4.2
空飛ぶ駝鳥号がエクス・マイアミの『
その話をカトーから聞いたジェシカは、当然、二人のお尋ね者を連れて港に入るなら朝早いほどいい、と判断したのだ。
霧が出ていた。
真っ先に桟橋――といっても浮力を失くした陸舟の縁と同じ高さのキャットウォーク――に降り立ったのはジェシカだ。
桟橋の下の砂、そして背後に広がる砂海の熱と、湿気が混じる。世界の形が変わっても海から吹きつけてくる潮風だけは変わらないらしい。
陸舟は常時空中を揺蕩うわけではないので、紐をくくりつける必要はない。
ジェシカはバイオニック・アイを赤外線モードに切り替え、周辺を見回した。
深い霧のせいか、周辺温度は思いのほか低かった。何人分かの熱源がある。けれどその内のひとつは横になっており、ふたつは遠くの甲板上ではげしく絡み合っているだけだ。仮に傍を抜けたとしても、行為に夢中で人の気配に気づく余裕はないだろう。
「大丈夫そうだよ。二人とも」
「分かった。行くぞ、カトー」
小声で答えて、ジャックが先に降りた。
煤けた緑色の地味なロングスカート。まだ、女装したままであった。
「……あいよ」
やる気のない返答とともに、霧を払って、カトーも桟橋の木床を蹴った。
いつものスーツではなく、ブラウスにカーディガンだ。胸に妙なふくらみもある。彼もまた、女装させられていたのだ。
ジャックの女装用に購入したカツラの中から選びだした、予備の黒髪ロングヘアーを被っている。化粧までバッチリで、元々化粧映えする顔つきだったのか、口さえ開かなければ沈黙の美女を気取れそうだ。
もっとも、その美貌も、下げられた唇の両端と据わった目つきで、台無しになっていたが。
ジャックは肩を揺らした。
「化粧してるときのノリはどうした? いい加減に諦めろ。よく似合ってるぞ?」
「……諦めきれるかっ! ここはおれの――」
「しっ! カトー、声が大きい!」
ジェシカは口元に指を立て、カトーを黙らせた。先行して歩きだす。
「カトーのホームグラウンドなのは知ってる。っていうか、だから変装してもらってんでしょ? 諦めなよ。変装なしに歩いたらすぐに誰かに見つかっちゃう。カトーはエクス・マイアミでは有名人なんだよね?」
「そうだよ。有名人だよ。不本意だけどな」
カトーは脱臼したかのように両肩を落とした。デートをすっぽかされてトボトボ家に帰る若い女のような姿を見て、ジェシカが吹き出す。
カトーはジト目に怒りと恨みを乗せて飛ばした。
「仕方なくの変装なんだ。笑うなよ」
「ごめん。わかった、わかったから――」
そこまで言っておいて、ジェシカは意地悪そうにニマリと笑った。
「そんな悲しそうな顔をしないで、ハニー」
「ジェシー! てめぇ!」
カトーの叫びとジェシカの笑い声が霧を裂き、エクス・マイアミの通りに響いた。ジェシカのバイオニック・アイは、霧の奥で猫が逃げて行くのを捉えた。
呆れ気味のジャックが、なだめるように言った
「それで? まずどうする?」
「……ブラッドリーの事務所だ」
「なんだって?」
なぜ自分に賞金を懸けている奴の事務所を訪ねるのか。
そう言いたげなジャックに、カトーは悪女顔負けに顎をしゃくってみせる。
「ブラッドリーの事務所に行くんだよ。ジャック、あんたが言ってたろ? おれには生け捕り限定の賞金もかけられてたってよ」
「たしかに言った。大した金額じゃあなかったが、ブラッドリーの名義で生け捕りにして連れてきたら報酬を出す、とあった」
「つまり、あの金にうるさいブタ野郎は、おれの頼みを聞いてくれたってわけだよ」
「話が見えないよ。どういうこと?」
ジェシカは交差路の手前で足を止め、それぞれの通りを覗き込んだ。人の気配はほぼない。エクス・マイアミといえども、早朝ランニングに興じるほどの余裕がある人間はまずいない。もしいたとしても、身ぐるみ剥がれた負け犬だけだ。
「簡単に言うとだな。やつらが賞金稼ぎ狩り開始のメッセンジャーに選んだイワンの馬鹿を、俺もメッセンジャーに使ったんだよ」
言いつつ、カトーは両手を作り物の胸の下で組み、誇らしげに張った。無駄に大きく作られているせいで揺れるそれを見つめて、ジェシカが舌打ちした。
「もっと分かりやすく言ってくれない? なにをしたのさ」
「金を持たせた。結構な額のな」
「金だと?」
ジャックは両手を腰に、重心を傾けた。とんだ大女、それも老女だ。
カトーはいつもの薄笑いの鉄仮面を外し、呟くように言った。
「リュウへの花代わりだよ。カロンに渡す船代でもいいし、おれのご先祖様式に、KODENってやつでもいい」
「コーデン?」
「……何でもいいんだって。奴が何を信じていたのかしらねぇが、どんな宗派で両替したって釣りが出るくらいは、払ってやったよ」
そういうことかと言わんばかりにジャックがため息をついた。目を細めてカトーを見つめる
「妙なことに巻き込ませて死なせてしまってすまん。そんなところか?」
「そんなところだ。おれはあいつらのことは好きじゃあないが、別に恨んでるってわけでもねぇ。少なくとも、訳も分からないまま殺される筋合いはなかったはずだ」
ふいに振り返ったカトーは、ふたりに一礼してみせた。スカートの裾をつまみ、片足を引いて僅かに腰を落とす貴族式、
「さて、それじゃ長女の
とうとつ過ぎる口調の変化に、ジェシカが吹き出す。
「なに突然。長女って。それにそのナヨっとしたアクセント」
「あら、だめよ? ジェシー。そんな乱暴な口を利いたりしたら。おばあちゃまに怒られてしまいますわ?」
言いつつ、カトーは薄笑いの鉄仮面をつけ直し、ジャックに続きを促した。
「……せめて婆さんじゃなくて、母さんにしてくれ」
ジェシカが腹を抱えて笑いだした。
カトーは満足げに頷く。
同情されくらいなら、むしろ笑わせる方が気が楽だった。
カトーたちはジェシカの目を借りつつ、陸の港から海岸線まで歩いた。
相変わらずの寂れっぷりだ。うらぶれて廃墟じみた様相を呈する元娯楽施設のスラムは、見ているだけで気が滅入る。もう少し日が昇って霧が晴れれば、砂浜に打ち上げられた薄気味悪い生き物の死体や船の残骸も、世界の崩壊を教えてくれるだろう。
霧に混じって漂う悪臭に耐えつつ、海岸線を北上していく。
砂浜から離れるように曲がっていく道を辿ると、少しずつマトモに人が住めそうな場所らしき気配が建物に現れてくる。ブラッドリーの事務所は、その列の並びにあった。
ジャックは煉瓦造りの古びた事務所を見上げて呟いた。
「これが例のブタ小屋か? 爺様が持ってた戦前の写真を見てる気分だ」
「そうだよ。戦前から残るブタ小屋だ。ブタ小屋らしく、見た目はともかく中は綺麗なもんだ」
通りに面した事務所入り口は固く閉ざされ、板まで打ちつけられている。侵入者どころか、通りを歩けるような真っ当な人間は来るなと、ささくれだった板が主張していた。
カトーは慣れた様子で建物の脇にある鉄柵を開き、二人を手招く。ジャックとジェシカが得物に手をかけつつ後に続く。錆びだらけの階段を上って、三階のドア横のブザーを鳴らす。
返答を待とうともせずカトーが赤茶けた鉄扉を蹴りつけた。
「おいこらー、起きろー、集金だぞー」
なんとやる気のない声か。脅す気はないらしい。
ブザーに据えつけられたスピーカーから、ノイズ交じりの声がした。
「誰だ。こんな朝早くから。ボスはまだお休みだぞ」
崩壊後の
カトーは得も言われぬ懐かしさを感じながら答えた。
「おれだ。グッドマンだよ。おっかない賞金稼ぎに捕まって、連れてこられたぜ」
「……なんだって? 俺は、あまり冗談が好きじゃない」
「いいからさっさと開けろよ馬鹿イワン! おれだ、グッドマンだよ!」
「扉の前にカメラがある。そこに立て」
カトーは苛立たしさを隠そうともせず扉の真正面に立った。
「おら、ちゃんと見ろ。グッドマンだろ?」
「……ほんとにグッドマンか? 髪の毛はどうした?」
「ヅラだよ! 変装してんだっての!」
言いつつカトーは黒髪ロングのカツラを取って、首の骨を鳴らした。
「さっさと開けねぇと酷いぞ? こっちにゃ化け物じみた強さの仲間が二人いる」
「……ほんとにグッドマンなのか! お前もタマナシになったのかと思ってた! 今ボス起こしてくる!」
スピーカーの音が切れると同時に、扉の鍵がガチャンと鳴った。
カトーが扉を開くと、中から漂ってくるかび臭さにジェシカが顔をしかめた。
「臭い……ねぇジャック。さっき、お前も、って言ってた?」
「……言ってたな。どういう意味なんだろうな」
「……やめてくれよ。気持ち悪ぃ。想像もしたくもねぇぞ」
うへ、と口の両端を下げ、カトーはブラッドリーの事務所に入った。
まるで戦前に作られていたノワール映画に出てきそうな、古めかしさを通り越しいっそモダンにすら感じられる廊下だ。クリーム色の壁には百合の蕾を模したランプが灯り、ウォールナットの床は磨き抜かれて黒光りしている。幽かに漂う香りは、高級な葉巻の残り香だろう。
少しばかり雰囲気にのまれたらしいジェシカと異なり、勝手知ったるカトーは無遠慮に階段を下って、二階の廊下を左に進んだ。一番最初の扉を引き開ける。
傍若無人と言ってもいいカトーの態度に、ジャックとジェシカは顔を見合わせた。
通された応接室は、いささかこじんまりとしていた。
カトーは二人にソファーに座るよう促し、戸棚の葉巻箱を手に取った。
本来はブラッドリーが客に差しだし力を誇示するための小道具なのだが、今はこっちが客だ。
開き直って一本抜き取り、端を小さく噛みちぎる。床にぷっと吐き捨てた。
できればガスライターがいいんだが。
そう思ってはみるが、これ以上のぜいたくは言えない。直径二センチはありそうな太く芳しい葉巻は、これまで嗅いだことのない柔らかい香りがあった。
置かれていたマッチを戸棚で吸って、葉巻に火を移す。何度か吸って火を点けて、改めて深く吸い込み、煙を口に溜める。高級葉巻特有の粘度の高い煙を舌で味わう。
厚い煙を吹いたカトーは下唇を舐めた。僅かな甘み。最高だ。
「いい葉巻吸ってんなぁ、あのブタ野郎」
「おい、いいのか? 勝手に入ってきて、葉巻まで手を出して」
「あんたも吸うかい? あいつは嫌な奴だが、そこまでケチくさくはねぇはずさ」
ジャックが答えるより早く、扉の向こう側から重たい足音が聞こえてきた。
懐かしさを煙に変えて吐き出し、カトーは扉に向かって叫ぶように言った。
「なんせエクス・マイアミのブラッドリーは、見栄っ張りだからな!」
扉の前で、足音が止まった。
ソファーに座りかけていたジェシカが腰を上げる。扉の向こうに強い怒りの気配を感じたのだろう。殺気こそ感じられないが、とてつもなく怒っているに違いない。
ジェシカの手が山刀の柄に伸びる。ドアノブが静かに下がった。
「誰が見栄っ張りだってんだ!」
怒声と共に扉が蹴り開けられた。
眉を寄せたジャックが、「ああ、本当にブタに似ている」と呟いた。
実際、ブタに似ている。
撫でつけられた茶色い髪は毛先が巻いており、パンパンに張り詰めた赤い風船のような頬に、低く、天を見上げる豚っ鼻。高そうな茶色いスリーピースのスーツを着ているが、ベストのボタンはいつ飛んでもおかしくない。おそらく若い頃に仕立てたもので、きっと思い出の品かなにかで、相当に気に入ってるに違いない。でなければ、普通は仕立て直しているはずだ。
ブラッドリーは応接室にいた女ものの服を着たカトーと、女装したうすらデカい中年男と、娼婦にしては剣呑すぎる目つきと服装をしたメスガキを見て、扉を閉めた。
「うぉぉぉい! ブラッドリー! ブタ野郎! なにビビってんだコラ!」
近くを走る蒸気機関車のごとく、カトーは葉巻をぱかぱか吸い散らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます