第5話

 焼き上がったばかりの、トーストの香りがする。

 ネクタイを締めた後、食卓に着いてコーヒーを飲んでいるのは父。慣れた手つきで素早く弁当箱に具を詰めているのが母。

 眠たそうに口を開けたまま、テレビから流れる朝のニュースを見ている少年が、僕。


 懐かしい。この朝の事は、今でもよく覚えている。


 この頃、世間を騒がせた、とある事件があった。

 陰湿ないじめを受け続けていた女子高校生が逆上し、いじめグループのリーダー的存在だった同級生をナイフで殺害した後、行方不明になっていたのだ。


 ニュース映像は、その犯人がまだ逃走中であるという情報を伝えている。

「怖いわねぇ。こんなに、若い子が」

 父の弁当を作り終えた母が、次に僕の弁当箱を手に取りながら言う。

「最近、若い子の犯罪が本当に多いな」

 少しずつコーヒーを飲み込んでいる父。


 この時、僕は中学1年生だったはずだ。善悪の定義、少年法、そう言った事を完全に理解している年ではなかった。

 だから、事件について何かを深く考えさせられたという訳ではない。ただ、タンスの角に小指をぶつけて『痛い』と口にするように、自然と口に出たのだ。


「頑張って、逃げられるといいね」

 僕のその言葉は、弁当を作る母の手を止めた。


 無言で父の目を見る母。

 父はコーヒーカップをテーブルに置いて、静かにゆっくりと話した。

勇吾ゆうご。そういう、犯罪者に加担するような事を、言ったらダメだ」


 中学生の僕を深く考えさせたのは、事件そのものではなく、父のこの言葉だった。

 そうだ。ニュースが殺人犯と騒ぎ立てているこの女の子は、人殺しなのだ。犯罪者だ。今や何十人という屈強な警察官が、この人殺しを血眼になって探している。

 この女の子は、一体、どうすれば良かったのだろう。どうすれば、こんな未来を避けられたのだ。

 答えはひとつしかない。人知れず、地獄のような日々を耐え続けるしかなかった。

 でも、そんなのは間違っている。

 人を故意に不安に陥れたり、傷付けたりする奴が許せなかった。誰にも裁かれず、人を傷付けて薄ら笑っている奴を見ると、いつも我を忘れそうになる。

『危ないってなに? ちょっと後ろから煽られただけで、人が変わったみたいに運転荒くなるくせにさ。勇吾の方がよっぽど危ないよ』

 佐奈さなの言う通りだ。

 運転中に無意味に煽ってくる奴がいたら、先に行かせてから同じ目に合わせてやりたくなる。それで隣に座っている佐奈を、不安に陥れてしまっている事すら忘れて。

 誰かに裁きを下すのは、僕の役目ではない。僕は、神にでもなったつもりなのか。人より少し正義感が強いのだと、そう思っていた。人に優しくしたくなるのもそのせいだ。お年寄りに店員に間違えられて商品の場所を聞かれても、すぐに取ってきてあげる。

 だが、実のところ、ずっと怖れているのだ。

 同級生を刺し殺した子が、他人だとは思えなかった。

 いつか僕も、取り返しのつかない事をしてしまうのではないかと、そんな不安を、優しさでごまかして来たに過ぎない。






「ちがう!」

 顔を上げると、手を繋いで森の中を歩く、二人の男女の後ろ姿が目に入った。

 それがパソコンに映し出されている映像だと解った時、幼い頃の夢を見ていたのだと気付いた。


「寝てたのか……」


 窓のカーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。


『わたしまだ、生きてるから』


 佐奈が電話越しに最後にそう話してから、僕はソファに座り、おもむろにパソコンの電源を入れた。そして、佐奈がパソコンに移した、僕の夢の映像をリピート再生し、眺めているうちに眠ってしまったのだ。

 幸せそうに森を歩く二人を、憂いながら見つめる。

 佐奈は1年前の5月7日に死んでしまった。それを思い出し、僕は正気に戻ったと、そう思った。

 だが、何かがおかしい。

 佐奈の見た映画のラストシーンが、佐奈が殺された時の状況と似過ぎている。犯人の姿までが、何もかも。偶然にしたってありえない。

 それに、買い物に行ったのは5月6日だ。

 連休最終日の7日、僕は何をしていた?

「思い出せない…… 佐奈、教えてくれ」

 佐奈の『知っている事』を考える。

「……そうだ」

 連休初日、僕がまだ眠っていた時、佐奈は目を覚まし、ドリームエンコーダーに記録された自分の夢の映像を削除した。

 佐奈は夢は見なかったと言った。だが、そう返事するまで、少し間があったのを覚えている。

 あれは、佐奈が何か誤魔化している時の癖だ。

「どうして気付かなかったんだ」

 立ち上がり、チェストの引き出しを開ける。

 佐奈は何かを見た。

 実際に夢で見たのか、それとも、エンコーダーに記録されただけの映像なのか、定かではない。しかし、僕に見せたくない何かを見て、それを『削除』したのだ。

「あった」

 引き出しの中から、小さな冊子を掴み出す。

『ドリームエンコーダー 取扱説明書』と書かれたその冊子を開いて、削除された記録を復元出来る方法がないか探し、ページを捲っていく。


『削除した映像データは、削除BOXに移動します。これらの全データを完全に消去するには、消去ボタンを5秒以上長押しして下さい。また、これらの映像をプレビューするには、対象のデータを選択し、決定ボタンを5秒以上長押しして下さい』


 求めていた文章が目に入り、説明書を掴む手に力が入る。

「よし。よし、いけるぞ」

 削除記録を選択し、決定ボタンを押し込んだ。

「佐奈、教えてくれ」

『ピー』と電子音が鳴り響く。

『復元中・1%』とディスプレイに表示され、指を離す。


 復元の進行状況を示す数字が『5』と表示されたと同時に、女性の笑い声が耳に飛び込んだ。

 驚いて声のする方を見ると、その声が森の映像を流し続けるパソコンからの音声である事に気付く。

「なんだ?」

 再度、ソファに戻り、パソコンの画面を注視する。

 森の中を歩く佐奈が笑っているようだ。小鳥の囀りも聞こえる。

 ドリームエンコーダーが記録する映像は、無音のはずだ。何故、突然、音声が入ったのだろうか。

 たった今、生まれたその疑念は、不意に視界に飛び込んだ物によって、すぐに消し飛んだ。

「これは……」

 森を歩く二人の行く先に見える物を凝視する。

 森の奥に佇む朽ち果てた木造の小さな納屋は、僕に、ある記憶を与えた。

「そうだ、ここは」

 そう、連休最終日、僕は佐奈と車に乗ってある場所へ出掛けた。

 連休中、掃除、洗濯、買い物、それをこなした以外の時間は結局二人でこのアパートの中でだらだら過ごし、結局、旅行に行く事は出来なかった。

 佐奈は旅行に行きたがっていた。だが、行き先がなかなか決まらなかった。

 だから最終日に、ここに行ったのだ。

 この映像とそっくりな森がある、この場所へ。

 自宅から車で1時間ほどの、山奥にある大きな公園だ。『近場でいいから何処かへ行きたい』と、佐奈が言っていたのを覚えている。

 山の麓にある駐車場に車を停め、公園に向かって歩いている途中、見つけたのだ。この、映像と瓜二つの場所を。


 5月7日、僕は佐奈と一緒にいた。少なくとも、その時点で佐奈は生きていた。

 6日に買い物に行ったのは確かだ。そして、僕達は何事もなく買い物を終え、帰宅した。あのチェーンストアの屋上駐車場で起きた事は、事実ではない。もっと重大な何かを掻き消すように、僕の中で生み出された妄想でしかない。

 その重大な何かが、今、復元されている削除された映像に隠されている。そう願うしかない。


 パソコンの映像下部にあるシークバーが、後10秒で映像が終了する事を示している。


 突然、脳を鷲掴みにされているような激しい頭痛が起こる。


「またか……」

 額に手を当てて痛みを堪えながら、もう片方の手を伸ばし、停止ボタンを押そうとした時、僕の指は死んだようにその動きを止めた。

「えっ」

 そう声に出したのは、佐奈と手を繋いで歩いていた男が振り向いたからだ。

 その顔は、明らかに、『僕』ではなかった。

「こいつは……」

 映像が終了し、暗くなったモニターに、唖然とする自分の顔が映る。


 佐奈の隣にいたのは僕ではなく、僕の友人であると名乗っていたあの男だった。


「どうして……」

「どうしてそんな事するの!? 信じられない!」

 僕が声を漏らすと同時に、佐奈の大きな声が僕の背中を叩いた。


 振り向いた僕の見た光景は、僕がまだ、完全に正気に戻っていない事を意味しているのかもしれない。

「信じられないのはこっちだ! ……信じてたのに」

 ベッドに追い詰められた佐奈に近付いていく、『僕』が見える。

 さっきよりも激しい頭痛が襲い掛かる。

「わたしが何したっていうの!?」

「人を騙して、嘘ついて、傷付けるなんて、許せない」

 ベッドの上に座り込む佐奈が、詰め寄る僕を見上げている。

「絶対に、許せないよ。傷付けられた痛みが、どれだけのものか、わかってないんだろ?」

 悲哀に塗れた表情をした『僕』が、右手を振り上げる。

 馬鹿な。ありえるはずがない。いくらなんでも、僕が佐奈にそんな事、する訳ない。ないはずだ。

「教えてやるよ!」

 怯える佐奈目掛けて、拳が振り下ろされる。

「よせ!」

 二人の幻影が消えたは、僕がそう叫んだからか。それとも、同時に部屋に鳴り渡った、電子音のせいか。

『ピーッ』


 肩で息をする。

 誰もいないベッドを見つめた後、ドリームエンコーダーの前に立つ。


『復元完了・プレビューするには再生ボタンを押して下さい』

 ディスプレイにそう表示されているが、僕の腕は動かなかった。


 佐奈は、浮気をしていたのだろうか。友人と名乗っていた、あの見知らぬ男と。だとしても、仮にそうだったとしても、今見た光景は、本当にあった事なのか? 

 確信が持てないと言うよりは、必死で、思い出さないようにしている。そう感じる。


「俺は…… 佐奈に一体、何をした?」


 真実への、計り知れない不安。あれほど欲していた真実が、今はただ、恐怖でしかなかった。

 それでも僕の腕は、収縮し切った筋肉を躍動させ、怯えを振り払うように動き出した。


 指が、再生ボタンに触れる。

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