6.さようなら、お祖母ちゃん


「ど、どいういこと、ですか……」

 彼女が持っていたハンカチを、ぎゅっと強く握りしめたのがわかった。


 自分の息子が知らぬ女性と、また見知らぬ男達としたことが信じられないのだろう。親として当然、気の毒になってしまい耀平も思わず目線を逸らしてしまう。

「つ、続けてください」

 真実に向かう覚悟を再度固めたようなので、こちらも思い切って話す決意を新たにする。


「妻と忍さんの関係は、そこで強く結びついた関係だと花南は聞かされています。いわゆる、性癖といいましょうか。夫の私はその趣味はありませんでしたので、妻は断ち切れず、結婚後も忍さんに会っていたようです。丸尾という犯人の男は、二人の趣味の合間に入ったことがある男です。妻との交わりが忘れられず捜し当て、その脅しをまずは忍さんに持ってきたようです。その後、その知らせが姉の秘密を知る妹の花南に知らされ、『次は倉重が脅されるから、心構えを整えて欲しい。この男のことは自分がなんとかするから、花南さんは知らないふりをして欲しい』と願いに来たそうです。義妹は最後に、忍さんと会った人物として、事件の後、疑いをかけられ警察に行くことになりました。その際、その男と忍さんと姉がしたことを、どうしても言えなかった妹が、まったく別の容疑で取り調べを受けていたので……。義妹を助けるために、私も一人で伏せていた『息子が息子ではない』ことを明かし、息子が忍さんと血が繋がっていることで『証拠』となりました。花南もそれまでひた隠しにしていた姉と忍さんの関係と、 自分は真実を知る妹として忍さんに会ったことを認めました。過去に三人に関係があり、それがトラブルの元。丸尾という男は前科もあり、ありとあらゆる犯罪性を秘めた男でしたので、忍さんと倉重は脅されたということで被害者となりましたが、当家は伏せたいことと、脅された事実もないので被害届という事態にまでは至りませんでした」


 女将がさらに唇を振るわせ……。俯いた。

 長く説明したが、耀平は決定打を告げる。


「航は、その三人が、いえ……以上だったらしいです。その複数人が関わった行為の際に、妻が妊娠した可能性が高いそうです。その前後に妻と忍さんが会った時の妊娠かもしれませんが、それははっきりと判っておりません。それが事件となった、忍さんと妻と、丸尾という男の接点で原因です。この出生の秘密は、絶対に漏らさずひた隠しにせねばなりません。航のために……。そして、親御さんも、知らずに済むならそちらのほうが良いと今でも思っています。ただ、女将がここを探し当てるまでに断ち切れぬご様子なので、花南とお話をする覚悟を決めておりました」


「そう……でした、か」

 流石の女将の口調も淀み、もう言葉も出ないよう。女将が見せていた凛とした芯が抜かれてしまったかのように。


 庭から、初秋の虫の声。それが、リビングにそっと聞こえてくる時間が暫く――。


 花南は女将の様子を心配そうに見つめていて、時折、耀平に向けて『兄さん、どうしよう』という戸惑いの眼差しを送ってくる。だけれど、耀平は首を振り、女将の言葉を静かに待っていた。

 やっと、女将が顔を上げる。

「では、航君のために……。私ども遺族の苦しみも、そこであやふやだったほうが幸せだと、耀平さんは判断されたのですね」

「そうです。ただ、私も妻の全てを知れたのは、つい最近です。この義妹が、姉と忍さんのあからさまには出来ない関係をひとり知っていて、ひとりで必死に隠していました。そして義妹も……。忍さんを刺した男と、忍さんと、妻との間にあった行為を知らされたのは、忍さんが刺される半月前だったと言っています」

 だが。女将は呆然としていて、もう耀平の話は聞こえていないように見えた。視線の先が、明後日を見つめてぼんやりしている。少し、心配になってくるほどの呆け顔になっている。

「……あの子……忍は……」

 小さく呟き始めた女将は、そんな遠い眼差しで続けた。

「忍が、女性を泣かせるような行為をすることを、私は見たことがあります。『母さん。この女が悪さをしそうだったから、僕が懲らしめておいたよ』。あの子が高校生の時でした。新しく雇った若い従業員の女の子が、見た目と違ってちょっと手癖が悪かったんです。見抜けずに雇った私ども経営側の落ち度ではありました。その女の子が、まだ若い学生だからと、忍と忍の弟をたぶらかそうとしていたことがありまして。忍も自分一人だったなら上手くあしらえる要領は既に持っていたと思います。ですけれど、まだ中学生だった弟にまで悪さをしようとした女が許せなかったのでしょう。ひっかかったふりをして、その女の子を裸にして縄で縛り上げたみっともない姿を写真にして、女将の私に持ってきたんです」

 女将は既に、忍の片鱗を見ていた。そして息子の忍も、母親にそれを見せていた。耀平だけじゃない、花南も驚いていて、二人揃って顔を見合わせた。

「つまり。忍はあの時のような男のまま生きていて、そしてそちらの奥様もまたそれに見合うお相手だったということですか」

 もうここまで話したのに。それでも、親にその性癖を伝えるというのは、他人であっても辛いもの。耀平は『はい』と答えたいのに、言えずに口ごもるだけに。

「わからないでもないです。お互いに家に従えられる育てられ方だったのでしょう。忍も小さい時から跡を継いだ長男と共に、所作は厳しく育てましたので。そちらのお嬢様も、お婿さんを娶らねばならない長女。押し殺したものが沢山あったのかもしれませんね」

 でも――。と女将が言いかけてやめ、でも、耀平を申し訳なさそうに見上げた。その目に涙が浮かんでいる。

「そちらのお家にご迷惑をかけたけれど、忍は……その脅しから、この航君を守ろうとした。そう思ってもよろしいのでしょうか」

 今度は、耀平も……迷わずに頷いた。

「そうです。丸尾という男が当家に来ないよう……、そこで食い止めてくださったのだと思います。最後に会ったのは花南です。その時に、こちらの家をとても心配しててくださったと。そして最後に、航を守って欲しいとまで言ってくださったそうです」

「……あの時、わたしが、忍さんを止めていたら。一人で無理しないで、家族に相談するから、一人で行かないでと止めていれば!」

 じっと黙っていた花南が、ついにわっと泣き出してしまった。

 静かな義妹が、こんなに取り乱して泣くことは滅多にない。

 その花南が、すかさず床に正座したまま、女将に深々と頭を下げた。

「お許しください。頼りがいのあるお兄様のようだったので、言われるまま全てを任せてしまいました。わたしが自分で出来ることを考えもせずに、あの日、忍さんと別れてしまいました。わたしが、引き止めていたら……誰かに相談していたら……!」

 居たたまれなくなり、耀平も女将と向き合っていたソファーから立ち上がり、床にひれ伏している花南の傍へと跪く。そして義妹の震える肩を撫でて宥めた。

 そして耀平も女将に正座をした頭を下げる。

「義妹が告白するまでわからなかったとはいえ、息子さん一人が倉重を守り通してくださったことを申し訳なく思っております。また、ご子息を亡くされた気持ちを無視するように、母親である女将に辛い気持ちを長く持たせるとわかっていて伏せる判断をしたのは、倉重の息子である私です」

 花南の横で、耀平も床に額を付けてひれ伏した。

「どうぞお許しくださいませ」

 すすり泣く義妹と共に、頭を下げる。

 暫く、女将はなにも言わなかった。だが、花南だけではないすすり泣く声が聞こえてくる。

「おやめください。謝らなければならないのは、そちらのご主人を困らせた不甲斐ない息子がしたことが始まりではありませんか。許されることではありません。婚前に関係があったからとて、どうしようもない性質があったからとて。人の奥様と密通し、あまつさえ、自分だけではない男と交わることさえ許した男です。それはご主人は口惜しかったことでしょう。それどころか……、生まれた子供まで、こんなに大きくなるまで黙ってお育てになってくださったのでしょう」

 今度は、女将がスッとソファーから立ち上がった。

 花南と耀平が並んで詫びているその前に、女将も綺麗に正座をして向き合ってくれる。

 細い指先が床に揃えられ、そしてあちらも額を床まで下げてくれた。

「息子の不始末を、不義を、今更ですが、母親としてお詫びいたします。申し訳ありませんでした」

 それは、すべてを美月と金子に押し付けられた耀平が、彼の母親と通じて詫びてもらった瞬間でもあった。でも、もう何も感じない。報われたとも思わない。何故ならもう、彼等がしたことになんの恨みもないから……。いまは、共に生きてくれると決めてくれた義妹と、信念を持って育ててきた息子がいる。それでいいのだから。

「かえって息子の航を育てさせてもらったこと、私は感謝をしております。航が自分の子だと信じ、まだ疑っていなかった時の愛おしさ。彼が生まれた時の父親としての幸せを思い出せば、やはりあの時から私の息子です」

 女将が泣き崩れながら、柔らかな指先でそっと耀平の肩に触れてくれた。

「そのようなお人柄だから、きっと航君はいい子に育っているでしょうね……」

 また女将が耀平に呟く。

「ほんとうに、有り難うございます。まさか、忍に子供が。しかもその子を慈しんで育ててくださって」

 そして女将は、いつまでも床に伏せている花南の両肩を優しく持って、頭を上げさせた。涙に濡れたひどい顔をした花南を、柔和な微笑みで見つめ――。

「お姉さんとお兄さんが勝手に持ち込んできた重い秘密を、たった一人で守ってきてくださったのですか」

 花南は素直に頷いている。

「どうしようもないお姉さんとお兄さんでしたね。お兄さんはいいませんでしたか。気に病んではいけませんよ――と」

 花南がびっくりした顔をした。

「言っていました。言っていました……。姉が死んだ時も、最後に別れた時も……」

「でしょう。あの子の口癖なんです。『気に病まないで。俺が好きでやっているんだから』と。そういう子なんです」

「ほ、本当に。金子さんのお母様……なんですね。そんな方でした。ほんとうに」

 すると女将はまた、沈んだ表情で花南に語り始める。

「あの子が丸尾という男と対峙し、倉重のお家に迷惑がかからないようにしたことを気に病まれていますが……。実は忍は、そんな『裏方仕事』が得意なところがありまして」

 裏方仕事? 思わぬ忍の姿が母親から出てきて、耀平と花南はまた顔を見合わせた。

「私やあの子の兄弟が、忍を自由気ままにさせていたのは、私どもも甘えていたところが実際はあったのです。私は女将、忍の兄は家を引き継ぎ、経営者。弟は板前をしております。体裁で動けない家業に就く私や兄弟に代わって、困ったことはうまく後始末をしてくれるようなことがありました。その中には割と汚れ役というか、そういう裏方の処理といいましょうか。非常に困った時、自由に動ける忍がたまに引き受けてくれました。そんなことをさせてしまい、でもそれが上手くできるのは自由気ままな次男の忍でした――。男兄弟三人、忍がいちばん学歴があり優秀で、頭のよい子でした。一流企業に勤めてエリートに……母親として夢を描いたこともあります。ですが、あの子はそういう外面で持て囃されるところには妙に反発的でした。その忍がふらふらとしていることは若い頃は私も口うるさくしたり案じたりしてました。ですが、やがて、家の『裏方』を上手く引き受けてくれるようになって……。実直な長男はそこまでの度胸はありません。末の三男は真面目なことしか出来ない子です。家を守るには時に、心傷める判断も良くあります。それを忍が引き受けてくれていたんです。 ですから……、きっと……。丸尾という男を捜し当てるのもあの子には容易でしたでしょう。手を汚すことだって、あの子は守るためなら厭わなかったと思います。母の私からも、今一度、倉重の方に申し上げます」

 女将がさらに手をついて、頭を楚々と下げる。

「息子の忍が自ら望んだことです。どうぞこれ以上、気に病まないでくださいませ」

 また花南が嗚咽を漏らし、今度は耀平にすがってきた。耀平も……、そんな男だったと知り、何とも言えない痛みを覚える。

 沈痛な面持ちを揃えている義兄妹に、女将から微笑んでくれた。

「もういいのですよ。秘密は一人のものではなくなったのでしょう。私も、このお祖母ちゃんも一緒に守っていきますから。ね、花南さん。忍の部屋に、とても質の良い切子のグラスがあったのを覚えています。もしかして、あれは……花南さんが造られたのではないですか」

 花南がびっくりして、涙に濡れた顔を上げ、女将を見た。

「そ、そうです」

「あの子、大事にしておりましてね。倉重さんを探し当てる時、息子の周辺で出てきた女性のお名前がお姉さんだけでした。忍の学友達は、忍は美月さんにとても嫌われていたから関係はなかったと思うと言っていましたけれど、本当に美月さんしか出てきませんでした。ひとまず美月さんのことを調べましたら、ご結婚されていて、でも亡くなられていた。しかしご主人は、山口のお得意様のご紹介で一度、うちの料亭に食事に来てくださっていた。そして妹様は、ガラス職人。それを知った時、たまに広島に住まう息子を訪ねた時に、忍が大事にその切子グラスを飾って自慢していたことを思い出しました。しかもそのグラスが『証拠品』として警察に持って行かれたまま。そこで合致し、こちらのお家が息子と関係していたのではないかと思い至った次第です」

 そこまでわかるのに、二年かかったと女将が言う。

「ほんとうに綺麗なお揃いの切子グラスでした。私が『質が良い』というと、息子がまるで自分のことのように喜んでいたのも印象的で、『母さんが質がいいというなら本物だね。良い作家がいる工房をみつけたんだ』と……。きっと貴女のことも、妹のように思っていたのではないでしょうか」

「そんな、わたしこそ……、忍さんのことは、いつも大人の頼れるお兄様だと思っていました」

「これからも。そう思ってあげてください」

 今度は、花南が許された瞬間。

 女将の着物にしがみついた花南が、母親にすがるようにして泣き崩れた。それを本当に娘を抱くようにして、女将が優しく宥めてくれている。

 花南がいちばん後悔していたことが、このように報われ、思わず耀平が泣きそうになってしまった。熱くなった目頭を押さえ、なんとか堪える。

 その女将に、耀平は伝える。

「よろしければ。次の週末に、航をここに連れてきます。正体は明かさずとも、お客様として航に会って頂けませんか」

 今度は女将が、表情を崩し涙をこぼした。

「よろしいのですか……」

「是非。お祖母様なのですから、お願いいたします」

 再び頭を下げると、花南も。

「叔母のわたしからも、お願いいたします」

 次の週末まで二日。どのようにして航に会うか。女将との綿密な打ち合わせが、夜遅くまで続いた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 航、週末は勉強の気分転換に、カナと三人で食事をしないか。

 父さん、迎えに行くからな。


 連絡をすると、勉強漬けになっていた息子が『行く行く。楽しみ!』と喜んでくれた。


 その息子を豊浦の倉重実家まで迎えに行き、車に乗せて山口へ向かっているところ。

 スーツ姿で運転をするお父さんと、助手席でご機嫌の中学生の息子。なんだかお気に入りの音楽があるからと持ち込んできて、お父さんがわからないいまどきの音楽を聴きながら久しぶりのドライブ中。

「今日の食事はどうするかな。外がいいか、家でゆっくり食べるか」

「カナちゃんのご飯もいいけど、せっかく山口に出てきたんだから、でかけたいなー。カナちゃんが山梨から帰ってきた時、バイパスにあるフレンチのお店にまた行きたいって言っていたじゃん。あそこは? それとも、もう二人だけで行っちゃったとかいうなよ」

「怖い言い方するな。まだそこは行っていない。じゃあ、そこでゆっくり三人で食べるか。着いたら予約しよう」

「やったあ。俺もフレンチ久しぶり。はあ、早く受験終わって、俺も山口の家に住みたいよ~。ずるいよ、父さんばっかりさあ、山口に通って」

「だから。受験が終われば、三人で住むんだから。おまえ、ほんと絶対に合格しろよ」

 うわあ、最後はそこに辿り着くんだから――と、航がむくれた。

 でも直ぐにご機嫌の顔に戻る。そうところはまだ子供だなあ……と、父親としてちょっと安心する。

 いまから、それとなく女将に会わせる。今頃、女将と花南は『そろそろ到着する頃』と緊張して待っているかもしれない。


 カリヨンの鐘が聞こえる時間に、山口の家に辿り着いた。

 航はすぐにシートベルトを外す。

「カナちゃん、今日も工房で吹いているんだよね」

 『ああ』と、耀平が短く答えている間に、もうドアを開けてすっ飛んでいってしまった。

 大好きな叔母さんが帰ってきてから、ずっとあんな感じだった。でも耀平もその気持ちがわかる。いまでも、本当にカナはこの家で待っていてくれるのかと彼女の姿を見るまで、まだ安心できないでいる。

 それは航も同じで、叔母のカナがほんとうにもうどこにもいかずにこの家で自分を待っていてくれるのかと、彼もまだ安心できないのだろう。

 耀平も車を垣根に停め、息子の後を追う。工房の前に行くと、航は中に入らず、そこで立ち止まっていた。

 もう、その時は来ていた。耀平が息子の隣に立つと、航の目はもうその人を見つけていた。

「お客さんが来ているんだね。いま、カナちゃんのところに行ったら、邪魔になるかな」

 遠慮して駆け寄れないのだとわかった。目線の先には、職人姿の花南と、着物姿の女将がガラスの小皿を持って話しているところだった。

「大丈夫だ。父さんのお得意先の女将さんだ。今日はうちの工房の品を見せて欲しいと来ているだけだよ」

「じゃあ、父さんの仕事でもあるじゃん。やっぱ駄目だよ。俺、家に先に入っているね」

 きちんと弁えているところは褒めたいが、本当は無邪気に花南のところに駆けていって、女将のそばに行かせたい。

「航! 来たの。おいでよ!」

 花南が元気に手を振った。それだけで、航の頬が緩む。

「いいのかな……」

「いいのだろ。カナが呼んでいるのだから。父さんも女将が何を選ぶのか見に行ってみよう」

 耀平が歩き出すと、航がそっとついてくる。

「お兄さん、お帰りなさい」

 黒蝶の形をした小皿を花南が手に取っていた。

「女将、なにか良いものがありましたか」

「店で使える物をと思っていましたが、花南さんの創作ものに惹かれてしまいまして……悩んでおります」

 女将の手にも黒蝶の小皿が。花南が持っているものとは姿形が違うものだった。いま、花南は黒蝶をテーマにあれこれ造りまくっている。

「兄さん。いま女将さんにも見てもらっていたけれど、やっぱりこのシリーズは実用的ではないって」

 そして女将の目が、本気で鋭く花南の皿を見入っていた。物の良さを見極める目。耀平はこの目を持つ人に出会うと、胸が騒ぐ。恐ろしくもあり、憧れでもある。

「お料理もお菓子も乗せられません。ですけれど、なんでしょうね。この惹きつけられる禍々しさは……」

 やはり装飾品の域か……と耀平もなんとなくそんな予測をしていたが、女将も同じようだった。

 禍々しいと言われたのに、花南は得意そうな笑みを浮かべている。

「女が描く男ですから。禍々しくていいんです」

 時折、ふっと出てくる花南の大胆な発言。女将が目を丸くしている。そして、彼女がおかしそうに笑った。

「なるほど。ですから惹きつけられるのでしょうね。確かに、男の生臭い禍々しさを感じますね。なのに、胸がときめく……。これはお部屋とお客様によってはいい雰囲気作りになるでしょう」

「ありがとうございます」

 女将はそこに航がいるのに、わかっていないような顔でふいっと他のガラス商品があるところへと背を向けてしまった。

 でも航はいまの花南と女将のやりとりを静かに眺めていて、やがて微笑みを見せる。そして耀平のジャケットの背をひっぱった。

「ねえ、父さん。あの怖そうな女将さん。カナちゃんの創作ガラスを褒めているね」

「そうだな。良いお客さんになるかもしれないぞ」

「絶対になるよ。だって、カナちゃんは銀賞作家なんだから」

 次に女将は、花南がショップ用に生産している切子グラスが並ぶ棚へと向かっていく。

「お見事ですね。削った縁(ふち)の輝きが違います」

 女将の見極めに、花南も。

「出来上がったグラスに色を吹き付けてからグラインダーで削る作り方もあります。手間が省けてもっと沢山造れます。ですが、うちではガラスを吹く段階で、色ガラスを被せる『色被(いろき)せ』手法でしています。その方が削った時の縁(ふち)の輝きが違うんです」

 女将はそのグラスを長く見つめていた。

 きっと、息子がこのグラスを、妹のものと思って買った時の気持ちを感じているのかもしれない。

 やがて、花南がひとつのグラスを手に取った。

「この模様です。特別に手間をかけているもので、以前、三色セットで作家物として販売したことがあります」

 それとなく『これが忍さんが買ってくださったグラスと同じ物です』と伝えている。

 女将が手に取って、また長く見つめている。

「女将さんは、どの色がお好きですか」

 藍に緋色に、瑠璃色に琥珀色に翡翠色。日本古来の色合いの切子が並ぶ棚。花南はモダンな模様より、古典的な文様を好んで生産している。

 そこで女将がやっと、航へと目線を向けた。耀平に寄り添っていた航がドキリとした顔をする。

「お若い方なら、どのお色を選ぶのでしょうね。こちらのグラスが気に入りました。おばあさんのお部屋用にしようと思います。選んで頂けますか」

「え、お、俺がですか」

 航がびっくり固まっている。そんな若いからって、おばあさんが好きな色がいちばんしっくりするんじゃないかと言いたそうな顔をして暫くそのままだった。

「あ、航。女将さんが気に入らない物を選んだら、どうしようとか思っているんでしょう」

 花南がいつもの軽い調子で甥っ子をからかった。途端に、航がムスッとして子供の顔になる。

「い、色を選ぶだけじゃん。品質と関係ないじゃないか」

 割と負けず嫌いなところがあって、叔母に煽られスタスタと花南と女将がいるところへ向かっていった。

「やっぱり、緋色じゃないかな。女性は……。クリスタルもいいですよ。飲み物の色が綺麗に映ります」

 職人顔負けの少年の説明に、女将が目を見張っていた。そして少し笑っている。

「では、女性らしいものというので、緋色を戴きます」

「カナちゃん。緋色が良いって、どの模様のグラス」

「航。この柄のものね」

 花南が見せたのは忍が買った物と同じグラス。航はその模様を確認して、すぐに同じ物、緋色を手に取った。

「まあ。叔母さんが造られたグラスを、一目見てどの模様かわかってしまうの? 私はこんな沢山の模様の中からどれが同じかわかりませんのに」

 航がにっこり笑って、女将に緋色のグラスを差し出した。

「わかりますよ。俺、小さい頃から叔母のグラスを見てきたし。それにこの工房に並んだグラスもよく眺めていました。万華鏡みたいな模様のグラス。空の星座表を見ているみたいだから」

「まあ。星座表……。素敵な喩えですね。ほんとう、こうして沢山の切子グラスを眺めていると、星座のようです」

 そして女将は、航が差し出している緋色の切子グラスを受け取ろうとして、でもその指先が若干震えていた。それでもしっかりと航の手を握るようにして受け取った。

「選んでくださって、ありがとう」

 女将の目が航を見上げた。流石に航もなにか雰囲気がおかしいことに気がついたのか、眉をひそめている。しかも女将の目が潤み始めて、耀平はハラハラしている。

「女将さん。よろしかったら、帯留めも揃えておりますけれど。いかがですか」

 悟った花南がふっと女将を連れて行こうとした。女将も頷いて、でも名残惜しそうにして航から離れた。

「花南、私が女将のお相手をしよう。航を家の中で休ませてくれ」

「うん、わかった。兄さん」

 航、行こう。お抹茶しよう。花南の誘いに、もう航は喜んでついて行ってしまった。

 航に手渡された緋色のグラスを握りしめたまま、着物姿の女将はもうそこから一歩も動けなくなっていた。

「女将……」

「平気な顔をするよう、あれだけ貴方達とお話したのに。やっぱり駄目です。耀平さん、もう、駄目です。あんなに忍にそっくりな男の子に育っていてくれたなんて……」

 いつだって気丈だろう女将が泣き崩れる。

「忍は死んだけれど、あの子は航君を守って、そして生きているんだと感じることができました。もう……大丈夫です」

 涙を拭くと、女将が前をスッと見た。

「帰ります」

 工房の向こうから、カリヨンの鐘が響いた。そして緑の丘。夏の終わりの風。

「そのグラス、お持ち帰りください」

「はい。孫との思い出として、また息子が持っていた物として大切に致します」

「お泊まりのホテルまで送ります」

 まだ足下がおぼつかない様子の女将の背をそっと支え、耀平はレクサスを停めている庭先まで連れて行く。

 黒い車に乗せる時になって、垣根の向こう、金魚がいる水鉢のところにちょうど航が座っているのが見えた。航もこちらに気がついてしまう。

「あ、父さん。女将さん、帰るの」

 金魚を眺めていた航が立ち上がった。

 今度の女将は、しっかりと笑顔を見せた。

「選んでくださって有り難う。航さん。さようなら」

「さようなら。女将さん。また叔母のガラスを見に来てください」

「はい。是非。では、また」

 着物姿の女将が、まだ少年である航にそっと礼儀正しいお辞儀をした。航がびっくりして、でも、見習うようにお返しのお辞儀をしている。

 女将がさっと助手席に乗った。その顔を懸命に伏せているのがわかったから、耀平もすぐに運転席に乗り込もうとした。

「航。女将を宿泊先まで送ってくるから、カナに伝えてくれ」

「わかったよ、父さん。いってらっしゃい」

 すぐに運転席に乗り、航が見送る中、黒い車を発進させた。

 家がある通りを出ると、女将が声を出して泣きさざめいた。ずっとずっと、ホテルに着くまで女将は泣いていた。

 その間、咽び泣く女将が『ありがとう、ありがとう、耀平さん。あの子をいい子に育ててくれてありがとう』と何度も何度も言うので、耀平の目まで濡れてしまった。


 

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