第3話 危険察知

 日が昇ると同時に私は目が覚めた。また眠ろうとする重い身体を何とか起こして、頑なに開かない目を擦る。


 まだ朝餉あさげの刻まで時間があった。もう少しだけ、あともう少しだけ寝ていたい。だが最悪なことに、今朝の飯当番は私と望月なのだ。

 勝手にサボるとまたケンカになる。それくらい構わないのだが、望月とのケンカよりも、その後の千代の説教がつらい。


「······そろそろ行かないと。ふぁ〜、めんどくせぇ」


 私は大きく伸びをして布団を片付けた。枕元に置いた服にさっと着替え、また大きな欠伸をして、のたのたと歩いて台所へ向かった。








 包丁とまな板がぶつかる音。グツグツと煮込む鍋の音。揺らぐ火の音と、野菜を洗う水の音。台所から聞こえるそれらの心地よい音の葉が、私の脳を目覚めさせる。


「おはよう」


 台所に入ると望月が別のかまどの火をおこしていた。

 私が挨拶をすると、大きなアザをつけた顔が私に向けられる。


「······おはよう」


 ──その痛々しい顔に、何の言葉も出てこなかった。



「あー、その······き、今日は何作るんだっけ?」



 慰めの一言も言えないばかりか、更に献立をド忘れするという失態を披露する。

 望月が不機嫌な声を出して、生のシシャモと七輪を指さした。私は献立を思い出し、七輪とシシャモを持って外に出る。


 七輪に炭をくべ、火をつけた。温度が上がるまで時間がかかる。里は現代と江戸の混合体のような場所なのに、どうして料理の仕方は江戸時代のままなのか。もう慣れたとはいえ、不便としか言いようがない。


 ししゃもを七輪に置き並べ、火が消えないように見張りながら、うちわで空気を送る。暇を持て余した私は、少しその場を離れ、台所からすり鉢を失敬した。

 外に遠慮がちに作られた花壇から、薬草を少し摘んで、すり鉢でよく擦った。

 草の実を砕き、水を少し足して混ぜ合わせる。私は、生馬から教わった薬の作り方を思い出しながら、傷薬の調合を続けた。



 別に罪悪感で作っているわけではない。同情なんてものは塩の粒程度だ。いや、それ以下かもしれない。

 望月に頼まれたわけでも、まして修行でもない。ただ、私が弟子だからやるだけだ。

 七輪のシシャモを裏返してから望月の元へ行く。


 傷を押さえながら何やら不穏な空気で呟く望月が、鍋をかき回していた。傍から見れば私への文句、もしくは念仏、呪詛を唱えているように見えるだろう。

 だが呟いているのは回復を促す呪詛だった。


「望月」

「癒しの水 浄化の炎 慈愛の大地 忍耐の岩······ん、どうした」

「これ」

「なんだこれ」

「傷薬。生馬から教わったから大丈夫」

「効くのか?」

「千代姐の傷には特に」

「ありがとう」


 望月は薬を一番酷い頬の傷に塗った。薬がしみて痛そうに顔を歪めたが、すぐに朝餉の準備に戻る。塗りつけた薬の隙間から、傷がすうっと消えていくのが見えた。


 やっぱり霊体は傷の治りが早い。

 私の経験上、霊体になると、生きている頃よりも再生が早くなる。もちろん、霊体の消失となると話は別だが、多少の打撲や刀傷は簡単な傷薬で治る。


「······奏」


 望月が私の名を呼んだ。真っ直ぐな目で私と向き合っている。同じ山吹色の瞳に、私が映った。



「······シシャモが焦げてるぞ」

「へ? あっ、やっべ!」



 焦げた臭いが外を埋め尽くした。急いで火を消したが、半身が真っ黒になったシシャモに、私は深くため息をついた。


 * * *


 首を傾げられた朝餉の後、私は玄関の掃除をする。箒で石畳を綺麗に掃き、前庭の花にたっぷりと水をあげる。柄杓ひしゃくで水をかけながら、咲く花の唄を口ずさむのが好きだった。



「儚きこの身を飾らんや 泡沫の夢を見せばやな

 鮮やかに歌う我が身に賜る言葉は一つ······」



 水やりをしながら花の唄を口ずさんでいると、門の前をウロウロする少女を見つけた。


 入るべきか否かを悩んでいるところを私に見つかると、その少女は顔を赤くして門の陰に隠れた。私は風に耳を澄ませた。風の音を少し呟くように歌うと、風が赤い着物を引っ張った。彼女に見覚えがある。


「おようちゃん、だったかな?」


 私に名前を呼ばれると十〜十二歳くらいの少女が恥ずかしそうに顔を覗かせた。


「お、おはよう······ございます」


 小鳥のように可愛らしい声が挨拶をした。だが門の前で入っていいのかダメなのか、と迷って動かない。私はその様子が可愛くて、少し笑ってしまった。


「おはよう。入ってくればいいじゃん。別にここ、関係者以外立ち入り禁止ってワケじゃないし。ほら、こっちおいで」


 私がお葉に手招きすると、お葉は辺りを見回してから私の元に小走りで来る。そしてもう一度周りを確認してモジモジと着物の袖を握った。


「どうしたんだよ。またいじめられたのか?」


 お葉は以前、里の子供たちにいじめられていた。水桶に顔を沈められる、なんていじめなんて言葉で片付けられないようなことを。その現場を私がやり過ぎる形で止めたのだが、そのせいでお葉は私を怖がっていたのだ。

 だが今のお葉に私を恐れる素振りはない。たまに私が様子を見に行くついでに、少し遊ぶようになってから、私に慣れたのだ。

 お葉は頭と手をブンブン振って、慌てて否定した。


「ち、違いますっ! もういじめられていません! わ、私は、今日はっ! そ、そのぅ······」


 お葉は顔を真っ赤にして俯いた。恥ずかしそうに何かを呟いたが、声が小さ過ぎて聞こえない。私は彼女の口に耳を近づけた。


「えっ、なんて? もっかい言ってくれる?」

「そ、その······あの············」


 お葉は私の手を握った。うっすら汗ばんだ手で。ようやく勇気を出したのか、頭を下げて大きな声で言った。




「わっ、私に奏さんの唄を教えてください!」




 ──何だ。そんな事か。


 意を決して話してくれたのに、私は冷淡なことを思っていた。

 むしろ、また揉め事かと思っていたものだから、拍子抜けだ。でも私は安堵にも似たため息をこぼした。


「いいよ」

「そ、そうですよね。駄目ですよね······って、えぇ! いいんですか!?」

「いいよ。減るもんじゃねぇもん。そうだな、お葉ちゃんも知ってるものがいいな。普段から聴いているんだ。少し覚えているのもあるだろう。お葉ちゃんはどの唄なら聞いたことあるんだ?」

「え、ど、どの?」


 私が聞くとお葉は狼狽ろうばいする。その様子から察するに、彼女は唄を決めていないらしい。さっきと打って変わって顔が青くなってゆく。私は「別に焦らなくていいのに」なんて考えながら、お葉の返事を待った。


「ど、どの唄って、えっと、ど、どうしよう······」

「フレーズの一部とか覚えてないの?」

「······ふれーず?」

「あーっと、歌詞とか音とか」

「いえ、全然。あの、私はその、音とか·····」


 お葉は困ったような、悲しいような表情で「聞こえないので」と呟いた。そういえば、私と同じ唄を歌っている人を見たことがない。

 今こそ私の唄に慣れた望月や千代たちにも、最初は不思議な顔をされた。



 ──そうか。私の耳は人と違うのか。何だか、少し寂しいな。



 音が聴こえて当たり前。

 唄を歌えて当たり前。

 本来ありえないらしいことを、当たり前だと思い続けていた。だから私は、こういう場面に出くわすと、どうしていいか分からなくなる。

 人との間に、見えない深い溝があるようで、とても寂しくなる。


 でも結局、他人は他人であって、どう足掻こうと私にはなれない。私も同じように、他人にはなれない。

 だからもう、音や耳については私の「個性」だと思うことにした。死んでからこの違いを、そう受け入れた。



「じゃあさ、お葉ちゃんはどんな唄を知りたい?」



 私は質問を変えた。唄を知らないなら、知りたいものを聞けばいい。

 お葉は少し考えてから照れ笑いして「桜の唄がいい」と答えた。


「桜が好きなんです。小さくて可愛くて、でもすごく綺麗なんです」

「うんうん、綺麗だよな。桜かぁ。えーっと、ちょっと待って······」


 私はお葉から目を逸らすと、目を閉じて記憶を遡る。私はその時聴こえる音を拾って唄を歌う。だから、音が聴こえないとあまり歌えない。歌手の歌のように、時間が経っても歌えるなんてことはないのだ。


(桜なぁ······。桜、季節過ぎちゃったんだよ。音を思い出せるかな)


 私は何とかうろ覚えの記憶を引きずり出して、たどたどしく歌う。



「春の日差しは穏やかに 吹き抜く風はしおらしく

 芽吹いた命は凛として 愛しき君を待ち望む

 栄える命は華やかに 優しき君を護り給う

 儚き我が身は散りゆけど 再び出会う日を想い続けん

 永遠に抱きし我が心 刹那の滅びも奪えぬものぞ」



 頭が忘れても、体は案外覚えているものだ。ちゃんと歌えた。

 お葉はとても喜ぶと、歌詞を紙に書いて必死に覚えようとする。歌詞を繰り返し教えて、一緒に歌っていると、私は凄まじい寒気に襲われた。



 全身に鳥肌が立ち、髪の毛が逆立つ。息さえ出来ないほどに身体が硬直し、内蔵をじかで触られているような気持ち悪さがこみ上げる。

 私はその場に膝をついた。異変に気づいたお葉は悲鳴を上げた。



「きゃああ! 奏さん、奏さん!? だっ、誰か! 誰でもいいから来てぇ! 奏さんが!」



 屋敷に向かって叫ぶお葉の肩を掴んだ。大きく揺れた彼女の身体を力の限り、慌てて出てきた望月に突き飛ばした。望月は驚きながらお葉を受け止めると、私を睨んで怒鳴り散らした。



「何てことをするんだ! 危ないだろう!」

「うるせぇ黙って屋敷に入れろ! 分かるだろ!」



 この気持ち悪さはかつて、雲外鏡を相手にした時の感覚に似ている。

 里を覆い始める不穏な気配は、門の隙間を這い出て現世から忍び寄っていた。


 望月が周りをさっと見ると、眉間にシワを寄せて屋敷に連れて行った。お葉の安全を確認して、私は里の門へと向かう。


 体は思うように動かず、一歩歩くだけで消化し切れていない朝食が出てきそうだ。

 背筋なんて伸ばしたら、貧血を起こした時みたいに倒れるのは必至。気配だけでこんなにも霊力が削られるのは、大体亜種妖怪化がかなり進んだ悪霊がいる時だ。


 ······めんどくさい。非常にめんどくさい。が、この気配の正体を確かめなければ。これで里に被害が出たらたまったもんじゃない。


 私が門を開いて、倒れるように現世に踏み出した時、誰かが私を嘲笑った気がした。

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