第26話 星を探して その2

 飛ばされた先は、天鵞絨ビロードの夜が広がる砂漠の真っ只中だった。見上げれば、砂漠にめりこみそうなほど、有り得ない大きさの月が鎮座している。


 白く発光する満月と無数に煌めく星の瞬きに呼応し、砂漠まで黄金色に波打ちながら、まばゆく点滅していた。


 砂漠と明けない夜の世界は、百合子にとって、見覚えある風景だった。


「かつての私の世界、そのものだわ」


 百合子は小さな溜息を連れて、ゆっくりと歩き始めた。


 果てしなく続く砂漠には、緩やかな丘があったり、平地があったり窪んでいたり。先が見通せる場所ではないし、砂地を歩くのは難儀だ。


「どこに行けばいいの? 私は、今、どこにいるの?」


 頭上を照らす月明かりも、進むべき道しるべを示してはくれない。


 これまでは、それでも良かった。そういうものだと、自然と受け入れることが出来た。なのに、今は目的地を見出せないまま、一人で歩き続けることが苦痛で仕方ない。


 右手にぶら下げた白いバスケットを見やり、ふとスペースの言葉を思い出した。


「精霊なんて本当にいるのかしら。いるなら早く出てくればいいのに」


 足取りは重く、進めども景色が変わることはない。少し荒くなった自分の息遣いだけを聞きながら、無心に歩き続けた。


 この砂漠のどこかに、自分を探している人が存在する、という事実だけが、今の百合子の原動力である。


 どのくらい歩いたのか、検討もつかない。これまでの人生の中で、一番歩いたかもしれない。


「大型犬の散歩以上だわ……」


 気持ちだけで歩くには限界を超えてきた頃、目の前に広がる砂丘の前で百合子は初めて立ち止まった。


 喉も乾いてきた。

 呼吸も乱れてきた。


 最後の力を振り絞り、砂に足元を絡めとられながら、砂丘の斜面をゆっくりと登る。


「本当に会えるのかしらね」


 てっぺんに辿り着いた百合子は、膝から崩れ落ちるように、砂の上に座り込んだ。顎を上げると、祈るように目を閉じて、ゆっくりと細く息を吐き出した。


 空は相変わらず、まばゆいほどの星が、互いに競うように輝いている。


 そして何故か、百合子の隣には、小さな男の子が大欠伸おおあくびをしながら、胡座あぐらをかいて座っていた。


「あなた……どこから来たの?」


 突然の訪問者に、さすがに驚いた百合子は周辺をぐるりと見渡してみる。砂漠は変わりなく、美しく控えめにきらきらと光っているだけだ。


 子供は当たり前のように百合子の隣を占拠し、いつの間にやら、二人は体を寄せあうようにして、夜空を背にして砂丘に座っていた。


 歳の頃は、五歳くらいに見えた。


 闇に溶けてしまいそうな藍色の絹のような髪質が、余計に幼さを感じさせる。ふっくらとした丸い輪郭を縁どるように、切り揃えられたマッシュルームカットが可愛らしい。


 そして美しいのは、子供の小さな体に纏った布地だ。


 まるで夜空を切り取ったように、光の当て具合で繊細に煌めくネイビーブルー。百合子は、この見事な織物に目を見張った。


 子供は自分に向けられた、百合子の好奇に満ちた視線にも、全く動じる様子はない。真っ直ぐに前を向いたまま、少し舌足らずだがハキハキとした物言いをする。


「どこから来たかなんて瑣末さまつな問題です。それより、あなたはお困りなのでしょう?」


 百合子は口をポカンと開けた。ついでに、あどけない声と背伸びした話しっぷりに感じたギャップは、ジーンとは別のベクトルで百合子のハートを掴んだと見える。


 寄せあう小さな体から、湯たんぽのような温かさが伝わってきた。疲労困憊していた百合子の心身が、徐々にほぐれていくのを感じる。


「私を助けてくれるの?」


「お任せください」


 と言って、子供は百合子に顔を向けると、疲れ切った女の目をじっと見つめた。


 自信に満ちた坊やの丸い顔に、百合子はクスっと小さく笑い、「あなた、お名前は?」と尋ねた。


 名前を聞かれた子供は、大きな瞳を輝かせ、弾むように答える。


「ウルサ!」


 思いがけない可愛い精霊の登場に、百合子は目を細めて微笑んだ。


「ウルサ、覚えたわ。素敵な名前ね。私は」


「知っていますよ、百合子さん」


「本当にあなたは何でも知っているのね」


「そうでもありませんが、夜の世界で迷った時は、僕を探せば間違いありません」


「まあ、頼もしいわね」


 ウルサは百合子を見上げ、賢そうな両目を見開いて言った。


「本題に入りますが、百合子さんはリアンノン様をお探しですね」


 聞き慣れない名前に、百合子は眉を寄せた。


――リアンノン? 人違い? いえ……待って。


 よくよく考えてみれば、ジーンという名前は百合子が付けたにすぎない。リアンノンが本名だとしても可笑しくはない。だが、その名前を聞いても、百合子の頭にジーンの顔は浮かんでこなかった。


「どうしました? 何か問題でも?」


「私が探している人は、ジーンと言う名前なの。あなたが言う、リ……リア」


「リアンノン様です」


「そう、そのリアンノンという人と同一人物か、私には分からなくて」


 そう言って、百合子は膝を抱えて座り直した。また迷宮に迷い込んだように、不安が押し寄せてくる。


 ウルサはその場にすくっと立ち上がり、百合子の髪を優しく撫で始めた。


「それは僕にも分からないことです。が」


 百合子は顔を上げた。


 ウルサは百合子の頭から、そっと手を引いて言った。


「いつも一緒にいる銀色の子、パラディのことは知っています」


 それを聞いて、百合子は小さく控えめに、両手でガッツポーズした。海外ドラマであれば、きっと同時に「イエス!」と言ったはずだ。


「間違いない。私たちは同じ人の話をしているわ」


「そうですか。それはようございました。では、リアンノン様の元へ参りましょうか」


「ええ、急ぎましょう」


 元気よく百合子は立ち上がり、満面の笑みでウルサの手を引き、砂丘を下ろうとしたところ。


「お、お待ちください」とウルサが震える声で叫んだ。


 ほっぺと同じくらい、ふわふわしたウルサの手を握ったまま、百合子は不思議そうな顔を見せた。


「どうしたの?」


 ウルサは少し困った顔をして、上目遣いに百合子を見ている。


「お代を――いただいておりません」


「お代?」


「ご案内する代わりに、僕がいただく対価のことです」


 幼児にガイド役を依頼したことも、その見返りを要求された経験もないが、これが有償のガイドだったことにも驚いた。


 ウルサは小さな口を尖らすと、百合子から視線を白いバスケットにチラリと送った。それとなく。


「ああ、これね。そうね、親切な精霊さんに差し上げるわ」


 百合子はゆっくりとその場に腰を下ろし、ウルサの目線に合わせた。


 両手でバスケットを抱え、ウルサに渡そうとしたのだが。


「そうではありません!」


 否定しながら、ウルサはバスケットを百合子から受け取った。重そうにフラつきながらも、慎重に砂の上に置いている。


 そして、バスケットの上蓋を人差し指でポンポンと優しく叩いた。


「僕がいただきたいのは、あなたとの時間です」

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