4.○○年 山口


 ○○年 山口――。

 山口の家で初めての晩、花南を抱いた。

 無理矢理、抱いた。


 それは女性には酷い行為だったと思う。嫌がる花南を連れてきただけではなく、抵抗する花南を無理矢理ベッドに押し倒し、服を力任せに剥いで……。

 ――いや、やめて絶対にだめ。わたしはダメ。他の女の人にして!

 ――カナがいいんだ。他の女なんて、どうでもいい!

 無理矢理、男の両手で頭を抑え、泣き顔になっている義妹の唇を塞いだ。

 強引に唇をこじ開け、義妹の熱い口の中を貪った。

 花南が本気で嫌がっているので、流石に耀平も少し怯みそうになる。もう耀平もやけくそだった。これでなにもかも壊れるなら、それも決心がつくというもの。それなら、男の衝動をここで吐きだしておく。

 カナ、おまえが欲しい。カナ……、俺のそばにいてくれ。カナがいい。カナ、あの二年のように俺と航のそばで静かに笑っていてくれ。

 なにもかもかなぐり捨てた男のキス。義妹の熱い口の中を荒らした。気のせいか。彼女の甘い舌先も、耀平に絡みついた気がした。

「ひ、酷い……。嫌がっているのに、酷い……」

 どんな抗議にも耀平は答えなかった。耀平の目は間違っていない。義妹は、決して俺を嫌っているわけじゃない。

 根拠のない確信のようなものが、ずっと前からあった。『決して、嫌われてなどいない。カナだって俺のこと……』。そんな素振りが彼女にも何度かあった。彼女に少し『ときめいている?』と感じた頃。それを悟られたかのように、花南は小樽へと行ってしまった。

 なのに花南はそれを忘れたようにして、切り捨てたようにして、小樽で男に身体を明け渡していた。どうでもいい男に。いまなら言える。あれは初めての嫉妬だった。

 全てを従えた耀平は、素肌になった義妹を見下ろす。

「カナ。そんなに嫌か」

「嫌――」

 そういいながら、彼女はもう抵抗してこなくなった。

「俺は……すごく、気に入った」

 泣いている義妹の顔を包みこんで、今度は優しくキスをして唇を吸った。また可愛い声を『あ』と漏らし、ついに花南の身体から力がぬけていった。

 男はあれきり。花南は独り身を貫いて、ガラスに没頭していた。もう、あの時から俺のものだった。そう思いながら、やっと手元に置いた義妹を愛しぬく。


 まだその手は耀平を求めもしないし、彼女の指先は、男の肌を愛そうとしない。ただ耀平の身体と肌が重なっても、否応なしでも、花南は耀平を受け入れてくれている。

 いまは嫌がっているが、それも義妹だから……。越えてはいけない義兄妹という危うい関係を必死に保とうとしているから。姉の夫だったから、次は妹もなんてきっと嫌だろうけれど……。

 それでもいい。こうして花南の肌を俺だけのものにできた。

 花南のカラダ中、どこもかしこも隈無くキスをして……。その甘さを、一晩中味わった。

 さすがに鍛えている耀平でも疲れ果て、朝一番のカリヨンの鐘の音を聞いた途端に眠ってしまったようだった。

 これから。この鐘を聞きながら、ここで花南と暮らす。次の休みには、航を連れてこよう。そこのダイニングで、一緒に食事をしよう。花南はあまり料理が得意ではないから、俺も手伝う。あの頃のように、花南と航と買い物に行こう。微睡みの中、ずっとずっと強ばらせてきた何かがふっと和らいでいくのを感じていた。


 それから五年。『勝手に俺のものにした』義兄と義妹の、約束もなにもない生活が続いた。

 勝手に連れ戻して抱かれた花南は冷たい素振りを頑なに続けていて、素直になってくれない。

 それでも。耀平が来る日は、キッチンで料理を準備して待っていてくれる。『ただいま』と抱きしめてもツンとしてなにも言ってくれないのも当たり前で、でも、クローゼットを開けると洒落たシャツにネクタイが揃えてある。

 夜を重ねる毎に、花南のカラダが耀平の男の身体に馴染んでいく。ふたりだけの夜、花南は最後には肌を熱くして、細くて長い腕で耀平を抱いてくれるようになった。

 慣れた睦み合いが、離れられない身体になっていく。あんなに危なっかしい若い妹だったのに、耀平が相手になってからは、他の男には冷たくなり見向きもしなくなった。

 すべてを預けてくれない天の邪鬼な義妹。決して『好き』とも可愛らしく囁いてもくれない義妹。なのに、耀平を待っていてくれる義妹。言葉ではなくて、暮らしている中で『好き』を忍ばせてくれていた義妹。

 彼女と過ごした五年間は、ほんとうに耀平には不確かでも大事なものだった。

 互いの秘密を握りしめて、互いに『決して言うものか』と心を硬くしながらも、彼女の身体の甘さに溺れて。秘密の上で、結婚をしようとしていた。


 だが『勝手に俺のものにした』のだから、許されるわけもなかった。

 秘密を抱えた彼女と秘密を握っている義兄の関係だったから、『偽りは偽り』。向き合うことから逃げてたふたりだから、あっという間に壊れた。

 本当のところで、まったく交わっていなかった関係は、一度離れた彼女は遠ざかるばかりで、もうどこにも見えなくなってしまった。

 耀平にあの匂いだけが残って。生身のぬくもりは、もうどこにもなくて。また二年、キリキリと心を痛め、苦しい日々。あの義妹のこと、もう男がいるかもしれない。男が放っておかない。花南ももう帰ってこないだろう。

 なのに。耀平は待っていた。もう勝手に連れもどす荒っぽいことは二度もできない。彼女が帰ってきてくれるまで、待っているしかない。

 それが。身勝手に義妹を手に入れた狡い男に下った罰だった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 ――義妹が、山口に帰ってきた。


 


 花南が義妹になって、十六年。

 やっと義妹から『妻』になる。

 妻の美月が逝ってしまって、十三年。

 もう、いいだろう。姉の次に迎えた妻が、妹でも。

 誰がなんと言おうとも、もう揺るがない。


 


 山口の家に来た日は、山口周辺の仕事を入れるようにしている。

 またこの付近にあるグループの事業を見回るようにしていた。

 契約先との会議や、打ち合わせ。観光協会の会合。わりと忙しい。山口の家と豊浦の本家を行き来するのが大変なように思えて、山口で休める家があるのは実は良い中継地点でもあって、あちこち営業に廻る副社長にはいい拠点にもなっていた。

「今日は銀行の担当者と会って、その後、湯田の料亭旅館支配人と秋の懐石フェアのミーティングで……」

 花南に予定を告げる。そして、夜はまたここに帰ってくると教える。

「うん、わかったよ。今夜はなにが食べたい?」

「うーん、そうだなあ」

 花南が『これが九月のネクタイよ』と並べてくれたものから、ひとつ、手にとってワイシャツの衿に通す。

 義妹が作るお気に入りのものを思い浮かべていたら、あまりにも迷いすぎたのか、ネクタイを結び終わってしまった。

 花南も一生懸命、考えている。

「そろそろ秋の炊き込みごはん? サンマとか。まだ茄子は美味しいかも。茄子の鉄火味噌とかいいかな……」

 もう耀平の喉がごくりと鳴った。

「おまえの鉄火味噌の茄子、うまかったな。あれがまた食べられる日が来るとは……」

 手元もおぼつかないほど料理ができなかったのに。耀平と暮らした五年間で、花南はだいぶ上達してくれた。

 そのうまいメシともいきなり別れたんだよなあ……と、妙な苦さも思い出してしまう。

「秋といえば、シメジの炊き込みごはんを食べたいけれど、まだ早いものね。富士山のキノコは美味しかったな……。親方も勝俣さんも、すごく褒めてくれたご飯。親方が秋になったらキノコの農家を探して買ってきてくれて、『花南、また作ってくれ』なんて頼まれたほどで。それで、兄さん達みんなで食事して……」

 懐かしい富士五湖の日々を、侘びしくて苦しかっただろうに、花南はそうして楽しそうに思い出すことがある。

 そして花南もはっと我に返った顔になる。耀平が知らない日々を語ってしまうことに、遠慮しているのだろう。

「そっか。俺も富士山麓のキノコで食べてみたかったよ」

「つくってあげるよ。これから、ずっと。お兄さんだって、ずっとわたしのご飯を食べてよ」

「ああ。そのつもりだ。今夜も楽しみに帰ってくるからな」

 優しく耳元にキスをすると、申し訳なさそうだった顔が可愛らしく笑って、耀平の胸に抱きついてきた。そうして頬までくっつけて、花南は離してくれなくなった。

 本当にこんな素直に愛してくれて。花南の黒髪を撫で、もう職人姿になっている彼女を静かに抱き寄せる。

 天の邪鬼で素っ気ない義妹だったのに。可愛い奥さんになってくれそうで、もうそれだけで充分だった。

 そんな妻になる義妹の頭に、耀平も頬を寄せる。今日の義妹の花の匂いが、今日は薄い。

「また、身体を洗わないでガラスを吹くつもりだな」

「うん。いまね……」

 可愛らしい奥さんになるだろうと思わせていた花南の顔つきが、急に妖しくなる。

「蝶を追いかけているの」

「蝶……?」

 義兄に可愛がられていた女が、急に色めいた目つきで、耀平の唇を細い指先で撫でた。

「噛んで、兄さん」

 は……? また、そういう顔で、俺になにをさせる?

 だけれど、義妹が真顔になって、耀平の唇を執拗に撫でる。口を開けて噛めと急かしている。

 仕方がないから。そっと口を開け、耀平は柔らかく花南の指先を噛んだ。

「吸って……」

 いや、だから。もうこんなことは。

「吸って」

 黒い瞳の眼差しに負け、耀平はそっと噛んだままの指の腹を小さく舐めた。

「黒い蝶。花にとまって蜜を吸うでしょう。男はそうだよね」

「男、をガラスに」

 それは俺のことか、と聞きたくなったけれど。いや、聞かないでおこうと思い止まった。もしそうなら、どう造られるのか気になってしまう。自分を自分で見定めることになりそうで恐ろしかった。

「そこらじゅうにいるでしょう。蜜を探している蝶々」

 確かに。男が蝶なら、地球は覆い尽くされているに違いない。

 花南が耀平の義妹でも女でもなくなる時。今日の花南はそんな日。もう昨夜から始まっている。そして火の前で、俺が愛撫した跡を流しきってしまう。削ぎ落として、純真な核をガラスにする。

「楽しみだ。花南」

 噛んだ指先に、耀平はキスをした。すぐに義妹の顔に戻って、花南は微笑んでくれる。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 くそ。山口にだってうまい茸(きのこ)ぐらいあるんだぞ。

 朝食を終えると、花南はすぐに工房へと出て行った。

 花南が淹れてくれた珈琲だけがテーブルに残り、そこで耀平は出勤前にタブレットで『山口県 きのこ農家』を検索中。

 カリヨンの鐘が時報を告げ、我に返った。

「いかんな、俺。どうもあの親方が苦手だ」

 一人前のガラス職人にしたのは、実質、師匠になった芹沢親方だった。

 二年、花南を厳しく育ててくれた。彼の弟子の育て方は『うまく突き放す』ことだと、花南が聞かせてくれた親方像からそう感じている。

 きっとあそこでも花南は女性として浮いていただろう。しかし、他の兄弟子が既婚者ばかりだったので容易い関係になるような空気も出来にくく、また独身であった親方は奥手そうで不器用そうでストイック第一で、女は二の次三の次。そんな男が弟子である女に手を出すのは、とても覚悟と勇気がいることに違いない。

 だがそれが、花南を『プロ』にしてくれた。本当に『師匠』というべき男で、花南には『恩師』。

 花南の職人としてのストイックは、小樽の親方と湖畔の親方それぞれから受け継いだものだと耀平は思っている。

 小樽の親方は温厚そうに見えて、ガラスを見定める時になるとあの暖かい眼差しが瞬時で凍るのだとか。そして、駄目なものはいっさいの迷いもなく、容赦なく割り砕くという。花南がそれを受け継いでいる。

 湖畔の芹沢親方も、あの厳つい顔で寡黙にガラスに向き合っている。あの険しい環境で、独り身で、いっさいの無駄な感情を削ぎ落とし、最後に残った『芯』を剥き出しにさせてガラスに向かう。花南もそれに近いことをしていたが、あの環境でさらに磨きがかかり、ついに『プロ』になれたのだと思う。

 俺は、花南になにをしてやったのだろう。花南が帰ってきてからふとそう思っている。あんなに素っ気なくて天の邪鬼だった義妹が、実はこんなにも愛してくれていただなんて……。その愛を抑えに抑えて、秘密のバランスを保ってくれていたのは花南だった。すべては、航のため、そして家族のため、最後は俺のために。

 俺は愛されているだけだ……。そう思ってしまう。

 茸でムキになった自分を誰か笑ってくれという自虐が湧き、耀平はタブレットを放った。

 さあ。もう仕事に行こう。今は帰ってくれば、花南の美味い飯が待ってくれている。それでいいじゃないか。

 黒いジャケットを小脇に抱え、まだ残暑の日射しが強い外に出る。

 ガレージに入れた車を出そうとして、既に熱風が漂っている工房へと耀平は歩み寄る。

 親方になってから、ヒロは作務衣(サムエ)を着るようになり、どっしりとした職人の風格が備わってきた。寸分違わぬものを、高品質で大量に生産する。しかも、どれも人が使うことを気遣ったものばかり。手際の良い作業を見ていると、小気味よい。

 対して『お嬢さん』と職人に呼ばれている花南は、製品を作り出すには少しマイペースだが、風変わりな商品を次から次へと生み出す。パワフル。かと思えば、伝統的な切子をやらせると、とても洗練されたものを造り出す。小樽の師匠に叩き込まれ、最後の一年の半分はグラインダーばかりやらされたようだった。これも師匠から受け継いだ技。この工房で切子をやらせたら、花南の右に出る者はいない。

 萩の工房と、山口の工房。近頃は競い合って、助け合って、倉重の新しい名物になっている。

 これらを守るために、耀平は今日もあちこち駆け回り、グループという大きな箱を上から見下ろして、どこも不具合がないか目を光らせなくてはならない。

 それが耀平の、航のため、家族のため、花南のため。なのかもしれない。


 カリヨンの十五分目の鐘が鳴った。

 でかけようと再び黒いレクサスへと向かう。ガレージに入ろうとしたら、緑の垣根に人影を見つけてしまう。

 着物姿の細身の老女。品の良い日傘をさして、耀平を見ていた。

 彼女を一目見ただけで、耀平ははっとする。見覚えのある人だった。

 そしてあちらも覚えがあるのだろう。耀平に静かに一礼をする。

 この老女には一度だけ会った。会った時、耀平は『客』で、彼女は『女将』。

 目元が、航によく似ている。切れ長の細い目。ものを見据える時に、どきりとするほど鋭くなる眼差し。この女性も同じ。

「倉重耀平さんですね」

「はい」

「恐れ入ります。突然のご訪問をお許しください」

 そして彼女が名乗る。

「金子忍の母でございます」

 こんな暑い日なのに。もう耀平は冷たい汗を感じていた。

 そんな彼女がこの家を訪ねたことの意味は、ひとつしかない。

 耀平は思わず。工房にいて、吹き竿を始めたばかりの花南を確かめてしまう。いまは、駄目だ。会わせるわけにはいかない。

 花南がとても後悔していること。きっと女将は、それに気がついてしまったのだと思う。

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