第6話 5

「どうでもいい」

 そう、必死に自分に言い聞かせていた。

 それでも肥大しすぎた脳は思考を止めない。止まらない。

 茜は襲われていたのではないのか。

 ノー。それは否定できる。雰囲気であったり、表情だったり、脳裏に焼きついたワンシーンはそれを否定するのに十分すぎる根拠を持っている。なにしろ彼女の腕はその男を頭を抱みこんでいたのだ。

 であれば彼女が惚気て語っていた彼氏はあの小太りの中年か。

 これもノー。若干願望込みだが否定できる。彼氏からもらったと言っていたあのブレスレットは大人が買うには安っぽく見える。そして例の中年は彼女の惚気話で語られた人物とはかけ離れている。

 であれば援助交際。日本で二十年以上前から問題になってて一向に解決していないアレ。

 考えにくい。彼女の父親は大企業の重役だったはずだ。お金がないわけがない。

「藤村くん…… 何か知らない?」

 目の前の彼はこっちを向いてすらいない。犬のように歯を剥き出しにして荒く呼吸をしているだけだ。腕も足も、自分では動かせないようだ。いよいよネクローシスが進行しきって映画に出てくるような本物のゾンビになるのも近い気がする。

「知らないよね……」

 どうでもいい、と何度もリフレインするが、やはりどうしても考察する脳内は止まらない。

 このまま考えていたら遅刻してしまう。アレを見たせいで昨日は全然眠れなかった。

 今日も彼に見せつけるように制服に着替える。

「うーん。そろそろお風呂にいれてあげないとダメか」

 若干、彼の体からは悪臭がする。細胞壊死を止めることはできないけど、せめて臭いは抑えなきゃならない。異臭騒ぎになんてなったら一巻の終わりだ。

 思えばズボンも変えてない。脱がした上半身を少し拭いたくらいだ。

「帰ってきら、お風呂、入れてあげるよ」

 反応はない。喜べよ。川崎や吉原だったら五万円だぞ。

「行ってきます。大人しくしててね」

 そう言って私は彼の手と足を椅子に固く縛っている紐をとってあげた。

 

       ◇


「茜」

「あっ、純夏、おはよー」

 昨日と変わらず今日も笑顔が可愛い。とても可愛い。

「茜、あの……」

「どうしたの。顔色がよくないよ?」

「うん……」

 私の決意は、彼女の話す一声一声によって屋台のケバブのように削ぎ落とされる。

 私は決意したはずだ。いつもは睡眠に投じている朝のHRと一時限目を費やしてまで決意したはずだ。

 是が非でも脳裏に焼きついた例のキスシーンを消去しなければならない。消去はできなくても真相は確かめなければならない。

「茜……あのさ……」

「どうしたの?」

 笑顔が眩しい。もう例のキスシーンの人物とは別人なんじゃないかとすら思える。

「茜! 部費ぃ!」

 同じ写真部の部員であろうか、教室のドアから声を張り上げている。

「ごめぇん、後で出すぅ、ちょっと待っててぇ」

 彼女はドアに向かってそう言うと再びこっちの方を向いた。

「ごめん、なんでもない。忙しいようだし」

 決意はついに挫かれた。もっといいタイミングもあるだろう。きっと。

「じゃあ、今日お昼一緒に食べない?」

 私の決意はあと数時間持ちこたえられるだろうか。


 結局、今日一日の授業中の睡眠の予定はその決意を維持することに費やされた。一旦眠りにつくと決意が揺らいでしまいそうだった。

「スミカ、お弁当?」

「昨日の残り物を詰めただけだけどね」

「すごいよ。お弁当用意できるなんて」

 食堂の、都合よく空いていた席に座り、彼女はミートソースパスタを、私はお弁当(昨日の残りの回鍋肉と冷凍食品)を食べていた。

「そのせいで寝不足なんだけどね。授業中、寝ようと思ったけど今日はなんだか寝れなくて」

「純夏、頭いいよね。このあいだの校内講習も最上級クラスだったでしょ」

「同じクラスにいるんだから、そんなに変わんないよ」

「志望校は東大理三でしょ」

「そうだよ」

「私は無理。医学部ならどこでもいいと思ってる」

「必死に勉強してるじゃん。授業中も」

「ついていけなくてさー。このクラス」

「医者になりたいの?」

「うーん。別にそういうわけじゃないんだよね、正直」

 彼女はフォークの持ち手の部分をグリグリと頬に押し当てる。

「純夏は?」

「私は…… 知っての通り両親が医者だから」

「ふーん」

 しばしの沈黙、彼女は悩ましげにフォークをパスタに絡めている。

「じゃあさ、久しぶりに勉強教えてよ、特に数学! 来月のテスト前」

 小学校の頃、私たち二人は一緒に勉強をしていた。私が茜に理数系科目を、茜が私に国語や社会を教えるのだ。

「教えることなんてあるかな?」

「あるよ、あるある。数学、特にできないんだ。私」

「いいよ。私でよければ」

「約束だよ。スミカ一人暮らしだし、ちょうどいいや」

 私は内心、少し困ってしまった。『カレ』がいるうちは人を入れるわけにはいかない。

 でもまあ、どうでもいい。先の話だし、私の頭は昨日の夜からあのキスシーンのことしか考えられない。

「昨日は、何時くらいに帰ったの?」

 食堂内は生徒の声が響きあってる。私たちの席は窓際の周りに人がいない席だ。ここなら話しても他には聞こえない。周りの人は心理戦の流れ弾を食らうことはないだろう。

「えっ、どうして」

 彼女は困惑している。

「いや、茜の家どこだったか思い出せなくて」

「忘れた?新町だよ。神奈川新町。そこの駅から京急で5駅」

「でも昨日、JRの方の駅に向かってなかった?」

 私はつくづく嫌な女だ。好奇心が倫理観に勝ってしまう。彼女にとってされたくない質問をマシンガンのように撃ち続けたくなる。

「うーん」

 彼女はまたフォークの持ち手を頬に当てている。

「用事があったからね。いろいろと大変でさ」

「言ってくれれば付き合ったのに」

「別にいいよ」

 その、ぶっきらぼうな返答は彼女なりの配慮だったのだろう。嘘のつけない彼女はどうにも答えられず、苦しみながら言い放ったのだろう。

 罪悪感が堰を切ったように外に流れ出す。私が心理戦だと思っていたものは、嘘がつけない彼女相手では、ジェノサイドに近いものだったことを自覚する。

「……ごめん。昨日さ、買い物の後でさ、ビルの近くをふらふらしてたら……」

 そこまで言うと彼女は私の言わんとしていることを察する。

「そうかぁ、見ちゃったか」

「……ごめん」

「いやいや。別にいいんだよ」

「別に言いふらしたりなんてしないよ。本当に」

「ははっ……」

 彼女の目は次第にこっちを向かなくなっていく。右手はぐるぐる巻きのパスタを口に運ぶでもなく動かしている。

「襲われてるんじゃないかって思ってさ。違うんだったらいいんだ」

「違う、違うよ。うん、違う」

「事情があるなら話してくれてもいいんだよ」

「ごめん。言えない」

 彼女は苦しそうだった。疎遠になっているとはいえ、私にとっては唯一無二の幼馴染だ。見ていると私も心苦しい。

「そっか」

 そっけない返事しかできなかった。

 沈黙は周りの喧騒をよく聞こえさせる。そんな中、彼女は立ち上がって、

「私、食べ終わったから、もう教室に戻るね」

 そう言った彼女の皿にはパスタがまだ半分以上残っていた。

「ごめん。……ごめん」

 彼女が皿を戻しに行く中、私は小さくそう呟いた。たぶん、彼女には聞こえていない。


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