第3話

 今、忘れてはいけない事を、頭の中で復唱する。


 トイレットペッパーが切れかけていた事。豆苗は窓際に置いて、水は必ず入れ替える。ポイントカードを作る。今日着ている緑色のシャツは、やっぱりダサイからもう着ない。そして、佐奈さなの機嫌がよろしくない。


 オープンセール中で客がごった返す大型チェーンストアに入ってすぐ、入口付近に積まれている特売中の激安トイレットペーパーを掴む。


「もう入れたから」 

 不機嫌だと一発で解る佐奈の声。


 細い腕に掴まれた買い物カート。その下段に既に積まれていたトイレットペーパーを指差した後、僕を置いて店内へと進んでいく。


 もうすぐ連休も終わってしまうというのに、険悪な雰囲気のまま過ごすのはもったいない。そんな気持ちが、声となって溢れ出た。

「もう、怒るなよ。悪かったって。帰りは運転していいから」

「もういい」

「あ、そうだ、今日のチラシは?」

「家に忘れた」


 些細なことで喧嘩になる。喧嘩の始まりはいつだって些細なものだ。だけどそれは重要じゃない。喧嘩になってしまったら、きっかけが些細な事など、当人達にとってはどうでもいい事だ。


 佐奈は薬剤師の仕事を辞め、ずっとやりたがっていたアパレル店のスタッフに転職した。仕事が決まるまでの間、意気揚々と教習所に通い始めた。無事に免許を取得出来たのは、同棲を始める直前の事だ。

 発端は今朝、アパートを出て、駐車場に停めてある僕の軽自動車に乗り込もうとした時の事だった。

「わたしが運転するよ」

 佐奈はそう言って、これまた意気揚々と運転席側のドアに立ち、キーを要求しているのであろう右手を差し出した。

「いや、危ないからいいよ」

 僕のこの一言目は、今考えると、我ながら最低だったと思う。完全な悪手。

 悪気はなかった。しかし、たとえ故意ではなくとも、誰かを傷付けるような事は言いたくない。相手が佐奈なら、尚更だ。

「危ないってなに? ちょっと後ろから煽られただけで、人が変わったみたいに運転荒くなるくせにさ。勇吾ゆうごの方がよっぽど危ないよ」

 その後、ただ佐奈が心配だったという僕の気持ちは、拗ねてしまった佐奈にとって、ただの言い訳にしかならなかったようだ。


 掴んだトイレットペーパーを売り場に戻し、商品棚の間に溢れる人込みの中に入っていく佐奈を追いかける。

 カートを押して進む佐奈の横に立った時、かなり年配の女性が前から歩いてくるのが見えた。

 そのお婆さんが通れるように、体を傾けながら佐奈に話しかける。

「なぁ佐奈。ほんとに、俺はただ佐奈の事が心配だと」

「ばんそうこう、どこかねぇ?」

 目の前に立つお婆さんがそう質問した相手が、自分であると気付くまで、数秒を要した。

「はい?」

「ごめんねぇ、お仕事中なのに。ばんそうこう、どこにあるかねぇ?」

 佐奈が僕の着ているシャツを見た後、少しだけニヤけた。

 会計を済まそうとする人々が押し寄せる、レジコーナーに目を向ける。一心不乱に商品のバーコードを通す店員達は、もれなく緑色のエプロンを身に付けていた。

 随分と腰の曲がったこのお婆さんが、もう目もあまり良く見えていないという可能性は十分にある。だとすれば、店員のエプロンと全く同じ色のシャツを着ている僕を、店員だと思い込むのは無理もないだろう。

 それにしても、お年寄りに対して、ましてや人で出来た渦の中と言っても過言ではないこの店内で、『僕は店員じゃないですよ』と突っぱねるのは、あんまりだ。

 レジを打つのに必死な店員以外に、店内にスタッフは見当たらない。どこかにいるのだろうけど、この人込みの中で店員を探して歩くくらいなら、僕が商品を取って来る方が早い。

「絆創膏?」

 念の為、確認を取る。

「そう、旦那が、擦りむいて」

「ちょっとここで待っててもらえますか? すぐ取って来ますので」

「わるいねぇ、もう、目もあんまり見えんから」

 僕が絆創膏を取ってくる間、このお婆さんを見ていて欲しい。そう伝えようと佐奈を見ると、佐奈は微笑みながら小さく頷いた。


 人で出来た渦の中を泳ぎながら、天井から吊り下げられた案内板を見る。

『衛生用品』と書いてある板を見つけ、その下の売り場に向かう。

 様々なサイズの絆創膏が、メーカー別に並べられている棚を発見する。

「どれでもいいのかな。サイズは…… 擦り傷って言ってたから、標準サイズので大丈夫だよな」

 僕の独り言は、この喧騒の中では喋っていないのも同然だ。

 絆創膏の箱を掴み、来た道を戻る。

 人込みの奥に、佐奈と、お婆さんと、お婆さんに話しかけているお爺さんが見えた。

「勝手にどこかに言ったらダメだって、言っただろう」

 絆創膏を手にして近付いてくる僕を見たお爺さんの、話し声が聞こえてくる。

「ほらぁ。見てみろ。ありゃ店員さんじゃないだろう。お客さんだ」

 お爺さんがそう言い終えた時、ちょうど合流した僕は絆創膏の箱を差し出した。

「これで良かったですかね?」

 箱を受け取ったお爺さんが頭を下げる。

「ありがとう。ごめんなさいね。店員さんと間違えたみたいで。家内はもう、あんまり目が見えてないから」

 笑顔でそう話すお爺さん。箱を持ったその手の親指に、小さな切り傷が見えた。

「畑仕事してたら、切ってしまって。こんなの、舐めてたらすぐ治るって言ったんだけどね。早く、これ貼った方が良いってうるさくて」

 とは言いつつも、困っている様子はなく、むしろ嬉しそうに話す。

「ほんと、すみません、ありがとう」

「お兄さん、ごめんねぇ、ありがとうねぇ」

 お爺さんに続いてお婆さんがお礼を言う。その姿は、とても可愛く見えた。

「いえ、どういたしまして」

 レジコーナーに向かう二人を目で追いながら、佐奈が呟く。

「いい夫婦だね」

「だね」

 僕が返事をすると、佐奈がこちらを向いた。

「いい店員さんだね」

「ボーナス出ますか? 店長」

 さっきまで不機嫌だった彼女のジョークにそう返すと、佐奈は少しだけ声を出して笑った。

 僕の大好きな、幸せになれる笑顔。

 何度でも、いつまでも見ていたい。そう思える笑顔だった。



 一通り必要な物を買い込み、重量の増したカートを押してエレベーターへ向かう。

 結局カート1台では足りず、僕と佐奈、それぞれいっぱいになったカートを掴みながら、エレベーターのドアに並ぶ客の列に加わった。

 間もなくしてドアが開いたが、僕の前に並んでいた佐奈がエレベーターに入った時点で、満員になってしまった。

「先に行ってて」

 そう声を掛けると、閉まるドアの隙間から、小さく頷く佐奈が見えた。

 ドア上部のランプを見る。

 エレベーターが屋上駐車場に向かうのを確認した後、携帯電話を取り出してメール画面を開く。

『荷物は俺が車に積むから、エレベーター出たとこで待ってて』と、メッセージを打って佐奈に送るつもりだったが、作成途中で佐奈からのメールが届く。

『先にこの荷物、車に積んでるね』

 そうだ。帰りは佐奈に運転して欲しいと、買い物中にキーを渡していたのだった。

『よろしく』と返信する前に、エレベーターのドアが開く。


 カートを押して、エレベーターに乗り込んだ時、それはあまりにも突然に訪れた。


 まるで脳を誰かに鷲掴みにされたような痛み。


 不意に訪れた頭痛は、僕にあるひとつの選択を強いる。


 森。


 温かい木洩れ日、そして穏やかな小鳥の囀りが木霊す、森林を想像する。

 入社したての頃、なかなか社会に馴染めずに、日々の仕事に追われていた辛い時期を思い出す。あの頃は毎朝、目が覚めた直後に襲い掛かる仕事への不安を遠ざけようと、この妄想を繰り返していた。

 この森が、好きだ。

 いつか、佐奈と一緒に行けたらいいな。


 エレベーターが最上階に到達し、ドアが開いた時、既に頭痛は治まっていた。

 カートを押して出て行く人並みに続く。だが、エレベーターを出てすぐ、ゆっくりと進んでいた人々の足が止まった。

 駐車場へ繋がる自動ドアの前で、叫んでいる中年女性が見える。

「誰か! 警察! 店員さん!? 誰か店員呼んで!」

 買い物を終えた人々のどよめきが起こる。

「なになに?」

「なんかあった?」

 今にも発作を起こして倒れるのではないかという程の形相で、中年女性がどよめきを一蹴する。

「刺されてる! 女の子が、刺されてるの! 通り魔!」

 さっき見た、佐奈の笑顔が頭の中を過ぎった。

「……佐奈?」

 掴んでいたカートから手を離し、人込みを押しのけて外へ出るまでの僅かな時間。その間、どれだけ神に祈ったか解らない。

 視界には、駐車場、並ぶ車、アスファルトに崩れ落ちる佐奈。その向こうに立つ、フードを被った男が、並んで駐車している車列の隙間に消える。

 走り出し、佐奈の名前を叫ぶ自分の声が、全く別人のものに思えた。

 血溜まりに沈み込む佐奈を抱き抱える。

 佐奈、ダメだ、イヤだ、ウソだ。

 耳に入ってくるのは、そんな悲痛な叫びだけだ。

 佐奈の声は、聞こえてこない。

 もう、この先ずっと、聞くことは出来ない。






「佐奈!」

 叫ぶと同時に、濡れた枕が視界を埋めた。

 視線を動かすと、暗闇と静寂に包まれたリビングが見えた。

 ベッドで泣いている僕以外、誰もいない部屋。

 森に逃げ込もうと、もう一度目を閉じたが、最初に浮かんだのは、僕の名前を呼ぶ友人の顔だった。

 友人から真実を聞いた僕は、チェーンストアの屋上駐車場で気を失って倒れた。

 その後、数分してすぐに意識を取り戻したようだが、まともに歩く事が出来ずに、友人に肩をかしてもらい、店を出た。

 異変を察して駆けつけた客達と、店員達が、僕を見ていたのを覚えている。

 救急車を呼ぶかと聞いた友人に、大丈夫だ、と答えたのも記憶に残っている。早く帰りたかったのだ。佐奈が待っているはずの、この場所に。

 確か、友人と一緒にタクシーに乗って、自宅に帰ってきた。

 帰ってきた。なのに、誰もいない。佐奈が、いない。

「ああああああああ!」

 おそらく誰も形容する事の出来ないであろう咆哮と共に、涙で濡れた枕を掴み、力いっぱい放り投げた。

 本棚にぶつかった枕が、何かを引き連れて重力に従う。

 絶望の涙が染み込んだ枕と共に落下する物体が、通り魔によってこの世から連れ去られる佐奈のように思えた。

 凡そ、言葉にはなっていない声をあげながら立ち上がり、枕が引き連れた物体を、黄泉の底から救う気持ちで掴みあげる。

 それは、1年前にレンタルした、ブルーレイディスクの入ったケースだった。連休初日の早朝、佐奈が見ていた映画だ。

 もう、どれだけ膨れ上がっているか解らない延滞料金。それを払って佐奈が帰って来てくれるなら、どれだけ安い金額だろう。

 佐奈がいなくなり、いなくなった佐奈の事しか考えられなくなり、まともに働く事が出来なくなった。

 仕事を辞め、酒に溺れ、佐奈の命日である5月7日に佐奈の下へ行く踏ん切りをつける為、睡眠薬を購入し、毎朝1錠ずつ飲んで意識をぼやけさせた。

 眠れない夜には、ドリームエンコーダーを使って横になると、いなくなった佐奈と一緒にいられるような気分になり、気付くと眠りに落ちていた。

 そんな日を繰り返しているうちに、僕は、正気を失った。

 佐奈がいなくなる前、一番幸せだった連休初日を、僕はずっと繰り返していたのだ。

 正気を取り戻す事でこんなにも辛くなるのなら、いっそあのままで良かった。ずっと一緒に、永遠に、あの朝を迎えていたかった。

 ブルーレイディスクの入ったケースを抱きしめながら、佐奈の名を何度も呟く。

 何が、『絶対に守る』だ。

 僕は、佐奈を守れなかった。


 唐突に、視界の隅がぼんやりと明るくなっていく。

 ケースを掴んだまま、明かりの方へ視線を向ける。

 液晶テレビの光が、リビングに散乱したゴミを照らしていた。

 テレビの前に置かれたテーブル。その手前のソファに座っている、佐奈の後ろ姿が見える。

「佐奈……」

 手から滑り落ちたケースが、枕の上に音もなく沈んだ。

 佐奈の名前を呼びながら、一歩ずつ、ソファに近付く。

 幸せだったあの日の朝のように、後ろから佐奈を抱きしめた。

 妄想なんかじゃない。確かにそう思わせる体温が腕に伝わる。

 例え死んだとしても、人の心は記憶に宿る。本当に、その通りだ。

「佐奈の言ってた通りだ…… 佐奈はここにいるんだろ。ずっと、いてくれ。追い出さないで」

 再び溢れ出した涙が、佐奈の首筋に染み込んでいく。

 佐奈は何も話さない。微動だにせず、テレビの方を向いている。

 後ろからでは、目を開けているのかどうかも解らない。眠っているのだろうか。

 顔が、見たい。

 そう思い、少し身を乗り出そうとした時、テレビから英語の音声が飛び出した。

 見ると、佐奈が好きだったハリウッド俳優が映っている。

「なんだ、また見てるのか」

 そう言って、画面に集中する。

 これは、佐奈が連休初日の早朝に1人で見たであろう映画に違いない。

 一緒にレンタルショップに行った時、お気に入りの俳優の新作が出たとはしゃいでいた佐奈を思い出す。

「今度は一緒に見ような」

 そう話す僕は、再び正気を失ったのだろうか。だとしても、別に構わない。こうして佐奈を抱きしめて、好きな俳優の映画を一緒に見よう。

 堀が深く、ワイルドな顔立ちの俳優が、迫真の演技でヒロインに話しかけている。どうやら、もうラストシーンのようだ。

「また先に見やがったな」

 止まらない涙を流しながら、そう言って笑う。

 それにしても、この俳優は確かもう50代のはずなのに、もっとずっと若く見える。だが、力強く台詞を放つ度に現れる口元の皺が目立っていた。

 いつものように、佐奈をおちょくってやろう。

「おまえ、おじさんが好きなのか?」

 そう声に出した直後、僕の浮かべていた歪な笑みは消えたに違いない。涙も同時に止まった。

 何故なら、俳優とヒロインの女優のアップばかりだったシーンが、二人が立つ舞台を映し出す引きの映像に変わったからだ。

「なんだよ…… これ」

 駐車場。

 並んで駐車してある車の列から現れた、グレーのパーカー、フードを被った男が、ヒロインの腹部をナイフで刺し、車列に消えていく。

 ヒロインの名前を叫びながら、駆け寄る俳優。

 こんな事が、ありえるのだろうか。

 俳優の嘆きが、小鳥の囀りに変わっていく。意識が朦朧とし、森が近付いてくる。


 腕に微かな振動が伝わり、目を見開く。

 ラストシーンを映し出すテレビから出ていた音声は、もう聞こえない。小鳥の鳴声も止まり、ただ、佐奈のすすり泣く音だけが部屋に響いていた。

 震える肩に向かって、小さく声をかける。

「佐奈…… 泣いてるのか?」

 返事をする事なく、佐奈は泣き続けた。だが、何か様子が変だ。

 涙を啜る音に混じり、微かに漏れる佐奈の声。その声が、やけにこもって聞こえた。

「佐奈? どうした?」

 身を乗り出し、佐奈の横顔を見る。

 僕は、目を疑った。

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