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 自分が持っている最古の記憶を探り出そうとした時、一番に思い出すのは、少々いびつな四角い石だった。小さな手でそれを弄んでいると、床に落としたはずみで、真っ二つに割れてしまった。それがどうにも恐ろしくて、朱翔は割れた石を、どこかへ隠したのだ。

 あれから何年が過ぎただろう。隠し場所を思い出すことはできない。

 古い記憶というものは、実に曖昧で、夢と現実の境を見定めることが難しく、この二つは混同してしまいがちだった。あの時、どこかで目にしたはずだという既視感は確かに感じているのに、どうしても明確な記憶として甦ることがない。


「――僕が覚えている最古の記憶は、庭の池で溺れたことだ」


 沈黙に耐えられず、取り留めのない話をしていると、キキは本に目を落としたままそのようなことを口にした。まるで、目ではなく指先で文字を読むかのように、紙面に指を滑らせている。


「冬の寒い日で、池には氷が張っていた。翼を痛めたらしい鳥が、氷の上でもがいていて、助けてやろうと思ったのだろう。そのまま氷に足をかけて、溺れた」


 子供の頃の恥を語って聞かせる横顔には、たいした表情もない。それでも、返事があるだけいいのだろうと、朱翔はその続きを待った。


「その時は、気が動転していて、水の中では上も下も分からなくなっていた。闇と光の世界が半分ずつだ。音のない凍えた世界はあまりに孤独で、あの時の恐怖は、今も忘れない」

「その鳥はどうなった?」

「さあ。池に何かが落ちる盛大な物音に気づいて、兄が一緒に救出したらしいが、そのことはよく覚えていない」


 そうなのだ、記憶の前後は非常に曖昧で、朱翔もよく覚えていない。

 石をどこで見つけ、なぜ手に取ってみようと考えたのか。映像として覚えてはいても、その時の感情や、物の考え方などは、記憶としては一切呼び起こすことができなかった。

 ただ、その時に感じた恐怖という概念だけは、心に根付いて消え去りそうもない。


「……その石が何だったのか、気になるのか?」


 紙の擦れ合う音に顔を上げると、キキは相変わらず本を睨み付けたままだった。

 先ほどから目を合わせようとしないのは、彼なりにあの夜の苦言を気にしているからだろうか。だが、気にして目が合わせなくなるほど、繊細な神経の持ち主でもなさそうだ。

 もしくは、自分が口にした言葉の意味についてなど、考えもしないのだろう。頭に浮かんだ言葉を順に上げていくばかりで、それが誰かに与える影響など、自分にとっては関係がないと思っている。

 何となくそのような人物なのではないかと思う傍らで、時折見せる伏し目がちな表情がどこか影のある感じを連想させ、本当は自分が思っているような男ではないのかもしれないと、朱翔を混乱させた。


「気になるというか、思い出せなくて気持ち悪いというか――実際は、王の証と言われて、それが何なのかを模索していただけなんだけど」

「王の証――ああ、そうか。石、か」


 勢いよく本を閉じたキキは、風に前髪を揺らし、腕組みをした。無意識なのか、舌なめずりをすると、独特な笑みを浮かべる。本の墨で黒く染まった指先を神経質そうに動かしながら、ここへきて初めて、朱翔と目を合わせた。


「割れた石は、二つとも同じ場所に隠したのか?」

「多分。でも、よく覚えていない」

「後で探しに戻った方がいいな。それほど広くもない邸だ、滅王派の者たちが見つけていなければ、今も無事だろう」

「それが王の証だという確証もないのに? そもそも、その王の証っていうのは何なんだ?」

「ただの石だ」


 意地の悪そうな顔をし、キキは当たり前のことを告げるような口振りで言う。

 朱翔は頬が引きつるのを感じたが、喉まで出かかった言葉を、ゆっくりと呑み込んだ。

 声を荒げては負けだと学習していた朱翔は、小さく咳払いをしてから、適した言葉を探した。曖昧な問いでは、曖昧な答えしか返って来ないだろう。


「ただの石が王の証だなんて話だけじゃ、僕には何のことだかさっぱりだ。その石がどうして王の証と呼ばれるのかが知りたいと言っている」


 明らかに不満顔の朱翔を見て、キキは面白そうに小首を傾げると、よく注意をしてみなければ分からないほど、微かに口の端を吊り上げて笑った。

 卓に肘をついて僅かに身を乗り出し、まるで何かの呪文を囁くような声音を使い、言い聞かせるようにして口を開く。


「それひとつあれば、己を王と偽れるもの。国をいいように動かし、勅命を下し、国民から不当に税を徴収しようとも、違法にはならない。そうと望めば法を容易に変えることができる上に、その石ひとつで、人の命すら大きく左右する、持つ者によっては驚異以外の何ものでもなくなるものだ」


 思考を巡らせている時間は、僅かにしかなかった。瞬時にはじき出された回答は理解しがたかったが、考えれば考えるほどに、答えはこれ以外にないと気づかされる。

 困惑と動揺に顔を顰めた朱翔が、何も言えずに黙っていると、キキは乗り出していた身体を元の位置に戻しながら説明を続けた。


「それを滅王派の者たちが見つけ出していれば、危うい状況になる。石は四つに割られ、別々の場所に保管されるという話だった。二つの行き先は既に把握済みだが、君の邸に隠されていたものが奪われたとなれば、残りひとつの行き先を探ると共に、作戦を練り直す必要がある」


 なぜその話をもっと早く聞かせてくれなかったのだという嘆きは、自分の中に押しとどめて置くしかない。すべてを話そうとしてくれていた矢先に、聞くことを途中で放棄したのは、朱翔自身だ。

 だが、朱翔も黙って話を聞いているわけにはいかなかない。


「……僕が、その、白拓さんたちが言うように、先王の息子だという話は、百歩譲って信じてもいい」


 本当は、信じたくもないと思っているのが伝わるような物言いだったが、キキは口を挟もうとしなかった。

 信じなければ、双龍彰のすべてを否定してしまうような気がしたのだ。自分を引き取り、育ててくれた親を信じずに、誰を信じればいいのだ。真実を否定し続けていても、得られるものがないのなら、それを受け入れるしかない。

 自分は自分なのだという、確固たる信念さえあれば、自分が何者になろうとも見失わずにいられると、今はそう信じることしかできなかった。


「だからといって、僕が王になるとか、国をどうこうするとか、そういう話はまっぴらだ」


 はっきりと、朱翔がそう言い切るとは考えなかったのだろうか。

 キキはその言葉に一瞬だけ目を見開いた。それから、何かを言いたげに口を開きかけるが、言い淀むようにそっと噤む。

 ため息を吐いたかと思えば、キキは朱翔が予想もしなかった言葉を口にした。


「好きにすればいい」

「……好き、に?」

「投げ出そうが、逃げ出そうが、それは君自身が決めることだ。太子の身を守るためとはいえ、宮城から追い出した先王にも責任がないとは言い切れない。二十年近く何も知らされずにいれば、それが当たり前な物の考え方だ。もう僕からは無理強いをしない」


 どういった風の吹き回しか、キキは先日とは正反対のことを口にしていた。

 お前が王であることは変えようのない事実で、それを自他共に認める日が来るはずだと高らかに言ってみせた時とは違う様子に、朱翔は思わず言葉を失う。

 これもひとつの策なのだろうか。それとも、キキは本当に説得を諦めてしまったのだろうか。

 そうした朱翔の気持ちを感じ取ったのか、キキは小さく肩をすくめると、その場にすっくと立ち上がった。


「口うるさい男がいるからな。もう小言を聞かされるのはごめんだ。それに、王位を任せられる男が、他にいないとも言いきれない」

「どういう意味だ?」

「君には父親違いの兄弟がいる。王族の血縁ではないが、后妃の子であることには違いない。朝廷の官吏たちも、考えてみるだけのことはあるだろう。それが葵家の血族であれば尚のこと、考慮する余地はある」


 今更、何を聞かされても驚くことはないだろうと、朱翔は思っていた。しかし、意表をついて聞かされた言葉に、驚愕しないわけがない。その素直な反応に、今度こそ笑顔を見せたキキは、積み上げた本を小脇に抱えて、扉に向かう。


「……本当に、僕は何も知らなかったんだな」


 誰もいなくなった室の中で、絶望を滲ませたような朱翔の声だけが響いた。

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