陳粋華、孟母と化す。

 授教じゅきょうにおける、こう(おやこうこう)について説け。


 陳粋華ちんすいかの答え。


 此れぞ、坑子こうしが最も説きたき事柄なり、人徳、人智全てにおいて此れに勝り、これ以上のもの授教において是非も無し。孝なくして徳はなし、、知なくして孝もなし。孝なくしては人倫すべてが無し。


 羅梅鳳らばいほうの答え。


 坑子が最も説きたきこととは知れど、此れぞ士大夫、士大婦に他ならず人の建前の全てなり。汎人、胡人、北狄東狄南蛮西戎ほくてきとういなんばんせいじゅう会人かいじん(イスラム教徒)、万事万人に置いて変わらねど。


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 果てしなく下生えの草が地平線まで続く。夕日があたりを真っ赤に染めてその地平線に没しようとしていた。

 李鐸りたく上司軍じょうしぐんの北伐軍は今日はここで野営である。

 簡単な櫓、馬防柵程度の木組の塀を組み、立哨を立て、斥候も放つ。


 小さな驢馬車の脇で御者ぎょしゃ夏侯禄かこうろくが焚き火の準備をしている。

 その側で、陳粋華ちんすいかが小さな石に越しかけるが、小さな男の子は下生えの草原の地べたに屈座(正座)をさせている。

 新しい一番小さな卒の制服をこの子に与えたが、どの裾も袖もぶかぶかだ。裾はおりあげ、袖は、どうにか手甲しゅこうでぎちぎちに止めている。

 この男の子、村では用を足す土穴に隠れていたらしく衣服も変えたし北伐軍本隊に合流する前に何度も小川であらったがいまだに臭う。

 この子、歳にして二、三歳、何かを命じたりさせても嫌がることもなく素直に応じる。もうここで生きるしかないと思っているのか、どうかはわからないが、如何せん言葉数が異常に少ない。汎語が不自由なのかとさえ思うぐらいだ。

 夕闇が迫る、赤色の景色のなかで、陳粋華が尋ねた。


「あなたの名前は何ですか?」


 いつもの沈黙。そしてこの子の表情もあっという間に暗く固くなった。


「無理やりなにかをさせることはしません。黙っていたければ、黙っていれば良いでしょう。私はこれから重要なことをあなたに話します。私の名前は陳粋華ちんすいか黒豆公主くろまめこうしゅとか呼ばれていますが、正しい名前ではありません。私は、あなたの母親を殺しました」


 とどめを指したのは、羅梅鳳らばいほうの剣かもしれないが、心の臓を一突きで刺したのは、陳粋華だ。今でも、手応えが手に残っている。寸刀すんとうが肋骨にあたりそこからさらに入り込みなにかに刺さったのが感じられた。その時の感触、じわじわ溢れ出た思ったより濃く黒い血。人に危害を加えたり人の命を奪うことがこれほど心の負担というか傷になるとは、思いもよらなかった。育った村でいじめられたりして被害者として、相手を夜な夜な眠る前に名を一人づつ上げて呪っていたほうがよっぽど楽だった。

 羅梅鳳の忠告どうり、わざと忙しくして一人であれこれ考える時間を少なくした。 それぐらい心の重荷となっていた。

 正式な臨時兵部右筆りんじへいぶゆうひつとはいえ、戦場いくさばに物見遊山で出征してきたことを後悔すらした。 

 羅梅鳳が言っていた。


<御同輩の場合、大変かもしれないぜ。普通、そつだと、次々殺したりしないといけないから段々、感覚が麻痺していくけど、あんたはもう二度とないだろう。だから、、>


 それは箴言しんげんかもしれないが、それが"人斬り"とか、"人殺し"と揶揄される人間の道だ。自分は違うと思っていただけに余計衝撃が大きい。

 陳粋華は言葉を進める。


「これは、人殺しの罪滅ぼしでも、なんでもありません。自分に施された<こう>に対する恩返しとして、あなたを義理の息子、子供として受け入れようと思います。私も、覚久かくきゅうの乱で親とはぐれた戦災孤児で、さる大家である陳家に貰われてきた養女です。この世に遅すぎて問題なることは多数あれど、早すぎて困ることはなにもないでしょう。私、陳粋華は、あなたの母になりましょう」


 陳粋華の言葉に小さなまだ排泄物の匂いの残る男の子が顔を真っ直ぐにあげ、陳粋華を見た。言葉は発しなかったが、その表情にはしっかりとした意志があった。

 そして、男の子は強い小さな声で言った。


「おいらは、ハク、、」

「ハク、、、」


 陳粋華が繰り返した。額の入れ墨でもわかるようにこの子は胡族こぞくだ。汎人はんじんではない。それに汎人風の名前だとしても、汎語はんごは世界で唯一の表意文字だ。同音異義語がとにかく多すぎる。

 ハクと言ったって、どんな汎字を当てるのかさえわからないし、何通りもの汎字が思い浮かぶ。

 それに、この境州きょうしゅうあたりには、まつろわぬ胡族がたくさんいて汎人との混血もかなり進んでいる。なにが胡族と汎民族を分けるのかさえここ数日、陳粋華は考え続けたが分からなかった。

 只々、汎語、授教を受け入れれば、汎人だといえるのではないか。

 どんな汎字をあてるのか、聞くのも答えがもう知れている。


「歳はいくつでしょうか?」

「わかんない」


 しかし子供と接してみて改めて陳粋華は思ったが、自分がいかに純粋さを失ってきたことかということだ。

 食事一つ、目の前にしたとき、派手な甲冑を身に着けた禁軍の校佐を見たときなど子供は、如実に表情態度すべてに出る。

 このハクを見て幼い自分を見ているきがしてならない。いや、自分もそうだったのだ。


「あなたを無理やり私の子供にしようとは思いません。幼いとはいえ、あなたの意志を授教を信奉する士大婦したいふとして尊重します。ただし、いやなら、この軍から出ていってもらいます。どこへでも一人で行って生きなさい。私と羅梅鳳を親の仇と思い付け狙っても構いません。ここからだと、涼小村りょうしょうむらまで、子供の足でも帰れるでしょう」


 陳粋華が言った。どちらの意味かわからないが、夕闇が迫る中。ハクは大きく頷いた。

 出ていくという意味か?。


「私の子となるというのなら、姓としてちんを与えましょう。そしてハクには、"白"の汎字を」


 陳粋華は、そう言うと地面に棒きれで四角い長方形を書き真ん中に一本線を入れ、自分の方、白からみて向こう側に短い縦棒を付け加えた。


「白い、っていう白色を表す汎字ですが、この汎字は面白くて、キラキラ光るっていう意味も含まれています。はくも境州の育ちならキラキラ光りながら降り落ちる雪や、キラキラ光る空中で凍った雨粒や霧をみたことがあるでしょう。あなたはそれです」


 陳白は、世界で唯一の表意文字である汎字が自分に与えられたことが、どんなに素晴らしいことなのか、表情で示し、ものすごく長い間、地面に書かれた白という汎字を眺めていた。  

 陳粋華は続けた。


「丁度、私の師匠のあざなが伯文といいます。都まで帰れれば、そのキラキラ光る白いに"にんべん"をつけて、我が師匠から一字頂き、陳伯ちんはくと名乗りなさい。我が師匠、劉伯文りゅうはくぶんも許してくれるでしょう」


 そして、地面に書かれた白の字の横に棒きれで"にんべん"を書き足した。


「しかし、私の子になるのなら士大婦の子として、汎人として生きてもらいます。それに反する行為をたった一つでもした場合は授教にのっとって、あなたを母親として勘当します」

「わかりました。おいらは姉ちゃんの子供になります。汎人になります」


 小さな声だったが、陳白が答えた。 

 

「母もわかりました。これからは親子です。まず最初にしてもらうことがあります。汎民族として天京てんきんにおられる天子様に五拝十五跪をしてもらいます」


 陳粋華がやり方をしめすと、陳白が続いて更に深々と南に向かって行った。

 もちろん、宿営地から天京てんきんなど見えるわけなどない。


「では、屈座くつざ(正座)を解きなさい。これからは、母の前でも胡座あぐらでもかまいません」


 陳白は露骨に痛てて、と言いながら足を崩した。

 陳粋華は一頭最初と同じ表情のまま、続けた。


「最初に汎字はんじを一字教えます。これは、人という汎字です」


 そう言うと、伯の字をざっと手のひらで消し、棒きれだが人と書いた。


「斜めの棒がより合って支え合ってますね、それに立っている人のようにも見えます。周りを御覧なさい。どこまでも地平線が続いていますね。これが世界です。汎華にはこの大陸だけでなく、世界という意味も含まれていることも後々知るでしょう」


 そう言って、人の字にもう一本横棒を真ん中あたりに足した。


「地平線です。限りはあります。しかし、空を見上げなさい」


 すぐに陳白は上を見上げた。暮れかかったなんとも言えない満点の空が広がっている夕焼けのあたりは赤く、もう反対側は青く暗い。そしてはてのない半球の状態で蒼穹の天が光りだした星とともに広がっている。


「限りはありません。これが"天"です」


 そう言うや、人の真ん中に引いた横棒より長い棒を人の字真上にずばっと引いた。


「汎民族は天意、天命を重んじます、白や、あなたも重んじなければなりません。そして、汎字を学び、天意天命を重んじるからこそ、あなたはもう汎民族なのです」


 陳白は、実際の天には触れられないが、胡座のままだったが深々と頭を垂れ地面に書かれた天の字に額をつけ、大粒の涙を流し泣いた。



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陳粋華の男性レポ。


                イケメン度     在 不在


 今日は、無し。そんな気分じゃない。

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