね。こう言ったわ。『あなた、ジャック』って」
ミセス・ホールトンは自らの躰を抱きしめ、銃口を震わせるジャックに言った。その歌うような、死者を冒涜するような口ぶりに、ジャックは、
「っあああああああああああぁぁぁぁ!」
絶叫。乱射。弾倉に込められていた弾丸が吐き出され、遊底が止まった。
「――あ、あ、あぁぁぁぁ、ジェシ、カ」
ジャックが放った弾丸は、すべてミセスホールトンの躰を逸れ、窓ガラスを割っただけに終わった。地上四十メートルの執務室に、生ぬるい潮風が吹きこんでくる。
ジャックは両膝を落とし、背中を丸めた。
「なぜ殺した、なぜ殺したんだ。俺を殺せばよかっただろう」
躰を縮こまらせ、すがるような目でミセス・ホールトンを見上げた。血走った目に涙が滲んでいる。
ミセス・ホールトンは、満足げに微笑んだ。
「なぜって――あなたの、そんな顔を見たかったから」
嗚咽しながら、ジャックは額を床に押し付けた。叩く。叩きつける。鈍い痛みは何も解決しててくれないだろう。
ジェシカが駆け寄り、ジャックの背に手を伸ばした。
が、その手も、背に触れる寸前で止まった。
かける言葉が見つからないのだろう。死んだ妻と同じ名前を持つジェシカが、レイザーの娘と思われていた少女が、何を言ってやれば、彼は救われるというのか。
あなたのおかげでジェシカは救われたのだと伝えて、何になるというのか。
そんな言葉は彼を慰めはしない。
ジェシカの震える手が、山刀に伸びようとしていた。
代わりに殺す気なら、なぜ手を震わせる?
ミセス・ホールトンは、お前と同じ、生存者だからだよ。
「やめとけよ。ジェシー」
カトーが首をぐるりと回して、ジェシカの肩に手をかけた。
「ジェシーの仇はジャックが取った。ミセス・ホールトン――と言っていいのかどうかは知らねぇが、ともかく、そいつは、レイザーの娘で、レイザーじゃない」
「……そんなの分かってるよ。でも、あいつは賞金稼ぎを殺して回ってた」
「言われただろ? 賞金稼ぎは家族じゃない。正義の味方でもない。賞金稼ぎに親父を殺されたから、復讐してただけなんだよ、あいつは」
「ええ、その通り」ミセス・ホールトンが小さく頷く。
「それに、ジェシカさん、だっけ? あなたは、とっても運がいい。私のパパがつけた傷を残せたんだもの。よかったじゃない。私は大事な傷も消さなきゃいけなかった。残りは、ここだけ」
そう言って、ミセス・ホールトンは右眉に刻まれたラインを指さした。レイザーが生存者に必ずつけたという、右目を跨ぐ縦二本の切創の痕だ。
ジェシカの、右眼窩に埋め込まれたバイオニック・アイが、ミセス・ホールトンを睨んだ。
瞬間、カトーは強くジェシカの肩を引いた。分かっている。ジェシカが傷痕を残したのは、仇を取ってくれたジャックへの感謝のためだ。傷そのものには何の価値もない。
あのときの痛みを、苦しみを、忘れないための傷跡なのだ。
それは生存者の証。傷痕に勝手な解釈を加えられるのは我慢がならないのだろう。
しかし、ただそれだけを理由に殺せば、ジェシカもまた獣に堕ちる。
カトーはジェシカを背後に追いやり、前に進んだ。
「やめとけって言ったろ? ジェシー。怒りに任せてぶっ殺したら、同じになる」
「でも、許せない。許したくない」
ミセス・ホールトンから目を離そうとしないジェシカに、カトーは嘆息した。
十年間も抱え続けてきた思いなど、家族が生存している彼に計り知れるものではない。
けれど、と思う。
カトーはジャックのホルスターから、雷管式拳銃を引き抜いた。
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