櫻幹に結ぶ

小谷杏子

櫻幹に結ぶ

 それは、血管の中まで冷える冬の日だった。彼女はわずかに膨らんだ腹を優しく撫でながらへやで息を潜めていた。慈しむような柔らかな手つきで撫でる。

 ――もうすぐよ。

 腹に宿す子へ語りかける。この命だけはなんとしても守り通したい。

 例え、望まれぬ命だとしても。



 タカという少女は山間の小さな農家で生まれ育った。彼女の家は貧しく明日の飯を確保するのにも一苦労で二日に一回飯が食えれば上等というほどで、タカも幼少から両親の手助けをしていた。

 しかし母が病に罹ってしまい、父はとうとう娘を奉公に出すと決めたのだ。タカが数えで十を迎える年のことである。

「明日ね、遠くの町に行くんだ」

 一本だけの櫻が花を咲かせるその下。岩場に座り、川面に足をさらすタカは幼馴染の少年に言った。少年、栄助えいすけもまた農家の子供であり、タカ同様に貧しい生活をしていた。二人とも、ツギハギの着物をまとっており顔は泥だらけ。川の水で汚れを落としてもそれはこびりついたように取れない。

「明日って……そんな急に決まるもんなん?」

 栄助は驚きで声が掠れていた。絶句といった表情でタカを見つめる。

「うん。そういうのってすんなり決まるとよ。母ちゃんが病気なら仕方ねぇさ」

「そらそうかもしれんけど……おタカはそれで良かとや?」

「良かよ。だって、あたしがうんと働けばお金入るんやし」

 タカの表情は言葉と裏腹に諦めが混じっていた。それが見えたからか、栄助は納得がいかない。すくっと立ち上がり栄助は顔をしかめて厳しい顔を向けた。

「俺とのことはどうすっとや」

夫婦めおとになるって話? あんなん口約束やん……」

「約束は約束やろうが」

「そうやけど、どうしようもなかろう?」

 栄助の剣幕にタカは怯んだ。後ろめたさも確かにあった。幼少からずっと仲が良く、気が強く男らしい栄助を慕っていた。いつかは彼と夫婦になるのだと夢を抱いていた。だが、それももう叶わない。

 タカは素早く立ち上がる。舞い落ちる薄紅の花弁が落ちる涙を隠してくれた。

「この櫻を見るのも最後か……ごめんね、栄ちゃん。もうあたしなんかのこと忘れてね。栄ちゃんのお嫁さんになれる人はいくらでもおるんやし」

「それ、本気で言うとるんか、お前」

 何を言っても裏目に出てしまう。血が上った栄助は段々と語気が荒くなり、今にでもタカを引っ叩きそうだった。それでもタカは「本気よ」ときっぱり言った。それは自身に言い聞かせるかのようでもあった。

 栄助との会話はそれきりで、もう翌日の早朝には怪しげな笑みを顔に貼り付けた男に連れられ、生まれ育った村から引きずり出された。

 初めて出た村の外――そこは華やかで見たこともないくらい人が賑わっている。あちこちが華やぎ、まるで豪華な縁日のようだった。小さな時に一度だけ見た縁日。そして、鮮やかな櫻並木……その花弁を見ていると、あの川辺にあった一本櫻を思い起こさせる。

 その思い出に浸り、振り返りながら彼女はこれまでの日常に別れを告げた。


「――こっからがあたしの生活の始まりやったんよ」

 まだ客の出入りが少ない昼下がりの室で、タカは身支度をしながら言った。彼女のこれまでをじっと聞いていたのは新入りの娘である。彼女はどうやら騙されてこの店に来たらしく、いつまで経っても泣き止まないものだから女将おかみがとうとう手を挙げたのだ。それを庇ったのがタカだった。

「この旅籠はたごはね、他とはちょっと違うんだ……番頭のハゲがおったろう? あいつが言うにはそうらしい。他の店はそげんことせんのやて。でもここは、お客の世話を全部なんもかんもやらないかんとよ。仕事やけん、しゃあないって開き直ってるんやけどねぇ……まぁ、考えてみたらおかしな話よね」

 差し込む白い光に目を細めながら、タカは達観した表情を見せた。

「あんた、名前はなんていうと?」

 その問に少女はおずおずと口を開かせる。

季良きらと言います」

「季良ね、よろしくな。あたしのことはタカでいいから」

 優しげな笑みを向けるタカの目を見ていると、季良は不思議と涙が引っ込んでしまった。歳が近いはずなのにタカの方が大人びている。顔のつくりは一等に良いとまではいかずとも、あどけなさを残した彼女は儚げな華があった。


 時は江戸。文化元年を迎えたこの時代。

 旅籠「花や」は江戸で栄える吉原ほどではないが山を拓いた町で唯一の見世でもある。大名の通り道でもあったことから、町全体が華を売りにしていたこともあった。

 旅籠で働く女たちはそのほとんどが身売りされた者ばかりで、タカも季良も同じだった。

 幼馴染の栄助にはこんな事実を打ち明けることは酷だ。タカは売られる前からそういう場所であるのだと知っていた。知っていたからこそ言えなかった。言わずにいて、そのまま忘れてくれればいいと本気で思っていた。

 それに毎日忙しく、働けども飯を食う暇もない。眠りの時間も少ない。そんな日々に忙殺されてしまえば、いつしか栄助への思いも心の奥底へと沈んでいった。

 だからどうして、ふと思い出したのか分からない。新入りの娘に身の上話をしてしまうなんて。口が自然と紡いでいたように思える。タカは潤んだ瞳を隠すように外の光を見やった。

「まぁ、頑張ろうや。あたしが優しく教えちゃるけん、心配せんで良かよ」

 哀れな娘に情けをかけることしか出来ない。タカはやはり憂いげにゆっくりと言った。


 浅黒いタカの素肌は、今や白粉を塗ったようにつややかで透き通っている。三年という歳月で人は見違えてしまうのだろう。

 とくに化粧をするわけでなく、旅籠に泊まる客の世話をするだけ。食事はもちろん、部屋の掃除から何まですべてをこなさなければならない。夜は夜で男の客を相手に体を売ることもあった。それが歳を重ねる度に増えていき、また他の女たちを見ていくにつれ、タカと季良の目は段々暗く淀んでいく一方だった。二人が距離を詰めるにはそう時間はかからない。

 客への対応が悪かったことを女将に怒鳴られ、時には酷い折檻を受けた。そんな辛い日々に耐えることが出来たのは互いに信頼し合っていたからだろう。

 彼女たちがより強固な絆を結んだのは、季良が店に入って一年が過ぎた頃だった。

「シヅ姉ちゃん、病気になったんだって」

 飯盛めしもり女たちの間で密やかな噂が流れた。シヅとは花やで働く女たちの最年長に当たる。

「なんかね、体中に赤いツブツブがあるんだって」

「虫にかまれたんやなくて?」

「虫にくわれただけでああはならんやろ……全身よ、全身。でね、女将に見つかって……」

 少女たちはこぞって口元に手を押し当てた。

 それは当然、タカと季良の耳にも入った。

「シヅ姉さんがそんな! 認めんよ、あたしは! この目で見るまでは絶対認めんからな!」

 話を聞いたタカは季良の止めも振りほどいて旅籠の裏手へ走った。長い廊下を行き、彼女らは息を切らしてその現場を見た。

 ふくよかな壮年の女将がいつもの太々しい表情で、走ってきたタカを睨め付ける。その背後、裏手へ続く扉の向こうで、

「ああああああああああああああっ!」

 おびただしい女の悲鳴が響いた。そして、静寂。背筋が凍るほどの静けさに、女将の吐く溜息が場違いな音を立てた。

「し、シヅ姉さんを……殺したのか?」

 双眸を大きく開かせ、タカは唇を震わせた。季良は口元を抑えて嗚咽をこらえる。他の少女たちも顔面蒼白で立ち尽くす。

「シヅ姉さんは……そりゃ、あんまし頭良くないけどな、でも優しい人やったよ……それがなんで死なないかんの」

 女将に言えども、それはまったく響くことはなかった。むしろ、この女将は彼女たちを蔑むように見ると威圧的に言った。

「使えん道具は処理しなきゃダメだからね。アンタたちもこうならんように気をつけることだね」

 病に罹った娘は無残に殺される。それが明るみになった瞬間だった。女将がタカを跳ね除けるようにその場から立ち去れば、すすり泣きがあちこちで上がった。

「……ねぇ、季良」

「はい」

 情けなく顔を歪めて泣く妹分を見やり、タカは恐ろしく冷えた声で言った。

「あたしは、こんなこと許さんよ……もし、あたしがシヅ姉さんみたいに殺されたら、こんな店、祟って潰してやる……絶対に……よう覚えとってや」

 彼女の目が鋭い光を帯びていた。


 シヅの死が彼女を変えたことは言うまでもない。仕事は変わらず真面目で人の倍はこなすようになった。

 夜の床で男に弄られることにも抵抗がなくなった。毎夜毎夜、乱雑に身体の内部を掻き回されても、彼女は薄く妖しげに笑むのだ。それが蝋だけの灯りでぬらりと現れれば、男たちの性欲を刺激する。妖艶な魅力に取り憑かれる者が後を絶たない。

 花やで働くようになって、五年は経った頃のことである。ただの旅籠は一躍、夜の見世へと変貌した。

「噂で聞いたんやけどね」

 そう言って泊まりに来る客もいた。春風が心地よい夜である。体格の良い青年が一人、訪れた。

「金はあるんで、その噂の女に会わしちゃらんね?」

 彼は女将に一泊分の金を渡し、無愛想に言った。金があればどんな客だろうと迎え入れる強欲な女将である。ちょうど客の相手をしていたタカを引っ張り出して青年に引き合わせた。

「噂というんは怖いもんですねぇ……一体どこで聞きつけたかは知らんけど。あたしがタカです」

 蝋燭が灯る夜も更けた室の真ん中で、タカは小袖で口元をかざしてあざとい笑みを浮かべた。一方、鋭い切れ長の青年はじっと彼女を見つめると眉間にシワを寄せた。

「――お前、変わったな」

 青年の言葉に、タカは初めて顔を強張らせた。青年は彼女の腕を引っ張り、畳に押し倒す。湿ったような藺草の匂いを嗅ぎ、彼女は狼狽の目を彼に見せた。

「……まさか、あんた」

 視線が泳ぐ。顔を見ただけでは分からなかった。いや、気づかないようにしていた。だが、覆いかぶさるように顔をじっと見つめてくる強い瞳に抗うことは出来なかった。

「栄助、ちゃん……?」

 喉の奥がふるりと小刻みに揺れている。声が掠れ、それでも彼女は久し振りに名を呼んだ。青年は静かに頷くと、彼女の頬に自身の額をすり寄せた。

「迎えにきたよ、おタカ」

 低く甘い音が耳元を優しく撫でた。タカは震える手で彼の背に手を回す。覚えていたものとはおよそ違う、広く固い背に手のひらをくっつけてしがみつく。すると彼も彼女の細い体を抱き締めた。

「栄ちゃんも変わったね……こんなにおっきな背中、たくましくなって……本当に栄ちゃん?」

「そうや。本物の栄助や、なんも心配せんでいい。おタカ……会いたかった」

 栄助の声に、タカの心臓は跳ね上がる。それまで冷え切っていた全身が熱を帯びていく。じわりじわりと爪先から這い上がってくるように熱が上がる。彼女は栄助にしがみつき、厚い肩に顔を埋めようとした。しかし、すぐに全身を硬直させる。タカは栄助の肩を掴み、自分から引き離した。

「おタカ……?」

「ダメ……あたし、栄ちゃんに触れたら……」

「なんでや」

「あたしはっ……あたしは、色んな男と寝た。なんでもしてきた。そんな汚い女を、栄ちゃんが触れたらいかん……」

 しかし、栄助は聞く耳を持たなかった。

「俺が嫌いになったか?」

「そんなん言うとらんやろ」

「じゃあ良かろうが。俺はお前が変わったことを知ってて来たんや。それに、今日の俺は客やぞ。お前が拒むことは許されん」

 栄助はタカの腕を強く掴んだ。振り解けるわけがなかった。顔をうつ向けて、視線をずらすことしか出来ない。

「噂に聞いてたのと違うな……客をかどわかして生意気に笑う女やって聞いてきたんやけど?」

「そんな風に言われよったい、あたしって」

「あぁ。だのに、今のお前は昔のまんま。ただの俺の幼馴染や」

 栄助は悪戯に笑い、タカの頬を触った。何度も男の指には触れられてきた。これが初めてではないのに何故か全身が言うことをきかない。痺れが回ったように動けずにいる。タカはごくりと唾を飲んだ。

 彼の瞳に捕まれば、もう固まって冷えていた心は絆されてしまう。彼女は目を瞑った。

 栄助の顔が近い。彼の吐く息が顔に当たる。逃げ場などどこにもない。逃げる理由もない。受け入れてしまうのは容易い。拒むなど最初から許されないのだから。

 唇が触れ合えば互いに求めるように、噛むように、貪るように、深く濃い時間が訪れる。密やかに甘い空気が室の中に漂った。


 栄助はしばらく店に通いつめていた。その度に二人は甘く切ない時間を楽しんだ。金しか目がない女将には悟られないにしても、妹のように慕っていた季良にはすぐに気づかれた。

「おタカちゃん、あんまし言いたくないんだけれど……一人のお客さんばっかりだと良くないわ。上のお姉さんたちに睨まれたらおしまいよ」

「うん……そうやね……時間の問題やろうね……」

 昼下がりの室には昨夜の余韻がまだ残っているようで、タカは畳に頬を擦り付けていた。

「季良……あのね、あたし、この頃体がおかしいの。眠たかったり、ご飯が喉を通らんかったり、足がふらついたり……月のものもないし、おかしいの」

 囁くような声でタカは言った。季良が息を飲む音が聴こえる。

「それって……」

「ねぇ、季良。あたし、栄助と一緒に逃げようと思うんよ。だって、ねぇ? こんなん、許されるわけないもん……あの女将に知れたら殺される。でもね、あたしは栄助の子を守りたい。守りたいの」

 季良は固唾を飲んだ。その音が室に響き、思わず二人は怯えるように肩をびくつかせた。

「あんたには迷惑かけたくないけどね……でも、言わずにはおれんくて。あたし、怖いんだ。とっても、とっても。この子を失うことがとても怖い……」

 タカのか細い声に季良は堪らず飛びついた。背後から彼女を抱き、背中には顔をうずめて。

「心配しないで、おタカちゃん。私、あなたもあなたの子も守りたい。だから、手伝わせて」


 ***


 それは血管の中まで冷える冬の日だった。彼女はわずかに膨らんだ自身の腹を優しく撫でながら室で息を潜めていた。慈しむような柔らかな手つきで撫でる。

「逃げよう、おタカ。もう隠し通すのは限界やろ」

「うん」

「俺は後で行くから、お前は先にこっから出ろ。いいな、この店を真っ直ぐ西へ行けば櫻並木がある。今は咲いとらんけど、春にはえらい綺麗な櫻がある。その一本、目印をつけといた。幹に文を結んである。その文の場所まで行けば事情を知る人の家に着く。俺は明日の朝に店から出るから、お前は先にそこへ行け。分かったな」

 こそりと耳元で言う栄助にタカは黙ったまま頷いた。これを耳に残したまま彼女は窓に手をかける。ここは二階だが屋根を伝えば難なく下へ降りることは可能だった。それに、下では季良が待っている。

「栄ちゃん、必ず逢おうね」

「あぁ、必ず」

 タカは惜しむように窓から栄助を見つめた。ゆっくりと慎重に、暗がりに揺らめく蝋の灯りに当たらないよう息を潜める。手は汗がじわじわと湧き出て、心臓は緊張で忙しなく動く。

 ――もうすぐよ。

 腹に宿したまだ見ぬ子へと語りかける。自身の心と繋がれているように思える小さな命……二つの鼓動が触れ重なっている。この命だけはなんとしても守り通したい。

「おタカちゃん」

 地に降りれば、季良が神妙な顔つきで手招いていた。店の勝手口まで彼女たちは素早く行く。勝手口には錠がかけてあり、これは女将や番頭だけが開けられるものだ。季良は地に膝をついた。

「私を踏んでこっから出るのよ。早く」

「ごめんな、季良。ありがとう……」

「あなたは私の恩人なの。これくらい大丈夫よ」

 タカは季良の背に足を乗せて塀を越えた。高さはあるものの外へ足を伸ばして飛ぶ。

 その時だった。

「お前たち! 何をしている!」

 野太い怒号が店側の塀から聴こえた。番頭の声だ。タカはその場で固まった。

「逃げて! おタカちゃん!」

 塀からは見えないはずなのに季良の叫びが聴こえた。その声が鞭のようにタカの足を奮い立たせた。

「タカが逃げたぞ! 追え!」

 番頭の怒号がそんな言葉をつくる。途端、黒い人影が店から飛び出した。

 タカは振り返りもせずに真っ直ぐの道を走った。

 ――逃げなくては。

 しかし、身重の体では太刀打ち出来ない。目の前が陰るのもそう遅くはない。

 黒い人影があった。黒に塗られた人。型抜きされたような黒い人。

 それが腕を振り上げた。細く長い刀が振り下ろされる。からくもタカはそれを避けた。避けて走る。

 振り下ろされた刀は塀を乱暴に斬りつけた。そして仕留め損なったタカにもう一度刀を振り上げた。それはまるで追い立てるかのように。彼女は走る。走る。走る。つまづいても地を這うように橙の道を走る。

 夜の町は未だ賑やかで橙の灯りが等間隔に並び、道を照らしている。空はぬったりと墨を塗ったような黒なのに。

 ここは櫻並木の道である。どこまでも続く櫻道を駆け抜ける。

 タカは息を吐きながら背後を振り返った。黒の影は緩やかな速度で蠢いている。確実にこちらへ向かってきている。

 ――早く……早く……っ

 干上がった喉の痛みからか嗚咽が飛び出し、真っ白な息が止めどなく口から漏れ出ていくのを見ながら、胸を抑えて咳き込む。そして後ろを振り返った。

「っ……!」

 黒の影がすぐ後ろまで来ていた。

「逃げられるとでも思ったか」

 低い獣のような唸りがそう言った。耳の穴から脳へと響き渡る。

 彼女腹の辺りで鋭く冷たいものを感じた。自身の体を貫くその刃を見た。小豆色の着物がじわりと熱い赤黒に染まっていく。

 刃が突き刺さったまま彼女はよろめいて後ずさった。黒の影はもう追っては来ない。ただじっとこちらを見続けているだけ。

 彼女は櫻の道を一歩ずつ踏みしめた。ずるずると体を引きずってでも道の先へ行かなければならない。そうしなければいけない。逃げるためだけではない。その一心で向かう。

「あぁ……あの櫻だわ……あれが、あれこそが、あの人との約束の……」

 想いが血と共に溢れ出し、流れ落ちていく。赤い道は灯籠の灯りに煌めいている。

 白い綿雪が落ちてくる。まだ咲かない櫻幹に結ばれている文が目に留まる。意識は朦朧としていた。瞼を閉じてしまえば、そのまま深く寝入ってしまいそうなくらい。

 腕を伸ばすも腹に突き刺さった刃のせいで思うように手が届かない。彼女は木にもたれかかった。

「いや、いやよ……まだ、死にたくない……この子の顔を見るまで、は……」

 薄くなっていく視界に千切れた何かがあった。どくんと心臓が鳴る。タカは目を瞠った。

「や、やだ……いやだ、いやだいやだいやだいやだ……いやぁぁあああああああ!」

 息が途切れる。千切れてしまった命のもとへ向うも動けない。叫びが櫻の木を震わせる。幹が伸びたように見えた。呼応するように。

 だが、それが定かであるかはもう認められない。栄助や季良がどうなったのか知る由もない。彼女の息は途絶えてしまった。



 その櫻は季節外れに小さな薄紅の花弁を開かせた。血を吸ったように色づいて花を散らせる。そして届かなかったそれへと幹が伸びる。

 死んだ女の魂が宿ったのだと誰かがそう噂を広げればその櫻には魔が棲むという逸話が生まれた。

 何故だろうか。

 櫻の下を通った者は、その幹に腹を貫かれたからである。無残な死体が転がるようになったからである。

 櫻が孕んだ恨みか、哀しみか――やがて、人はこれを怪異と呼んだ。




 *


 *


 *


「――その真実は私しか知らないでしょうね」

 菊の花があしらわれた着物を纏う小さな子供が憂いげに言う。

 その大きな目玉には爛々らんらんと燃え盛る炎が映っている。子供はにやりと口の端を吊り上げて笑った。

「何が櫻の怪異だ。全て人が生んだものではないか。真っ黒な闇深い魂こそが怪異。純粋な思いこそ守られるべきもの。そして守ろうとした結果、守れなかった者が櫻の魔に当てられて狂ったのだ。あの下手人が殺したんだ。決して櫻が怪異になりたかったわけではない……全ての始まりこそ、ここにあり。怪異を生んだのは紛れもなく、この見世であるのですよ」

 炎の中でもがき苦しむ女たちを眺めながら子供は小さく呟いた。燃え盛る炎は建物を舐め尽くす。中ではまだ人が残っているというが炎の量が多すぎる。どんなに水をかけても無駄なこと。

 ぼんやりと眺めるその脇で、人影が一つ揺らめくように立った。

「ほう……禿かむろか座敷童子か、とんと正体が掴めぬものであったが。では、貴様が、季良であったか……貴様の正体、ようやく掴めたぞ。積年の恨みは、果たせたのだな」

「えぇ。櫻の怪異が朽ちたとのことで、私も責務を果たさねばと思い至った次第です」

 修験者の出で立ちの男を睨み上げる。すると、男はくぐもった笑いを漏らした。

「櫻は、まだ、生きているぞ。呪いは、そう容易に解けはせん」

 男は傘を振るって姿を消した。それはまるで陽炎かげろうのような。炎が見せた幻影のような。

「……くくくっ」

 子供は幼子らしからぬ不気味な笑いを見せた。

「くくくっ……全部、潰れてしまえばいい……私と、おタカちゃんを殺したこんな所、朽ちてなくなってしまえばいい!」

 恨みを込めた声は炎で崩れ行く店の音と重なる。菊模様の子供――雲英きらは百年が経った今、ようやくタカとの約束を果たした。

「潰したよ。おタカちゃん。遅くなって、ごめんね……」


 明治三十六年、初冬。

「遊郭 徒花」は一夜の内に全焼したという。そこはかつて「旅籠 花や」が建つ所だった。



《櫻幹に結ぶ 了》


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櫻幹に結ぶ 小谷杏子 @kyoko

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