6
第22話
六、
その夜、葉桜は寝付けずに空中庭園を彷徨っていた。
季節が春を迎えて、庭に咲く花は増えた。頭上に垂れる藤の花、花弁の先を反らせる青紫の風信子、赤やピンクのペチュニア、細い花弁を広げる雛菊に歪な星型の蔓桔梗。
春に咲く花は一年で最も多い。北側に目立っていた黄色の冬花から、庭の主役は色鮮やかで種類の豊富な春の花たちへ移ったのだ。
蝶の数はぐっと増え、蜜蜂たちは待っていましたと言わんばかりの勢いで蜜を探してあちこち飛び回っている。
冬の静かな庭から、春の賑やかな庭へ。
庭の住人達も季節の変化に忙しくしている。
雲に半分隠された月の明かりを頼りに、葉桜は気まぐれに歩いては座り、また立ち上がっては、気まぐれに歩くのを何度も繰り返していた。
座り込むと、心配した花の精たちが葉桜の周りに集まって、どうしたどうしたと彼をつつく。
葉桜は膝を抱えて丸くなった。
すると花の精たちは余計に心配して、葉桜に群がっていく。葉桜は花の精たちの中に埋もれた。
花の精たちはいつも葉桜に優しかった。
幼い頃から、葉桜が落ち込んでいると、花の精たちは葉桜を慰めてくれた。
自宅の空中庭園の花々、帰り道の桜並木、校庭の桜や花壇の花、いたるところに花の精たちはいた。
葉桜には彼女らが見える。周囲の人間からは多少浮いていたけれど、葉桜はいつだって孤独を感じたことはなかった。
「まあまあ、こんなところに花の精の群れが」
凛と響く楽器の音色のような声とともに、頭に乗っていた花の精の重みがなくなる。
顔を上げると、桜色の髪が揺れていた。
「隠れん坊かしら?見つけて差し上げましたよ、我が息子よ」
桜の魔女は葉桜の前に膝をついた。
花の精たちは魔女が来ても、葉桜に群がったままだった。
魔女は葉桜の隣に同じように腰を下ろして、膝に花の精を抱えた。
「帰ってきていたんだね、母さん」
「今し方、戻ったばかりです。朝日が昇ればまた発たねばなりません」
「そうなの、忙しいんだね」
「春ですからね。忙しい分、楽しいものですよ」
魔女は膝の上に寝転ぶ花の精を撫でた。
「葉桜、随分と散花を躊躇っているようですね」
葉桜は亀のように首を引っ込めて、桜の精の中に隠れてしまう。
「お叱りにきたの、母さん」
怯えを含んだ声に、魔女は微かに笑った。
出来の悪い子ほど、可愛いのだ。
「いいえ、何も言うまいよ。母はあなたに任せたのですから。このさくら町の桜を」
そうですか、と力ない声がして、葉桜は引っ込めた首を元に戻した。
「母さん、栞ちゃんを救う方法はないの?医学がだめでも、魔女の薬なら……」
魔女は悲しみを帯びた瞳を、葉桜に向けた。
「葉桜、何を言うのです。わたくしは桜の魔女ですよ。わたくしの薬は草花、木々の為のもの。人間でも風邪くらいの小さな病なら、少しは役に立つ薬も作れますが、大病は治せませんよ」
「でも、このままじゃ、栞ちゃんが死んでしまう」
「人はいつか死にますよ、葉桜」
「だって、早すぎる」
葉桜は抱え込んだ膝の上に、頭を埋めた。
魔女はそうして動かなくなった息子に手を伸ばして、艶やかな黒髪を撫でてやる。
「人の世はいつも短いもの。瞬く間に人は生きて死にゆく。母は桜の精であった時も、魔女であった時も、人の生き死に目の当たりにしてきました。どう足掻いても、死ぬものは死ぬのですよ、葉桜」
「母さんは、どうして耐えられたのです」
葉桜はいつか、教授に尋ねたことと同じことを魔女に尋ねた。
魔女はふるふる、と頭を振った。
「分かりません。母はただ愛した人を追いかけていただけですもの。悲しむ暇などありませんでした」
魔女は何世紀にも渡り、庭師の魂を追いかけた。
生まれて、死ぬのを繰り返す魂。
それを追いかけて、出会い、出会う度に恋に落ちた。
花の精に許されるまでずっと、それを繰り返した。その話は生まれてこの方、飽きるほど聞かされてきたが、葉桜にはとても想像できないことだった。
「僕には恋とか愛とかは、よく分かりません」
黒髪が震えるように蠢く。
「栞ちゃんは僕が好きなんだって。でも、僕はこの年になっても、恥ずかしいことに恋は分かりません。どうしたらいいのか、分からなくって」
葉桜は徐に顔を上げた。
「恋って何ですか、母さん」
桜色の瞳はやっと魔女をまっすぐに見た。
「葉桜は恋が分からないのですね?」
「そうです」
「愛も分かりませんか?」
「分かりません」
「本当に、そうでしょうか」
暫しの沈黙。葉桜は言葉の続きを待った。
「わたくしは、花言葉というのはあまり好みません」
「は、はあ……花言葉、ですか」
あまりに唐突な話に、葉桜は拍子抜けしたように肩から力が抜けた。
「西洋人が考えたと聞きますが、花に固定した言葉を宛がうなど無意味です。見る者が感じた想い、それが全てなのですからね。花言葉の由来は花から受ける印象によるもの、歴史上の逸話や伝説、宗教などさまざま。一つの花によっても全く異なる意味の言葉が宛がわれるのだとか」
「へえ、花言葉ってそういうものなんですか」
「勝手に決められたのが癪で少しばかり学びましたよ。本によっても、花言葉は変わります。決まったものはないそうですよ。くだらないもの、と思っていましたが、存外、侮ったものでもないのかもしれませんね。先ほど、栞さんの病室を覗いた時に思いましたよ」
「どうしてです?」
魔女はにこやかな笑みを浮かべて、空中庭園の中を順番に指さしていく。
「木春菊、白い麝香撫子、かすみ草に銀葉アカシア、千日紅、赤い鬱金香、桔梗と酔仙翁、それに紫陽花と、赤い薔薇……あなたが選んだ花たちを見れば、己の気持ちはよく分かるでしょうに」
魔女はぽかんとする葉桜に笑みをひとつ零して、話を続ける。
「白い木春菊の花言葉は真実の友情、麝香撫子は無垢で深い愛、白色は純粋な愛。かすみ草は無垢の愛。銀葉カシアは友情」
「ま、待ってよ、母さん」
「待たないわ。千日紅は色あせぬ愛。鬱金香は思いやり、赤色だと愛の告白ね。桔梗は愛着、深い愛情。酔仙翁は私の愛は不変。紫陽花は辛抱強い愛情。そして赤い薔薇の花言葉は」
魔女は言葉を区切って、囁くように葉桜に耳打ちした。
「愛よ」
魔女は息子をそっと抱きしめた。
魔女の膝に抱かれていた花の精はころころと転がり落ちた。
魔女は葉桜を幼い頃と同じように、桜の香りを漂わせてふんわりと柔らかな腕に包み込む。
「ほら、愛なんて知らないなんて嘘」
くすり、と笑う声が葉桜の耳元で聞こえた。
「……僕はそんなつもりで、選んだわけでなかったのですが」
葉桜は気恥ずかしそうに耳を赤くして、口籠る。
「花言葉は元来、愛を詠うものが多いのですよ。花を贈りたいという気持ちそのものが愛ですからね。それでも、ぴったりだと母は思いましたよ」
「友情と愛情と、僕の混ざり合ったこの気持ちは何なのでしょう」
母親の腕をほどいて、葉桜は魔女を見やる。
「分かりやすい恋や愛ではなくとも良いではありませんか。葉桜には彼女を想う気持ちはしっかりとある。それだけで、十分ではないですか。その気持ちにどんな名前を付けるかはあなた次第だけれど。名前が無ければつけなくたっていいわ」
「僕次第……ですか」
困った顔をする葉桜を見かねて、魔女は「これは母の私見になりますが」と前置きしてから息子に語った。
「恋や愛は、二つとして同じ気持ちはないと思うのです。わたくしが持つ恋心と、わたくしが愛するあの人が持つ恋心は決して同じではなかったはずです」
「え、そうなの?」
「……多分ね。だって、わたくしはあの人の傍にいつだっていたかったけれど、あの人はそれを望んではいなかった」
魔女は寂しそうに口を尖らせる。
「同じ人間や花が一つとしてないように、気持ちもそうなのではないかしら。異なる者同士が抱く感情が全く同じ感情であるはずがないとは思いませんか。だから、葉桜、あなたは、あなただけの気持ちを大切にすればよいのです」
「僕だけの気持ち……栞ちゃんと全く同じでなくてもいいのでしょうか」
魔女が頷くと、桜色の髪も揺れた。
葉桜は空中庭園をくるりと見回す。彼女へ贈った花がそこかしこに植わっていて、精たちは葉桜を励まそうと舞っている。
「僕は……僕は栞ちゃんにたくさん、守られてきた。子供のころ、いじめっ子からかばってくれたのは、栞ちゃんだった。泣いているときに真っ先にハンカチをくれるのも、いつも栞ちゃんだった」
葉桜の桜色の瞳が水分の膜に覆われ、その視界はぼんやりと歪んだ。
「家族や植物たち以外で、僕に無償の愛をくれる唯一の人間。それが、栞ちゃんだったんだ」
今にも泣きだしたい、そんな顔をしていたが、葉桜が泣くことはなかった。
「僕はもっと早くに、目を逸らさずに、こんなことになる前に……考えるべきでした。遅すぎました」
葉桜は涙が零れないように、天の月を見上げた。
空中庭園の中を泳ぐように飛ぶ蝶や蜂の影がその顔に映った。
魔女は小刻みに揺れる肩を抱き、囁くように語る。
「遅すぎることはありません。確かに、貴方たち二人は今どきの若者に比べると随分、のんびりと過ごしてきたやもしれません。けれど、その時間だって素晴らしかったでしょう?なるべくしてなるのです。今がその時なのですよ」
「僕は栞ちゃんに何か返せるでしょうか」
魔女は、馬鹿ね、と小さな声で笑うように言った。
「返さずとも、全てをもらって差し上げない。栞さんは、あなたにあげたのだから」
葉桜は掠れた声で「はい、母さん」とだけ答えた。
魔女は名を呼ばれて振り返るように、空中庭園から見える庭の立派な桜に視線を転じた。
「さくら町の桜はまだ散りそうにないですね」
しんみりとした声だった。魔女が桜たちを憐れんでいるのが、声に現れていた。
葉桜は居たたまれなくなって、目を伏せる。
「……ごめんなさい、それでも、僕は」
まだ、泣けないのです。
葉桜の声に、言葉に、強い意志があった。
魔女は深いため息を吐いた。
「桜の精たちは苦しみます、それだけは忘れないで……でも」
魔女はゆっくりと瞼を下ろして、桜色の瞳を隠した。
「母はもう少しだけ、目を瞑っていてあげましょう」
空中庭園の花々がざわめき立つ。家の傍に生える、精のいない桜の木だけが静かに佇んでいた。
この夜も、さくら町の桜は散らなかった。
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