第9話 閉ざした本音

 ──ああ、またか。


『どうしてあんたはこんな事も出来ないの?』


 母の声がした。


『兄や妹が出来ることを、どうしてお前は出来ないんだ』


 父の声もした。


 二人共怒っていた。いつもより、怒っていた。


 近くでは兄と妹の笑い声がする。私がそこに居ないかのように、存在しないかのように、仲睦まじく。


 私は言われた通りに努力しただけだ。


 そして、ほんの一回、最初で最後の質問をしただけだ。




『私はあとどれくらい、頑張ればいいの?』って、ただそれだけ。




 それだけなのに、母は目くじらを立てて、父は私を殴りつけた。



『あんたは全然努力してないじゃない!』



 両親は、私の何を知っているのだろうか。何を見て、何を聞き、何を思ってそう言えるのだろうか。





 ──私と話すらしないのに。





『あんただけよ。この家で頭が悪いのは』



 ──足元にある満点のテストは見えないの?



『なんの努力もしないのに、どうして兄妹きょうだいと同等の褒美をねだるんだ!』



 ──沢山の賞状貰ったのに、これでも足りないの?



『なんで何も答えないの?』『どうしてそんな反抗的な目を向けるんだ』『文句があるならハッキリ言いなさい』『お前の兄さんは有名な大学に入ったんだぞ』『妹は学校の作文でたくさんの賞を取ったのよ』『お前には何が出来るんだ』『やってもないのに文句ばっかり』『どうして誰もお前に構わないのか分かるか?』『兄妹たちみたいにもっと頑張りなさいよ』『お前みたいなのが社会に出ても、なんの役にも立たないんだぞ』『もう高3でしょ?現実見なさいよ』『この成績で大学進学なんて絶対無理だからな』『就職してもすぐに辞めるんでしょ』



 体の中で渦巻いて出ていかない責任感と絶望が、私の首を緩やかに絞めていく。


 私には親を親だと認識出来なくなっていた。

 全身は黒く、顔すら判別がつかない。だけど目だけがぎょろりと大きくて、私を虫けらのように、親の仇のように睨み下ろしている。


 勉強も出来ない。運動も出来ない。優しさも、思いやりも、慈しみもない。才能も特技もない。私は何も出来ない。私は何も出来ない。私は何も出来ない。私は何も出来ない。私は何も出来ない。私は何も出来ない。私は何も出来ない。私は何も出来ない。私は何も出来ない。私は何も出来ない。私は何も出来ない。私は何も出来ない。私は何も出来ない。私は何も出来ない。私は何も出来ない。



 ──私は何も出来ない。






 ──······その通りだよ。






『なんだ? 親の言うことが聞けないのか?』

『ああ、何て嫌な子なんでしょう』


 ──あんなに頑張ったのに。ほんのちょっとだけいいから、私を見て欲しかったのに。結局、足掻いたってこんな事にしかならないのか。


『はぁ······。全く、どうしてお前みたいな奴がこの家にいるんだ』


 身を焦がすような悲しみと、湧き出す憎悪に『私』は唇を噛んだ。

 がっかりさせてしまった。頑張りが足りなかったんだ。もっと努力していれば、もっといい子でいれたなら。きっとこんな事言われなかったのに。


 せめて一つ。たった一つだけ。

 言うことを聞こう。願いを叶えてあげよう。私に出来ることは、何だってする。

 言ってくれ。頼むから。何だって叶えられる。今なら何だって······──






『『お前なんて生まれて来なければ良かったのに』』






 ──お望み通りに。





 胸が温かくなった。服が赤く染まっていく。突き刺したカッターの刃が、キラリと光った。

 私は冷たい目を向ける両親の後ろで、自分に似た誰かを見た。

 ······泣いているようだった。


 私は自分自身に向けた、恨み言を吐いた。それは、彼女の耳にも届いたようだった。



「私だって、生まれたくなかったよ」



 彼女は何か言いたげに、胸の上で拳を強く握りしめていた。だが、彼女の口が開くことは、ついぞ無かった。


 * * *


「うわっ!!?」


 体が跳ね上がり、いきなり目覚めた脳みそが誤作動を起こしたように動き始める。びっしょりとかいた汗が寝巻きにはりついた。


 震える手を強く握り、私は辺りを見回した。白神山地にいたはずが、私がいるのは自分の部屋だった。窓の外は真っ暗で、月が高く昇っている。だいぶ時間が経っているようだ。ふかふかの布団は汗まみれで、掛け布団には濡れた手ぬぐいが落ちていた。


「······手ぬぐい?」


 ふと横を向くと、水を張った桶の側で望月があぐらをかいて座っていた。


「うっっっ············!!」


 悲鳴をあげそうになるのを何とか堪えて、私は望月の顔をのぞき込んだ。正しい姿勢を保ってはいるが、両目はがっちり閉じている。私が声をかけても頬を叩いても、望月は微動だにしない。



「寝てる、のか?」



 私は望月を起こさないように布団を抜け出し、着替えを持って部屋を出た。そっと閉めるつもりが、戸の立て付けが悪く、なかなか閉まらない。力いっぱい引くと、戸はガタンと揺れて閉まり、大きな音が響いた。

 部屋から「ンゴッ!!」と声がしたが、その後から音は何もしなかった。


 * * *


 風呂で汗を流し、服も着替えてさっぱりしたところで階段を上がった。忍び足で上がった二階の奥、使われない物置部屋に入り、開けっ放しの窓から屋根に上がるハシゴを登る。


 屋敷の屋根の上は私のお気に入りの場所だ。

 祓い屋の屋敷は里で一番高い位置にある。夜は霧が薄いから、里全体を見渡せるこの場所が好きなのだ。月明かりに照らされた街並みを、眺めるのは心が穏やかになる。

 だが、今日は先客がいるようだ。屋根の上で、月を仰ぐ茶髪の青年。




「やぁ、奏ちゃん。今日はいい月夜だよ」

「生馬、なにしてんの」




 生馬は袖をパタパタと振って空を見上げた。下弦の月が生馬の茶髪を鮮やかに魅せる。

 生馬の優しい笑みが、より優しくなる。


「こないだ奏ちゃんが歌ってた唄をさ、僕も歌おうと思ってたんだけど、これが中々上手く歌えないんだよね」


 そう言って生馬は記憶を辿って口を動かす。一音一音がたどたどしく、苦い顔で唄を紡ぐが全く形を成していなかった。


「奏ちゃんが歌った時は月が輝いて見えたのに。やっぱり僕じゃダメなのかな」

「いいや。誰でも出来るさ。そもそも唄が違うんだよ。今日は下弦の月だ。生馬が歌ってるのは満月の唄だよ」


 私は月に耳を澄ませた。

 静かで、穏やかな音がする。月光が里を照らし、青白い世界を生み出した。



「月影に身を委ねよ 闇の帳はもう下りた

 星降る空に心を委ねよ 陽の差す今日がもう終わる

 深い深い眠りに落ちろ すべての傷を月に捧げろ

 いかなる者にも等しく安らぎを

 いかなる者にも等しく明日を

 願え人の子 明日の輝く陽の光を

 祈れ人の子 月の愛しきしらべに乗せて」



 口から溢れる月の唄は優しくたおやかで、荒っぽい私が紡いだとは思えないほど美しかった。

 歌い終えると生馬が目を輝かせて拍手した。その拍手も冷たい里に消えていった。私には全く届かなかった。


「さすがだね! やっぱり奏ちゃんじゃないとダメなんだな〜。ホラッ! 月がこんなに綺麗だよ」


 生馬が無邪気に指した月は、その青い光を強めていた。だが、私はそれさえも喜べないでいた。生馬は私の横顔を見つめて、自分も里に目を向ける。


「······私さぁ、正直言うと、生馬のこと妬んでんだよな。あの妖術、私には解けないから」

「なんで? 奏ちゃんなら一発だよ」

「私は親の期待さえ応えられない、まぁなんて言うかその······落ちこぼれっていうか。両親の望む『いい子』になれなかったんだ。それが恨めしくて、死んだから······さ。いつまで経っても苦しめられる。いつまでも恨み続ける。なぁ、どうやったら解けるんだ? 滝の精霊は『受け入れろ』って言ったけど、私ダメだったんだよ」


 私は、普段は誰にも言うことのない自分の過去と本音をこぼした。誰かに言うのは初めてで、いつもははっきりした物言いが出来るのに、今は口が上手く動かないでいた。


 自分だけが辛い思いをしていると思われてないか、そんなの苦労のうちに入らないなんて言われないだろうか。色々な考えが頭の中を渦巻いた。


 もっと頑張れば良かっただろうか。本当はこんなこと聞いたらいけないのではないか。自分で答えを見つけなければ。自分で解決しなければ。




 ──全部自分でやらないといけないのに。




 情けない、そう思いつつも生馬に助言を求めた。生馬は「ああ、それはねぇ」と笑った。やはりダメな人間に見えているのだろうか。役立たずに思われているのだろうか。私は不安で仕方がなかった。




「僕ねぇ、旗本の生まれなんだけど、四男だから家督も継げないし、使い道が政略結婚くらいだったんだよね」




 生馬の口から出てきたのは、助言でも嫌味の類でもなく、彼の昔話だった。


「家でも来客があれば奥の部屋から出られなかったし、どこかに出かける時も僕は連れてってもらえなかったんだ。でも僕の親戚の兄さんは優しくって。姐さんの想い人だったんだけど。その人にいっつも遊んでもらってたんだよ。まぁ、その兄さんは家督継承を嫌って、姐さんとの駆け落ち騒動あってから行方不明になっちゃった。

 んでそれが原因で、その人を手討ちにするって父上が激怒して、それを止めたら逆に僕が手討ちに遭っちゃったんだけどね!」


 自分の死に方を懐かしむ生馬は、辛そうな悲しそうな雰囲気もなく、過去のやんちゃエピソードを語るような軽さがあった。


「僕も死ぬ間際に、呪いみたいに吐き捨てたんだ。『僕だってこの家の家族で人間だ! このまま殺されるくらいなら、没落する呪いをかけてやる!』って。まぁ、実際にやったりはしてないけど。めんどくさいし、結構しんどいし。でも、本気で恨んだなぁ。宣言通り、僕の家没落したよ。勝手にね」


 生馬は私の肩を叩いた。それで伝わった。生馬の言いたいこと全てが。心の底から恐怖心のようなものがこみ上げる。耳を塞ぎ、体を縮ませる。生馬の手が背中をさすった。泣き止まない幼子をあやすように。


「奏ちゃん」

「······嫌だ」


「おかしい事じゃないよ」

「嫌だ。絶対違う」


「変なことじゃないよ」

「そんな訳がない。私が恨んだのは自分で······」


「その間違え方はダメだよ」

「間違えてない。私は、私は自分の心に正直なんだ」



「奏ちゃんは優しすぎるんだよ」

「嫌だ。間違ってない。私は何も間違えてない! 嫌いなのは、憎いのは自分自身だ!」



 声が震える。

 本能が拒絶する。

 思考が上手く固まらない。認めたくない思いが、自分を守る言い訳が、心の隅で埃かぶった本心を示し出す。それを手に取るのが何よりも怖かった。

 ······一筋の涙が、頬を伝った。






「家族を憎んでたなんて、恨んだなんて······。私は、認めたくない············」






 私の小さな声がようやく呟いた。初めて吐露した本心は膨らんでとめどなくこぼれていく。


「家族を恨んだことを認めたら、私は家族を愛していたことになる。あんなに私を無視した家族を、私に無関心だった家族を、。そんな事実を認めることになる。こっ、こんな惨めな事を認めるくらいなら、いっそ、このまま──」


 だから私は、自分自身に恨みの矛先を向けることで回避しようとした。一方通行の愛情を、報われることの無い感情を、認めるくらいなら消えてしまいたかった。

 それでも私はここに残ることを決めた。それは無意識に、自分が消える意味が無い理由を見つけていたからなのか。



 ──私が家族を、悪霊になってでも恨んでいたから。



 私の心は私以上に全てを知っていた。きっと私も気がついていて、知りたくなかったから目を背けていたのだろう。


 私はこの時、滝の精霊の言葉を理解した。それと同時に、私は自分のした事の愚かしさが痛いほど身に染みた。




「──私は、ずっと間違ってたんだ」




 私が力なく言うと、生馬の手が頭を撫でた。望月よりは小さいが、温かくて柔らかい。



「誰だって嫌いな人がいる。憎い人がいる。良いんだよ、嫌ったって。おかしな事じゃないもん。悪いことじゃないもん。良かったぁ」





「奏ちゃんも──人間だねぇ」





 私は袖で顔を覆って涙を抑えた。でも溢れる涙は決壊したダムの如くとどまることを知らない。

 生馬は何も言わずに私を抱きしめ、背中をさすった。私も生馬の優しさに甘え、生馬の着物にしがみついて泣いた。

 私たちの後ろで、かつての『私』が月を見つめていた。






『これでようやく救われる』






『私』は涙を一筋流して消えた。

 淡いひかりを蛍のように放ち、『私』は完全にいなくなった。屋根に残った未熟な子どもの私は、長い時間をかけてようやく、自分の心を取り戻した。

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