第4話

「おい!」

 そう声に出したのは、佐奈さなの声がこもっていた原因が衝撃的過ぎたからだ。

 佐奈の口元にべったりと貼られたダクトテープ。そして、華奢な体に何重にも巻きつけられた縄に気付く。


 ダクトテープを剥がしながら、ソファを飛び越えて佐奈の前に立つ。

「なんで、誰がこんなこと」

 両腕と両足を縛られた佐奈が、声を出して泣き始める。

 縄は硬く結ばれていて、ほどけそうもない。

「佐奈、ちょっと待ってろ、これ、切るもの持ってくるから」

 立ち上がり、キッチンへ向かう。小さなハサミなどでは、あの太い縄は切れそうもない。そう考え、包丁を取りに行く。


「会いたいよ。勇吾ゆうご

 キッチン台の棚を開ける僕の背後から、佐奈の消え入りそうな声が聞こえる。


「ここにいるから、もう大丈夫だから」


 そう返し、包丁を掴んだ瞬間に聞こえた言葉が、僕を振り向かせた。


「やめて!」


 声の先、縛られた佐奈が座っていたはずのソファには、もう誰もいない。

 映画が流れていたはずのテレビも、死んだように電源を落としていた。


「佐奈…… あぁ」

 落胆と共に手から離れた包丁が、床に突き刺さる。

 その鋭利な物体が、佐奈の命を奪ったナイフを連想させた。


 怒りをぶつけるように、それに向かって叫んでやろうと、大きく息を吸い込んだ時、包丁の先に意識を奪われた。


『5月6日 土曜日 トイレットペーパー お1人様 1パック限り』


 包丁は、トイレットペーパーの写真と共にそう印字された紙を貫いていた。

 チラシだ。

 佐奈と一緒に行った、あのチェーンストアの。

 湧き上がっていた怒りが、一瞬で溶けてなくなる程の違和感。

「おかしいぞ」

 そう呟き、チラシを凝視する。

 佐奈の命日は5月7日。忘れるはずもない。それは確かだ。間違いないはずだ。それとも、僕が勘違いしているだけなのだろうか。そんなはずはない。

 鋭く貫かれた文字列が、何かを強く訴えかけてくる。

 5月7日は日曜日、連休の最終日だ。

 だが、佐奈と買い物にいったのは、6日。間違いない。連休の初日に部屋の掃除を終えた後、トイレットペーパーがもうすぐ切れそうだと、佐奈が言った。だったら土曜日に買いに行った方が得だと、チラシを見ながら、僕はそう言ったんだ。

 また正気を失っているだけだよ、という心の声を潰すように、たった今生まれた疑念に集中する。

 佐奈は、本当にあの日、屋上で殺されたのか?

 確認すればはっきりする。

 ベッド横のテーブルへ向かう。

 ドリームエンコーダーの横に置かれた携帯電話に手を伸ばす。

『ピッ』

 ボタンに触れた指に反応したドリームエンコーダーが音を立てる。

『削除記録:1件 削除日時:5月3日 午前4時14分』

 ディスプレイに表示された文字を見た後、携帯電話の電話帳を開く。

 あいつに聞けば解る。僕を正気に戻してくれたあの友人に、佐奈がいなくなってしまった日を聞けば、それではっきりする。

 そう考えたが、電話帳をスクロールする指が止まる。

 友人の名前が、見当たらない。いや、見当たらない、と言うよりも。

「あいつ…… 一体、誰だ?」

 名前が解らない。それどころか、あれが、一体誰なのかが解らない。

 古い友人のはずだ。ずっと昔からの。だが、具体的にいつからの友達なのかが思い出せない。思い出せないというよりは、解らない。

「違う…… 友達なんかじゃない…… あいつは」

 電話帳に表示される名前に焦点が合う。

『さな』

 ずっと消さずに残していた、佐奈の携帯番号。

 最早、かかるはずもない。それは、解っている。

 だが、もう、かけてみるしかない。

 僕は正気だ。繋がるだなんて、思っていない。だけど、他に、どうしろと言うのだ。

 何もかもが解らない。頭の中どころか、体中がバラバラに砕け散ってしまうような困惑。救いの手を求めるように、表示されている佐奈の名前をタップした。

 携帯電話を耳に当てる。

 コール音は、聞こえない。

 ドリームエンコーダーは、削除された夢の記録がある事を訴え続けている。

 佐奈はどうして、自分の夢の記録を消したのだ。

 あの友人は、友人じゃなければ、一体どこの誰なのだ。

 佐奈は本当に、殺されたのか?

 佐奈は何故、あんな縛られている姿で現れたのだ。あれではまるで、監禁されているみたいじゃないか。


「……監禁?」


 そう呟いた僕に返事をするように、携帯電話から声が届いた。


「会いたいよ。勇吾」


 救いの声が、僕の感情を激しく揺さ振った。振り飛ばされた感情が、涙の滝となり目から溢れ出す。

「俺も、会いたい」

 本当は、誰にも繋がっていないはずの電話に向かって話している。そう理解していても、返事をせずにはいられない。

「会えるよ。きっと」

 あまりにも優し過ぎるその声が、涙に塗れる僕の返事を止めた。

 ただ、佐奈の声を聞いていたい。


「勇吾の中に、私はいるから。私の中にも、勇吾がいるから」

 携帯電話を握り締める手に、力が入る。

「うん、うん」

 やっとの思いで相槌を打った僕に、佐奈は言葉をかけ、それが再び僕の涙を止めた。

 その言葉を最後に、佐奈の声は聞こえなくなってしまった。


「わたしまだ、生きてるから」

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