第4話 3

外は晴れで、ベランダから見下ろすと、落ちきったイチョウの葉が金色の路を成している。

「さむ」

 コーヒーメーカーにお湯を入れ、パンをトースト機にセットする。気持ちいい朝なので、私は音楽をかけようと思い、CDウォークマンのボタンを押した。つないだスピーカーから、ピアノの音が流れ、続いて男性の渋い歌声が聞こえる。

 流れたのは古い洋楽。

 ウィ・アー・オール・アローン。少し時間がかかったが、思い出した。

 ふとスピーカーの横のラックの上を見ると、例のクリームが容器に入れられ置いてあった。少し濁った白色は、原料となったチョウセンアサガオの花の色に似ている。

「ウィ・アー・オール・アローン、か」

 なんとなしに、私はその曲の名前を、そのクリームに付けることにした。

 彼のいる部屋のドアを開ける。彼はすでに起きていた。起きてはいたが、動かない。そろそろ両手を縛らなくていいかもしれない。

「おはよう。よく眠れた?」

 返してはくれなかったが、藤村くんもこの音楽は聞こえているようで、口を動かして小さく唸っている。聴覚はまだ壊れていないらしい。よかった。

 私は彼の目の前で手のひらを左右させる。眼球は動いている。視覚もまだ残っている。

 ウィ・アー・オール・アローン。そう、私たち二人きりなのだ。あのクリームは彼を私だけのものにしてくれた。彼は私の帰りだけを待つのだ。学校なんて行かなくてもいいかと考えたが、同時期にクラスから2名も休みが出ると怪しまれるので、おとなしく行くことにした。

 藤村くんがいなくなって一週間が経つ。おそらく警察も動き出している。藤村くんと仲がいいクラスの男子が事情聴取を受けたことを語っていた。彼と表立って接点のなかった私に疑いの目が向くことはないとは思うが、いつも通りの生活をするに越したことはない。

 焦げ気味のトーストをかじり終えると、私は彼の目の前で着替えを始めた。

 スウェットを脱いで、下着だけになる。彼の前でわざとかがんでみたりしたが、彼は下を向いたままで、反応もない。私がこんなにサービスしているのに。

 少し自分の体に自信を失いつつ、制服を着ていくと、彼はその血走った目をこちらに向けた。

「制服の方が好きなの? そういう趣味?」

「スミ……カ」

 私がクスリと笑うと、それに反応するように彼は絞り出すように声を発する。

「学校、行ってくるね」

 着替え終わると私は手を振ってそう言った。


        ◇


 今日もまた藤村くんは学校にはいなかった。

 だが、このクラスの人間は意外と薄情に思える。少し「今日もいないね」と喋るだけだった。

 朝礼が始まると、薄汚れた丸眼鏡を鼻にかけた、嫌われ者の担任が、なにか説教じみた、教訓みたいなことを語り始めたが、だれも聞いてなどいない。どうでもいい。

 自分たちの方がその教師より優れていると思っている者が大半なのだ。耳を傾けないのも仕方のない事だ。

 今日も今日とてグダグダな担任のありがたいお言葉が終わると、連絡事項があった。

「アルバム編集委員の人は放課後会議があるみたいなんで〜」

 週番の女子が呼びかける。だれもアルバム編集委員が誰だかなんてわかっていない。

 ただ、アルバム編集委員は私だった。何か仕事をやらなくてはいけない中で、一番やることがないであろう仕事だった。アルバムの構成などは三年になってからやるので、今、やる事はほとんどない。私以外にもう一人、いるはずだけど。

まあ、放課後になればみんな忘れるだろう。第一、私が編集委員だと知っている人も居なさそうだし。どうせ半分も集まりもしないだろうから、行かなくてもいい。

 こういったように、私には少なからず面倒くさがりな面がある。私もそれを自覚しているし、それが少なからず健全な少女が行うべき『群れる』という行為に気が向かなかった要因になっているのも理解している。しかし、これは生まれながらの性分なので仕方がない。人は一つや二つ欠点があった方が可愛らしいというが、それ自体が可愛らしさを失わせる欠点もあるから救いようがない。

「どうでもいい」

 私は小さく呟いた。自己分析をしたところで、変わる気がないのだから、どうでもいい。

 気がついたら一限が始まっていて、背の低い、老齢の女性教師が、高く声を張り上げて英文の訳を言っている。

 すでに冬休みの前にもかかわらず、教科書は折り目もなく、ノートは雪のように白い。

 面倒くさがり、厳しく言うと怠惰な私を表していると思う。

 そのように怠惰でいられるのは、私が秀才であるからで、一を見て百を知ることができるインテリジェンスの持ち主であるからだ。

 言い訳をするようだが、私はこの高校の付属中学校の出身で、五年間この校舎にいることになるが、こんなことをするようになったのは、このクラスに入ってからだ。

 ここは偏差値70を超える高校の、しかも医進クラスである。秀才でないものは一人もいない。

 つまりは面倒くさがりは私だけでないということだ。秀才は得てして怠惰なようで、あたりを見ると、授業を真剣に受けている者や、内職をしている者より、机に突っ伏している者の方が多い。黒板にチョークを打ち付ける老教師も、どこかそれを理解している感じがある。そんな環境では当然私も怠惰になる。

 そのなかで、カリカリと、ペンを走らせる音が聞こえる。音の主の女性は前列の隣、私から見て斜めの席で首を不自然に曲げ、銀色のブレスレットを揺らし、ペンを勢いよく走らせていた。

 栗色のショートヘアの間から顔が少し見えた。やはり顔を見るに必死なようで、首と眼球が細かく動き、手元のノートはみるみる埋まっていく。

 彼女の名前は仁村茜。私の幼馴染で、小中高と同じ学校に進学した。幼少期、同じマンション住んでいたのを始まりに、幼いころは本当に、本当の姉妹のように育った。

 しかし、小学一年生の時、あまりに私が彼女としか打ち解けようとしなかったため、次の年から意図的に離され、今に至るまで、同じクラスになることがなかった。

 それに加えて、これは中学生の時、つまりはある程度疎遠になった後のことだが、お互いに引っ越すことになった。彼女は家族で一軒家に、私は一人暮らしを新しいマンションで始めることになった。

 いわゆる疎遠になった幼馴染というやつで、久しぶりに同じクラスになった私たちは、距離感を忘れてしまった。普通のクラスメイトのように会話はするが、子どものころのような距離で話すことは無くなってしまっていた。

 秀才じゃない人間がこのクラスに来たらそうなる。そんな風にかつての幼馴染を内心小馬鹿にしながら、私は倒れるように頬を机に着ける。冷たくて気持ちが良い。彼女はまだ手を動かし続けているようで、腕のブレスレットが小刻みに小さく鳴るのが聞こえる。その不規則な音を子守唄にして、私は眠りについた。

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