ジェシー・デスハンド・グッドマン

4.1

 それは、エクス・マイアミに到着する前日のことだった。

 汚れた空を灰色の雲が覆い隠している。代替黒色火薬が吐き捨てるガンスモークよりも濃そうな雲の切れ間に、赤い月が輝いていた。

 廃墟と化した機械部品の工場の、開放されたままになっている旧時代のトラック搬入用シャッターから、橙色の灯りが漏れている。中では支柱を畳まれた空飛ぶ駝鳥号が佇んでいる。その傍ら、瓦礫の残るコンクリ床の上で、男が一人、少女が一人、横並びになって焚火をしている。


 ジェシカは、料理の準備を始めていた。

 カトーに任務を任されたのである。昼の内に仕留めた野生化した肉牛を捌き、あまつさえその肉を焼くという、困難を極める任務だ。

 いくら料理が不得手なジェシカとはいえ、串に刺して火にかざすという手法であれば、焼き加減にさえ目を瞑れば自信はあった。仮に最悪の結果に終わったとしても、表面を山刀で削ぎ落してしまえばいいのだ。


 しかしカトーは、あの鬼軍曹は、フライパンに油を引いてミディアムレアで焼けなどと、無理難題をジェシカに押し付けてきたのである。しかも鬼軍曹自身は、別に焚火を熾して、缶詰から出した謎のソースを温めているだけだ。

 多少は野菜も投入してはいる。だが、ちっぽけな鍋でソースを温めるだけなら、ジェシカにだって上手くできるはずだった。

 カトーは恨めしげなジェシカの視線に気づき、その意図を正確に把握した。


「できることをやらせたって練習にならねぇだろうが」

「わ、分かってるってば!」

「だったら早くしてくれよ。いつまでもやってたらソースが煮詰まっちまう」

「せ、急かすなって言ってんの!」


 言いつつ、ジェシカは唾を飲み込み、油を引いたフライパンを焚火にかけた。カトーに教えられた通り、慎重にフライパンを傾け、油を鉄板に馴染ませる。厚切りに切っておいた牛の赤身肉に手を伸ばし――、


「おい。ちゃんと温度は見たか?」

「っ! 分かってるってば!」


 ジェシカは、焚き火の灯りにも負けないくらい顔を紅潮させていた。慌てて手を伸ばし、フライパンの上にかざす。ぐっと眉間に皺を寄せ、待っている。


「わんみししっぴ、とぅーみししっぴ、すりーみししっぴ」


 熱い。でも耐えられないほどじゃない。


「ふぉーみししっぴ、ふぁいぶみししっぴ」


 もう無理。だから今だ。

 ジェシカは牛肉を投入した。


「うわわわっ!」


 盛大に鳴った油跳ねの音に苦笑しながら、カトーは火から鍋を引き上げた。


「それはお前が食えよな。あと早くひっくり返せ。フライパンの温度を下げんだよ」

「わわわっ」

「お前は焚火に興奮するイノシシかよ。あとな、フライパンの熱に耐えようとしてんじゃねぇよ。耐久ゲームをしてるわけじゃねぇんだからな?」

「うるさい! 黙って焼けるの待ってろ!」


 ジェシカにとって、お嫁さんへと至る道は、ロッキー山脈の踏破に等しい。

 カトーは、いまや相棒となりつつあるジェシカを助けてやろうと顔を振り――、

 真顔になった。

 剛の花嫁修行者は不慣れなフライ返しを捨て、焦げつきだした肉を徒手空拳でひっくり返していたのだ。どうやら彼女の指先はフライ返しよりも熱に強いらしい。


「あー……フライパンを火から下ろせば、落ち着いて作業できるぞ」

「分かってる!」


 じゃあやれよと、カトーはため息まじりに鍋を冷まし始めた。漂う手製のオニオンデミグラスソースの香りに、腹の虫が目覚めてきそうだ。

 と、靴音が工場奥から響いてきた。安全確認に行っていたジャックが戻ってきたのだろう。


「どうだい料理長。ミス・ジェシーの腕はマシになってきたか?」


 言って、ジャックはカトーの横にどっかり腰を下ろした。半ば食事前の儀式と化しつつある会話だ。これまでのところ、カトーの返答が芳しくなったことはない。


「短気なのが問題だわな。あとは回数。とりあえず賞金稼ぎ狩りを掻っ捌いた山刀(マチェーテ)を包丁代わりにするのは、やめてもらいたいね」

「……なんでだ?」


 ジャックが聞くと、カトーはこれまで見たこともない無感情な顔になった。


「本気で言ってるか?」

「……もちろん冗談だ。洗っていたとしても気分はよくない」


 ジャックは苦笑いで、ステーキを焼くという単純作業相手に死闘を繰り広げるジェシカを眺めた。まるで子供を見るような目だった。

 実際ジャックは、もし俺とジェシカの間に子供がいたら、とでも想像していたのだろう。


 ジャックは頭を左右に振った。どんな考えであれ、不毛な妄想に過ぎない。

 ステーキ相手に戦うジェシカは、陸舟の船長ジェシーだ。船乗りとして男の名の方が通りがいいから、と『ジェシー』を選んだ女である。娘ではなく、ましてジャックの女房のはずがない。


「どうしたよ? なんか工場の奥で、変なもんでも見つけたか?」

「いや。ただ、明日には着くからな。ちょっとお前と話しておきたかった」


 カトーは眉を跳ね上げた。


「おれとかよ? 勝負のことか? 昨日の罰ゲームなら、もうやったろ?」

「違う。罰ゲームじゃない。勝負自体の話さ」

「それは、アタシ、には、したくない、はなし――うわっ」


 ぼふん、と破滅的な音を立てて、ジェシカのフライパン上で不本意なフランベが起きた。原因はフライパンの端で温まりすぎた油だ。

 慌てふためくジェシカをよそに、カトーはため息とともに立ち上がった。鍋に被せていた蓋を取り、燃えるフライパンにかぶせた。流れるようにフライパンの柄をジェシーの手ごと握って、火から離す。蓋を開ける。表面が炭化しかけた物体があった。


「慌てなくていいから。ヤバいと思ったら蓋を被せて火から離す。いいな?」

「わ、わかってるし」


 そう負け惜しみを呟き、ジェシカはフライパンをカトーに引き渡した。


「……何の話か知らないけど、アタシも聞かせてもらうからね」

「別にいいんじゃねぇの? なんか思うところあるんだろ、爺さんとしちゃ」


 ジャックは、爺さんという単語に耳ざとく反応した


「減らず口ってのは、本当に絶えないんだな。えぇ? カトー?」 


 言って、レッグポーチから勝敗をメモした紙を取り出す。


「今日までのお前の勝率な、二割以下だぞ。なんでだか分かってるか?」

「そりゃ簡単だ。ファイブスタッドポーカーだと、おれが狙ったカードを引けても、そっちが強いものを引いたら勝てないからな」


 ジャックは帽子を被り直し、カトーの目を見た。飢えたコヨーテ――かつてジャックがそう評した目をしている。

 カトーにとっては、敢えて口にするまでもない論理だったのだ。


 トランプのカードは各スートで十三枚、それにジョーカーを加えて五四枚だ。カードを引ける回数は五回――なのだが、それもすでにシャッフルされたカードの上から取っていくだけ。そこにカトーの意志は介在しない。


 仮にカトー自身がシャッフルしたとしても、ランダムに混ぜたとき任意の役を作れる並びになる確率は、驚くほどに低い。さらにポーカーの場合は相手と自分の役を比較する。言い換えれば、カトーは相手の手が自分より低い役を作れるように切らなければならない。

 いくら人の三倍ほど高く狙った目を作れても、元の率が低ければ確率も相関して落ちる。


 もっとも、それにしたって勝率が二割以下というのは低すぎる。となれば、ジャックが同じような力をもっているのか、あるいは別の何か――例えばイカサマだ。

 だから、なんだってんだよ。

 カトーはウェルダンに焼き上げられたステーキを皿にのせ、手製のソースをかけた。


「なにが言いたいんだ? ミセス・ホールトンとの勝負は諦めろって話か?」

「勝負をしたいなら好きにすればいい。けどな、なぜ負けてるのかは分かってるか?」


 言いつつジャックは、バラすなよと言わんばかりにジェシカを睨んだ。

 ジェシカが小さく頷く。

 けれど、


「どんな理由で負けが込もうが、知るもんかよ。俺は俺の勝負をするだけだ」


 肉をカットしながらのカトーの言い分に、黙っていられなくなったらしい。


「ジャックが言いたいのはね、カトーはサマでやられても見抜けないってことだよ」

「おい……」


 ジャックは顔を覆った。なんだかんだ言っても、一月以上を共に過ごして、ジェシーはカトーに情が移ったのかもしれない。


「まぁ、そういうことだ。そう簡単に会ってはくれないだろうしな。それに、お前は戦えないだろ? 苦労して彼女の前に立ってもイカサマ勝負に真っ向からぶつかってくかもしれない。そうしたらどうなるか……犬死だ」

「アタシもそう思う。エクス・マイアミについたら、あんたはどこかに隠れて待ってなよ。まずアタシらで話をつけに行って――」

「冗談じゃねぇ!」


 カトーの怒声に、ジェシカは歯をキリリと軋ませ瞬いた。

 カトーは肉を咀嚼しながら、抗議の意を込め、ジェシカにジト目を送った


「お前、ガーリック入れ過ぎなんだよ。俺のソースが負けるってのは相当だぞ?」

「はぁ?」


 ジェシカはポカンと口を開いて、同意を求めるかのようにジャックに目を向けた。二人は微かに頷きあって、ほとんど同時にカトーに目を向ける。どちらも、眉を寄せていた。

 しかし、カトーは顔も上げようともせず、肉に齧り付いていた。口を離し、顎を擦る。


「はぁ? じゃねぇよ。筋切りもしなかっただろ? 野生の牛なんだから、念入りにやらねぇと固いまんまだって言ったよな?」


 その言葉を聞いた瞬間、ジェシカは鼻を膨らませて大きく息を吸い込んだ。

 しかし、先に口を開いたのはジャックだった。


「おいカトー。冗談はやめて、ちゃんと俺たちの話を聞け。俺たちはお前の心配をしてるんだよ。お前さんはたしかにイカれちゃいるが、死ぬほどでもない」

「ちゃんと聞いてるよ。って、ほんとに固いな、こいつ」

「カトー!」


 とうとう黙っていられなくなったのか、ジェシカが怒鳴った。かつて自分自身も命を拾ってもらったからこそ、カトーの軽薄さが許せなかったのだろう。

 カトーは、肉にフォークを突き刺し、ジェシカに差し出した。


「食ってみろよ」

「いい加減にしなよ。怒るよ? アタシも、ジャックも」

「いいから食ってみろって。そうしたら、ちゃんと話してやるよ」


 ジェシカは困ったように眉を歪めた。フォークの先のステーキと、カトーの目を、交互に見る。ひとつ鼻で息をつき、頬張った。「ちゃんと話す」とカトー自ら口にしたのは初めてだったため、渋々ながら従ったのだろう。

 眉を寄せて咀嚼するジェシカを見ながら、カトーは薄笑いを浮かべた。


「これが俺の勝算だよ」

あになに?」「なんだって?」


 ジャックとジェシカの意味不明と言った様子の声が重なる。してやったりだった。

 カトーはポケットをまさぐったかと思うと、手品師のように手を引き抜いた。広げた右手の指先に、ふたつの赤い賽子が挟まれている。


「いまからおれがこの賽子を振る」クラップスと同じにしようか。おれは一回だけ振るから、七が出たらおれの勝ちだ。もう文句は言わないでもらう。もしも他の目が出たら――そうだな、ハイ・ナンバーが出たら年上のジャックの言うことを、ローナンバーが出たら年下のジェシーの言うことを聞くってのは、どうだ?」


 ジャックとジェシカは揃って訝しげな顔をし、互いを見合って、頷いた。


「いいだろう」「いいよ」


 二人には、分のいい勝負に思えていたのかもしれない。なにしろカトーはすでに負けが込んでいて、イカサマだって見抜けない。

 そう思うように仕向けてきたのだから、当然だ。

 しかし、真相は違った。


「見てろよ? おれはベルヌーイの信徒なんだ」


 カトーは唇の端を大きく吊って、賽子を振った。

 六つの出目の出現率は、それぞれ六分の一だ。賽子がふたつに増えても、七が出る確率は変わらない。

 

 賽子が転がっていく。

 普通に考えれば七以外の数字が出る確率の方が高く思える。だからジャックとジェシカも乗ったのだ。実際、普通の奴が賽子を振ったのなら、まったく正しい。

 しかし、振ったのは、一度に三人分を振ってみせるカトーである。

 

 カトーが七を狙って投じた賽子は、通常の出現率十六.六七パーセントのちょうど三倍となって、五十.〇一パーセントの確率で七の目を出す。

 そのとき、七以外の数字が出る確率は、およそ八十三パーセントだ。それを七未満と七より上に分けて二人に分配。すると、ジェシカとジャックが勝つ確率は、それぞれ約四十二パーセントとなる。

 

 比較すれば一目瞭然。

 カトーは分の悪い勝負を受けたフリをして有利な勝負を。さらには出るか出ないか、五分五分の勝負すら超えてみせていたのである。。


 カトーが投じた賽子が、床の小石にぶつかり、跳ね飛んだ。


 もちろん、勝負に絶対はない。負ける可能性だってある。もし負ければ、カトーはミセス・ホールトンと勝負をさせてもらえないだろう。

 その場合、カトーは負け犬のままで人生を終える。

 ジャックとジェシカには想像も及ばない考え方だろうが、それはカトーにとって、とてつもなく重いベットだった。

 

 だからこそ、楽しい。


 カトーは弾む賽子を目で追った。肌がヒリつく。目玉の奥で、何かが、ぎゅっと圧縮されていくような感覚がある。

 転がる賽子を睨む彼の目は、鋭い眼光を放っていた。唇の両端が無意識のうちに吊り上がる。

 賽の出目は神のみぞ知る――。


 だが、それが勝負の醍醐味だ。

 賽子が止まった。焚火の火に照らされていても分かる、赤い点。

 ジャックとジェシカが覗き込み、賽の目を確認する。


「一と……」「――六だね」


 ざまぁみろ。まずは第一関門突破だ。


「じゃあ、お二人とも? もう文句は言わないでもらおうか?」

 言って、カトーは信じらない速度で強く打ちつづける鼓動を楽しんだ。狙いすまして勝負を仕掛け、勝った。それも最高に重たいベットをして、勝利を確信している相手を出し抜き、勝ちの目を拾ったのだ。

 カトーは興奮の極致にあった。


 しかし、カトーは、それでも鉄仮面を保った。それが勝負師の流儀なのだと信じていた。

 二枚のステンレス・プレートにステーキ肉を移して、ソースをかける。強く太い香りは勝利の余韻そのものだ。鞄を手繰り寄せ、これまでちびちび飲んできて残りは底から指三本程になったバーボンの瓶を取りだす。コルク栓を抜き、一口だけ舐めた。


「さぁ、メシにしようか。今日は飲みたきゃ、一杯ずつならお前らにもやるよ」


 そう言って、ジャックとジェシカにプレートを差し出す。


 まさかの敗戦を喫した二人は呆れたように苦笑し、プレートを受け取った。もはや諦めるしかないと悟ったのだろう。

 二人が齧ったステーキ肉は固く、珍しく、ソースが少しだけ焦げついていた。

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