第20話

 五、


 明くる日、葉桜は大学の門前で、桜を見上げていた。

 普通じゃないほうが良い。

 栞の言葉は胸に引っかかったままだった。

 

 葉桜の通う大学はさくら町の外にある。町の外に出ると、桜たちの悲鳴は小さくなっていく。

 キャンパスに入ってしまえば、サークル勧誘のかしましい声に悲鳴はかき消された。

 葉桜は活気と光に満ち溢れる眩しいキャンパスの中、一人どんよりと暗く、とぼとぼ足を進める。

 新入生は大学という新たな世界に目を輝かせている。葉桜も四年前はそうだった。あの時ほどの新鮮な気持ちは失われてしまった。すれ違う新入生たちに葉桜は懐かしさと、羨ましさを覚えていた。

 いつの間に時は流れていたのだろう。

「お、やっと来たか、泣き虫ハッチ」

 葉桜が研究室に入ると、同じく院生の友人が白衣に袖を通しているところだった。

 不名誉なあだ名で呼ばれた葉桜はむっとして、彼の丸い腹部にえいと拳を入れる。たゆん、と脂肪が攻撃を何事も無かったように飲み込んだ。

「最近は泣いてないよ」

 軽く挨拶して、葉桜は荷物を下ろした。

 ロッカーから引っ張り出したよれよれの白衣を肩にかけ、葉桜は研究ノートを机の上に置いて開いた。

 研究室の植物は今日も生き生きと葉を茂らせている。この研究室に入った時から育てているものも多い。

 研究室には数多く植物があるが、半分くらいは教授の趣味で栽培している。喜んで世話をしている学生は葉桜ぐらいだった。

 研究中の植物を囲んで騒いでいた学部生二人が葉桜に気が付いて、白衣を翻した。

 野郎ばかりが四人、研究室はむさ苦しかった。

 何の因果か男ばかりが集まる研究室、今年も可愛らしい女子学生は入ってこなかった。研究室の学生たちの心は荒れた。

「ハッチ先輩、遅いよ」

 筋骨隆々とした後輩の一人が葉桜を小突く。

 葉桜は二、三歩よろめいた。線の細い葉桜にとって、後輩の一突きは突っ張りと変わらない威力に感じられた。

 もう一人の後輩もなかなかの体格であるが、こちらは葉桜に敬語を使ってくれる分、まだ先輩扱いしてくれていた。

 見た目はどんなにせよ植物を愛する同士、気は合った。この研究室は縦横いずれかに大きな体を持ちながら、小さな植物を愛でる男たちの集まりであった。

「ごめん、用事があったから」

「研究室の住人と名高いハッチ先輩が一番遅くに来るなんてなあ、珍しいこともあるもんだ」

「お前はいつも遅刻しているから知らないだけだ。ハッチ先輩は最近、研究室の住人を卒業されたんだよ」

「なんと!ハッチ先輩、俺達に内緒で彼女かよ!?そうなのか!そうなんだ!?」

「どこをどうしたら、そんな話になるのさ。ちょっと遅く来たくらいで大袈裟な……ねえ、教授は?」

 葉桜は研究室を見回して、部屋の主を探すがその姿は見当たらなかった。

「まだでーす。来る途中、喫煙所でお見かけしたので、一服してから来るんじゃないかと」

「さすがマイペースなヘビースモーカー」

 この時間に集まるようにと学生に連絡したのは教授だったが、呼び出した当人が遅れてくるのはいつものことだった。

 教授がいないのをいいことに、後輩たちは葉桜への尋問を再開する。

「それで、ハッチ先輩?最近、どうなの!どんな彼女なの!」

「どうもしないってば」

 葉桜は詰め寄って来る暑苦しい後輩を押し返した。

 共学でありながら、もてない男子の掃き溜めと成り果てているこの研究室では、誰かに浮いた話があれば一大事なのだ。

 助け舟を出してくれたのは、共に院へ進学した級友だった。

「あまり構ってやるな。ハッチは哀しい独り身のままだ。最近は幼馴染の見舞いに忙しいだけだ」

 事情を知っている院生の友人が後輩をどうどうと宥める。友人は横に大きいが立てには小さいので、体格の良い後輩には押され気味に見える。

「え、そうなんですか」

「そうなのですよ、後輩たち。僕の大切な幼馴染が入院しているんです」

 葉桜はシスターのように言い聞かせて、荒ぶる後輩たちの気を静める。

「それは、お大事に……でも、それって女なんでしょう?」

 後輩は引き下がらずに、訝しんだ顔をする。

「女性だけれど、それが何か?」

 葉桜は後輩の話半分に研究ノートをぱらぱら捲り始める。もうすぐ教授は来るだろうし、この不毛な尋問に飽いてきたのだ。

「何かって……本当に幼馴染ってだけなんですか?」

「どういう意味?」

 ノートから顔を上げて、葉桜は首を傾げる。

「とぼけちゃって、ハッチ先輩ったら!」

「そう尖った言い方をしてやるな。ハッチは健気なもんだよ。毎日見舞いに通って、花を一輪プレゼントするんだと。泣けるじゃないか」

「やっぱり、ただの幼馴染じゃない!問題はここだ、片思いなのか、両想いなのか!」

「あ、これって、恋の話だったの?」

 葉桜はきょとんとして、後輩に尋ね返す。

 後輩は一拍間を置いてから、がくりと肩を落とした。

「ハッチ先輩って本当に心配になるくらいピュアだなあ……」

「別に僕は恋をしていると言う訳ではないよ。ただ、大切な人だから」

「そういうもんですかねえ、自分だったらただの幼馴染にそこまでできないなあ。恋人なら別だけど」

「恋人は別なの?」

「別だよ、別に決まっているよ、ハッチ先輩。だって友達はたくさんいるけれど、恋人はひとりだ、特別だよ、なあ?」

「そうですね、俺も男女の友情は成立しない派です」

「え、成立しないの!?僕は成立しているけど!?」

「案外、そう思っているのはハッチ先輩だけかもしれませんよ」

 敬語を使ってくれる後輩は意地の悪い笑みを葉桜に向けた。

「そんなあ」

「ハッチには難しい話だったな」

 院生の友人が慰めるように、葉桜の肩にぽんと手を置いた。

「うん、とても難しい話だった。恋の話は研究より難しい」

「ハッチ先輩、顔は男にしておくのが勿体ないくらい良いのになあ、彼女いないなんて損だよなあ」

 後輩は葉桜の顔をしげしげと見つめて言った。

「おやおや、若者たちは恋の話で盛り上がっているのかい」

 いつの間にか男子学生の群れの中に老爺が混じっていた。この研究室の主である。

 学生たちは驚き戦いて、ひえっ、と一斉に教授を振り返って退く。

「いつの時代も変わらんねえ。それで、研究テーマは?」

「男女の恋は成立するか、ですかね」

 教授が入ってきていたのにひとり気が付いていたらしい院生の友人が答えた。老爺は白髭を撫ぜて、ううん、と唸る。

「難解なテーマだ。その議論に酒の席なんかで幾人の強者が挑戦し、破れてきたことだろう。しかし、ここは植物学の研究室。そのテーマを真に研究するには向こうの棟まで行かねばなるまい」

 教授は窓の外を差した。どっと学生たちは笑った。

 窓から見える向こう側の棟は、他学部の棟である。その中には心理学の研究室も入っていたはずだ。

「さーて、今から学部ごと研究室を変更する者以外は、各自、今期の研究テーマと現在の進捗具合を発表してもらうよ」

 教授が言うと、学生たちはそれぞれ「はーい」と間延びした返事をしていそいそと発表材料を広げて準備に取り掛かる。

 あれだけ雑談する時間があったのに、葉桜以外は準備もしていなかった。皆の準備が整うまで、手持無沙汰な葉桜は教授にひっそりとした声で尋ねる。

「先生は、どう思いますか」

「男女の友情の話かい?」

 葉桜が頷くと、教授はそうさねえ、と勿体ぶって白髭を撫でる。

「私は植物学者だからね、生殖の方法には多様性を見ている」

「ええ……先生の言うことはいつも難しい」

「この間、愛と恋について教えてあげたじゃないか、葉桜くん」

 葉桜は暫し黙考し、口を開く。

「恋は雨降り、愛は水やり、ですか」

 したり顔で老人は頷いた。

「そうとも、友情は野に咲く花だよ、葉桜くん。それも君の足元に咲いている。雨でも、如雨露の水でも良いのさ」

 葉桜は黙考してから、観念したように息を吐いた。

「やはり先生のお話は、僕には難しいようです」

 葉桜は窓の下を見やった。

 棟の最上階であるこの部屋から覗けば、桜の木を天辺から見ることができる。

 枝の隙間から、地面のコンクリート、霞んだ灰色が覗いていた。枝の隙間を埋める桜色の花弁はもう無いのだ。一枚だってない。散った花弁は風に吹かれてどこへやら、見る影もなくなっていた。花を落とした寂しい姿の桜は、これから緑の葉をつけようとしている。桜たちは新緑の季節を待っているところだった。

 大学の桜はとっくに散り果て、葉桜になっていた。

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