第21話

「っ」


 虚空に投げ出された俺の体は、自身の腰ほどもない小柄な少女の手によって勢い良くも柔らかく抱きとめられる。簡単に折れてしまいそうなほどに薄い体が、細いその腕が、俺を強く抱きしめる。熱いほどの温もりと心地よい香りに身を委ねると、小さなその人は俺の体を虚空に抱き上げた。


「け、怪我はないか!?ギール!」


「あぁ、おかげで助かったよ。だが、細かい話は後だ」


「わかっている!落ちるなよっ」


 小さな手によって再び軽々と宙を舞う俺の体。しかし今度は無造作に投げ出されることはなく、俺の足は黒い鱗に覆われた背を踏む。一頭の黒竜が、俺を背に載せて舞い上がった。


 小柄ではあるがしなやかな体躯。滑らかでいて艶やかな漆黒の鱗はその動きに合わせて光を跳ね返し、金の紋様が輝く銀膜の翼はただ美しい。ちらりと俺を覗いて火を吹くその気品ある横顔に、思わずどきりとしてしまう。虚空に炎の尾を引いて羽ばたくその様はもはや、それ自体が芸術品のよう。だが、じっくり眺めている暇は無さそうだ。


「なあ、ギール。あれは、あれは一体……どういうことなんだ」


 空を揺るがす咆哮。

 先程まで城だったものを片手で握り潰し、赤黒い空に吼える巨竜。ガリアのそれとは違う、どこか禍々しい闇色に塗り潰された巨躯に光る白い角と、鋭い眼。空をも覆うほどに巨大な夕焼け色の翼。無数のトゲに覆われたその尾は、山そのものに絡むほど長く太い。生物と呼ぶにはあまりに巨大な、しかしそれは確かに、竜であった。


 戦と勝利を司る魔神にして、竜族たちの生みの親。竜神クロノスだ。


 竜族たちはその一声に蹴散らされ、紙くずのように堕ちてゆく。その最中にも空からは無数の巨大な剣が降り注ぎ、舞い踊り、宙を舞う瓦礫をも微塵に切り刻む。これが、戦場に立てば必ずや勝利をもたらし、仇なす者を討ち滅ぼすとされた神の力だというのか。俺が拳を握ると、ガリアは忙しなく煙を吹き散らす。その角は、赤く燃えていた。


「闇色の鱗に、燃える空を写した翼膜……間違いない。あれは、クロノス様だ。だが、変だ。おかしいぞ。どうして、どうして……」


「落ち着けガリア。慌てる気持ちは分かるが、こんな時だからこそ冷静に――」


「違うっ!クロノス様は、クロノス様は、黒角なんだ!竜族の角は、鱗の色と同じ色になる。クロノス様が、そういうふうに私達を作ったんだ。あれは、クロノス様じゃない。あれは、あれは一体誰だ!?」


 その言葉に、はっとする。

 そうか、そうだ。あれは、魔神そのものじゃあない。あれは、神降ろし。神の加護を持つ者に、魔神の力そのものを宿す秘術。人間の中でも限られた血筋の者しかその術式を知らないことで有名な術だ。


 彼女にそんな術を掛けられる者といえば、考えられる者は一人しか居ない。


「(カルラ……あいつの、仕業か)」


 俺の記憶が正しければ、神の加護を持つ者の命の灯火が消えようというその瞬間、ほんの僅かな間だけ神の力を振るえるようにする術。つくづく、哀れな娘だ。一体、あの小さな背中にどれほどの物を背負おうというのか。


「ど、どうする?どうすればいい?私は、私はどうすればいいんだ!」


「大丈夫。大丈夫だ。ひとまず距離を取ろう。あの状態は、きっと長くは持たない。とにかく逃げろ。今は、生き延びることだけを考えるんだ」


「わ、分かった。よし、しっかり掴まっていろよ。私が、私がお前を守ってや――――」


 言葉を遮る、衝撃。視界の外から飛来した「それ」がしなやかな翼に食らいつき、鞭打つ銀色の尻尾が俺の脇腹を抉るように吹き飛ばす。俺の体は、再び虚空へと放り出された。



「――ッ」


 重なり、絡み合う白と黒。二頭の竜の咆哮が交ざる。鋭い爪が互いの鱗を引き裂き、血と共にばら撒くその様を、俺は見ていることしか出来ない。ゆっくりと死に向かう俺の頭上で、美しき二頭の竜が互いの命を喰らい合う。俺は思わず、奥歯を噛んだ。


「ギルバート!」


 ぐん、と、硬い爪に吊り下げられる俺の体。バラムスが、俺の服を掴んで虚空を駆ける。二頭の竜は血と咆哮を散らしながら乱れ舞い、やがて眼下の森に堕ちてゆく。遥か地平めがけて放たれた熱線が俺の視線を遮り、大地が悲鳴を上げた。


「バラムス、待て!ガリアが!」


「気にしてる場合かよ!とにかく逃げるぞ!あの野郎、バカスカ撃ちすぎだっての。見ろ!大地様がお怒りだ」


「……っ」


 地を揺るがす咆哮ごと塗り潰すような轟音。たまらず耳を塞ぐ。大地が裂け、山がうなり、岩と瓦礫の山脈に押し潰された木々の根が暴れて立ち上がり、束ねられたそれが巨大な槍となって巨竜の横腹に突き刺さる。大地の奥底から二本、三本と突き出たそれが巨竜の四肢を貫き、縛り、山そのものが巨大な腕となって巨竜の首を締め上げた。


『――――ッ!!』


 大地の怒りを浴びながらも、巨竜はその口を開く。濁流のような血を吐き散らすその喉奥に光が集い、やがてそれは、咆哮と共に解き放たれる。


「ぐ、おぉ」


 山を削り、空をも焼き焦がすその軌跡に、俺とバラムスはただ翻弄されるしかない。しかし、それでもなお光の行く末を見据えた俺は、ハッとして息を呑む。その光の先には、悠々と空を泳ぐ女神の姿。地を抉るその轟音に、光の女神が振り向いた。



「――ソラール様ッ!!」



 思わず声を上げたその瞬間。横を通り過ぎた光の帯が、再び横を通り過ぎる。


「っ」


 空をも揺るがす衝撃と轟音に煽られながらも振り返ると、同時に目を見開く。


 気がつけば、全てが終わっていた。

 その喉に巨大な風穴を開け、瘴気と共に崩れ落ちる巨竜。怒れる大地はただの土くれと岩の波となってたちまち大地の傷を癒やし、やがてそこには押し潰された木々が顔を出し始める。一瞬だけこちらを見たソラール神もすぐに顔を逸らし、何事も無かったかのように再び泳ぎ出す。かつて竜の国があったその場所には、巨大な骨だけがぽつんと残された。


「…………」


 いつもと変わらぬ空の下、俺とバラムスは、しばらく言葉を発することが出来なかった。

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