5.私が父親です


 その人は、冷たく耀平を見つめていた。


「息子のことで、お聞きしたいことがあり参りました」

 綺麗な会釈に品がある。女将として挨拶をしてくれた時も、そう思っていた。

 そして。耀平も、もう逃げられないと腹をくくる。

「遠いところをわざわざ、ご足労頂きまして――」

「いえ。早朝に申し訳ありません。おでかけになるところでしたね。ひとまず、帰らせて頂きます。ですが……」

 わかっている。『それならば、いつ会ってくれるのか。話を聞いてくれるのか』という問い。

「本日は、この家に十九時には帰ってくる予定です。他ではお話が出来ません」

「承知いたしました。では、またその時にお伺いいたします」

 お互いにわかっているから、言葉少なめでも事は決まった。

 だが女将は、そこで立ちつくしていた。それどころか日傘を閉じ、ふっと耀平の向こうへと視線を奪われていた。

「まあ。ほんとうにご自宅に工房が。なんて熱い空気がここまで……」

 その目が急に、綺麗に輝いた。冷たい眼差しで人を圧する女性が、ときめきをみつけたように。

 しかもその女将がじっと……。

「妹様ですか。まあ、勇ましいこと」

 溶解炉に吹き竿を入れ、ガラスを巻き取り、そして花南が竿を吹いているところだった。

 下玉造りを終え、また溶解炉からガラスを巻き取る。上玉になる玉を素早くリン紙の上に乗せ、丸く丸く形を整えている。

 伸びた黒髪を後ろにひっつめひとつに束ね、白いシャツにいつものカーゴパンツ、そして職人用の工場エプロンの姿。最近は、焼き戻し炉の炎が眩しいからと、工業用の黄色いゴーグルをすることも多くなった。

 丸くなった上玉を焼き戻し炉に入れ、くるくると竿を回し、また柔らかくなったガラスを再びブロー。真っ赤なガラスがふっと膨らんだところ。

 こうして集中している時の花南は、ここに耀平がいることも、見知らぬ客がいることも気がつかない。

 それでも、もし気がついたら……。花南は一目でこの女性が誰なのかわかってしまうのだろうか。耀平はヒヤヒヤしている。

 気がついたのは『ヒロ』だった。藍色の作務衣に、染めの手ぬぐいを頭に巻いた親方のヒロが、こちらにやってくる。

「社長。お客様ですか」

 見学者なら、俺が……と気遣ってくれたのだろう。だが、耀平は短く答える。

「岡山からこられた『金子様』だ。今日、私が帰ってくる頃に、またこちらに来られるとのことなので、親方、よろしくお願いいたします」

 『金子』と告げただけで、ヒロが青ざめた。

「親方。義妹を頼んだよ」

「は、はい。社長……」

 彼が狼狽えている姿を、女将はじっと見据えていた。

 耀平が工房から離れると、彼女もそっとついてくる。

「事情をご存じの方がいらっしゃるようで……」

「彼は、義妹の大学時代からの同期生です。いちばん信頼できる男です」

「そうでしたか」

 女将は不満そうだった。他には誰にも知られたくない……。それはそうだろうと、耀平はネクタイの結び目をおもむろに締め直した。

「では。また参ります」

「車を出しますので、お送りしますよ」

「結構でございます。そんなに年寄りではございません」

 さすが、強情そう……。

「いえ。着物姿の女性に気遣っただけですが」

 だがそこで、女将が鋭く耀平を睨んだ。

「いまはまだ。息子の死に関わった方の隣にはいたくはありません」

 ゾッとした。それは、恨み辛みを追いかけてきた母の顔だと思った。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 予定の時間を少し過ぎた。もしかすると、もう女将は訪ねてきていて、花南と対面しているかもしれない。

 ああ、帰宅は二十時にしておけば良かった――と、耀平は車をガレージに入れず、垣根に停めて家の中へと急いだ。

 もし、来ていたとしても、ヒロと舞がなんとか花南を助けてくれるだろう。だからヒロに『頼む』と託したつもりだった。


 玄関を開ける。すぐに置かれている靴を確かめたが、草履はなくてホッとした。

 だが、リビングへのドアが直ぐに開き、今にも泣きそうな花南が駆け寄ってくる。

「兄さん。金子さんのお母さんが来ていたって本当なの? 仕事が終わってからヒロが教えてくれて……」

 さすが、同期生。仕事が終わってから告げるべきという判断をしてくれていた。それでも夕刻に聞いたばかりで、花南の動揺は尋常ではなかった。

「大丈夫だ、カナ。俺が話すから」

 花南が首を振る。

「そんな甘えたことできないよ。できない……、できない……。だって、最後に会ったのはわたしなんだから……。止められなかったのは、わたしなんだから!」

 まだ職人姿のままで取り乱す花南を、耀平はひとまず抱きしめた。

 開け放たれたリビングの扉の向こうで、ヒロと舞も不安そうに眺めている。


 母親が息子の死に疑問を持つのは当然のこと。花南が警察で取り調べを受け、釈放されるその時に『証言をした者』としてのサインをした。だがそれは花南ではなく、耀平がした。

 刑事に無理を言って頼んだ。義妹の証言は、倉重の家に関わること。家のことは義父か自分が取り仕切っているから、養子である自分が責任を持つ――ということで、耀平がサインをした。ただし、花南が証言した内容は『個人情報』であり、開示はしないで欲しいと頼んだ。

 そもそも日本の警察は、諸外国と異なり、遺族に捜査の情報をすべて開示することはないともいわれている。

 目撃者や証人の個人情報を守るためとも言われている。それが遺族にはとても理不尽なことであって、証言をした者としては、協力をしたが恐ろしいという不安から守ってもらっているという奇妙なものになっている。

 証言をした当事者として、助けられた部分はある。だけれど、遺族には不憫だとは思っていた。

 息子の遺体を引き取りに来た母親と弟の嘆き悲しみを刑事から聞いた時も、『そちらから説明したいという意志はございませんよね』と再度問われ、『ありません』と答えてしまったのは耀平だった。花南はすでに小さな荷物をまとめて、出て行った後だった。

 刑事は遺族に『異性関係のもつれによるトラブルです。息子さんに落ち度はひとつもありませんでした。証言は、その女性の家族が……』と説明してくれたようだった。

 当然。『その女性は誰か』と女将は刑事に追及したという。もしそう言われたのならば、こう答えてくださいと刑事にそこだけは明かして良いと伝えている。

 それは『男性二人の間で争う原因になった女性は人妻です。すでに亡くなっており、証言はその奥さんのご主人がしてくださった。それ以上は、あちらが伏せて欲しいと……』。

 きっと聡明な女将はそれだけで察したはず。息子とその関わった女性は『後ろめたい関係だったかもしれない』と。こちらもあちらも、堂々と明かされては困る状態にある。

 そこは、『体裁を気にする商売』をしている者同士。きっとわかってくれると耀平は確信していた。

 耀平の思惑通りに女将はすんなりと遺体を引き取り、以後、なんの追及もしてこなかったらしい。

 だが。耀平は安心はしていなかった。女将として体裁を優先したが、母親として気が済まなかったら、いつか、ここを突き止めるかもしれない――。

 そして、それは山口に帰ってきた義妹にもきちんと話した。

 いいか。花南。息子を亡くした母の気持ちはそうそうは癒えない。いつか母親がつきとめるかもしれない。その時の覚悟をしておこう――と。

 花南も頷いた。その時が来たら、謝りたいと。

 そして二人で決めていた。『潔く、秘密の蓋を開けよう』という覚悟を揃えてから、また二人の生活を再開した。


 震えて泣いている義妹を、耀平は胸から引き離す。そして毅然と告げる。

「カナ。女将を迎えるための支度をするんだ」

 ひとしきり兄さんの胸にすがることが出来たからなのか、カナはそこでやっと涙を拭いて顔を上げた。

「着替えてきます」

 沈んだ表情のままだったが、カナの後ろ姿も毅然としていた。

 耀平も急いで迎える準備をする。

 キッチンには、お腹が大きな舞が立ってくれている。

「耀平さん。花南さんが動揺していたので、私がお茶菓子を……こちらでよろしいですか」

 舞はこんなところがとても気が利く。外で働いたことはないと嘆いていたが、家の手伝いで充分にその感性は磨かれていた。

 道場門前の老舗和菓子屋の菓子を用意してくれていて、耀平も頷く。

「大丈夫です。ありがとう、舞さん」

 そしてヒロも作務衣姿のまま、落ち着きなくうろうろしている。

「カナは悪くないんだ。そうだ、だって、カナだって仕方がなかったんだ。そ、そうですよね。社長」

 美月の性癖以外は、全てを知ってくれているヒロと舞。特にヒロは、学生時代から花南との間で釈然としなかったものが何か判ってからは、カナの苦悩を良く理解してくれていた。

「話せばきっとわかってくれると俺も信じている」

 耀平は時計を眺める。あの女将が時間通りに来ないとは……。意外だった。もう三十分も経っている。

 そのうちに花南が寝室からリビングに戻ってきた。

 その花南を見て、耀平はハッとさせられた。

 シンプルな濃紺のワンピースを着て、花南は乱れていた黒髪を結い上げてきちんとまとめていた。

 それはまるで、……美月のようで。雰囲気はまさしく、静かな花南そのもので華やかというわけではないのに、いつも生意気な義妹でざっくばらんとしたガラス職人の花南が、急に姉のような品を備えて現れた。

 美月の妹が、大人になったのだと。改めて耀平は思った。そしてそれだけの身支度をした花南の気持ちも、良く伝わってくる。そのシンプルでも品の良い服装を選んだのは、自分が止められずに死なせてしまった金子を弔う気持ちで彼の母親に会おうとしているのだと。

 ヒロと舞も、そんないつもと違う花南の変貌に戸惑っている。そして彼等にも、花南の気持ちが通じているようだった。

「社長。俺と舞は、そこのカフェで休んでいます。なにかあったら呼んでください」

「いや。今夜はもういい。舞さんの身体も大事だから、そのまま帰ってくれてもいいからな。本当になにかあったら、連絡はするから」

 『わかりました』。ヒロと舞はそのまま帰宅した。

 彼等が出て行ってすぐ。チャイムが鳴った。

「兄さん……」

「来たな」

 時間を見ると、もう四十分の遅れだった。

「遅れてしまい、大変申し訳ありません」

 玄関のドアを開けると、薄暗いそこに着物姿の女将が静かに立っていた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 リビングのソファーに女将を招いた。

 楚々とした落ち着きで、女将が改めて挨拶をしてくれる。

「遅れてしまいまして、誠に申し訳ありませんでした。……いざとなりましたら、その、」

 女将の気後れした様子を知り、意外だと耀平は驚いた。

「覚悟をして参ったつもりでしたが、お恥ずかしいことに躊躇っておりました。あれほどの死を遂げた息子です。その裏には、あの子がどうしても親兄弟にも告げることが出来なかったことがあったのだと思うと、知りたい気持ちもありますのに、恐ろしくもあります」

「お察しいたします。……ですが、親兄弟だからこそ言えないこともあるかと思います」

 そして耀平は、女将の後ろに見える対面のキッチンで、お茶を出す準備をしている花南を確かめた。

 いつもの澄ました顔をしているが、表情は覚悟で強ばっていた。それでも歴とした佇まいで湯を沸かしている。

「昨年。耀平さんが、こちらの料亭にいらしてくださったのは、思うところがあってと考えてよろしいでしょうか」

「覚えていてくださったのですね。素晴らしい料亭でした。料亭の落ち着きも、床の間の整え方も、接客も、そして料理も。とてもくつろがせて頂きました」

「どうして、お訪ねくださったのですか。『間男』の実家でございますよ」

 なかなかはっきり来るなと、耀平はやはり気圧されそうになっていた。

 だが、これならいちいち様子見をして、物の言い方を考えなくて済むかもしれない。

「では。そのお互いに探られて痛い腹……のことをお聞きしましょうか」

 南部鉄のやかんで湧かしていた湯が沸いた。

 花南が淡々とお茶の準備をしている。やがて、花南が茶筅で茶を点てる音だけが響いた。

「お抹茶ですか。ありがとうございます」

 後ろにいる花南に、女将がそっと頭を下げた。

「義兄と、甥っ子が好きなんです。三人でお茶をする時は、いつもお抹茶です」

 やがて。花南が点てた茶と和菓子を女将の前に置いた。

「手軽に点てたものですが」

「いいえ。甘い物が欲しいと思っていたところです」

 戴きます。女将が挨拶をしてから、和菓子を食し、抹茶茶碗を手にして一口。

 それを花南は、床に正座したままじっと見上げていた。その眼差しを、耀平もじっと見守っている。

 そんな花南の目から、涙がひとつ零れたのを見てしまう。そして女将も、そんな目でみている花南の様子に気がついた。

「まあ。どうされたのですか」

 花南が涙を拭いて、女将をきちんと見つめる。

「そっくりです。金子さん……と。綺麗な仕草で食べる姿がとても印象に残っています。姉が死んだ時です。ひっそりと姉の位牌に焼香に来てくださいました。喪主は義兄でしたので、表立って参列が出来なかったのが不憫で……。義兄と家族に内緒で、わたしの一存で姉の霊前に来て頂きました」

 女将が驚き、そして青ざめた様子で耀平を見た。だが耀平は驚かない。花南と和解して後、きちんと説明してもらっていたし、いまはもう……なんとも思わない。当時、知ってしまったら狂っていただろうけれど。

「もう私も存じております。いまはもう、なんとも思ってはおりません」

 だが、女将は青ざめたまま俯いてしまった。

 息子の『不義』が嫌な予測ではなく、事実であったことが確定してしまったからなのだろう。

「教えてください。どうして息子が、そちらのお嬢様……、いえ、奥様と関係して『殺し合い』になったのかを……」

「とても酷い真実です。構いませんか」

「構いません」

 凛とした眼差しを向けられ、耀平も決意をする。

「お待ちくださいませ」

 書斎に赴き、それを持ち出す。

 女将の前に戻った耀平は、まず、ジャケットの胸ポケットに入れている一枚の写真を差し出した。

 細い指が、そっと受け取ってくれる。女将がその写真を眺めた。

「私の息子で、『航』と言います」

 見ただけで……。女将が狼狽え、そして、耀平と花南を落ち着きなく交互に見た。もうわかっただろう。

「ま、まさか……」

 女将の驚きをよそに、耀平は持ってきた封書から二通りの用紙を女将の前に並べた。

 恐る恐る、彼女がそれを覗き込み、そして見比べた……。

「勝手ながら。遺族の方の許可もなしに、義妹が疑われた際、その疑いを晴らすために検査をさせて頂きました」

 申し訳ありませんでした――。耀平が頭を下げると、花南も床に正座をしたまま、手をついて深くひれ伏した。

 航の写真、そして二通りの『DNA鑑定書』。それをまだ交互に眺め、女将の手先は震えていた。

 そのうちに、女将が人目も憚らず、嗚咽を漏らして涙を蕩々と流し始める。

「あの子に……子供が……。こんなことって……。あの子がこれぐらいの時に、そっくりではないですか」

「生前の忍さんに会ったことがある花南も、そっくりだと常に言っております」

「航君――というのですか」

「はい。紛れもなく、貴女様の孫です。父親は忍さんです」

 だが耀平は、これまでの屈辱も、そして子供を育ててきた幸福を思い女将にはっきり告げる。

「ですが。私が父親です。航は私の息子です。いままでもこれからも。彼を守るために、貴女から謗(そし)りを受ける覚悟をしてきました」

 耀平のその目を暫く見つめた女将は、逃れるように『航』の写真へと視線を落としてしまう。

「……いつからですか。そちらのお嬢様……、いえ、奥様とうちの息子が……」

 女将は耀平に尋ねていたけれど、その横から花南が毅然と答えた。

「学生時代からです。姉は忍さんとの結婚は出来ないと判断をして、見合いにて義兄の耀平と結婚を決めました」

「……それが……断ち切れなかった……というのですか……」

「はい。結婚後、姉が義兄を裏切った時、当時広島で学生をしていたわたしの下宿先に駆け込んできたことがありました。その時に……姉から忍さんを紹介されました」

「それがどうして、『殺し合い』になったりしたのですか。そして、耀平さんは遺族であるわたし達の気持ちをわかっていらっしゃったようなのに、頑なに隠されたのは、奥様と息子の不義が公に暴かれるのを避けるために、教えてくださらなかったのですか」

 その問いに、耀平も毅然と返す。

「なによりも。航の出生がどのようなものであったかを、公に暴かれないためです」

「航君のため……。忍の息子だと知れることがいけないことだったのですか。いえ、もちろん、忍は気ままな生活を好んでいましたので、子育てを引き受けたとも思えませんし……。そちらのお子様として育てていた以上、こちらが首をつっこむこともできなかったとは思います。ですけれど、それならば私どもに秘密裏にでも構わないから教えてくださったら……。こんな、二年も息子の死に縛られず、二年も、こちらを自力で探さずとも良かったのに……どうして」

 花南が狼狽えている。耀平も、そこは伏せた者としていちばん痛いところで、いつか女将が会いに来たら謝りたいと思っていたことだった。

 だが、その前に『理由』だ。納得してくれなくても、謝る前に『理由』。女将がいちばん知りたいことを、ここまで来たら言わねばならない。

 それにも耀平は、花南が何かを言い出しそうにしているが、言えなくて躊躇っている代わりにはっきりと伝える。

「刺した男と忍さん。どちらの子を妻が宿したのかはっきりしない行為があったからです」

 それがどんなに淫らでいかがわしい行為であったのか、一発で察しただろう。

 案の定、女将が絶句した――。


 

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