第21話


 葉桜は研究室を後にした。一旦、家に寄ってから川沿いの病院へと足を向けた。桜色を反射する水面に葉桜は目を細める。

 川沿いに咲く桜は満開のままだった。

 不自然なほど、さくら町の桜は散らない。さくら町の民たちは動揺し始めている。

 これが、魔法の力なのか。

 葉桜は初めて実感する魔法の存在に、肌を泡立たせた。

 桜たちの悲鳴は日ごと声が大きくなり、苦しそうに悶えるものに変わっていく。苦しめている自覚はあった。自覚がある分、胸も痛んだ。しかし決して葉桜は意志を曲げなかった。

 この日、栞に贈ったのは、一輪の赤い薔薇だった。

 葉桜の持っていく花は、初めは花ごとに一輪の花瓶に挿していた。しかし、日を追うごとに花瓶が増え、花瓶が足りなくなったために、一つの大きな花瓶に集約された。

 大きな花瓶の中に一本、また一本とつぎ足すように花は生けられる。色味も種類も生まれた国も異なる花々が同じ花瓶に一堂に会した。

 花瓶はまとまりのない見た目になっている。一輪用の花瓶を買ってこようか、と葉桜は提案したが、栞は置き場所もないと首を振った。混沌とした花瓶を見ていると楽しい、と栞は花瓶を見て笑うのだった。

 葉桜は研究室で起きた出来事を栞に話すのが日課のようになっていた。今日も例に違えず、先ほどの後輩たちとの会話を栞に話して聞かせた。

「後輩たちは、僕を馬鹿にしてさ、全然先輩扱いしてくれないんだよ」

「はっちゃんには先輩としての威厳が足りないんじゃない?」

「威厳なんて足りるどころか、持っていた記憶もないや。院生になっても変わらず、泣き虫ハッチ先輩と呼ばれるよ。どうにかならないかな」

「植物学の研究室には面白い人が多いんだね」

「植物の細胞をのせたプレパラートを顕微鏡で何時間も覗いていられる変態ばかりだからね。面白い人しかいないよ」

 葉桜は自分もその中の一人であることを忘れて語っていた。

「ふふ、確かに。それで、男女の友情は成立するかというテーマの結論は?」

「結論はでなかったよ。教授は単為生殖の植物の気持ちになってみなさい、と僕にご助言下さった」

 研究室を出る時にもらった助言だが、葉桜にはさっぱり意味が分からなかった。

「なあに、それ。よく分かんない」

「僕も」

 葉桜と栞は二人で顔を見合わせて笑った。

「男女の友情ね……私も成立しないに一票かなあ」

 栞の言葉に葉桜は不満を表情に露わにした。

「どうしてさ、僕と言うものがありながら」

「だって、私、はっちゃんのこと異性として好きだもの」

 言ってから栞は「あ」と口を手で押え、瞳だけ動かして葉桜を見る。

「……へ?」

 葉桜は、暫し固まる。

「今のなし……には、ならないよね」

 栞は逡巡し、諦めたように乾いた笑いを漏らした。

 そして、同じ意味の言葉を繰り返した。

「私は……雪間栞は吉野葉桜のことが、ずっと好きだったの」

「栞ちゃんが、僕を?」

 葉桜は自分と栞を交互に指さす。栞はこくん、と頷いた。

「あ、あの、えと」

 葉桜は赤い絵具をぽとんと水に落としたように、頬から耳へと紅く染まる。

「あーあ、墓までもっていくつもりだったんだけどなあ。口が滑った」

「秘密だったの?」

「そうだよ、秘密だったのに」

 栞は照れ笑いして、布団の中に潜る。

 かさかさ、と体に繋がれた管が布団に擦れる音がした。

「栞ちゃん、僕は……」

 恋が分からない、と言葉を続けるのは憚られた。

 布団の中に顔を埋めたまま、栞はもごもごと曇った声で言う。

「はっちゃんが悪いんだよ。あんな花ばかり持って来るから」

「ええ?どういうこと、気に入らなかったの?」

「何でもないよ……答えなんかいらないの。分かっているから。困らせたいわけじゃないの。私がはっちゃんのことを好きだったって。それだけ覚えていてくれたら、ちょっと幸せ。それで十分なの」

 栞は葉桜に口を挟ませずに矢継ぎ早に言った。

「栞ちゃん、あの」

「何も言わないで。ごめんね、私、もう消えちゃうのに。余計な荷物を持たせたね」

「そんな……そんな言い方しないでよ」

 栞から返答はなかった。

 少し待ったら「今日はもう帰って」と申し訳なさそうな声だけが返ってきた。葉桜は何も言えないまま大人しく病室を去った。

 病院から一歩踏み出した瞬間、葉桜は駆け出した。

 そこがスタートラインだったかのように、ピストルの音が聞こえたかのように、走る。兎に角、走る。走り抜けた。

 川沿いの病院から商店街へ続く坂を、葉桜は一気に駆け上がった。

 商店街の中ほどに、野菜の太田商店はあった。昔ながらの八百屋だが、規模は大きく品ぞろえは豊富で、近頃は個人宅への配送も請け負っている。

 店先には乳飲み子を抱えた若い主婦や大荷物を抱えた屈強な主夫から、杖をついたご婦人まで、一家の健康管理を任された猛者たちが品定めをしているところだった。

 店員たちは慌ただしく次から次へと商品を売りさばいている。店先は活気づいて、そこだけ気温が上がっているようだった。

 葉桜は猛者たちをかき分け店に飛び込んで、目当ての人物を見つけると、汚れた前掛けに縋りついた。

「た、た、大将くん!」

「どうしたハッチ、茄子より酷い顔色だぞ。ちなみに今日のおすすめはトマトだ。いくつにする?」

「あのね、栞ちゃんがね、僕のことを好きだったんだって!あ、トマトは三つください」

 葉桜は相談料がわりに赤く熟れたトマトを即決で購入した。

「二百四十円だ。ほお、栞に言われたのか?」

「うん、ついさっき。でも、僕は恋って分からない。ずっと分からないままなんだ。どうしよう、大将くん」

 眉はハの字よりもっと悲壮に下げて、葉桜は百円玉三枚を大将に手渡した。

「どうしようったってなあ。栞がお前のことを好きなんだってことは、俺達昔馴染みの間じゃあお前以外みんな知っていたぜ。ほれ、六十円のおつりだ」

 大将の手から五十円玉一枚と、十円玉一枚が葉桜の掌に落される。

「う、うそ!」

 葉桜は驚愕と動揺に襲われた。手から小銭が転がり落ちて、ちゃりんと音を立てて地面を打つ。葉桜は慌てて小銭を拾うのに腰を折った。その頭上で大将は話し続ける。

「俺も子供の頃は栞に惚れていたもんだなあ。あいつ、クラスでも人気あったんだぜ。栞はハッチしか眼中になかったから、俺は早々に諦めたけど」

「そ、そんな話、僕は初めて聞いたよ!?」

 驚いた葉桜はせっかく拾った小銭をまた地面に落とした。

「だろう、初めて言った」

 大将は呆然とする葉桜の代わりに転がった小銭を拾って、葉桜の財布に入れてやった。

「何を焦る?何を困ることがあるんだ、ハッチよ」

 大将はトマトが三つ入った袋を、落とさないように葉桜の手首に引っ掛けてやった。

「栞がお前を好きだって、それがなんだ。栞の気持ちなんだから、栞の勝手だろう。お前が栞を好きでも、そうでなくでも、別にいいじゃないか。それはお前の気持ちで、誰もそれを指図する権利がないんだから」

「でも、僕には自分の気持ちが分からないんだ。せめて、自分の気持ちくらい分かっておきたい……そうでないと、失礼だ」

 葉桜は財布を握り占める。大将はそんな葉桜に、なんと言葉をかけたものかと、額に手を当てた。

「栞ちゃんは答えをいらない、と言ったけれど。これが恋なら、栞ちゃんに伝えたい。恋でなかったとしても、僕がどんなに栞ちゃんを大切に想っているか、その気持ちまで零にしてほしくないんだ」

「植物のこと以外はてんでだめなのだから、ない頭であまり考えすぎるなよ」

「うん……」

「情けない顔になってるぞ、ハッチ」

「それは前からだよ、大将くん」

 葉桜は項垂れて「トマト、ありがとね」と紅い実の入った袋をかさかさ言わせて手を振り、八百屋を去っていく。

 その何とも頼りない背中を見つめて、大将は心配と呆れが混ざった息を吐く。

「なんだよ、ハッチ。相変わらず馬鹿だなあ」

 大将は葉桜の背中に向けて、小さくひとりごちる。

「答えなんて出さなくても、出ているじゃないか」

 大将は店先のトマトをせっせと補充した。大きさ、形は不揃いなトマトだが、味は良い。売れ行きも好調だ。

 不器用な、昔なじみの友人たちを想いながら、八百屋の店員はせっせと野菜を売るのだった。

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